当別町三番川
当別町三番川
三番川の開拓は山口三平、広部ヤヲ、川辺右、芋田由次郎等の農場が置かれ、明治38年頃より小作人を導入し、開拓に着手したが地味が悪く、また交通の便もよくないので住民が定着せず、耕地も荒地に戻っていった。
三番川小学校は明治42(1909)年、当別第三尋常小学校三番川特別教授場として発足したが、前述のように住民が定着しなかったことにより、大正14(1925)年4月、四番川小学校に併合し、一時廃校となった。
しかし、戦後開拓により三番川にも入植者が現れた。昭和21(1946)年〜28(1953)年にかけて開拓実習場出身者16戸、樺太30戸(強行入植20戸含め)、地元より9戸が三番川に入植した。
主要の作物は小豆、大豆、えん麦、蔬菜等を栽培し、冬は四番川で造材で生計を立てていた。
昭和27年春 富良野市をはじめ秋田、新潟の各県より農家の次男・三男の各団体移民があり、42戸にまで増加した。これにより昭和26年1月 鈴木利助宅を仮教場とし、四番川小学校教員 菅野虎雄を出張させて授業を開始した。この当時、小学生13名 中学生3名であった。同年11月5日 四番川小学校の分教室として発足、昭和27(1952)年9月15日に校舎が落成した。中学生の教育は昭和28(1958)年11月に始まったが、この時は「弁華別中学校四番川分校三番川分室」という形だった。分室から分校になったのは昭和33年であった。
三番川はNHK取材班でテレビで取り上げられた学校でもあった。それは風呂のない家庭が多かったために学校風呂を設け、児童たちを入浴させている場面が出ていた。このため、放送後に道内外より多数の激励や慰問品が贈られた。
三番川の気候は非常に厳しいものがある。
昭和40年3月2日の北海道新聞には「命が危ない 助けて ふぶきで孤立の当別町青山」という記事がある。以下、抜粋して紹介する。
「連日のふぶきのためひと月余りも交通が途絶、孤立化している石狩管内当別町青山地区の雪害はついに“人命にかかわる事態”にまで悪化した。同地区には急ぎ手当てを要する心臓病などの重症患者が三人も出ており、現地の開拓保健婦の訴えで石狩支庁も一日、同町などと緊急協議の結果、二日朝の近藤同町長からの連絡のいかんによって、急患を病院に収容するため自衛隊の出動を要請することになった。同町青山四番川の辺地診療所駐在の開拓保健婦、山上キミさん(五〇)が一日午前、支庁を訪れて現地の実情を説明、病人の救護など緊急対策を訴えた。急患は完全な孤立状態にある青山三番川の商業、菊地晋さんの妻タキさん(五五)、農業、磯目己之三さんの妻リエさん(五〇)、同、影山繁●(人偏に竒)さん(七三)の三人。(中略)青山地区の不通区間は二番川−四番川区間約十六キロ。札幌土現当別出張所が除雪に当たっているが、連日のふぶきでついにお手上げになり、二月に入ってから中間の三番川を中心に約百戸が孤立状態のまま。ほとんどが開拓農家で、管内でもっとも冷害がひどく、男は造材などの出かせぎに出て、残っているのは大半が老人と女、子供。山上さんの話だと、積雪約2メートル、場所によってはそれ以上で馬ソリも通れない。このため三番川でただ一軒の菊地商店も、たくわえていた生活必需物資が底をつき農家の食糧も先細りで、みそ、しょうゆは一週間くらいで切れそうだ、という。浜益行きのバスが通る四番川や青山中央に出るにはスキーで往復四時間以上かかり、悲痛な面持ちで除雪を訴えている。」
この時、自衛隊真駒内駐屯の第十八普通科連隊広田一尉ら28名の隊員、青山診療所所長中上助司医師、松村支庁拓殖課長、町職員も同行して出発した。
昭和40年3月4日の記事には「無事、病人を収容 孤立の青山部落から」とある。
「雪で孤立した石狩管内当別町青山三番川の急患三人を収容のため現地に向かった自衛隊真駒内駐とん第十八普通科連隊、広田一尉ら隊員二十八人と松村石狩支庁拓殖課長らの救援隊は、三日午後6時過ぎ、四人を診察ののち二人をスノーボードで運び、当別の医院などに収容した。運んだのは左足大やけどの開拓農家、影山繁●(人偏に竒)さん(七三)中風で倒れていた同、佐々木庄三郎さんの妻、つねよさん(七二)で、佐々木さんはすぐ同町近藤病院へ、影山さんは町内の旅館に一泊、四日朝札幌の病院に入れる予定。心臓病の菊地タキさん(五五)と貧血の磯目リエさん(五〇)は、診断の結果、開放に向かっていたのと手術を急がないため、とりあえず十日分の薬を置いてきた。三番川付近は連日の吹雪で四メートル前後の深雪。救援隊は往復25キロをラッセルしながらの強行軍。部落の人たちは救援隊の到着にこれまでの不安も解消してかホッとした表情。開拓農家の杉沢幸次郎さんの妻、はきのさんは『子供に学校へ弁当を持たせるため昼食も食べないで辛抱していた。このまま病気になったら…と、心配でした。心からありがとうと言います』と感謝していた。」
この6年後の昭和46年、全戸離農転出のため、学校も廃校となった。

三番川小学校付近。
探訪当時(平成24年4月30日)でも、1メートル以上の残雪があった。

校舎正面。大きなマツの木しか残されていない。

校舎正面。
向かって左側に体育館、右側に教室が配置されていた。

この土管は学校や、三番川の農家に埋設されていたものなのだろうか?

