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沼田町昭和

沼田町昭和(平成30年5月19日他探訪)

沼田町昭和は炭鉱集落である。

明治31年奈良義路が試掘権を設定、大正7年明治鉱業㈱の所有となり、大正8年から9年にかけて鉱区の調査が行われたが、本格的な調査は大正15年からである。
昭和4年に九州戸畑本社から開坑建設隊が到着し、御料林の原木払い下げを受け現地に木工場をはじめ、火力発電所、各工場、火薬庫等が次々と施設が出来上がっていった。
昭和5年10月、留萌鉄道全通と同じくして出炭、11月より送炭を開始した。
昭和40年、合理化法に基づく再建会社として指定、経営合理化に努めるも昭和44年4月末をもって閉山。閉山式は5月17日昭和小学校にて行われた。

昭和地区にあった町名、建物を列挙すると、次の通りである。
町名
青葉町、新光町、幸町、川添町、山乃手、外町、旭町、東町、緑町、栄町、右高台、中高台、左高台、新高台、奥高台、右本町、左本町、川上町、福岡町、奥町、上新町、下新町

建物関係
火葬場、配給所、第一倶楽部、信和会館、保育園、昭和小中学校、神社、昭和駅、寺院(曹洞宗竜泉寺)、浄水場、貯水ダム、木工場、隧道内部マーケット、選炭場、坑口神社、病院、総務課事務所、労働組合事務所、健保会館、郵便局、役場出張所、中央浴場、処理場、奥町浴場、プール

 学校の沿革は以下の通りである。

小学校
 昭和5年  奥御料尋常小学校分教場として開校(4月)
  同年    炭鉱開発に伴い急激な児童増加により校舎新築移転(9月)
 昭和6年  昭和尋常小学校と改称
 昭和8年  高等科設置
 昭和16年 昭和国民学校と改称(4月)
 昭和22年 昭和小学校と改称(4月)
 昭和44年 閉校(7月)

中学校
 昭和22年 開校(5月)
 昭和24年 校舎移転独立(5月)
 昭和44年 閉校(7月)

閉校時の報道を掲載する。

終業式が最後の別れ 廃校の昭和小、中両校 沼田に閉山の冷たい風 夏休み帳さびし どんどん進む炭住解体
「【沼田】22日、閉山のヤマにある昭和小、中両校で閉校式がさびしく行なわれた。
昭和5年4月開校の昭和小校、同22年5月の昭和中校はともに明鉱昭和鉱従業員の子供たちが通学してきた学校だが、同鉱の閉山、従業員の再就職、他市町村への移住で昭和小は4月当時、298人いた児童たちがいま13人に、同中は150人がたった7人に減ってしまった。昭和地区は7月末で電気、水道がストップするので残りの従業員も全員がヤマを降り、それにつれて同校も廃校となった。
同小校の終業式は同校屋体で行われたが、広い運動場に1、2年生の4人を囲むように高学年の9人が並び富樫同校長が『みんなは最後までこの学校に残って勉強したが、きょうの終業式で学校は閉校になります。よその学校へ行っても昭和校で習ったことを忘れずによく勉強し、お父さんやお母さんを安心させ、将来はりっぱな社会人になるよう心がけてほしい』とお別れのあいさつを述べ、また児玉同校PTA会長は『昭和で生まれ育ったみなさんは昭和でつちかわれた精神を忘れずにどこへ転校しても元気で勉強し強い人間になってほしい』と語った。
このあと、各学年ごとに夏休み帳を渡され、休み中の注意があってお別れの茶話会を開き、PTAから贈られたマンジュウを食べながら楽しかった思い出話を語っていた。
一方、昭和中では男子4人、女子3人が最後の校舎内外の清掃を行ない、渡辺同校長ほか4人の教諭たちと終業式にひき続いて閉校式を行なった。
こうしてさびしく両校の閉校式が行われている間も、昭和鉱の木造炭住街では解体作業が休む間もなく進められ、古材を積んだトラックが幌新太刀別川に沿いながらヤマを下りて行った。」(北海道新聞北空知版 昭和44年7月24日)

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平成30年5月 HEYANEKO氏らと訪ねた。
筆者は平成15年頃より何度も訪ねてきたが、今回は約10年ぶりの再訪である。

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地図を見ながら進むと、学校跡へ到着した。
小学校、中学校が置かれていたがあまりの大きさに驚いた。

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この時期の探訪は基礎が見えるので探訪に適している。

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水飲み場らしきものも残っていた。

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学校の背後には神社があった。
瞬時に「これくらいなら登れる」と判断し、斜面をよじ登る。

