黒松内町五十嵐

黒松内町五十嵐(平成30年2月9日探訪)

黒松内町五十嵐は戦後開拓集落である。

明治26年五十嵐川下流域に2,3軒の農家があり、明治36年には澱粉製造工場があったが、本格的な開拓は戦後に入ってからである。

昭和21年に1戸、23年に16戸、25年に4戸、31年に3戸入植した。入植者は樺太や満州からの引揚者、静岡県出身者で占められていた。
昭和27年中ノ川小学校五十嵐分校として開校、昭和34年には独立校となったが、営農条件の悪さや冬季間、各戸が雪で孤立するような状態であったため昭和42年3月に学校は閉校。昭和47年4月、日東農場に経営地を現物出資して全戸離農した。
学校の沿革は以下の通りである。

昭和27年 中ノ川小学校五十嵐分校として開校
昭和34年 五十嵐小学校と改称・校舎改築(4月)
昭和42年 閉校(3月)

閉校時の記事を掲載する。

最後の卒業式兼ねて 五十嵐小 開拓とともに16年
「【黒松内】黒松内市街地から9キロ離れた開拓部落の五十嵐小(木村正志校長)で、24日閉校式をかねた最後の卒業式を行った。ことし卒業生を出してしまうと残るのは3人だけ。子供たちは『一人ぼっちになってもこの学校がいいや』といっていたが、お隣の中ノ川小学校に統合して閉校と決まったもの。精いっぱい手を振って先生と学校にお別れしていった。
 同校は27年2月に中ノ川小学校の分校として発足、独立後に昇格した34年に生徒数は26人までふえたが、その後漸減、ことし4人が卒業すると3人しか残らない。
 生徒数が減ったのは、この部落が強酸性の土壌、濃霧地帯という悪い営農条件のため作況が思わしくなく離農者が相次いだため。入植時の24年には24戸あったのが今では半分以下の10戸に減った。
 式には川村町長、阿部教育長、今井副議長らも出席。『学校がなくなっても部落は残る。一生懸命勉強してほしい』と激励、これに対し7人の子たちは一人一人答辞で『先生きっとがんばります。だけどこんな立派な学校がなくなるなんてわたしたちはさびしいです。噴水の魚やサクラの木や校舎もさびしいでしょうね』とうったえていた。
 卒業証書と修了証書を手にした子供たちは表に整列した先生や来賓、PTAの人たちに見送られ、さかんに手を振ってこの日限りでなくなってしまう学校に最後のお別れをした。」(北海道新聞後志版昭和43年3月26日)

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平成30年最初の探訪はHEYANEKO氏らと後志管内の廃校廃村を訪ねた。

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地図によればこの辺りに数軒の家屋マークが記されているが、辺り一面雪景色である。

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学校跡地は農場の建物になっていた。

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雪山を登り、学校跡地を望む。

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学校跡地の傍に、サイロが残っていた。
集落の唯一の名残である。

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集落入口の高台より日東農場を俯瞰する。
五十嵐のに戦後開拓で入植した人々の名残は、廃サイロのみであった。

参考文献

北海道新聞1968「最後の卒業式兼ねて 五十嵐小 開拓とともに16年」北海道新聞後志版昭和43年3月26日
黒松内町1993『黒松内町史下巻』黒松内町
「角川日本地名大辞典」編纂委員会1987『角川日本地名大辞典1-[1]北海道上巻』角川書店
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猿払村猿骨開拓

猿払村猿骨開拓(平成29年9月16日探訪)

猿払村猿骨開拓は戦後開拓集落である。

昭和25年11月、猿骨団地に9戸、芦野団地に12戸入植者が現れた。
その後も昭和26年から34年にかけて延べ67戸が入植した。
開拓入植者の多くが山形県出身者で、泥炭地で根曲り竹が繁茂していた原野を開拓していった。
しかし、気候が厳しく度重なる冷害に見舞われたことや過剰入植対策の実施により、昭和34年の67戸のうち35戸が離農している。
また、浜鬼志別港から漁船が出るようになってから浜鬼志別へ転出していくものもいた。
学校の沿革は以下の通りである。

昭和32年 芦野小学校栄分校開校(4月)
昭和46年 閉校(3月)


