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神恵内村オブカル石

神恵内村オブカル石(平成30年6月9日探訪)

神恵内村オブカル石は漁村集落であった。
特に明治末期から大正時代にかけてニシン漁で賑わいを見せていた。

『郷土かもえない』では断片的にしか書かれていないため『北海道新聞後志版』に掲載された閉校時の記事をもとにする。

今月いっぱいで廃校 神恵内村安内小 60年の歴史閉じる
「【神恵内】60余年前のニシン漁全盛時代に開設した神恵内村字安内、安内小学校(校長、豊本綱市氏)が3月31日廃校されることに決まった。
同校は明治35年珊内簡易教育所として開設、大正6年安内尋常小学校に独立した。明治末期から大正初期にかけてこの地方はニシンの宝庫として栄え、オブカル石、ノット地区などから50余人の児童が登校していた。ニシンが幻の魚になると同時に人口は減る一方で、数年前から在籍数は10人以下になった。
2年ほど前から廃校問題が話し合われてきたが、昨年漁業構造改善事業によってオブカル石地区の漁家全戸が川白地区に移転したので、現在登校している児童はノット地区からの2年生1人、6年生2人の合計3人だけになり、ノット地区からは安内小学校に通学するより川白小中学校に行った方が近いので廃校に決まったもの。
2月28日に開かれた村教委で廃校に踏み切ることにし、さらに17日の村議会で正式に廃校が決議された。3月31日廃校されるが、これにさきだち23日午後1時から同校で廃校式が行なわれる。」『北海道新聞後志版』昭和42年3月21日

サヨナラ安内小 『陸の孤島の母校』が最後に 児童2人、最後の卒業
「【神恵内】60余年間陸の孤島で母校としたわれてきた神恵内村の安内小学校が今月31日に廃校になるが、その廃校式が23日午後1時から部落民や関係者によってさびしく行われた。
同校では午前中に千葉美代子さんと千葉安伸君の卒業式を行なった。卒業生を送ったのは2年生の山内美信さん一人きり。この学校から319番目と320番目に卒業した2人だが、これを最後に母校の門は堅く閉ざされることになった。
廃校式には北井村長や部落の人たち30余人が出席した。高山教育長や北井村長、豊本校長らがあいさつのあと、生徒を代表して千葉美代子さんが『安内小学校さようなら、母校がなくなることはとてもさびしい。今に校舎はイタドリの中に閉じ込められてしまうだろう』と別れの作文を読んだ。
最後に児童3人のハーモニカと笛に合わせて『ホタルの光』をみんなで歌ったが、おかあさんたちの中にはハンカチでまぶたを押え、たまりかねて室外に走り出す人もあった。
安内小学校は神恵内港から漁船に乗って1時間余り、『西の河原』という霊場が眼下にひらける積丹半島の突端近くにある。児童たちは海岸の玉石づたいにふぶきの日も登校していた。明治17年には寺子屋ができ、27年にオブカル石簡易教育所になった。34年に珊内簡易教育所と改称、大正6年ようやく安内小学校として独立した。
明治から大正初期にかけてこの地方はニシンの豊産だった。当時はこの学校に50人以上の児童が登校していたが、ニシンが幻の魚になってから人口は減る一方、昨年は漁業構造改善事業として校下のオブカル石地区の漁家8戸が川白地区に集団移転、残ったのはノット地区の7戸だけになった。
6年2人がことし卒業、川白中学校に通学することになり、残ったのはこんど3年生になる1人と新しく入学する1人の2人より児童のいない学校になってしまうので今月17日の村議会で廃校することに決定、部落民たちも納得した。今後はノット地区から中学生と6人と小学児童2人が3,3キロメートル離れた川白小中学校に通学することになった。」『北海道新聞後志版』昭和42年3月25日

学校の沿革は以下の通りである。

明治17年 寺子屋として開校(旧7月)
明治27年 オブカル石簡易教育所と改称
明治43年 珊内教育所と改称(4月)
大正 6年 安内尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 安内国民学校と改称(4月)
昭和22年 安内小学校と改称(4月)
昭和42年 閉校(3月)

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平成30年6月、HEYANEKO氏と後志管内廃校廃村探訪で訪れた。
使われなくなって久しい建物が目に飛び込む。