校舎跡地より眺める。
正面の、高いマツの木があるところに神社があった。
旧版地形図を確認すると、学校周辺に数件の人家マークや神社が表記されている。
しかし、道路工事により道が変わってしまい面影を探し出すのが難しい。
三番川小学校 校歌(昭和43年8月20日制定)
朝日に映える 神居尻
仰ぐ瞳に 風光る
正しく深く 考えて
学ぶ心に 湧く希望(のぞみ)
三番川 三番川 豊かな故郷
風さわやかな 当別の
流れにうつる 青い空
緑の大地 ふみしめて
きたえる体に 湧く力
三番川 三番川 幸ある故郷
みどりの原野(はら)は 広々と
力あふれる まなびやよ
みんな大きく 胸はって
歩む未来に 湧く光
三番川 三番川 のびゆく故郷
希望溢れる校歌とは裏腹に、全戸離農になってから40年以上の歳月が流れた。
三番川の開拓は山口三平、広部ヤヲ、川辺右、芋田由次郎等の農場が置かれ、明治38年頃より小作人を導入し、開拓に着手したが地味が悪く、また交通の便もよくないので住民が定着せず、耕地も荒地に戻っていった。
三番川小学校は明治42(1909)年、当別第三尋常小学校三番川特別教授場として発足したが、前述のように住民が定着しなかったことにより、大正14(1925)年4月、四番川小学校に併合し、一時廃校となった。
しかし、戦後開拓により三番川にも入植者が現れた。昭和21(1946)年〜28(1953)年にかけて開拓実習場出身者16戸、樺太30戸(強行入植20戸含め)、地元より9戸が三番川に入植した。
主要の作物は小豆、大豆、えん麦、蔬菜等を栽培し、冬は四番川で造材で生計を立てていた。
昭和27年春 富良野市をはじめ秋田、新潟の各県より農家の次男・三男の各団体移民があり、42戸にまで増加した。これにより昭和26年1月 鈴木利助宅を仮教場とし、四番川小学校教員 菅野虎雄を出張させて授業を開始した。この当時、小学生13名 中学生3名であった。同年11月5日 四番川小学校の分教室として発足、昭和27(1952)年9月15日に校舎が落成した。中学生の教育は昭和28(1958)年11月に始まったが、この時は「弁華別中学校四番川分校三番川分室」という形だった。分室から分校になったのは昭和33年であった。
三番川はNHK取材班でテレビで取り上げられた学校でもあった。それは風呂のない家庭が多かったために学校風呂を設け、児童たちを入浴させている場面が出ていた。このため、放送後に道内外より多数の激励や慰問品が贈られた。
三番川の気候は非常に厳しいものがある。
昭和40年3月2日の北海道新聞には「命が危ない 助けて ふぶきで孤立の当別町青山」という記事がある。以下、抜粋して紹介する。
「連日のふぶきのためひと月余りも交通が途絶、孤立化している石狩管内当別町青山地区の雪害はついに“人命にかかわる事態”にまで悪化した。同地区には急ぎ手当てを要する心臓病などの重症患者が三人も出ており、現地の開拓保健婦の訴えで石狩支庁も一日、同町などと緊急協議の結果、二日朝の近藤同町長からの連絡のいかんによって、急患を病院に収容するため自衛隊の出動を要請することになった。同町青山四番川の辺地診療所駐在の開拓保健婦、山上キミさん(五〇)が一日午前、支庁を訪れて現地の実情を説明、病人の救護など緊急対策を訴えた。急患は完全な孤立状態にある青山三番川の商業、菊地晋さんの妻タキさん(五五)、農業、磯目己之三さんの妻リエさん(五〇)、同、影山繁●(人偏に竒)さん(七三)の三人。(中略)青山地区の不通区間は二番川−四番川区間約十六キロ。札幌土現当別出張所が除雪に当たっているが、連日のふぶきでついにお手上げになり、二月に入ってから中間の三番川を中心に約百戸が孤立状態のまま。ほとんどが開拓農家で、管内でもっとも冷害がひどく、男は造材などの出かせぎに出て、残っているのは大半が老人と女、子供。山上さんの話だと、積雪約2メートル、場所によってはそれ以上で馬ソリも通れない。このため三番川でただ一軒の菊地商店も、たくわえていた生活必需物資が底をつき農家の食糧も先細りで、みそ、しょうゆは一週間くらいで切れそうだ、という。浜益行きのバスが通る四番川や青山中央に出るにはスキーで往復四時間以上かかり、悲痛な面持ちで除雪を訴えている。」
この時、自衛隊真駒内駐屯の第十八普通科連隊広田一尉ら28名の隊員、青山診療所所長中上助司医師、松村支庁拓殖課長、町職員も同行して出発した。
昭和40年3月4日の記事には「無事、病人を収容 孤立の青山部落から」とある。
「雪で孤立した石狩管内当別町青山三番川の急患三人を収容のため現地に向かった自衛隊真駒内駐とん第十八普通科連隊、広田一尉ら隊員二十八人と松村石狩支庁拓殖課長らの救援隊は、三日午後6時過ぎ、四人を診察ののち二人をスノーボードで運び、当別の医院などに収容した。運んだのは左足大やけどの開拓農家、影山繁●(人偏に竒)さん(七三)中風で倒れていた同、佐々木庄三郎さんの妻、つねよさん(七二)で、佐々木さんはすぐ同町近藤病院へ、影山さんは町内の旅館に一泊、四日朝札幌の病院に入れる予定。心臓病の菊地タキさん(五五)と貧血の磯目リエさん(五〇)は、診断の結果、開放に向かっていたのと手術を急がないため、とりあえず十日分の薬を置いてきた。三番川付近は連日の吹雪で四メートル前後の深雪。救援隊は往復25キロをラッセルしながらの強行軍。部落の人たちは救援隊の到着にこれまでの不安も解消してかホッとした表情。開拓農家の杉沢幸次郎さんの妻、はきのさんは『子供に学校へ弁当を持たせるため昼食も食べないで辛抱していた。このまま病気になったら…と、心配でした。心からありがとうと言います』と感謝していた。」
この6年後の昭和46年、全戸離農転出のため、学校も廃校となった。