閉校時の記事を掲載する

分校よサラバ 栄校で廃校式
「〔猿払〕芦野小学校栄分校の廃校式は30日午後1時から同校で盛大に行われた。
笠井村長をはじめ、議会議長、部落会長など多数の来賓が出席して行われ、功労者に感謝状が贈られた。
昭和32年3月31日に芦野小学校分校として創立され、同年4月1日に開校し今日までに至った。14年間の歴史にピリオドを打ち廃校の運びになった。
今までに81名の卒業生を送り出し多い年には10名の卒業生を送り出したという。」

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宗谷地方を巡る廃校廃村探訪 猿払村猿骨開拓を訪れた。

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橋の名は「猿骨開拓橋」

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川の名は「猿骨川」

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橋を渡ると牧草畑が広がっている。

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栄分校跡地。校舎の基礎や防風林も見当たらなかった。

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見渡す限りの牧草畑が広がっている。

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戦後開拓集落の名残は、橋の名前のみであった。

参考文献
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
日刊宗谷1971「分校よサラバ 栄校で廃校式」日刊宗谷昭和46年3月31日

稚内市峰岡

稚内市峰岡(平成29年9月16日探訪)

稚内市峰岡は漁村集落である。

開拓が始まった正確な年代はわからないが『稚内市史第2巻』によれば「明治20(1887)年か同14(1881)年ころ」と書かれている。
また昭和8年の様子について次のように記されている。

「戸数30戸、耕地20町歩、耕作3戸、金比羅神社、衛生組合、森林防火組合、火災予防組合、道路保護組合、納税貯金組合、時前青年、女子青年団、在郷軍人分会…(中略)ラジオ設置家1戸、農牧場40町歩、馬4頭、沃度工場、商店2、宿屋1、飲食店1、回漕業1…」(『宗谷村郷土史編さん原稿』昭和8年版)

さらに『宗谷村政要覧昭和10年度版』には時前(時前漁港)から原野(時前原野)を経て下増幌へ抜ける殖民軌道予定線(未成線)が地図に表記されている。
言葉を変えれば、それだけ多くの人々が暮らしていたのである。