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その答えはバス停にあった。
『レストハウス西の河原』
地名によるものだと思うが、それにしてもこの名前では…と複雑な思いを抱きつつ、集落調査を続ける。

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レストハウスの傍に「オブカル石川」が流れている。

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地形図を見ると神社のマークが記されている。
神社へ行くと「十一面観音堂」という観音さまが祀られていた。

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眼前にはかつての袋澗が残っていた。

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学校跡はこの先である。

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学校跡地は現在「あんない展望公園」として整備されている。
そこには学校跡を示す記念碑が建立(平成8年建立)され、安内小学校の沿革が刻まれている。

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かつての校舎跡地に建立されている「安内小学校址」の親子像。

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碑文
嗚呼 西の河原よ 窓 岩よ
冬は苛烈なる日本海の怒涛と相対峙し夏は虎杖の競い立つ蝉しくれふり注ぐこの台地
まさしくここに六十有余年に亘り教育の灯をともし続けた親と子とそして教師の哀歌の歴史があった
昭和四十六年八月十四日 
安内小学校十六代校長 豊本綱市書

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その奥に昭和3年建立の御大典記念の石碑がある。

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学校跡地全景。
学校跡地は展望公園として活用されているので、学校の名前は永遠に残るだろう。

参考文献

北海道新聞1967「今月いっぱいで廃校 神恵内村安内小 60年の歴史閉じる」『北海道新聞後志版』昭和42年3月21日
北海道新聞1967「サヨナラ安内小 『陸の孤島の母校』が最後に 児童2人、最後の卒業」『北海道新聞後志版』昭和42年3月25日
神恵内村1972『郷土かもえない』神恵内村
高橋昌幸2002『戸長設置130年消防組織120年記念 愛郷かもえない』神恵内村
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蘭越町川上

蘭越町川上(平成30年6月10日他探訪)

蘭越町川上は農村集落である。

明治40年 昆布より中昆布(現在の立川)を経て弁辺村界(現在の豊浦町)に至る里道開通。
明治45年 山梨県移民団(今泉幸雄団長)の入植により開拓が始まった。
学校は大正6年6月、今泉団長が私設の奥昆布学校が開設され、翌7年4月に中昆布尋常小学校付属奥昆布分校として認可された。
その後も入植者が増え、造材や養蚕で賑わいをみせていたが昭和6・7年の凶作により離農者が相次ぎ、昭和8年3月に学校は閉校した。

昭和21年 外地からの引揚者を中心とした戦後開拓者の入植が始まった。入植者の内訳は、昭和21年4戸・昭和22年13戸で昭和30年までに30戸(うち7戸離農)入植し、農業、林業、畜産業を営んでいた。
学校は昭和24年8月に落成式が行われ、9月1日開校した。
昭和33年頃から離農が現れ始め、昭和41年11月に閉校。間もなく川上集落も廃村となった。
昭和58年に公社営畜産地事業が始まり翌年59年に町営川上牧場が開設された。
川上牧場管理棟傍に、川上開拓記念碑が平成3年に建立された。

学校の沿革は以下の通りである。

小学校
大正6年 私設奥昆布学校の開設(6月)
大正7年 中昆布尋常小学校付属奥昆布分校として開校(4月)
昭和8年 閉校(3月)

昭和24年 川上小学校開校(9月)
昭和41年 閉校(11月)

中学校
昭和25年 蘭越中学校川上特別教授場として開校(9月)(注1)
昭和27年 川上中学校と改称(4月)
昭和41年 閉校(11月)

(注1) 『新蘭越町史』に「蘭越中学校川上特別教授場」と書かれているが、実際は「蘭越中学校川上分校」と思われる。

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蘭越町旭台を探訪後、川上集落へ足を運んだ。
「川上牧場」の看板が目印である。

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道は舗装されており走りやすい。
すんなりと学校跡地へ到着した。

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校舎跡の横にはブロック造りの教員住宅が残っており、笹を掻き分けて進んだ。

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笹藪の中に残るサイロ跡。
この時はここで「いいですねぇ」と云って終わった。
後日、学校より先に開拓記念碑が建立されていることが分り単独で再訪した。

