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月形町月形炭鉱

月形町月形炭鉱(令和2年10月探訪)

 月形町月形炭鉱は炭鉱集落である。
 月形炭鉱の発足は明治時代であるが、会社組織として本格的に稼働し始めたのは戦後に入ってからである。
 昭和22年斉藤太助が弓良源作と共同で石狩炭鉱株式会社の名で企業活動をはじめた。翌昭和23年東京の寿炭鉱が買収し、月産20~30トンで採炭を始めた。
 昭和26年東華炭鉱が経営を譲り受けたが昭和28年日満鉱業の所有となり、採炭規模も日産100トンに上昇した。
 昭和29年月形鉱業株式会社が粗鉱権を得て、実際の採掘作業は下請会社の尾張組が行った。また、昭和27年より進めてきた豊ヶ岡駅-落葉の沢間、落葉の沢-坑口への索道敷設工事が完了し、運転を開始した。
 昭和33年炭質が向上せず経営不振に陥っていたが羽幌鉱業が買収した。
 昭和36年尾張組の手で融資を申請し、100万円の資金で労働者の増員、坑内機械の入替で再建を図るが経営は下降線をたどっていく。
 昭和38年4月30日 月形炭鉱閉山。

小学校
昭和28年 月形小学校紅葉谷分校として開校
昭和29年 紅葉谷小学校と改称
昭和38年 閉校

中学校 
昭和30年 紅葉谷中学校開校
昭和38年 閉校

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令和2年10月、きたたび氏らと探索した。
クルマで行けるだけ行き、あとは徒歩行進である。

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川を渡渉し、廃道と化した道を進むとようやく月形炭鉱の入口が見えた。

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橋を渡り、進む。

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右手の平地は落葉住宅跡。
2階建ての寮が建ち、当時、月形町内で最も近代的なアパートとして市街地の人々が見物に来た。

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落葉住宅跡から先へ進む。

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橋を渡る。
橋の名は「紅葉橋」
橋を渡った川の対岸に、煙突が見えた。

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川を渡った先に残る煙突は学校跡である。
月形町立紅葉谷小中学校。

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校舎の基礎も残っている。

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一段低くなり、笹が生い茂っているところはグラウンド跡である。

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グラウンドに降り立ち、校舎跡を望む。

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学校を後にし、先へ進む。
コンクリートの基礎が所々残っている。

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選炭場が近づいてきた。
炭鉱住宅の跡である。

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選炭場が見えた。

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月形炭鉱坑口。

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選炭場を瞬時に見て「これくらいなら登れる」と判断。
笹や木にしがみつきながら登る。

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選炭場の頂上へ到達した。

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頂上を覗くと、落葉で埋め尽くされていた。

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頂上から下へ降りる。

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選炭場の中腹くらいには別な坑口があった。

帰路、息を切らしながら元来た道を歩く。今までの探索の中で一番過酷な探索となった。
日没寸前のところで月形市街へ帰還した。

参考文献
月形町史編さん委員会1985『月形町史』月形町

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テーマ : 廃墟系
ジャンル : 写真

ブログ「日本の過疎地」10年目を迎えました

何時も当ブログをご覧いただき有難うございます。
当ブログ「日本の過疎地」ですが、お陰様で開設10年目を迎えることができました。
これもひとえに皆さまのお陰と思っております。

ブログを開設したのは10年前の2011年4月。当時私は陸上自衛隊を辞め、一般企業に転職し東京都内で暮らしていました。
インターネット上で北海道の廃校情報を調べると「幽霊が出る」等と言った根も葉もない噂話が拡がっていることに残念な気持ちになりました。
これらの噂話を正すべく、ブログ「日本の過疎地」が開設しました。
開設当初は日本各地の廃校廃村を調べようと思っていましたが、本州の廃校や廃村の歴史が長いことに気づき、北海道のみに特化して調べることにしました。

北海道に戻ってからは、図書館所蔵のマイクロフィルムで学校の閉校記事や集落の出来事などを調べるようになりました。
マイクロフィルムの存在はとても大きく、集落における学校の存在も知ることができました。

大学編入学で札幌市に転居してからは毎月、北海道立図書館に通いひたすら学校の閉校記事や集落関係の記事を探すようになりました。
大学の卒論も廃校廃村をテーマにすべく、現地調査(探索)や聞き取り調査、その下調べも含めると2年近く費やしました。
大学を卒業してからも仕事の合間を見て調べものや探索に出かけ、今に至っています。