ここで、峰岡の集落や学校について触れられている新聞記事を掲載する。

国境辺地を行く 走る公民館同乗記 映画みる唯一の機会 歩ける部落民は全部集まる
「【稚内発】辺地部落の社会教育振興を目的とする道教委の〝走る公民館〟は今年も8月27日から宗谷管内巡回の途についているが記者は宗谷事務局のはからいで関三次郎事件で一躍国際的視聴を浴びた宗谷村字峰岡、字東浦両部落を訪れた。以下は〝走る公民館〟による国境辺地同乗レポ。
○…1日午後3時走る公民館は今日の目的地峰岡小学校に向けて宗谷村役場を出発する。同乗するのは道教委宗谷事務局長谷川社教主事、岡崎技師、道教委江本運転手、宗谷村石川教育長代理、同佐藤社教係長、記者の6人。車はネズミ色の車体に鮮やかな黄色で彩られた〝走る公民館〟の五文字を快晴の秋空にきらきら光らせながら時速50キロの快速で街道をひた走る。ところどころコンクリート舗装を施した宗谷国道は格好のドライヴウエイだ。
『皮肉ですなあ宗谷村のほうが稚内市より道路が良いとは』と快適な乗心地に思わず記者が嘆声をもらすと『こんな道路は珍しいですよ。昨日の上増幌、初日の修徳、咲内ときたら話になりませんでしたよ。特に咲内ときたら近所の農家からスコップを借出してやっと道を切開いたんですよ』と同乗の人々はいっせいに記者の不認識をなじる。
○…そういえば車は小型トヨペットだ。辺地が対象なだけに物々しくて派手な弘報車ではどうにもならないのだと江本運転手は語る。
峰岡街道の急傾斜に差掛かると車は突然あえぎはじめる。ホームライト、映写機、幻灯機、展示品など総計80貫という重い積荷が急に物をいいだすのだ。モウモウたるホコリが左車内に流れこむ。右の風防が2枚壊れて修理が施されていない。いまの予算ではとても手が出ないという。
○…午後4時過ぎ車はようやく峰岡小学校にたどりつく。真黒に日焼けした約80名の同校児童たちが、野性的な目をギラギラさせながら物珍しげに寄ってくる。変にたい廃し切った都会の文化なんてものを一度も受けたことのない澄み切った顔だ。午後7時映画開始が当初の予定だ。しかし手持ちの映写機は前開催地上増幌で故障を起したままだ。再び車は休む暇もなく枝幸町教委から送り届けられるはずのナトコ映写機を受け取りに約4里離れた鬼志別駅に向け出発する。
北辺の日暮れは早い。午後7時日もとっぷり暮れ切った2教室程度の狭い同校運動場に約150名の部落民がひしめく。同校校長の話では乳幼児、足腰の立たない年寄りを除く全部落民が集ったのだという。『常会の時もこれだけ集ったらいいんだけどなぁ』『何せ無電燈地帯ですからね。隣部落まで映画見物に出掛けて行く青年層を除いては年1回の走る公民館よりも映画観覧の機会を与えてくれるものはないんですよ』と部落民の2,3が語る『ウソみたいな話しですけれど去年のやはり今ごろ〝走る公民館〟がこの部落へきた時です。〝さあ始めます〟といって機械を動かしたら年寄り連中がいっせいに映写幕を見ず反対に映写機の方向へ向きを変えたのにはびっくりしましたよ』とは技師の話。
9時映画開始、漫画『ウサギと亀の決勝戦』『馬喰一代』が終わったのは11時過ぎ、運動場の黒板に大書きされていた来週の作文宿題『走る公民館』の文字と点々と散在しているランプの燈、それがこの村をシンボライズしているように全く印象的であった。
○…2日早朝〝走る公民館〟は本日の開催地東浦部落向け峰岡小学校を出発する。昨夜記者たちの部屋を訪れて映画の成功を祝してくれた一部落民の言葉が次々に浮かび出てくる『太平が天国にいるお母さんに手紙をあげるんだといってお雪からもらった風船玉に手紙をつけて青空高く飛ばしているシーンなんて本当に胸がいっぱいになりましたね』(馬喰一代の一場面)善意そのものの米さん(馬喰一代の主人公)にまさっても劣らない部落民の誠実に幸あれと祈りたい気持ちでいっぱいである。
車が東浦山道にさしかかると道路の両側にはうっそうたるエゾ松林が続き、名もない3,4尺の黄色い野花と寂しいススキ草が散在する。『東浦海岸に上陸した関三郎はこの街道を通って峰岡のバス停留所に向かったんですよ』と同乗の誰かが語った時『ああ山ハトだ』と隣が叫びびっくりして前方をみると聞きなれぬ自動車のごう音に驚いたのか2羽の山ハトが左側の松林に飛び去るのが目に止った。
平和の象徴の山ハトと国籍を失ったスパイ容疑者関。何かしら重苦しい雰囲気が車内にあふれる。
○…目的地東浦小学校に到着した一行は早速昨日と同様同校児童約40名を対象にテープレコーダーによる唱歌吹込みと紙芝居『シンデレラ姫』『あぶちゃんと三平』などを上映し、午後から植淵道教委社教指導主事の講演、引き続き夜は映画上映を行って当会の日程を閉じたが、この夜も会場の生産組合倉庫には夜の更けるのも知らずに笑いさざめく部落民の声がオホーツクの潮騒と融け合っていた。」(「北海道新聞」昭和28年9月8日)

閉校時の新聞記事を転載する。
名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式
「部落ぐるみで移転することになっている稚内市峰岡の部落解散と、小中学校の閉校式は、部落の開基80年、小学校創立60年の記念式典とあわせ、1日午前11時から同校で行った。出席した部落民や生徒は「蛍の光」で別れを惜しみ、サイダーやジュースでお互いの健康を祈りあっていた。
同部落は稚内市の最東端にある。明治20年頃から開拓のクワが入れられ、ホタテの「貝場」、ニシンで栄えた。また戦後の外地引揚者も数多く入り、一時は戸数60戸、人口は400人にもなったことがある。しかし、漁業資源の不足、花嫁不足、後継者難の社会情勢から、他地区への転出が相次ぎ、現在では一般住宅5戸、先生の住宅3戸、人口わずか31人に減少している。生徒の数もわずか9人で、そのうち1戸から6人が通学している状態。
部落民は数年前から漁港の建設、船揚場の設置などを市へ要望していたが、衰退する部落の姿から「巨費を投じる価値がない」と判断、市議会などとともに部落の移転が将来のため―と住民に諮った。先祖の代から住みついでいる部落民は、はじめ部落閉鎖という事態にかなり強い難色を示していたが、宮本岩太郎部落会長らが中心になって話合いを続けた結果、移転費さえ補償されるならとこの移転案に同意、この日の部落解散式となったもの。
 全国的にも例がないこの解散に、市でも異例といわれる移転補助金を13戸分700万円を計上、今議会で承認を得ることになっている。
 現在部落に残っている5戸も遅い人でも11月中には移転し、生徒も今月10日過ぎまでには他へ転校する。したがって、この日の解散式、閉校式後若干の間は部落も存在するがその後は完全に無人化状態になる。
この日の式典には、部落民や峰岡出身者など約40人、それに来賓などが出席。最後の別れを惜しんだ。浜森市長も「消滅するための解散ではなく、将来に向かって発展するための解散であってほしい」と部落民を激励していた。
部落の発展や学校のためにつくした宮本岩太郎氏ら多数に感謝状と記念品が贈られた後、残り少ない生徒たちが「ああ、美わしきわが故郷(さと)よ」と校歌を唄い、また参加者全員で「蛍の光」を唄って、つきぬ名残りを惜しんだ。」(「日刊宗谷」昭和44年9月2日)