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神社の基礎が残っていた。

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写真では分からないが、社殿の基礎が残っていた。

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神社より学校跡を俯瞰する。
下一面、学校の基礎である。

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川の対面には昭和駅があった。

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駅跡は湿地帯と化していたが、手前に機関庫の基礎があった。

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昭和炭鉱選炭場である。
この近くに「隧道マーケット」がある。

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雪解け水による増水のなか、何とか行けそうなところがあったので渡渉した。

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カメラのフラッシュをたかないと見えないくらい真っ暗だが、閉山反対の張り紙が残っていた。

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お菓子屋さんだったのか、お菓子の一斗缶が残っている。

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「守ろう俺達 手でこの炭鉱(ヤマ)を」

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「団結……で斗い抜こう」

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「悪ラツな会社の閉山…」

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「閉山断呼ハネ返そう」

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隧道マーケット内部より。
筆者が平成16年秋に訪ねた時と比べ、劣化が著しく進んでいた。

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隧道マーケット探訪後、右本町・左本町に残る炭鉱住宅へ行った。

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人々がいなくなり、廃墟と化した住宅。

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奥町に残る炭住とプール。
人々が暮らした名残は、よく探せばまだ残っているかもしれない。

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ホロピリ湖展望台にある、昭和炭鉱の地図。
次はこの地図を参考にしながら再訪したい。









参考文献

北海道新聞1969「終業式が最後の別れ 廃校の昭和小、中両校 沼田に閉山の冷たい風 夏休み帳さびし どんどん進む炭住解体」『北海道新聞北空知版』昭和44年7月24日
沼田町1982『新編沼田町史』沼田町
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京極町脇方

京極町脇方(平成30年2月10日探訪)

京極町脇方は明治期に福島団体が入植したが、後に鉱山集落へ発展を遂げた。

明治41年 福島団体(信夫郡吉井田村 佐藤久三郎団長)29戸
        舟山団体(信夫郡野田村  舟山亀之助団長)12戸
明治44年 信夫団体(信夫郡吉井田村・土湯村 唯木七郎治総代人) 27戸
大正 3年 和歌山団体(北風種吉総代人)戸数不詳 が脇方地内に入植した。

しかし、凶作冷害や地力の減退により和歌山団体は大正12年全戸離農。福島団体は前記のほか鉱山開発により昭和14,5年頃には数戸のみの就農。舟山団体は脇方駅や官舎、鉱山事務所、社宅、小中学校用地として買収され団体全員四散した。

明治31年に藤村徳治によって褐鉄鉱鉱床が発見され、大正5年に三井鉱山㈱の所有となり本格的な試錐が行われた。大正7年に北海道製鉄に譲渡され、翌8年日本製鋼所と北海道製鉄の合併により日本製鋼所倶知安鉱業所として操業を開始。大正9年に鉱石輸送のため脇方線が開業した。
第一次世界大戦後の不況により大正10年から13年にかけて休山したが、翌14年より操業を再開。昭和6年の満洲事変の影響により第2次世界大戦まで軍需資源増産により倶知安鉱山の全盛期を迎えた。
昭和6年 輪西製鉄所(株)、昭和9年輪西鉱山(株)昭和14年日鉄鉱業(株)と所属が変わり、昭和19年の脇方地区は従業員の家族を合わせて4000人が暮らしていた。
終戦後、戦災を受けた室蘭製鉄所が操業を一時休止したため昭和21年の生産は激減、昭和23年の脇方市街大火により事務所・倉庫を焼失したが朝鮮戦争を機に需要も活発になっていった。
昭和30年代に入ると海外鉱石の輸入増加や倶知安鉱山の鉱量枯渇が重なり、昭和44年10月に閉山した。

学校は明治44年4月 奥ワッカタサップ特別教授場として開校した。
大正4年末に児童数が100名を超えたため大正5年 地元の村会議員より奥ワッカタサップ特別教授場・ワッカタサップ特別教授場(明治42年1月開校)を統合して第四尋常小学校建設の議を提出した。村は小学校建設を可決したが、付帯条件として
建築費の4割を関係集落が負担
学校の統合・学校位置は集落住民が選定 されることとなった。