三番川小学校付近。
探訪当時(平成24年4月30日)でも、1メートル以上の残雪があった。

校舎正面。大きなマツの木しか残されていない。

校舎正面。
向かって左側に体育館、右側に教室が配置されていた。

この土管は学校や、三番川の農家に埋設されていたものなのだろうか?

校舎跡地より眺める。
正面の、高いマツの木があるところに神社があった。
旧版地形図を確認すると、学校周辺に数件の人家マークや神社が表記されている。
しかし、道路工事により道が変わってしまい面影を探し出すのが難しい。
三番川小学校 校歌(昭和43年8月20日制定)
朝日に映える 神居尻
仰ぐ瞳に 風光る
正しく深く 考えて
学ぶ心に 湧く希望(のぞみ)
三番川 三番川 豊かな故郷
風さわやかな 当別の
流れにうつる 青い空
緑の大地 ふみしめて
きたえる体に 湧く力
三番川 三番川 幸ある故郷
みどりの原野(はら)は 広々と
力あふれる まなびやよ
みんな大きく 胸はって
歩む未来に 湧く光
三番川 三番川 のびゆく故郷
希望溢れる校歌とは裏腹に、全戸離農になってから40年以上の歳月が流れた。
滝上町白鳥松布
滝上町白鳥松布(シラトリマップ)
白鳥松布は明治44年に、2名の入植者を皮切りに戸数が増加していった。
当時、児童たちは白鳥尋常小学校・滝美尋常高等小学校に通学していたが、遠距離であったため昭和初期頃より集落内に学校設置の要望があがっていた。
昭和7年 集落の片山国太郎、土屋新吾、直正宗一、長屋文四郎と滝上森林保護区員駐在所 伊藤清治主事の後援、相馬宗造の一反歩の寄附で「森林事務所用建物」の名義として校舎を新築。白鳥松府7線より奥地の4年生以下の児童を入学させたのが始まりとなった。
昭和10年4月1日より6年生まで入学させることとなり、昭和15年10月7日 尋常小学校に昇格し、校名も上白鳥尋常小学校と変更した。
昭和16年4月1日 上白鳥国民学校、昭和22年4月1日 上白鳥小学校と改称した。
昭和22年7月22日 村落に電灯が灯り、教室に1灯配される。昭和27年8月10日 村落内の畑地4反を購入し、運動場が設けられた。この時は校下の住民や青年団員が4日間、一日中整地作業に従事した。
昭和31年9月28日 上白鳥中学校が開校。昭和35年12月2日 屋内体育館が落成し、翌36年9月20日 新校舎が落成した。この年の11月30日に校歌が制定された。
校歌の歌詞を引用する。
1 山垣青く水巡る ゆたけき里に育まれ
友のむつみもうるわしく 学ぶわれらに幸多し
2 明るく高き校風を 仰ぎてこころおおらかに
人にささぐる広き愛 学ぶわれらに希望あり
3 まことの光もとめつつ はばたき強くかける鳥
上白鳥の名をここに 学ぶわれらに誇あれ
昭和31年の児童数は74名であったが、過疎化の進行に伴い昭和40年には35名、昭和45年には25名にまで減少していた。
昭和46年4月1日 上白鳥中学校は滝上中学校上白鳥校と名称を変更したが昭和48年 中学校は滝上中学校に統合された。この年の児童数は8名にまで減少していた。
この年の運動会に臨席した教育委員会教育長の手記を引用する。
「つい先頃、といっても昨年(昭和四八年)の六月一五日、私はこの学校の運動会を訪れました。(中略)この日陽光もうららかで、まだウグイスも残り囀っていはしまいかと思われた。学童八名、校下の老若集まってにぎわしく、婦人部の出店サービスもあって、昔ながらの雰囲気もあり、和やかさの中で私もいつしか競技種目の一員に加わっていたのでした。このとき四人の六年生が卒業したあとは在校生四名の極少人数とはなるが、明年もまたこの楽しい光景が続くことを、私は疑うことがなかったのであります。」
ところが翌年の1月、地域内でやむを得ない出来事が起きてしまい、昭和49年度の通学児童が3名になること、将来の新入児童が皆無状態となり昭和49年3月31日 閉校となった。
閉校に際し、最後の校長はこう述べた。
「星霜四一年、学校としての歴史は終ります。しかし、母校は心の故郷、いつまでも同窓諸氏の心の中に生きていくことでありましょう。校舎の窓から見るあの山の木々から、グラウンドの土の中から、一本一本の草の中から、同窓二六〇名の四一年間に亘った喜びの声、悲しみの声、笑った声、怒った声、励ましの声が聞こえてくることでしょう。」
※参考文献 「続滝上町史」(平成13年3月発行)
白鳥松布は現在、5世帯が暮らす静かな集落となっている。

