遠軽町弥生
遠軽町弥生(令和元年7月28日探訪)
遠軽町弥生は戦後開拓集落である。
昭和21年樺太からの外地引揚者と戦災帰農者が入植した。
子どもたちは遠軽小学校に通学していたが、約9キロ離れており雨の日のぬかるみや冬季の吹雪となれば道も見失いがちとなった。
昭和22年大河原福美や植田栄太郎などが中心となって学校設置の運動を続けた。その結果、同年11月に遠軽小学校新遠軽分校として発足した。
当初は集落住民総出で掘立式の仮校舎を建て、校長は遠軽小学校校長が兼務し、引揚者の松村廉三が担任教師として就任した。
昭和27年12月、読売新聞社主催「第2回全国小中学校つづり方コンクール」道予選において大野和男(小5)の『開拓地の子』が第2部の2位に入賞を果たした。
学校の沿革は以下の通りである
昭和21年 遠軽小学校新遠軽分校として開校(11月)
昭和24年 新校舎落成・給水施設完成(3月)
昭和26年 オルガン購入
同年 風車発電設備完了(11月)
昭和28年 給水施設を新たに完備
昭和31年 辺地校児童集会所建築(12月)
昭和40年 閉校(3月)
神社(新遠軽神社)については以下の通りである。
昭和21年 樺太敷香郡散江村で神官職に就いていた土門義貞が引揚時に背負い、戦後開拓者として弥生に入植し、昭和22年秋に石戸谷庄之助から土地10アール程の寄進と住民の寄付金によって祠を建てた。
神祭は稲荷大明神とし、9月10日が祭礼日であった。
昭和56年秋に集落が無住化した後も元住民らによって例大祭を続けていたが、平成5年9月に遠軽神社に合祀となった。
閉校記事を掲載する
17年の歴史に終止符 新遠軽小 閉校式かね卒業式 離農で年々生徒減る
「【遠軽】新遠軽小(石塚広志校長=児童6人)の卒業式は、閉校式をかねて25日午前10時から同校で行われ、17年余の歴史を閉じた。
この日、国松助役(町長代理)鈴木教育長など来賓28人、父兄15人が出席、石塚校長から卒業生の植田勝美君と渡部洋子さんに卒業証書が手渡された。校長は式辞の中で『4月からは町の小学校にかようことになるが、いままでになかった苦しみもあるだろう。しかし、苦しみを乗り越え心身をきたえて個性を伸ばすように』と激励、町、町教委からも歓迎のことばが述べられた。
続いて渡部洋子さんが『私たちは最後の卒業生になってしまいました。6年の間すごした学校が閉じられるかと思うとなんともいえない…』と答辞、出席した部落の人たちは条件の悪い土地で苦しみぬいた20年を回想、さらに閉校の寂しさに感慨無量のおももちだった。
弥生部落は遠軽市街から北東へ6キロの山頂にあり、急傾斜の山道は4キロも続く。昭和20年、樺太、千島の引き揚げ者と戦災帰農者が入植してから戸数もふえ28年には46戸にもなった。また学校は22年12月、遠軽小新遠軽分校として発足し、24年には新遠軽小に昇格、32、33年は児童数が38人にふえた。
しかし、28年ごろから国内の食糧事情が好転し始め、加えて土地の荒廃や冷害のため凶作が続き、開拓農家の借金がふえる一方。こうした希望のない生活に耐えかねて35年ごろから離農者が増え、いま残っているのは11戸で児童も減り、ことしも新入生は1人もいないため、閉校となった。」(『北海道新聞網走・北見版』昭和40年3月27日)

令和元年7月、A.D.1600氏と訪れた。
ここは陸上自衛隊遠軽駐屯地の横である。

三叉路名は「ど根性三叉路」
かなり気合の入った三叉路名である。

ど根性三叉路周辺の風景。

ど根性三叉路を過ぎて行くと開けた。
学校は近い。

コンクリートの基礎がある。
学校跡地はここである。

基礎がそのまま残っていた。

学校跡地全景。

校舎へと続く通学路。
この後、学校近くにあった神社へ足を運ぶ。

神社。
灯篭と社殿の基礎が残っていた。

社殿に積まれた木はかつての鳥居だろうか?