6月24日午前4時、川上集落を再訪。
学校跡地は2週間前に見たばかりなので、学校跡より先へクルマを走らせる。

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川上牧場の施設。
その隣に、記念碑はあった。

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左より馬頭観世音の碑、記念碑の説明が刻まれた碑、川上開拓碑である。
馬頭観世音の碑は昭和29年9月に建立された。

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碑文
この碑は開拓団長長島外次郎発願部落民の創意に依り建立された
碑文は早川芳夫謹書施工は遠藤石材店 早川勘太郎
角田五郎氏等により現地資材のみにて完成させ長年風雪に
弱体損傷夛き為旧部落民の承認賛同を得記念碑建立と
共に川上校横より改修施工は高田石材店により移転○○○
平成三年九月吉日 願主 長島時男

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碑文
この里は明治三十年頃本州よりの移住者が厳しい自然と斗ひ乍ら開拓が始ったと伝えられている
長い歴史の流れの中で繁栄し衰退した終戦後昭和二十二年満州及び樺太からの引揚者の入植により
再び繁栄したが天候不順立地条件の悪さから苦労も報われず離農続出となる
開拓苦難の体験を基に努力しそれぞれに今日の繁栄を築きあげた旧住民の愛郷の心を結集し
蘭越町長宮谷内留雄氏の特に愛郷史蹟保存えの配慮支援を得碑を建立する
平成三年九月吉日 発起人 早川勘太郎 桜田一郎 中村政幸 長島時男 三瓶勝栄

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川上牧場からの日の出。
廃村で見た日の出はここが初めてであった。

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さらに数ヵ月後の9月24日、A.D.1600氏と再再訪を果たす。
ブロック造りの教員住宅へは行けなかった。

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正面のシラカバが生えている辺りが、恐らく神社跡と思われる場所である。

参考文献
蘭越町史編集委員会1999『新蘭越町史』蘭越町

蘭越町旭台

蘭越町旭台(平成30年6月10日・9月24日探訪)

蘭越町旭台は農村集落であり、リゾート開発の影響を受けた一面も併せ持っている。

入植は明治37年和歌山県出身者の入植が最初であるが、本格的には大正時代に入って山梨団体や小田農場が入植した。
学校は大正4年第八南尻別尋常小学校(後の湯里小学校)湯山特別教授所として認可され、大正6年に南部川尋常小学校として独立した。

旭台は高台地であり交通の便も悪かったので入植した農家も定住する人が少なかった。
しかし、この地区から見る朝日が美しいことから昭和16年の字名改正で旭台となった。

昭和20年に戦後開拓者が旭台に入植し始めた。内訳は昭和20年6戸、22年4戸。
秋田県の県内2・3男対策として北海道開拓者として3年にわたり20戸ずつ帰農させ、その第1陣が昭和24年旭台に入植した。
昭和26年 旭台小学校校舎を新築、昭和27年澱粉工場を設置したが発電装置に落雷し、秋田移民団共同住宅10戸と畜舎が全焼。
火災以降、個人営農に切り替えるが高台に位置するため砂礫が多く収穫も少なかったことや、昭和40年頃より離農者が相次ぎ、さらにリゾート開発計画がすすめられたことから殆どの人々は土地を売却して転出した。
学校の沿革は以下の通りである。

旭台小学校
大正 4年 第八南尻別尋常小学校湯山特別教授所として認可、開校(6月)
大正 6年 南部川尋常小学校と改称(6月)
昭和16年 旭台国民学校と改称(4月)
昭和22年 旭台小学校と改称(4月)
昭和48年 閉校(3月)