集落入口にある集会所と神社。

周辺には離農した農家の廃屋が朽ちつつも残されていた。

白鳥松布集落の奥にあった上白鳥小学校。
この時は夏の探訪だった。

「上白鳥小・中学校跡」という立派な石碑が建立されている。
それにしても、自然の石を利用した校門は興味深いものがある。

小学校の表札も、そのまま残されていた。

早速、校舎内を探訪する。

画像がぶれてしまい、申し訳ない。
閉校から30年以上経ち、校舎の傷みもひどい。

いつまでこの姿を保てるのだろうか。

便所。
小便器の数が多い。大便器も同じ数だった。

続いて、体育館に行ってみる。

体育館は既に半分が倒壊していた。
しかし奥に、卒業生が製作した作品がそのまま飾られていた。

昭和47年度 修了生製作。
「修了生」とはどういう意味なのだろう?
絵は学校周辺の風景を表したものだろうか?

こちらは昭和47年度卒業生製作。
酪農作業を表している。


上記2点は製作年度が分からなかった。
そして、何を表しているのか分からなかった。
ただ、下の絵は鳥と畑?、山が描かれているので、秋の収穫後の畑の風景を表しているのかもしれない。

学校を後にし、さらにダートとなった道を進むと年季の入った廃屋があった。

ダートの道より学校方面を眺める。
「山の学校でも負けんべな」を合言葉に頑張った学び舎も、閉校して38年の歳月が流れた。
白鳥松布は明治44年に、2名の入植者を皮切りに戸数が増加していった。
当時、児童たちは白鳥尋常小学校・滝美尋常高等小学校に通学していたが、遠距離であったため昭和初期頃より集落内に学校設置の要望があがっていた。
昭和7年 集落の片山国太郎、土屋新吾、直正宗一、長屋文四郎と滝上森林保護区員駐在所 伊藤清治主事の後援、相馬宗造の一反歩の寄附で「森林事務所用建物」の名義として校舎を新築。白鳥松府7線より奥地の4年生以下の児童を入学させたのが始まりとなった。
昭和10年4月1日より6年生まで入学させることとなり、昭和15年10月7日 尋常小学校に昇格し、校名も上白鳥尋常小学校と変更した。
昭和16年4月1日 上白鳥国民学校、昭和22年4月1日 上白鳥小学校と改称した。
昭和22年7月22日 村落に電灯が灯り、教室に1灯配される。昭和27年8月10日 村落内の畑地4反を購入し、運動場が設けられた。この時は校下の住民や青年団員が4日間、一日中整地作業に従事した。
昭和31年9月28日 上白鳥中学校が開校。昭和35年12月2日 屋内体育館が落成し、翌36年9月20日 新校舎が落成した。この年の11月30日に校歌が制定された。
校歌の歌詞を引用する。
1 山垣青く水巡る ゆたけき里に育まれ
友のむつみもうるわしく 学ぶわれらに幸多し
2 明るく高き校風を 仰ぎてこころおおらかに
人にささぐる広き愛 学ぶわれらに希望あり
3 まことの光もとめつつ はばたき強くかける鳥
上白鳥の名をここに 学ぶわれらに誇あれ
昭和31年の児童数は74名であったが、過疎化の進行に伴い昭和40年には35名、昭和45年には25名にまで減少していた。
昭和46年4月1日 上白鳥中学校は滝上中学校上白鳥校と名称を変更したが昭和48年 中学校は滝上中学校に統合された。この年の児童数は8名にまで減少していた。
この年の運動会に臨席した教育委員会教育長の手記を引用する。
「つい先頃、といっても昨年(昭和四八年)の六月一五日、私はこの学校の運動会を訪れました。(中略)この日陽光もうららかで、まだウグイスも残り囀っていはしまいかと思われた。学童八名、校下の老若集まってにぎわしく、婦人部の出店サービスもあって、昔ながらの雰囲気もあり、和やかさの中で私もいつしか競技種目の一員に加わっていたのでした。このとき四人の六年生が卒業したあとは在校生四名の極少人数とはなるが、明年もまたこの楽しい光景が続くことを、私は疑うことがなかったのであります。」
ところが翌年の1月、地域内でやむを得ない出来事が起きてしまい、昭和49年度の通学児童が3名になること、将来の新入児童が皆無状態となり昭和49年3月31日 閉校となった。
閉校に際し、最後の校長はこう述べた。
「星霜四一年、学校としての歴史は終ります。しかし、母校は心の故郷、いつまでも同窓諸氏の心の中に生きていくことでありましょう。校舎の窓から見るあの山の木々から、グラウンドの土の中から、一本一本の草の中から、同窓二六〇名の四一年間に亘った喜びの声、悲しみの声、笑った声、怒った声、励ましの声が聞こえてくることでしょう。」
※参考文献 「続滝上町史」(平成13年3月発行)
白鳥松布は現在、5世帯が暮らす静かな集落となっている。