神社境内は笹で覆われていた。
参考文献
遠軽町1977『遠軽町史』遠軽町
遠軽町1998『遠軽町百年史』遠軽町
北海道新聞1965「17年の歴史に終止符 新遠軽小 閉校式かね卒業式 離農で年々生徒減る」『北海道新聞網走・北見版』昭和40年3月27日
遠軽町弥生は戦後開拓集落である。
昭和21年樺太からの外地引揚者と戦災帰農者が入植した。
子どもたちは遠軽小学校に通学していたが、約9キロ離れており雨の日のぬかるみや冬季の吹雪となれば道も見失いがちとなった。
昭和22年大河原福美や植田栄太郎などが中心となって学校設置の運動を続けた。その結果、同年11月に遠軽小学校新遠軽分校として発足した。
当初は集落住民総出で掘立式の仮校舎を建て、校長は遠軽小学校校長が兼務し、引揚者の松村廉三が担任教師として就任した。
昭和27年12月、読売新聞社主催「第2回全国小中学校つづり方コンクール」道予選において大野和男(小5)の『開拓地の子』が第2部の2位に入賞を果たした。
学校の沿革は以下の通りである
昭和21年 遠軽小学校新遠軽分校として開校(11月)
昭和24年 新校舎落成・給水施設完成(3月)
昭和26年 オルガン購入
同年 風車発電設備完了(11月)
昭和28年 給水施設を新たに完備
昭和31年 辺地校児童集会所建築(12月)
昭和40年 閉校(3月)
神社(新遠軽神社)については以下の通りである。
昭和21年 樺太敷香郡散江村で神官職に就いていた土門義貞が引揚時に背負い、戦後開拓者として弥生に入植し、昭和22年秋に石戸谷庄之助から土地10アール程の寄進と住民の寄付金によって祠を建てた。
神祭は稲荷大明神とし、9月10日が祭礼日であった。
昭和56年秋に集落が無住化した後も元住民らによって例大祭を続けていたが、平成5年9月に遠軽神社に合祀となった。
閉校記事を掲載する
17年の歴史に終止符 新遠軽小 閉校式かね卒業式 離農で年々生徒減る
「【遠軽】新遠軽小(石塚広志校長=児童6人)の卒業式は、閉校式をかねて25日午前10時から同校で行われ、17年余の歴史を閉じた。
この日、国松助役(町長代理)鈴木教育長など来賓28人、父兄15人が出席、石塚校長から卒業生の植田勝美君と渡部洋子さんに卒業証書が手渡された。校長は式辞の中で『4月からは町の小学校にかようことになるが、いままでになかった苦しみもあるだろう。しかし、苦しみを乗り越え心身をきたえて個性を伸ばすように』と激励、町、町教委からも歓迎のことばが述べられた。
続いて渡部洋子さんが『私たちは最後の卒業生になってしまいました。6年の間すごした学校が閉じられるかと思うとなんともいえない…』と答辞、出席した部落の人たちは条件の悪い土地で苦しみぬいた20年を回想、さらに閉校の寂しさに感慨無量のおももちだった。
弥生部落は遠軽市街から北東へ6キロの山頂にあり、急傾斜の山道は4キロも続く。昭和20年、樺太、千島の引き揚げ者と戦災帰農者が入植してから戸数もふえ28年には46戸にもなった。また学校は22年12月、遠軽小新遠軽分校として発足し、24年には新遠軽小に昇格、32、33年は児童数が38人にふえた。
しかし、28年ごろから国内の食糧事情が好転し始め、加えて土地の荒廃や冷害のため凶作が続き、開拓農家の借金がふえる一方。こうした希望のない生活に耐えかねて35年ごろから離農者が増え、いま残っているのは11戸で児童も減り、ことしも新入生は1人もいないため、閉校となった。」(『北海道新聞網走・北見版』昭和40年3月27日)

令和元年7月、A.D.1600氏と訪れた。
ここは陸上自衛隊遠軽駐屯地の横である。

三叉路名は「ど根性三叉路」
かなり気合の入った三叉路名である。

ど根性三叉路周辺の風景。

ど根性三叉路を過ぎて行くと開けた。
学校は近い。

コンクリートの基礎がある。
学校跡地はここである。

基礎がそのまま残っていた。

学校跡地全景。

校舎へと続く通学路。
この後、学校近くにあった神社へ足を運ぶ。

神社。
灯篭と社殿の基礎が残っていた。

社殿に積まれた木はかつての鳥居だろうか?

神社境内は笹で覆われていた。
参考文献
遠軽町1977『遠軽町史』遠軽町
遠軽町1998『遠軽町百年史』遠軽町
北海道新聞1965「17年の歴史に終止符 新遠軽小 閉校式かね卒業式 離農で年々生徒減る」『北海道新聞網走・北見版』昭和40年3月27日
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