しかし、建築費の4割負担や両教授場の位置問題で互いに譲らず、協議を重ねた結果大正7年、現在地(閉校時の位置)に決まった。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校
明治42年 ワッカタサップ特別教授場(通称 中山梨分教場) 開校(1月)
明治44年 奥ワッカタサップ特別教授場開校(4月)
大正7年  東倶知安第四尋常小学校と改称(10月)
大正11年 火災により焼失(12月)
大正12年 校舎新築(11月)
昭和16年 脇方国民学校と改称(4月)
昭和22年 脇方小学校と改称(4月)
昭和45年 閉校(10月)

中学校
昭和22年 開校(6月)
昭和24年 脇方中学校と独立(4月)
昭和38年 小中併置校となる(4月)
昭和45年 閉校(3月)

閉校直前の「お別れ会」の記事を掲載する。

楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校 
〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ
【京極】鉄のヤマとともに歩んできた脇方小中校がヤマとともに消えることになった。10月の閉校を前に20日、同校で卒業生、父母らが集まって〝お別れ会〟が開かれ、思い出多い校舎、マチ並みをながめながら互いにしあわせを祈り、いつまでもなごりを惜しんでいた。
 町市街地から約7キロ、谷間の脇方が開かれたのは明治31年。当時、東倶知安村の一農民によってかっ(褐)鉄鉱の鉱床が発見されてから鉱量1千万トンといわれる鉱山とあって大正5年、三井鉱山の手で本格的な採掘が始められ、その後昭和14年に日鉄鉱業の所属となった。16年には胆振縦貫鉄道が完成、第二次大戦の需要増加から戦時中は年に60万トン近い生産高を記録、同地区の人口も約4千人にふくれあがった。
 戦後は30年代に入って大量の海外鉱石が輸入され、加えて鉱量の枯渇という事態になったことから昨年10月、倶知安鉱山はついに閉山。日鉄鉱業の北海道本部が残っていただけになったが、この10月には本部も脇方から引き揚げることに決まった。
 脇方の鉱山の盛衰とともに歩んできた脇方小中学校は明治44年に設けられたワッカタサップ特別教授所が前身。その後東倶知安村第四尋常小学校として独立。戦前戦後を通じて鉱山従業員の子供が学んできたが、昭和19年の脇方国民学校時代には552人の児童を数えたこともある。しかし日鉄鉱業の縮小に伴って児童数は減少。現在は51人を残すだけ。10月には全員が家族とともに転校、学校は自然閉校となる。このため同窓生らが主体になって〝なつかしい母校にもう一度集まってお別れを〟と、この会を催した。
 会には札幌、小樽、管内各地に住んでいる卒業生、父母ら150人が出席。阿部校長、来賓らが『いつの日か脇方が再開発されてにぎわいを取り戻すことを祈っています。それまで健康に気をつけて-』とあいさつ。このあと児童生徒代表らが『授業やお祭りなど楽しかったことばかり。新しい土地に友だちはいませんが、しっかり勉強します』と作文を朗読、さらに子供たちが〝思い出〟〝蛍の光〟など数曲を鼓笛演奏するとそっと目がしらを押える人もみられた。」(北海道新聞後志版昭和45年9月22日)

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平成30年2月、HEYANEKO氏らと脇方を訪ねた。
正面の建物は産廃処分場であるが、そこにかつての脇方駅があった。

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橋の名前は「鉄見橋」
ここから鉄道が見えたことに由来する。

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川の名前は「ワッカタサップ川」である。
ちょっと川を覗いてみる。

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川の色は鉄を含んでいるせいか、少し茶色っぽい色をしていた。

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鉄見橋から右へ行く道は通行止めであった。
この先にはかつて、神社があった。

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脇方駅跡。
駅のすぐ近くに学校があった。

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ふと見ると、何かこんもりしたモノが見える。
学校跡の碑である。

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学校跡の碑。
碑の高さは2メートルくらいあるが、雪が降り積もり、これでは分からない。

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ゴム手袋をはめて、雪から掘り起こした。
脇方小中学校の碑を復活させた。

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もう少し先へ進むと、煙突が見えた。
煙突までツボ足で進む。

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学校跡の煙突。
積雪で行ける範囲は限定されたので、次は雪のない時期に再訪してみたい。


参考文献

北海道新聞1970「楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校 〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ」『北海道新聞』昭和45年9月22日
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
京極町教育委員会2016『昭和の時代を振り返る ふるさと京極120年昔日の脇方-ワッカタサップと倶知安鉱山50年-解説編』

猿払村石炭別

猿払村石炭別(平成29年9月16日探訪)