集落入口にある集会所と神社。

周辺には離農した農家の廃屋が朽ちつつも残されていた。

白鳥松布集落の奥にあった上白鳥小学校。
この時は夏の探訪だった。

「上白鳥小・中学校跡」という立派な石碑が建立されている。
それにしても、自然の石を利用した校門は興味深いものがある。

小学校の表札も、そのまま残されていた。

早速、校舎内を探訪する。

画像がぶれてしまい、申し訳ない。
閉校から30年以上経ち、校舎の傷みもひどい。

いつまでこの姿を保てるのだろうか。

便所。
小便器の数が多い。大便器も同じ数だった。

続いて、体育館に行ってみる。

体育館は既に半分が倒壊していた。
しかし奥に、卒業生が製作した作品がそのまま飾られていた。

昭和47年度 修了生製作。
「修了生」とはどういう意味なのだろう?
絵は学校周辺の風景を表したものだろうか?

こちらは昭和47年度卒業生製作。
酪農作業を表している。


上記2点は製作年度が分からなかった。
そして、何を表しているのか分からなかった。
ただ、下の絵は鳥と畑?、山が描かれているので、秋の収穫後の畑の風景を表しているのかもしれない。

学校を後にし、さらにダートとなった道を進むと年季の入った廃屋があった。

ダートの道より学校方面を眺める。
「山の学校でも負けんべな」を合言葉に頑張った学び舎も、閉校して38年の歳月が流れた。
浦河町滝の上
浦河町滝の上
滝の上は、戦後に開拓された集落であった。
次男・三男対策の一環として日高支庁が昭和26年12月20日上野深(カミノブカ)奥地に13戸入植させる。
しかし開拓地入口から小学校(第二野深小学校)まで8km余もあった。
児童の通学に困難があるため陳情懇願したところ、昭和30年4月1日 第二野深小学校滝の上分校として開校した。開校当時の児童数8名(男3名、女5名)。本校より5,6km奥にあった教員住宅21坪(木造平屋)のうち、10坪を教室として活用した。
分校の位置は荻伏市街の東北方20km、標高150mの河岸段丘地であった。
元浦川の渓谷があり景勝地としては素晴らしい地域であったが、丘陵地のため水の便も悪く造田ができなかった。主要作物は蔬菜やバレイショの類であったが、収入も乏しく、経営不振により昭和39年頃から集団離農者が出始め、最終的に1戸しか残らなかったため昭和40年3月31日、廃校となった。
廃校当時の児童数は5名(男4名、女1名)であった。