閉校時の記事を掲載する。

巣立ちも児童1人 最後の卒業式と廃校式蘭越旭台小 過疎に勝てず58年に歴史に幕
「【蘭越】町市街地北方12キロの旭台地区にある旭台小で23日、最後の卒業式と廃校式が行われた。過疎の荒波に抗し切れず、新年度からは児童数がたった1人となってしまうための廃校。この廃校に同地区の人たちの寂しさは隠し切れないようだ。
同校が第八南尻別尋常小学校湯山特別教授場として開校したのは大正4年(1915年)6月。はるばる和歌山県から明治37年(1904年)に入植した人たちの熱意が実ったもので、先生を捜すために入植者が奔走したという話も伝わっている。
その後、昭和22年4月に現在の旭台小と改称され、26年11月には現在の校舎が完成。その間、24年前後に秋田県から42戸、樺太から4戸、東京から3戸と入植が相次いだ。
同校の58年の歴史の中で最も児童数が多かったのは大正6年(1917年)の68人。しかし厳しい開拓に夢破れて同地区を去る人がその年から増え出した。
ついに現在では12戸、41人に減り、小学生も新年度からは6年生となる大橋勝美君たった一人となる。この日は午前中、たった一人の卒業式が行われ、金田校長から浦屋美智子さんに最後の卒業証書が手渡された。引き継ぐ木午後から同地区の人たち、同窓生、町、町教委、後志教育局の関係者など約200人が集まって廃校式をしてお別れをした。なお大橋君は新年度から蘭越小に通う。」(『北海道新聞後志版』 昭和48年3月25日)

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平成30年6月、HEYANEKO氏と若い大学生の3名で後志管内廃校廃村の旅で探訪した。
木製の鳥居が印象的である。

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藪を掻き分けて進むと社殿があった。
旭台神社の社殿は健在である。

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旭台小学校跡地。
木碑が建立されているが、よく見ると後ろの樹に括りつけられていた。

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探訪当初は「学校関係の基礎ですかねぇ」と話したが、調べなおすと屋敷跡であることが分った。

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リゾート開発時代の廃屋と既存農家の屋敷跡。
これ以外にも所々にリゾート開発の名残が見受けられた。

日にちがたったある日HEYANEKO氏より「学校跡地に校門が残っている」と聞き、お世話になっているA.D.1600氏と再訪した。

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9月24日午前4時に旭台に着いた。
真暗のなか、鳥居を見る。
笹は6月に探訪したときよりも伸び、行く手を拒んだ。

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鳥居の向かいに校門があった。
暗闇の中笹を刈り、校門が姿を現した。

『廃校記念誌蘭越町立旭台小学校』にある「旭台小学校の思い出」(旭台小学校長 金田銀太郎)より

「創立満58年の栄光の歴史を持つ旭台小学校も時代の流れにかてず遂に3月31日その幕を閉じることになったが本校もまた他のへき地校と同様で部落の中心であり文化センターの役割を数10年にわたり果たしてきたのである。特に高度へき地の最たる当校下の地域では学校が唯一の貴重な「文化の灯」であった筈である。今、その灯が消える事態が指呼の間に迫りつゝあるとき校下父兄各位の感慨もまた一入りと思われる。
「廃校、即廃村につながる」と聞くが、まさにその例の如く今年中に部落各戸の大半が〔集落移転〕するとの現実に直面して、単に人口過疎に因るとだけ片づけられるような気がしてならない。さらに全道的に毎年のようにへき地から消え去る学校があとをたたない現況を見聞きするが、これではへき地が寂れる一方で、30年の教職員生活でも未経験の言いようのないせきばくの念が頻りに胸中を去来する今日此頃である。」

参考文献

蘭越町教育委員会総務係1973『廃校記念誌蘭越町立旭台小学校』
北海道新聞1973「巣立ちも児童1人 最後の卒業式と廃校式蘭越旭台小 過疎に勝てず58年に歴史に幕」『北海道新聞後志版昭和48年3月25日』
蘭越町史編集委員会1999『新蘭越町史』蘭越町

沼田町昭和

沼田町昭和(平成30年5月19日他探訪)

沼田町昭和は炭鉱集落である。

明治31年奈良義路が試掘権を設定、大正7年明治鉱業㈱の所有となり、大正8年から9年にかけて鉱区の調査が行われたが、本格的な調査は大正15年からである。
昭和4年に九州戸畑本社から開坑建設隊が到着し、御料林の原木払い下げを受け現地に木工場をはじめ、火力発電所、各工場、火薬庫等が次々と施設が出来上がっていった。
昭和5年10月、留萌鉄道全通と同じくして出炭、11月より送炭を開始した。
昭和40年、合理化法に基づく再建会社として指定、経営合理化に努めるも昭和44年4月末をもって閉山。閉山式は5月17日昭和小学校にて行われた。