猿払村石炭別は炭鉱集落であった。

明治21年 石川貞治技師がセキタンウンベツを探検し石炭の露頭を発見したことにちなみ「セキタンウンベツ」と命名された。ここで、石川技師が石炭別を探索した時の様子を掲載する。

「次に北見国宗谷岬より10里南にあるサルブツ川奥のセキタンウンベツを探検した時の思ひ出がある。途中で糧食が缺乏してしまって一同揃って行を続けることが不可能になった。川口より約9里許の上流で川の中に石炭の流石を認めた。もう少し進めば炭層の露頭もあるといふ所まで来て此儘引返すのは如何にも無念である。そこで私と人夫1名だけが進み残余の者は其儘待つことにした。併し糧食といふても全く米と塩だけで、天幕代用に1枚の油紙を持ったのみであった。さうして上流に進んで炭層の見えるところまで来たところが生憎豪雨に襲われた。そこで早速油紙を利用して小屋を造りフキの葉で覆ふたりして避難したが豪雨は相当長く続き出水したために川下の組との連絡を全く絶たれてしまった。人夫と2人で心細く小屋に籠っていると、下の組にいた屈強のアイヌ2名が米と非常の御馳走を持って我々の救援に来て呉れた。御馳走とは熊の肉であるが、何んでも下の組が避難している小屋の附近に仔熊を連れた熊が現れ、親の方は逃げてしまったが仔熊だけは捕へたのである。あの時の空腹に熊の肉の甘さは今日でも忘れられぬ位である。「セキタンウンベツ」とはアイヌと相談して私の附けた名で石炭の有る川の義で立派な地図に載って居る地名となった。」石炭礦業聯合會1928「北海道探検当時の挿話-明治20年頃の北海道-」『石炭時報第3巻第7号』

石炭別は戦後になってから炭鉱と戦後開拓者の入植により児童数が増え、学校が設置された。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。

小学校
昭和25年 開校
昭和43年 閉校(3月)

中学校
昭和27年 開校
昭和41年 閉校(上猿払中学校石炭別分校)

炭鉱の沿革は以下の通りである。

昭和23年 日本鉱業化工㈱が石炭別炭鉱と称し事業届け
昭和32年 天北鉱業㈱に変更
昭和33年 双見炭鉱と称す(前田吉景氏租鉱権設定)
昭和35年 三共鉱業㈱所有となり、セキタンベツ炭鉱と称し稼行
昭和39年 閉山届出

閉校時の報道は以下の通りである。

生徒減で廃校 石炭別小と上猿払中
「〔猿払〕猿払村の石炭別小学校(清水行雄校長)と上猿払中学校(井川武次校長)は生徒数の減少から本年度で廃校となるが、村では次の日程で廃校式を行なう。なお、石炭別小学校の児童5人は新年度から上猿払小に、上猿払中の生徒4人は浅茅野中に通学することになる。
▼石炭別小-21日(午前11時半)同校▼上猿払中-22日(午前11時)同校」(『日刊宗谷』昭和43年3月20日)」

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上猿払探訪後、石炭別へ向かった。

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地形図を見ると、正面の一本松のあたりが神社のようである。
瞬時に「これくらいの笹薮なら行ける」と判断し、神社の痕跡がないか探しに行く。


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一本松の根元まで来た。
しかし、痕跡は見当たらなかった。

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笹薮の中。
かき分けながら戻る。

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学校跡には上猿払と同型の木碑が建立されているが、笹薮のため見つけられなかった。

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薮の隙間から見える平坦な土地は住宅跡だろうか。それとも、畑跡だろうか。

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人々の暮らした営みは、笹薮に戻っていた。


参考文献
日刊宗谷1968「生徒減で廃校 石炭別小と上猿払中」『日刊宗谷』昭和43年3月20日
石炭礦業聯合會1928「北海道探検当時の挿話-明治20年頃の北海道-」『石炭時報第3巻第7号』
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
内田大和2009『北海道炭鉱資料総覧』空知地方紙研究協議会

喜茂別町知来別

喜茂別町知来別(平成30年2月10日・6月24日探訪)

喜茂別町知来別は農村集落である。

明治37年秋 早瀬吉松という造材業者が立木の買入れや伐採、造材を行っていた折、現場監督として渡部忠助、続いて木挽きで管野幸蔵・菊地弥一郎。さらに翌明治38年12月、日の浦繁蔵が弟亀太とともに農業を目的として入植したのが知来別の草分けである。
日の浦が入植した当時は知来別川を境にして三宅農場(三宅伊勢松)、加納農場、藤野農場等があった。
次いで明治40年に越中団体(団体の構成員は17戸であったが入植したのは5戸)、明治42年に倶知安村出身者(12戸)、明治44年山梨団体(67戸)が入植した。特に入植者の多かった山梨団体は3地区に分割(イ号17戸・ロ号26戸・ハ号24戸)した。
しかし、土地や気象条件による凶作のため、特に奥地に入植した山梨団体の半数は郷里の山梨県をはじめ次々と転出していった。

