愛別町旭山

愛別町旭山(平成23年8月13日探訪)

旭山は明治39年春に、山内平五郎が入地したことから始まった。
明治40年5月1日 上村常五郎の自宅小屋を仮校舎として狩布教育所として開所した。当時の児童は10余名、狩布集落(「かりっぷ」と呼称、後の旭山)全体では60戸300人。山形・宮城・岐阜県の移住者が多かった。
大正6年狩布尋常小学校と改称、大正9年に開拓道路が開通する。
この頃の主要作物は大豆や小豆、そしてハッカの栽培が盛んであった。冬は造材で生計を立てていた。
昭和15年12月1日、それまでの狩布より「旭山」と名称変更した。この時は同郷の北海道議会議員・本多吉江氏(自民)、集落の有志が役場と共に決めた。
昭和21年に農村電化の話が持ち上がり、昭和24年 1戸当たり2万円の負担で農村電化が完成した。
昭和26年頃より酪農経営の導入が始まる。
また、翌年(昭和27年)、中学校が併置された。中学校は昭和38年9月30日付で閉校となり、以降、旭山小学校を卒業した児童たちは愛別中学校にバス通学することとなった。
旭山は冷害に見舞われることが多々あり、時に救農土木事業として道路工事も行われていた。
昭和35年、愛別川の氾濫が発生する。また、愛別川は灌漑用水の取水に使われていたため夏季間はしばしば渇水していた。周囲に取水できる表流水もなく、また水源確保による周辺住民の要望が強かったので協議の結果、昭和47年より予備調査が行われ、昭和54年に愛別ダム建設に着工した。
用地の買収は水田51,2ha、畑1,3ha、山林27,0ha、その他(宅地河川敷地)8,7ha 合計88,2ha。補償建物 住家44戸(44世帯) 非住家(学校1棟、集会所1棟)であった。
このうち水没戸数は15戸、水没農地面積63haである。
ダム建設に伴い、旭山小学校は昭和57年3月31日 閉校した。昭和56年度の生徒数は12名であった。ダムは昭和61年に竣工した。
現在、旭山地区は定住者はいない廃村地域である。


町営バス終点「協和分岐点」にある愛別ダム建設記念碑。

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ダム方面へ進むと、途中にレンガの「カマド」らしき跡が残されていた。

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カマドらしき跡が残されていた周辺の風景。

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愛別ダム。ダムで水没した地域にも、かつて15戸の家屋があった。

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ダムを後にし、今度は学校跡へと進む。
学校跡はダム水没地から免れている。

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学校跡。卒業生が草を刈ってくれたのか、容易に見つけることが出来た。

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学校跡の標柱。

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標柱の背後にある基礎。
教育委員会に問い合わせたところ「行事(運動会等)で校長先生が壇上に上がった時の、壇上の基礎と思われる」という回答であったが…。

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基礎の裏には木製電柱が倒れていた。

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グラウンドも自然に戻っていた。

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学校前の風景。
ほんの30年位前までは田園風景が広がっていたが、それも自然に帰っていた。
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プロフィール

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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