学校の沿革は以下のとおりである。

小学校
明治42年 時前教育所として開校(5月)
大正 6年 時前尋常小学校と改称(6月)
昭和16年 時前国民学校と変更(4月)
 同年   峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校

中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校として開校(5月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校

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宗谷管内の廃校廃村を巡る旅、メインである稚内市峰岡。
ここから学校までは徒歩約20分と見積もって歩きはじめた。

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歩き始めてから少し経ち、地形図に書かれた「墓地マーク」のポイントに来た。
明治時代からある集落なので、学校と神社、墓地は集落に「なくてはならないもの」である。
その墓地は植林されていた。

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墓地を後にして先へ進む。

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学校跡へ近づいてきた。

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峰岡小中学校へ到達した。
へき地4級、日本最北の「学校跡がある廃村」である。

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周辺には水道関係の基礎や教員住宅の基礎、瓶などが転がっている。

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学校と神社・その先にあった桃尻集落へ続く橋の基礎。
尚、「桃尻」は「モムジリ」と読む。

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瓶が転がっている。
平坦地が所々に広がっているので、屋敷跡の決め手にもなる。

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学校の背後にあった神社跡へ進む。

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しかし。背丈以上のササがびっしりと生い茂っていた。
これでは前に進むこともできない。

諦めて移転前の学校跡地へ行くことにした。

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地形図を見比べると、移転前の学校は神社の隣接地に文マークがしるされている。
校舎・校庭があってもおかしくない広さである。

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学校の入り口らしき跡には松の木が生えていた。

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移転前の校舎跡より移転後の校舎跡を眺める。

学校の校門と、木製の橋脚が集落の名残を伝えていた。

参考文献
宗谷村1935『宗谷村勢要覧 昭和10年版』宗谷村
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市史編さん委員会1999『稚内市史第2巻』稚内市
北海道新聞1953「国境辺地を行く 走る公民館同乗記 映画みる唯一の機会 歩ける部落民は全部集まる」『北海道新聞』昭和28年9月8日
日刊宗谷1969「名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式」『日刊宗谷』昭和44年9月2日

猿払村上猿払

猿払村上猿払(平成29年9月16日探訪)
猿払村上猿払は農村集落であった。

明治42年北海道拓殖計画地として指定され、同年石井忠司が浜猿払―上猿払間の川運送を始めた。
大正2年に上猿払開拓者が入植し始め、大正8年上猿払駅逓所が設置された。
昭和21年11月に戦後開拓入植者が8戸入り、昭和28年6月に上猿払神社大鳥居が建立された。
学校は大正8年猿払尋常小学校付属特別教授場として開校、昭和22年上猿払小学校となり、昭和47年11月に閉校となった。

学校の沿革をまとめると以下の通りである。

小学校
大正8年  猿払尋常小学校付属特別教授場として開校
昭和16年 浅茅野国民学校上猿払分校と変更(4月)
昭和20年 上猿払国民学校と変更
昭和22年 上猿払小学校と変更(4月)
昭和47年 閉校(11月)

中学校
昭和22年 上猿払中学校として開校
昭和43年 閉校

閉校時の記事を掲載する

53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校
「猿払村立上猿払小学校は15日で開校以来53年の歴史を閉じ廃校となった。
同校は大正8年猿払小学校付属特別教授場として開設され昭和22年上猿払小学校となったが、大正2年頃から開拓者が入り一時は50名の児童、生徒がいたが、その後過疎化現象で離農が相次ぎ、本年の在校生はわずか3名。この父兄2戸も同村浜猿払に転住したため、15日で正式に廃校となった。
なお同校々長日下久夫氏は16日付で東利尻町鰊泊小学校長に発令された。」(日刊宗谷昭和47年11月17日)