第二野深小学校 校舎。大正9年3月18日開校 昭和63年3月閉校。
併置されていた中学校は昭和24年4月1日開校、昭和59年3月閉校。

閉校後、校舎は浦河町の研修施設「柏陽館」として、平成元年再出発した。
柏陽館は宿泊も可能である。また、食堂も併設されている。

校舎は昭和9年に建築された。増築されているとはいえ、戦前期の建物が活用されているのは個人的に嬉しい。

滝の上分校は、元浦川林道の先にある。

滝の上へ行く途中の風景。
この時は小雨が降っていた。

途中、開けている場所があるが家屋が見当たらない。
分校跡周辺が見えてきた。

滝の上分校跡地。
校門だけが分校跡であることを偲ばせてくれた。

片方の校門は笹藪に伏していた。

分校跡地より来た道を振り返る。
本当に集落があったのだろうか?と疑うほど何もなく、牧草風景が広がっていた。
滝の上は、戦後に開拓された集落であった。
次男・三男対策の一環として日高支庁が昭和26年12月20日上野深(カミノブカ)奥地に13戸入植させる。
しかし開拓地入口から小学校(第二野深小学校)まで8km余もあった。
児童の通学に困難があるため陳情懇願したところ、昭和30年4月1日 第二野深小学校滝の上分校として開校した。開校当時の児童数8名(男3名、女5名)。本校より5,6km奥にあった教員住宅21坪(木造平屋)のうち、10坪を教室として活用した。
分校の位置は荻伏市街の東北方20km、標高150mの河岸段丘地であった。
元浦川の渓谷があり景勝地としては素晴らしい地域であったが、丘陵地のため水の便も悪く造田ができなかった。主要作物は蔬菜やバレイショの類であったが、収入も乏しく、経営不振により昭和39年頃から集団離農者が出始め、最終的に1戸しか残らなかったため昭和40年3月31日、廃校となった。
廃校当時の児童数は5名(男4名、女1名)であった。

第二野深小学校 校舎。大正9年3月18日開校 昭和63年3月閉校。
併置されていた中学校は昭和24年4月1日開校、昭和59年3月閉校。

閉校後、校舎は浦河町の研修施設「柏陽館」として、平成元年再出発した。
柏陽館は宿泊も可能である。また、食堂も併設されている。

校舎は昭和9年に建築された。増築されているとはいえ、戦前期の建物が活用されているのは個人的に嬉しい。

滝の上分校は、元浦川林道の先にある。

滝の上へ行く途中の風景。
この時は小雨が降っていた。

途中、開けている場所があるが家屋が見当たらない。
分校跡周辺が見えてきた。

滝の上分校跡地。
校門だけが分校跡であることを偲ばせてくれた。

片方の校門は笹藪に伏していた。

分校跡地より来た道を振り返る。
本当に集落があったのだろうか?と疑うほど何もなく、牧草風景が広がっていた。
増毛町歩古丹
増毛町歩古丹
歩古丹(アユミコタン)はアイヌ語で「アエヒコタン」(アワビが採れるところ)と言われていた。
明治期の増毛町は二シン漁で賑わいを見せていた。最盛期は年間97万トン(明治30年)であった。
歩古丹は明治25年10月1日に開校する。当時は岩尾村字歩古丹と呼ばれており、単級編成の公立岩尾簡易小学校と称していた。
明治28年岩尾尋常小学校、明治42年5月21日 別苅尋常小学校附属歩古丹教育所、大正6年4月25日 歩古丹尋常小学校となる。
昭和12年になると歩古丹水産青年学校が併置された。水産青年学校は、昭和18年6月まで存続していた。
昭和16年 歩古丹国民学校、昭和22年 歩古丹小学校となった。
昭和40年5月12日、校舎が新築落成した。昭和43年には増毛中学校歩古丹分校も併置されたが、この頃、既に過疎化が進み昭和46年3月31日付で廃校となった。
歩古丹の主要産業は言うまでもなく、二シン漁(漁業)が盛んであった。東宝映画「ジャコ萬と鉄」(1949年)は当時、歩古丹にあった「南出漁場」がロケ撮影に全面協力してくれた。この映画は増毛町郷土資料館「元陣屋」にて閲覧可能である。
歩古丹について、数年前だが「空知地方史研究協議会」(平成21年3月7日解散)の会員 村上 修氏に伺ったことがある。村上氏は昭和43〜46年の間、増毛高校に勤務されていた。
歩古丹について伺うと「雄冬へは行ったことがあるが歩古丹は行ったことがない」とのことだった。ただ、歩古丹へ行く道は当時、船舶しかなかったので雄冬から小さな船に乗って行くことしかできなかったと仰っていた。この頃の雄冬地区は「西の知床」と呼ばれていたくらいの「陸の孤島」であった。歩古丹もそれに準ずる地域であった。
村上氏は平成22年9月、逝去された。改めてご冥福をお祈り申し上げます。
尚、歩古丹についてはHEYANEKO氏の「廃村と過疎の風景」内の「廃村・過疎集落探訪体験記 No.8 漁村の廃村・歩古丹集落跡探訪」に探訪当時のレポートが掲載されています。
また、「廃村をゆく」 (イカロス・ムック/2011年5月23日発売)にも掲載されています。