昭和地区にあった町名、建物を列挙すると、次の通りである。
町名
青葉町、新光町、幸町、川添町、山乃手、外町、旭町、東町、緑町、栄町、右高台、中高台、左高台、新高台、奥高台、右本町、左本町、川上町、福岡町、奥町、上新町、下新町

建物関係
火葬場、配給所、第一倶楽部、信和会館、保育園、昭和小中学校、神社、昭和駅、寺院(曹洞宗竜泉寺)、浄水場、貯水ダム、木工場、隧道内部マーケット、選炭場、坑口神社、病院、総務課事務所、労働組合事務所、健保会館、郵便局、役場出張所、中央浴場、処理場、奥町浴場、プール

 学校の沿革は以下の通りである。

小学校
 昭和5年  奥御料尋常小学校分教場として開校(4月)
  同年    炭鉱開発に伴い急激な児童増加により校舎新築移転(9月)
 昭和6年  昭和尋常小学校と改称
 昭和8年  高等科設置
 昭和16年 昭和国民学校と改称(4月)
 昭和22年 昭和小学校と改称(4月)
 昭和44年 閉校(7月)

中学校
 昭和22年 開校(5月)
 昭和24年 校舎移転独立(5月)
 昭和44年 閉校(7月)

閉校時の報道を掲載する。

終業式が最後の別れ 廃校の昭和小、中両校 沼田に閉山の冷たい風 夏休み帳さびし どんどん進む炭住解体
「【沼田】22日、閉山のヤマにある昭和小、中両校で閉校式がさびしく行なわれた。
昭和5年4月開校の昭和小校、同22年5月の昭和中校はともに明鉱昭和鉱従業員の子供たちが通学してきた学校だが、同鉱の閉山、従業員の再就職、他市町村への移住で昭和小は4月当時、298人いた児童たちがいま13人に、同中は150人がたった7人に減ってしまった。昭和地区は7月末で電気、水道がストップするので残りの従業員も全員がヤマを降り、それにつれて同校も廃校となった。
同小校の終業式は同校屋体で行われたが、広い運動場に1、2年生の4人を囲むように高学年の9人が並び富樫同校長が『みんなは最後までこの学校に残って勉強したが、きょうの終業式で学校は閉校になります。よその学校へ行っても昭和校で習ったことを忘れずによく勉強し、お父さんやお母さんを安心させ、将来はりっぱな社会人になるよう心がけてほしい』とお別れのあいさつを述べ、また児玉同校PTA会長は『昭和で生まれ育ったみなさんは昭和でつちかわれた精神を忘れずにどこへ転校しても元気で勉強し強い人間になってほしい』と語った。
このあと、各学年ごとに夏休み帳を渡され、休み中の注意があってお別れの茶話会を開き、PTAから贈られたマンジュウを食べながら楽しかった思い出話を語っていた。
一方、昭和中では男子4人、女子3人が最後の校舎内外の清掃を行ない、渡辺同校長ほか4人の教諭たちと終業式にひき続いて閉校式を行なった。
こうしてさびしく両校の閉校式が行われている間も、昭和鉱の木造炭住街では解体作業が休む間もなく進められ、古材を積んだトラックが幌新太刀別川に沿いながらヤマを下りて行った。」(北海道新聞北空知版 昭和44年7月24日)

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平成30年5月 HEYANEKO氏らと訪ねた。
筆者は平成15年頃より何度も訪ねてきたが、今回は約10年ぶりの再訪である。

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地図を見ながら進むと、学校跡へ到着した。
小学校、中学校が置かれていたがあまりの大きさに驚いた。

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この時期の探訪は基礎が見えるので探訪に適している。

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水飲み場らしきものも残っていた。

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学校の背後には神社があった。
瞬時に「これくらいなら登れる」と判断し、斜面をよじ登る。

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神社の基礎が残っていた。

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写真では分からないが、社殿の基礎が残っていた。

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神社より学校跡を俯瞰する。
下一面、学校の基礎である。

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川の対面には昭和駅があった。

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駅跡は湿地帯と化していたが、手前に機関庫の基礎があった。