ブログ自体はSNSが発達したご時世、縁ある方から「昔、住んでいました」という書き込みを拝読する度「ブログをやって良かった」と思うようになりました。
ご自宅に居ながら北海道のかつての学校跡や集落の様子が分かる時代は有難いと思っています。

私も10年、年を取りました。あと数年で不惑の年を迎えます。
健康に気をつけながらこれからも北海道内の廃校廃村を調べ、訪ね歩き、記録したいと思う次第です。

                         成瀬 健太 拝

苫小牧市静川

苫小牧市静川(令和2年5月24日探訪)

苫小牧市静川は農村集落である。
静川は元々『ニナルカ』(川沿いの大地の上)を意味し、旧静川小学校付近の安平川左岸の低い台地を指していた。また一時、漢字で「仁成花」と書かれたこともあったが昭和19年1月1日より字名改称により現在の「静川」に改められた。由来は静かに流れる安平川を指している。

明治39年キング木工場の設置に伴い工夫や造材夫の入地があった。明治42年6~7月に国有未開地処分法の適用を受け7,8町歩の畑地を得て亀カ森徳太郎、伊藤寅松らの集団入植が行われたが、実際大半の人は入植せず開墾を放棄した。その後、蔦森百一、岩田辰次郎などの入植があって大正3年4月、勇払郡苫小牧村第十六部長(区長)として亀カ森徳太郎が選ばれた。
この頃の人々は現金収入へと結びつく製炭業や運搬業(馬車追い)に従事していたが、次第に農業を重視するようになっていく。
昭和2年に入ると丸拓合資会社が造田事業を目的として勇払原野開墾に着手、静川も丸拓第三農場が開設され。農業も活発化していった。ただ、依然として製炭業も盛んであったが焼子の出入りが激しく、多いときは50戸以上であったが数年のうちに他の製炭林を求めて移動し、人口が半減することもあった。
戦後、昭和30年前後に新規入植者や他地域からの移転者もあって昭和31年に27戸129名、昭和35年には32戸131人の人々が暮らし、苫小牧農業の中核地帯を構成する有畜農業地となった。
だが、苫小牧港の整備拡充により勇払原野は北海道の工業基地として注目を集め、苫小牧東部工業基地建設により昭和44年10月より用地の買収が開始された。当初は農地を手放す人も少なくなかったが昭和45年以降買収が進み、昭和45年3月に静川小学校閉校式、静川地区解散式が行われた。

ニナルカ地区の子どもたちは厚真の小学校に通学していたが大正時代に入ると木炭製造の発達で児童数も急増した。このため、旧キング木工場事務所を改装して大正4年9月 沼ノ端簡易教育所ニナルカ特別教授場として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正4年  沼ノ端簡易教育所ニナルカ特別教授場として開校(9月)
大正5年  苫小牧尋常高等小学校所属となる(8月)
大正6年  沼ノ端尋常小学校所属となる(4月)
大正8年  校舎新築
大正9年  苫小牧尋常高等小学校所属となる(4月)
大正11年  苫小牧西尋常高等小学校所属となる(2月)
大正13年  沼ノ端尋常小学校所属となる(4月)
昭和16年  沼ノ端国民学校所属となる(4月)
      仁成花国民学校と改称(5月)
昭和19年  静川国民学校と改称(1月)
昭和22年  静川小学校と改称(4月)
昭和46年  閉校(3月)

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令和2年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
国指定遺跡 静川遺跡もあるがこの時は学校や集落跡を探った。

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学校跡地。

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防風林と思われるマツの木が残っている。

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傍には静川のバス停がある。

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集落の面影はほとんど見られない。

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学校跡付近の神社へ行ってみる。

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神社跡付近にはビンが転がっていた。

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そして、トタン屋根の一部が朽ちながもあった。
集落の面影は神社跡付近に、僅かに残っていた。

参考文献
苫小牧市1976『苫小牧市史下巻』苫小牧市

壮瞥町黄渓

壮瞥町黄渓(令和2年5月探訪)