夕観橋の下に残る歩古丹小学校校舎。
「猫の額」ほどしかない狭い土地に校舎があった。

急斜面を降り、集落跡地へ到達。

学校周辺には住宅の基礎が残されていた。

セトモノや酒瓶が散乱していた。

校舎外観。
校門が辛うじて残されている。
この校舎の真上に、国道231号線が走っている。

ブランコの名残。

校舎内の倉庫だろうか?石炭ストーブが置かれていた。

廊下を進んでみる。

黒板には記念の書き込みで一杯だった。
しかし、その中にはかつて校長として赴任された方の名前もあった。

床は波打っており歩きにくい。

校舎に隣接していた教員住宅の基礎。

校舎を後にして増毛方面へ歩くと番屋の跡がある。
映画のロケで使用された「南出漁場」なのかもしれないが、この時は分からなかった。

石垣が残っていたため、番屋であることが分かった。

番屋へ行く途中に残されていた電柱。

番屋へ行く途中に打ち上げられていた漂着物。
隣国の投棄されたものが流れ着いていた。

歩古丹の船着場跡。
波に洗われながらも残っていた。

先ほどの番屋からの風景。
ニシン漁の衰退とともに、過疎化が進み廃村になってしまった。
歩古丹(アユミコタン)はアイヌ語で「アエヒコタン」(アワビが採れるところ)と言われていた。
明治期の増毛町は二シン漁で賑わいを見せていた。最盛期は年間97万トン(明治30年)であった。
歩古丹は明治25年10月1日に開校する。当時は岩尾村字歩古丹と呼ばれており、単級編成の公立岩尾簡易小学校と称していた。
明治28年岩尾尋常小学校、明治42年5月21日 別苅尋常小学校附属歩古丹教育所、大正6年4月25日 歩古丹尋常小学校となる。
昭和12年になると歩古丹水産青年学校が併置された。水産青年学校は、昭和18年6月まで存続していた。
昭和16年 歩古丹国民学校、昭和22年 歩古丹小学校となった。
昭和40年5月12日、校舎が新築落成した。昭和43年には増毛中学校歩古丹分校も併置されたが、この頃、既に過疎化が進み昭和46年3月31日付で廃校となった。
歩古丹の主要産業は言うまでもなく、二シン漁(漁業)が盛んであった。東宝映画「ジャコ萬と鉄」(1949年)は当時、歩古丹にあった「南出漁場」がロケ撮影に全面協力してくれた。この映画は増毛町郷土資料館「元陣屋」にて閲覧可能である。
歩古丹について、数年前だが「空知地方史研究協議会」(平成21年3月7日解散)の会員 村上 修氏に伺ったことがある。村上氏は昭和43〜46年の間、増毛高校に勤務されていた。
歩古丹について伺うと「雄冬へは行ったことがあるが歩古丹は行ったことがない」とのことだった。ただ、歩古丹へ行く道は当時、船舶しかなかったので雄冬から小さな船に乗って行くことしかできなかったと仰っていた。この頃の雄冬地区は「西の知床」と呼ばれていたくらいの「陸の孤島」であった。歩古丹もそれに準ずる地域であった。
村上氏は平成22年9月、逝去された。改めてご冥福をお祈り申し上げます。
尚、歩古丹についてはHEYANEKO氏の「廃村と過疎の風景」内の「廃村・過疎集落探訪体験記 No.8 漁村の廃村・歩古丹集落跡探訪」に探訪当時のレポートが掲載されています。
また、「廃村をゆく」 (イカロス・ムック/2011年5月23日発売)にも掲載されています。