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昭和炭鉱選炭場である。
この近くに「隧道マーケット」がある。

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雪解け水による増水のなか、何とか行けそうなところがあったので渡渉した。

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カメラのフラッシュをたかないと見えないくらい真っ暗だが、閉山反対の張り紙が残っていた。

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お菓子屋さんだったのか、お菓子の一斗缶が残っている。

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「守ろう俺達 手でこの炭鉱(ヤマ)を」

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「団結……で斗い抜こう」

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「悪ラツな会社の閉山…」

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「閉山断呼ハネ返そう」

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隧道マーケット内部より。
筆者が平成16年秋に訪ねた時と比べ、劣化が著しく進んでいた。

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隧道マーケット探訪後、右本町・左本町に残る炭鉱住宅へ行った。

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人々がいなくなり、廃墟と化した住宅。

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奥町に残る炭住とプール。
人々が暮らした名残は、よく探せばまだ残っているかもしれない。

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ホロピリ湖展望台にある、昭和炭鉱の地図。
次はこの地図を参考にしながら再訪したい。









参考文献

北海道新聞1969「終業式が最後の別れ 廃校の昭和小、中両校 沼田に閉山の冷たい風 夏休み帳さびし どんどん進む炭住解体」『北海道新聞北空知版』昭和44年7月24日
沼田町1982『新編沼田町史』沼田町

京極町脇方

京極町脇方(平成30年2月10日探訪)

京極町脇方は明治期に福島団体が入植したが、後に鉱山集落へ発展を遂げた。

明治41年 福島団体(信夫郡吉井田村 佐藤久三郎団長)29戸
        舟山団体(信夫郡野田村  舟山亀之助団長)12戸
明治44年 信夫団体(信夫郡吉井田村・土湯村 唯木七郎治総代人) 27戸
大正 3年 和歌山団体(北風種吉総代人)戸数不詳 が脇方地内に入植した。

しかし、凶作冷害や地力の減退により和歌山団体は大正12年全戸離農。福島団体は前記のほか鉱山開発により昭和14,5年頃には数戸のみの就農。舟山団体は脇方駅や官舎、鉱山事務所、社宅、小中学校用地として買収され団体全員四散した。

明治31年に藤村徳治によって褐鉄鉱鉱床が発見され、大正5年に三井鉱山㈱の所有となり本格的な試錐が行われた。大正7年に北海道製鉄に譲渡され、翌8年日本製鋼所と北海道製鉄の合併により日本製鋼所倶知安鉱業所として操業を開始。大正9年に鉱石輸送のため脇方線が開業した。
第一次世界大戦後の不況により大正10年から13年にかけて休山したが、翌14年より操業を再開。昭和6年の満洲事変の影響により第2次世界大戦まで軍需資源増産により倶知安鉱山の全盛期を迎えた。
昭和6年 輪西製鉄所(株)、昭和9年輪西鉱山(株)昭和14年日鉄鉱業(株)と所属が変わり、昭和19年の脇方地区は従業員の家族を合わせて4000人が暮らしていた。
終戦後、戦災を受けた室蘭製鉄所が操業を一時休止したため昭和21年の生産は激減、昭和23年の脇方市街大火により事務所・倉庫を焼失したが朝鮮戦争を機に需要も活発になっていった。
昭和30年代に入ると海外鉱石の輸入増加や倶知安鉱山の鉱量枯渇が重なり、昭和44年10月に閉山した。

学校は明治44年4月 奥ワッカタサップ特別教授場として開校した。
大正4年末に児童数が100名を超えたため大正5年 地元の村会議員より奥ワッカタサップ特別教授場・ワッカタサップ特別教授場(明治42年1月開校)を統合して第四尋常小学校建設の議を提出した。村は小学校建設を可決したが、付帯条件として
建築費の4割を関係集落が負担
学校の統合・学校位置は集落住民が選定 されることとなった。

しかし、建築費の4割負担や両教授場の位置問題で互いに譲らず、協議を重ねた結果大正7年、現在地(閉校時の位置)に決まった。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校
明治42年 ワッカタサップ特別教授場(通称 中山梨分教場) 開校(1月)
明治44年 奥ワッカタサップ特別教授場開校(4月)
大正7年  東倶知安第四尋常小学校と改称(10月)
大正11年 火災により焼失(12月)
大正12年 校舎新築(11月)
昭和16年 脇方国民学校と改称(4月)
昭和22年 脇方小学校と改称(4月)
昭和45年 閉校(10月)