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廃校関係でお世話になっている友人と一緒に宗谷地方の廃校廃村を巡る旅で訪れた。
上猿払はへき地5級。校門と記念の木碑が現存している。

探訪時は草木が生い茂っていたので、ポイントを絞ることにした。
そのポイントは ①学校 ②神社 ③寺院 である。

次に、学校から程近いところにあった神社跡を調べた。

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恐らく神社の参道と思われる道だが、既に植林されており「ご神木」も見つけることができなかった。

そして、③寺院跡である。
『猿払村史』によれば「真宗大谷派上猿払教会」の往時の写真が掲載されている。
地形図には寺院の近くにも家屋マークが記されている。
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私の背丈と同等か、それ以上に草が生い茂っていた。
「ちょっと行ってきます」と言って調べてみた。

結果、寺院跡の周辺は草木が生い茂り分からなかった。
学校の閉校(集落の無人化)から40年以上経ち、人々の営みを残すものは学校の校門のみであった。

参考文献
日刊宗谷1972「53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校」日刊宗谷昭和47年11月17日
猿払村役場1976『猿払村史』猿払村史編纂発行委員会

小平町川上

小平町川上(平成28年10月10日・平成29年4月19日探訪)

小平町川上は農村集落である。

小平町滝下東和と同様、明治39年御料1線から24線までの農地区画割測設を経て翌40年から農地として貸し下げることになった。明治42年2月中野観文を招き入れ個人宅の庭先(歳桃久松宅)を借用、授業を始めたのが最初である。6月に大渕彗淳が教えたが10月に去り休業した。時々、歳桃氏が教えていたが明治43年菅原善四郎を招いて再開した。
児童数の増加により専用教場の必要性を痛感し、10月に小屋を建てて移った。
明治44年5月に小平蘂尋常小学校所属小平蘂御料第3特別教授場となった。校舎は従来の小屋を使っていた。
明治45年1月教員が来たが9月に去り、再び休業(大正2年4月まで)する。
大正2年4月に再び教員が来て授業が始まり、校舎も改築した。
大正4年小平蘂第3教育所(後の寧楽小学校)所属、翌5年度から御料第1教育所(後の達布小学校)所属に代わった。所属校も変わったが教職員の入れ替わりも激しく、落ち着く教員がいなかった。落ち着きを見せたのは昭和に入ってからである。
大正6年度より達布尋常小学校所属川上特別教授場と改称。昭和8年5月には滝下尋常小学校所属になった。
昭和9年度に川上尋常小学校と改称、昭和16年4月に川上国民学校と改称、昭和22年に川上小学校と改称した。

川上は「へき地教育振興法」適用校として多角的な補助が計画、実行された。列挙すると
①校舎2教室新築(昭和31年)
②へき地集会所(屋内体育館)新築(昭和32年)
③校長住宅改築(昭和33年)
④へき地学校風呂付設(昭和41年) である。

戦後開拓者の入植(9戸)もあったが、過疎化の進行に伴い住民は次々に転出。
「過疎地域対策緊急措置法」の適用を受け、学校は昭和49年3月末で閉校。集落は集団移転した。
移転先は小平市街地に「川上団地」を設け19戸が移転。3戸は達布に移転した。

学校の沿革は以下の通りである。

明治42年 中野観文を招き入れ歳桃久松宅の庭先を借用して授業開始(2月)。大渕氏が6月より教えるが10月で去り、休業
明治43年 菅原善四郎を招いて再開(9月)。小屋(校舎)建設(10月)
明治44年 小平蘂第1尋常小学校所属小平蘂御料第3教授場となる(5月)
明治45年 教員が去ったため休業(9月)
大正 2年 再開(4月)校舎改築する
大正 4年 小平蘂第3教育所所属小平蘂御料第3教授場と改称(4月)
大正 5年 小平蘂御料第1教育所所属第3特別教授場と改称
大正 6年 達布尋常小学校所属川上特別教授場と改称
昭和 9年 川上尋常小学校と改称
昭和16年 川上国民学校と改称(4月)
昭和22年 川上小学校と改称(4月)
昭和49年 閉校(3月)