夕観橋の下に残る歩古丹小学校校舎。
「猫の額」ほどしかない狭い土地に校舎があった。

急斜面を降り、集落跡地へ到達。

学校周辺には住宅の基礎が残されていた。

セトモノや酒瓶が散乱していた。

校舎外観。
校門が辛うじて残されている。
この校舎の真上に、国道231号線が走っている。

ブランコの名残。

校舎内の倉庫だろうか?石炭ストーブが置かれていた。

廊下を進んでみる。

黒板には記念の書き込みで一杯だった。
しかし、その中にはかつて校長として赴任された方の名前もあった。

床は波打っており歩きにくい。

校舎に隣接していた教員住宅の基礎。

校舎を後にして増毛方面へ歩くと番屋の跡がある。
映画のロケで使用された「南出漁場」なのかもしれないが、この時は分からなかった。

石垣が残っていたため、番屋であることが分かった。

番屋へ行く途中に残されていた電柱。

番屋へ行く途中に打ち上げられていた漂着物。
隣国の投棄されたものが流れ着いていた。

歩古丹の船着場跡。
波に洗われながらも残っていた。

先ほどの番屋からの風景。
ニシン漁の衰退とともに、過疎化が進み廃村になってしまった。
紋別市上和訓辺
紋別市上和訓辺
「和訓辺」は、元々はアイヌ語で「オアフンベ」(河口が入組んでいる)と呼ばれていた地域である。
和訓辺集落の奥に、上和訓辺という集落があった。
上和訓辺は和訓辺の開拓に少し遅れること明治45年 2戸の入植から始まった。
大正4年には20戸ほどになったが、この頃は8〜12キロ離れた第三渚滑尋常小学校(上渚滑小学校)に通学していた。
通学当時は遠距離な上、渚滑川は渡船に頼らざるを得なかった。
上和訓辺では教授場設置を要望し、大正4年6月12日 第三渚滑尋常小学校付属和訓辺特別教授場として開校した。
開校した頃の児童数は17名であった。
大正12年 和訓辺尋常小学校、昭和16年 和訓辺国民学校となり昭和22年 和訓辺小学校となった。
昭和33年「地域社会、学校の経営と放送教育研究会」を開催したこともあった。また、学校営繕林の育成にも努め、昭和11年から19年にかけて延べ8500本を植樹した。
昭和50年に開校60周年記念行事が催されたが、この頃から既に離農により児童数が減少、昭和51年3月21日に閉校式を行い、閉校となった。
閉校の際「思い出の碑」を建立した。これは紋別市の廃校で、ここだけが独自に閉校記念碑を建立した。
ここ以外の廃校は後年、紋別市教育委員会が一部をのぞきすべて建立した。
上和訓辺の主要産業は畑作であった。特に昭和初期においてはハッカが隆盛を極めた。
戦後、ハッカが下火になってからは酪農に転向したが離農により、現在は通い作で管理されているが無住の地となっている。

上和訓辺手前にある家屋。駅逓のような建物である。

この先に和訓辺小学校があった上和訓辺がある。

和訓辺小学校跡。
校舎は閉校後に解体された。
閉校記念碑と、傍に教員住宅がある。

校舎裏にある「奉安殿」
「奉安殿」とは、戦前、天皇陛下のご真影(天皇陛下の肖像)を祀った施設である。
戦前はどこの学校にもあったが、終戦後、GHQの命令により大半は撤去されてしまうが、中には神社の施設として残されているものもある。
ここの奉安殿も戦後、神社の施設として使用されていたため解体を免れた。

奉安殿の内部。思ったよりも頑丈な構造であった。

奉安殿を後にして、ヤブの中に埋もれる教員住宅へ進む。

教員住宅の玄関部分。
下葉がないので思ったよりも見やすかった。

教員住宅の内部。

和訓辺小学校の校歌が残されていた。
作詞者の糸数昌一氏は和訓辺小学校 第2代校長であった。
作詞者の名前が修正されているのが興味深い。

和訓辺の立体地図も掲げられている。

浴室。
木製の風呂も面白い。

奉安殿から眺めた風景。
畑が広がっているが、定住者はいない廃村である。
「和訓辺」は、元々はアイヌ語で「オアフンベ」(河口が入組んでいる)と呼ばれていた地域である。
和訓辺集落の奥に、上和訓辺という集落があった。
上和訓辺は和訓辺の開拓に少し遅れること明治45年 2戸の入植から始まった。
大正4年には20戸ほどになったが、この頃は8〜12キロ離れた第三渚滑尋常小学校(上渚滑小学校)に通学していた。
通学当時は遠距離な上、渚滑川は渡船に頼らざるを得なかった。
上和訓辺では教授場設置を要望し、大正4年6月12日 第三渚滑尋常小学校付属和訓辺特別教授場として開校した。
開校した頃の児童数は17名であった。
大正12年 和訓辺尋常小学校、昭和16年 和訓辺国民学校となり昭和22年 和訓辺小学校となった。
昭和33年「地域社会、学校の経営と放送教育研究会」を開催したこともあった。また、学校営繕林の育成にも努め、昭和11年から19年にかけて延べ8500本を植樹した。
昭和50年に開校60周年記念行事が催されたが、この頃から既に離農により児童数が減少、昭和51年3月21日に閉校式を行い、閉校となった。
閉校の際「思い出の碑」を建立した。これは紋別市の廃校で、ここだけが独自に閉校記念碑を建立した。
ここ以外の廃校は後年、紋別市教育委員会が一部をのぞきすべて建立した。
上和訓辺の主要産業は畑作であった。特に昭和初期においてはハッカが隆盛を極めた。
戦後、ハッカが下火になってからは酪農に転向したが離農により、現在は通い作で管理されているが無住の地となっている。

上和訓辺手前にある家屋。駅逓のような建物である。

この先に和訓辺小学校があった上和訓辺がある。

和訓辺小学校跡。
校舎は閉校後に解体された。
閉校記念碑と、傍に教員住宅がある。

校舎裏にある「奉安殿」
「奉安殿」とは、戦前、天皇陛下のご真影(天皇陛下の肖像)を祀った施設である。
戦前はどこの学校にもあったが、終戦後、GHQの命令により大半は撤去されてしまうが、中には神社の施設として残されているものもある。
ここの奉安殿も戦後、神社の施設として使用されていたため解体を免れた。

奉安殿の内部。思ったよりも頑丈な構造であった。

奉安殿を後にして、ヤブの中に埋もれる教員住宅へ進む。

教員住宅の玄関部分。
下葉がないので思ったよりも見やすかった。

教員住宅の内部。

和訓辺小学校の校歌が残されていた。
作詞者の糸数昌一氏は和訓辺小学校 第2代校長であった。
作詞者の名前が修正されているのが興味深い。

和訓辺の立体地図も掲げられている。

浴室。
木製の風呂も面白い。

奉安殿から眺めた風景。
畑が広がっているが、定住者はいない廃村である。