中学校
昭和22年 開校(6月)
昭和24年 脇方中学校と独立(4月)
昭和38年 小中併置校となる(4月)
昭和45年 閉校(3月)

閉校直前の「お別れ会」の記事を掲載する。

楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校 
〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ
【京極】鉄のヤマとともに歩んできた脇方小中校がヤマとともに消えることになった。10月の閉校を前に20日、同校で卒業生、父母らが集まって〝お別れ会〟が開かれ、思い出多い校舎、マチ並みをながめながら互いにしあわせを祈り、いつまでもなごりを惜しんでいた。
 町市街地から約7キロ、谷間の脇方が開かれたのは明治31年。当時、東倶知安村の一農民によってかっ(褐)鉄鉱の鉱床が発見されてから鉱量1千万トンといわれる鉱山とあって大正5年、三井鉱山の手で本格的な採掘が始められ、その後昭和14年に日鉄鉱業の所属となった。16年には胆振縦貫鉄道が完成、第二次大戦の需要増加から戦時中は年に60万トン近い生産高を記録、同地区の人口も約4千人にふくれあがった。
 戦後は30年代に入って大量の海外鉱石が輸入され、加えて鉱量の枯渇という事態になったことから昨年10月、倶知安鉱山はついに閉山。日鉄鉱業の北海道本部が残っていただけになったが、この10月には本部も脇方から引き揚げることに決まった。
 脇方の鉱山の盛衰とともに歩んできた脇方小中学校は明治44年に設けられたワッカタサップ特別教授所が前身。その後東倶知安村第四尋常小学校として独立。戦前戦後を通じて鉱山従業員の子供が学んできたが、昭和19年の脇方国民学校時代には552人の児童を数えたこともある。しかし日鉄鉱業の縮小に伴って児童数は減少。現在は51人を残すだけ。10月には全員が家族とともに転校、学校は自然閉校となる。このため同窓生らが主体になって〝なつかしい母校にもう一度集まってお別れを〟と、この会を催した。
 会には札幌、小樽、管内各地に住んでいる卒業生、父母ら150人が出席。阿部校長、来賓らが『いつの日か脇方が再開発されてにぎわいを取り戻すことを祈っています。それまで健康に気をつけて-』とあいさつ。このあと児童生徒代表らが『授業やお祭りなど楽しかったことばかり。新しい土地に友だちはいませんが、しっかり勉強します』と作文を朗読、さらに子供たちが〝思い出〟〝蛍の光〟など数曲を鼓笛演奏するとそっと目がしらを押える人もみられた。」(北海道新聞後志版昭和45年9月22日)

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平成30年2月、HEYANEKO氏らと脇方を訪ねた。
正面の建物は産廃処分場であるが、そこにかつての脇方駅があった。

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橋の名前は「鉄見橋」
ここから鉄道が見えたことに由来する。

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川の名前は「ワッカタサップ川」である。
ちょっと川を覗いてみる。

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川の色は鉄を含んでいるせいか、少し茶色っぽい色をしていた。

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鉄見橋から右へ行く道は通行止めであった。
この先にはかつて、神社があった。

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脇方駅跡。
駅のすぐ近くに学校があった。

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ふと見ると、何かこんもりしたモノが見える。
学校跡の碑である。

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学校跡の碑。
碑の高さは2メートルくらいあるが、雪が降り積もり、これでは分からない。

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ゴム手袋をはめて、雪から掘り起こした。
脇方小中学校の碑を復活させた。

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もう少し先へ進むと、煙突が見えた。
煙突までツボ足で進む。

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学校跡の煙突。
積雪で行ける範囲は限定されたので、次は雪のない時期に再訪してみたい。


参考文献

北海道新聞1970「楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校 〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ」『北海道新聞』昭和45年9月22日
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
京極町教育委員会2016『昭和の時代を振り返る ふるさと京極120年昔日の脇方-ワッカタサップと倶知安鉱山50年-解説編』
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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