閉校時の新聞記事を掲載する。

さようなら63年間の思い出 集団離農の小平・川上部落で廃校式 在校生が合奏披露 門標返還に涙ぐむ主婦

【小平】「〝さようなら、川上〟-部落ぐるみの集団移転に伴い63年間の校史にピリオドを打つ川上小学校の廃校式が24日行われた。春近しとはいえ、2メートル以上の雪にすっぽり包まれた同校には在校生3人のほか、部落住民のほとんどが出席、式場となった教室には住み慣れた地を去る惜情と近づく再出発の期待とが複雑に交錯していた。
 川上部落は約70年前、石川県、四国などからの入植者で切り開かれた。明治42年(1909年)から私設の教授場を開き、児童の教育を進めていたが、小平蘂第一尋常小学校所属御料第三特別教授場として公設認可があったのは同44年(1911年)5月。達布小所属川上特別教授場を経て昭和9年、川上尋常小として独立。戦後22年4月から川上小学校となった。大正2年(1913年)から、この日卒業した歳桃正弘君、片山悦子さんを入れ、ちょうど男100人、女100人の計200人の卒業生を送り出している。
 約15年前には45世帯を数えた校下も過疎の波に洗われ現在は22戸96人。水田経営に見切りをつけ、過疎地域集落整備事業の指定を受け、昨年、全道でも珍しい部落挙げての離農に踏み切り、町側もすでに市街地に川上団地用として1万平方メートルの宅地を造成、職業紹介も行い部落全員が木工場などで雪解けと共に第2の人生を踏み出すことになっている。
 廃校式に先立って行われた卒業式で西校長は2人の卒業生と4月から小平小に転校する3年生の歳桃明義君の3人に「川上は消えます。しかし君たちはこの学校を最後まで見守ったという気概を持って新しい出発を-」と激励した。
 また川上部落移転激励会を兼ねた廃校式でも五十嵐小平町長、桜井留萌支庁長、加藤留萌教育局長らが「川上の地を離れるのはつらいでしょうが、力強く第2の人生を踏み出してください」と3人の児童らと集まった約80人の住民を励ました。
 式の途中、西校長は思い出深い「川上小学校」の門標を五十嵐町長に返還したが、目がしらを抑える主婦もいた。さらに式の間、3人の在校生がマリンバ、アコーディオン、笛をもって器楽合奏を披露。校歌と「ふるさと」のメロディーは出席者の胸を強く打っていた。」北海道新聞留萌・宗谷版昭和49(1974)年3月26日

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達布を抜け、滝下東和を過ぎ、川上へ入った。
川上小学校跡地には農業施設が建っていた。

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傍には、集落にゆかりある人らの名前が刻まれた「懐古の碑」が建立されている。

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学校前の屋敷跡(H宅跡)前には、達布から伸びていた森林鉄道の築堤らしきものが残っていた。

学校より先へ進む。

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この辺りには戦後開拓入植者を含め、3戸の家があった。

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小雨が降り、足元もぬかるむ。
そして何より、クマの脅威である。

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平坦な土地(畑&屋敷跡)が所々にあったが、笹に覆われていた。

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もうひとつ、ここの「川上本流林道」にも既存農家と戦後開拓入植者が暮らしていた。
尚、達布から伸びていた森林鉄道はこの林道の先まで通じていた。

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川は濁流。落ちないとは思いつつも、慎重に渡る。

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雪の時期は集落の面影が分かる反面、「穴持たず」のヒグマの危険がある。
ここも当然、携帯電話圏外である。

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この辺りに1戸の家があったが、何も残っていない。
推測で、庭先の松の木が残っている程度である。

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振り返ると、森林鉄道の築堤らしきものが分かる。

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道はまだ続いているがこれ以上進むのは危険と判断し、引き返した。

余話
川上小学校の門標は道の駅「おびら鰊番屋」2階に展示されている。
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学校の門標は大事に保管されていた。
尚、隣にあるベルは富岡小学校で使用されていたものである。

参考文献

北海道新聞1974「さようなら63年間の思い出 集団離農の小平・川上部落で廃校式 在校生が合奏披露 門標返還に涙ぐむ主婦」北海道新聞留萌・宗谷版昭和49年3月26日
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
鈴木 トミヱ2000『小平百話‐記憶の中の物語‐』小平町開基120年記念事業実行委員会
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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