入植当時、学校は喜茂別尋常小学校附属上喜茂別特別教授場へ通学していたが、冬季の積雪期間は通学不能だったので、中川直太郎・宮崎松次郎・柳沢秀五郎ら有志と協議を重ね、学校設置を村に要請した。村理事者も学校の必要性を認め、大正7年喜茂別尋常高等小学校附属知来別特別教授場として開校した。

学校の沿革をまとめると以下の通りである。

大正7年  喜茂別尋常高等小学校附属知来別特別教授場として開校(9月)
昭和6年  校舎改築(9月)
昭和7年  第二喜茂別尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 第二喜茂別国民学校と改称(4月)
昭和22年 第二喜茂別小学校と改称(4月)

閉校時の新聞記事を掲載する

60年の校史に終止符 喜茂別 きょう第二小で閉校式
「【喜茂別】開校してから60年、喜茂別町知来別部落の中心に建っている喜茂別第二小学校(中川克己校長、児童4人)が31日で閉校する。その閉校式と、最後の卒業式が23日午前10時から同校で行われる。
 同校は大正7年(1918年)9月11日、喜茂別尋常高等小学校付属知来別特別教授場として開設された。この時の児童数は33人。昭和7年、村立第二喜茂別小学校に昇格、45人の児童と父母たちは盛大な独立校記念式典を行った。
 この頃から校歌の畑作地帯から離農する家が目立ち始めた。開校50周年記念式典を行った42年8月の児童数は、わずか14人。その後もクシの歯が抜けるように部落を去り、現在では3,4,5年の男子各1人と、6年の女子1人の合計4人。
 同校では昭和11年の冬、後志管内のトップをきってみそ汁の学校給食を始めた。給食用の茶わんや、野菜類は児童が自宅から持ち寄った。父母たちは喜んで学校整備の奉仕作業を行ったし、昭和16年5月には後志支庁主催の単複教育研究会まで開いて同校の教育を中心に研究した。
 これまでの卒業生は、今回の1人を含めて278人。現在校下の部落は14戸だが、23日の閉校式と最後の卒業式には全員が集まり、木造一部モルタル仕上げの古い平屋校舎に別れを告げる。なお閉校後児童たちは喜茂別小学校に通学する。」(北海道新聞後志版昭和53年3月23日)

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平成30年2月、HEYANEKO氏らと訪れた。

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屋根は一部陥没しているが、学校の面影は残っている。

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校門も現存しているが、夏に発見するのは難しい。

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ふと見ると、神社のような建物が見えた。
折角なので確認する。

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神社の社殿である。
地元の方に話を伺うと「神社移転の話も持ち上がったが結局、現状のままとなった。馬頭観世音像は麓に移転させた。」と教えていただいた。

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帰りがけ、教えていただいた場所へ行き、馬頭観世音を確認する。
折角なので、雪から掘ってみた。

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大正13年12月17日に建立されたことが分かった。

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2月の探訪後、6月に再訪した。
冬の雰囲気とは違い、半ばイタドリで覆われていた。

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帰りがけ、ふと見ると煙突だけ残った屋敷跡があった。

参考資料

北海道新聞1978「60年の校史に終止符 喜茂別 きょう第二小で閉校式」『北海道新聞』後志版昭和53年3月23日
渡邊直七1971『喜茂別町知來別部落史』

小平町富岡

小平町富岡(平成30年4月1日探訪)

小平町富岡は農村集落である。

明治31年 石川団体30余戸が大椴原野に入植したが次男・三男の分家のため新天地を求めて明治33・34年に小椴子沢(富岡)と苫前町三毛別(苫前町三渓)に入植したのが始まりである。
明治36年 地域住民の協力により校舎が建てられ開校した。

鈴木トミヱ著『小平百話-記憶の中の物語』の巻末に昭和20年前後の富岡地区の住宅地図が掲載されているが、地図を見ると沿岸部に14戸、国鉄羽幌線を挟んだ山間部に24戸(うち2戸は王子造林株式会社職員)の名前がある。