壮瞥町黄渓は鉱山(硫黄)集落である。
明治35年高橋新三郎が硫黄鉱を発見し、明治37年岩井きよによって採掘されたのが始まりである。しかし、明治41年事業不振によって操業を一時中止した。
明治44年小田良治の所有となり、採鉱主任谷口次郎が使役20余人を引率して入山した結果、良鉱脈を発見した。
その後次第に従業員や家族も増え集落を形成し、当時は硫黄山と称されていたが大正9年、三井系の硫黄山と合併し、北海道硫黄株式会社を創設した。
硫黄鉱山が隆盛を極めたのは昭和初期から昭和35年頃までであり、会社直営の診療所、共同浴場、娯楽場、グラウンド、購買部、無集配郵便局、学校、保育所、消防分団、駐在所、個人商店(4戸)、写真屋などが軒を連ね、テレビやラジオの普及率も高くオロフレ山腹標高約600メートル、積雪も多い中でも充実した生活が営まれていた。
その後、脱硫硫黄の影響により硫黄製錬の中止を余儀なくせられ、硫化鉄鉱の採掘を続けるようになった。
昭和46年、会社や住民との話し合いの結果集団移転の実現に努め、また当時の地元議員の協力により昭和47年字滝之町に改良住宅64戸を建て、同年12月全戸が移転した。
しかし、硫化鉄鉱の需要が減少し昭和48年6月30日に閉山した。

設備関係のついての沿革は以下の通りである。
大正 3年 幌別鉱業所(幌別村・現在の登別市)より硫黄搬送のための鉄索が架設
昭和 2年 電灯設備完成(12月)
昭和28年 道路整備と貨物自動車の普及により鉄索廃止

学校の沿革は以下の通りである
小学校
大正 3年 弁慶簡易教育所黄渓特別教授場開校(5月)
大正 5年 壮瞥尋常高等小学校黄渓分教場と改称(9月)
大正 6年 久保内尋常高等小学校黄渓分教場と改称(4月)
      校舎新築移転(10月)
大正10年 弁景尋常小学校黄渓分教場と改称(9月)
大正15年 校舎改築(2月)
昭和 6年 黄渓尋常小学校と改称(4月)
昭和 8年 黄渓尋常高等小学校と改称(4月)
昭和14年 校舎増築(11月)
昭和16年 黄渓国民学校と改称(4月)
昭和22年 黄渓小学校と改称(4月)
昭和31年 屋内体操場新築(11月)
昭和46年 閉校(12月)

中学校
昭和22年 久保内中学校黄渓分校として開校(5月)
昭和23年 黄渓中学校と改称(4月)
昭和28年 黄渓中学校校舎独立(10月)
昭和46年 閉校(12月)

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令和2年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
黄渓集落の手前に墓地入り口の看板を見つけたので、墓地へ行く。

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黄渓共同墓地にある墓石。

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お地蔵さまに手を合わせる。

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昭和7年にお地蔵さまが祀られたことがわかる。

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寄進者の氏名が刻まれていた。

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こちらも墓石である。

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黄渓ゲート入り口。
鉱山集落はこの先にあった。
まずは黄渓中学校跡へ行ってみる。

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中学校の教員住宅の基礎が残っていた。
スイセンが満開を迎えていた。

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黄渓中学校跡地は基礎も残っていなかったが、平地が広がっていた。

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ゲートに戻り、黄渓集落へ。
このコンクリート廃墟はプロパンガス庫である。

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コンクリート廃墟が見える。
はやる気持ちを抑えつつ進む。

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コンクリート廃墟は共同浴場である。

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共同浴場浴槽。

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先へ進むと石垣が見えてきた。
ここは2区住宅地である。

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階段が残っている。
足元に気を付けながら進む。

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病院を上から俯瞰する。

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神社跡へ行こうとするも、笹藪が酷くなってきたので諦めた。

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黄渓小学校跡地。
スイセンの花が咲いている。

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学校跡地から見える廃墟は消防施設跡である。

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黄渓小学校便槽。

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ふと見ると、何か校門のようなものが見えた。

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黄渓小学校の校門であった。
ここに学校があったことを示している。

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学校を後にし、病院を探索する。

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ツタに絡まる煙突は美しい。

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続いて、1区住宅地へ行く。
この廃墟は郵便局(黄渓郵便局)である。

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郵便局内部。

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こちらは局員が寝泊まりしていた部屋の廊下である。

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1区住宅地は段上の平地が広がっているが、住宅の基礎はなかった。

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しかしよく見ると、電柱が残っていた。

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鉱山施設周辺を探索するが、目立つ遺構は見られなかった。

参考文献
壮瞥町史編さん委員会1979『壮瞥町史』壮瞥町
堀淳一2014『等高線s第11号』コンターサークルs

三笠市奔別沢(再訪・再再訪)

三笠市奔別沢(平成26年6月再訪・令和2年11月再再訪)