閉校・過疎の経緯については、下記に掲載した閉校時の報道にあるように、国道232号線の工事のため海岸部に住んでいた6戸の移転(昭和48年)、昭和49年から51年にかけ各1戸の移転がきっかけである。

学校の沿革は以下の通りである。

明治36年 特別簡易教育所開設(9月)
明治41年 小椴子教育所と改称(4月)
明治44年 校舎移転(10月)
大正 6年 小椴子尋常小学校と改称(4月)
昭和11年 富岡尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 富岡国民学校と改称(4月)
昭和22年 富岡小学校と改称(4月)
昭和53年 閉校(3月)

閉校時の記事を掲載する。

さようなら富岡小学校 離農、過疎の悲哀25日、学び舎に別れ告げる
「雪深い山あいに〝教育の灯〟をともしつづけて75年、その灯がまたひとつ消えた-。長い歴史を持つ小平町立富岡小学校(矢野勲校長)は、相次ぐ離農と過疎の波に見舞われ、遂に廃校のやむなきにいたり、25日同校教室で、地域住民、歴代校長、そして教育関係者ら約50人が出席して廃校式を行い、思い出多い学び舎に別れを告げた。
富岡小学校は、明治36年6月、特別簡易教育所として児童数12人で開校それ以来、明治44年に部落住民の奉仕により現在地(富岡146番地)に校舎を移転改築、その後校舎増築と校名の改称が進み昭和40年以降2学級編成と単級を繰り返し、数年前から版画やカレンダー作り、また労作教育としてメロンやスイカを作るなど辺地校ならでわの授業を展開、管内小中学校環境整備優良校、花いっぱいコンクール学校の部優良校、全道へき地複式教育研究大会会場校として選ばれ、これまでに248人の卒業生を送り出してきた。
富岡は、小平町海岸線のほぼ中間に位置し、海岸沿いを走る国道232号線の入口から町道を約5キロ余り入った奥地で、昭和48年に始まった国道工事のために過疎化が進み、海岸沿いに住んでいた全戸(6戸)が移転し、49年・50年、そして51年とそれぞれ1戸が移転して、現在では11戸を残すだけになり、10戸が水田耕作を営んでいるが、土地が狭いために作付面積が少なく、今では、半数の農家がアイボリーメロン作りをして暮らしている。また、一時は34人の児童が在籍していた同校も、今では河端秀美君(3年)、隆彦君(4年)、政信君(6年)兄弟と村田恵さん(6年)の4人になり、6年生の2人は4月から中学校に進むが、残された河端君兄弟は鬼鹿小学校(沢田寿一校長)に通学することになった。
廃校式には地域の住民、父母たち、そしてかつての校長らが出席する中で、五十嵐小平町長、秋山留萌教育局長らがあいさつを述べ、矢野校長が「富岡小学校の灯は消えても部落の灯は消えることなく、先人の歩んだ開拓精神を想いだし過疎の波に打ち勝ってください」と富岡の住民に別れを告げ、そのあと、生徒を代表して河端政信君が、「いたんだ校舎、たとえ学校の灯が消えたにしても僕たちの心に母校の灯は消えないでしょう、さようなら富岡小学校」と思い出をかみしめるように別れの言葉を読みあげ数々の思い出が刻みこまれた富岡小学校、父と母も学んだ富岡小学校、忘れることの出来ない花壇づくりや版画づくり、そして最後に全員で校歌を合唱して、長かった75年の校史にピリオドを打った。」(留萌日日新聞昭和53年3月28日)

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羽幌町立太陽小学校の体育館倒壊を確認後、富岡へ足を運んだ。
正面玄関は既に無くなっているが向かって右側が教室、左側が教員住宅である。

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学校の隣には神社もある。

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神社境内より校舎の背後を望む。
夏は笹で生い茂るので、この時期ならではの風景である。

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学校より2キロ先より学校方面を望む。
家屋はあるが定住者はいない。

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海岸沿いに住んでいた6戸の屋敷跡は分からなくなっていた。
ただ、コンクリートの橋脚だけが残っていた。

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羽幌方面を望む。
富岡乗降場(昭和31年5月開業)の名残も無くなっていた。

参考文献

小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
小平町史編さん室2001『小平町史 続』小平町役場
鈴木トミヱ2000『小平百話-記憶の中の物語』小平町開基120年記念事業実行委員会
留萌日日新聞1978「さようなら富岡小学校 離農、過疎の悲哀25日、学び舎に別れ告げる」『留萌日日新聞』昭和53年3月28日
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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