三笠市奔別沢は既に平成24年10月6日探訪し、レポートした。
日本の過疎地 三笠市奔別沢
今回、「学舎の風景」合同調査の一環として再訪したことをレポートするとともに、新しい情報を記していく。

奔別沢は戦後開拓によって出来た集落であった。
昭和26年 奔別沢開拓地として10戸入植した。

子供たちは当時、8キロ離れた奔別小学校へ通学していたが、冬期間は奔別や幾春別の親戚の家から通っていた。

当時の奔別小学校校長 石塚久直は奔別沢に分校を作ることを考案し、関係機関に働きかけた。

その結果、昭和31年1月19日 奔別沢分校が開校した。

教員として高橋鎮夫が赴任したが、児童数は4名であった。

この年、文房具雑誌が子供たちに配布された。

昭和33年頃の在籍児童数は13名を数えていた。(注1)
内訳は1年生5人 2年生3人 3年生3人 4年生0 5年生2人 6年生0である。

しかし、住民の転出により児童数が減少していった。

昭和38年5月 在学児童2人の転校が決まり、廃校となった。

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奔別沢集落入口の橋。
集落側より奔別小学校方向を望む。

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橋は一部崩れている。
平成24年の探訪当時も、この状態であった。

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渡った先の風景。
ここも怪しい「ポイント」であるが古い航空写真や地形図を見ると、何も記載されていない。

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奥へ進もうとしたら、目の前に子グマがいた。
母グマが近くにいることが予想されるので、探訪当時はこれより奥に進んでいない。

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子グマと遭遇した地点より、手前側を調査することにした。

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なだらかな上り坂が残されていた。
先へ進んでみる。

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一面、だだっ広い風景が広がっていた。

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どこに学校があったのか全く分からない。

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もう1か所の「候補地」へ足を踏み込む。
この時、同行したLEVEL7G氏とともにササを掻き分けて進んだ。

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植林された平地が広がっているが、奥に一段、高くなっている場所がある。

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一段登った先の風景も、変わらなかった。

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登った先より下を眺める。
下の段は「扇状」に広がっており、家屋が写っているが学校ではない。

今回も、跡地の正確な特定はできなかった。
ただ、「奔別沢」集落跡に足を踏み込んでいるのは確かである。

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帰りがけ、本校である奔別小学校跡地も立ち寄った。
隣接地に幾春別小学校(移転前の校舎)が建ち、日本一の在籍児童数を抱えていた学舎も、奔別炭鉱の閉山により児童数が激減し、昭和48年3月11日に閉校となった。


参考資料として活用した「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」(昭和33年7月13日発行)の「奥付け」に記載されていた一文より。

『(前略)この小冊子が家庭のお父さんやお母さんそれにおばあちゃんそれに子供たちにまで手あかで黒光りするほどひろく読まれたらうれしいのですがまだ二十年、三十年。いや五十年も百年もつづくであろう奔別小学校の将来においてこのささやかな冊子が学校の歴史のよい資料として役立つことを信じて、私共の仕事を終ります。』


月日が流れ令和2年11月、A.D.1600氏と探訪した。
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倒木でクルマでの探訪は無理と判断し、徒歩で行くことにした。
ここから学校跡地までは5.5キロ。

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二つ目の橋を渡った先。奔別沢開拓集落入口。
空中写真を見ると、ここに1軒の開拓農家があった。

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なだらかな上り坂を進む。

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少し広い平地が見えた。かつての農地跡と思われる。

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路面の至る所に水たまりができている。

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奔別川の激流で道路がえぐれている。
迂回して先を進む。

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地層が露わになっていたので見ると泥炭である。
山あいで日照も少なく、泥炭という条件の開拓は「苦闘」であったのは目に見えている。

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足元を見るとクマの足跡がくっきり残っていた。
生きた心地がしない中、先を進む。

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またも川の激流で道路がえぐられていた。

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ひたすら先を進む。

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学校跡地手前の道も川の水量でえぐられていた。

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そしてようやく、奔別沢分校跡地に到達した。
学校跡地の決め手になったのは
①空中写真で校舎の屋根が写っていたこと
②奔別沢集落は南北に細長いので、子どもの通学を考えたら集落の中央に校舎を建てるのが妥当であること である。

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学校跡地の対面には神社も建立されていたので神社跡も行ってみる。

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神社跡は雪で何も見えなかった。

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奔別沢分校跡地全景。
離村から50年以上の月日が流れ、集落の面影は消えようとしていた。

※(注1) 在籍児童数は「10年の歩み 1958.7 三笠市立奔別小学校」の奥付に記載されていた。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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