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湧別町緑蔭

湧別町緑蔭(令和元年5月26日探訪)

湧別町緑蔭は農村集落である。

農場主 中島宇一郎が小作農家の子弟教育のため自費で18坪の教場を建てたことが始まりである。中島氏が農場を設立した経緯や年代は不明である。
大正5年10月18日 湧別尋常高等小学校緑蔭特別教授場として開校した。
開校後、緑蔭特別教授場は度々休・閉校を繰り返した。
大正7年3月の閉校後、近接校に通学する児童の負担は著しくなり過半数は欠席、木原幸太郎から寄付された48,5坪の建物を中ノ沢2131番地2に移築した。
昭和24,5年を契機に農業構造の変化が著しく進展し、立地条件の劣悪な中ノ沢、東ノ沢一帯離農者が続出、児童数も11、2名に減少し、昭和35年3月で閉校した。

学校の沿革は以下の通りである。

大正 5年  湧別尋常高等小学校緑蔭特別教授場として開校(10月)
大正 6年  村財政事情で休校(3月)
同年      川西尋常小学校所属特別教授場として再開設(7月)
大正 7年  村財政事情で廃校(3月)
昭和 5年  信部内尋常小学校所属として開校(10月)
昭和16年  信部内国民学校緑蔭分校と改称(4月)
同年      校舎新築(11月)
昭和17年  緑蔭国民学校と改称(4月)
昭和22年  緑蔭小学校と改称(3月)
昭和35年  閉校(3月)

閉校記事を掲載する。

「部落民も寂しそう 湧別の緑蔭小で廃校式」
【湧別】「湧別町緑蔭小学校(校長尾張吉男氏)の廃校式が22日行われた。同校は大正5年7月に特別教授場として開校してから町立小学校となり、廃校になるこの日まで44年間、170人の卒業生を送り出し、谷間の部落の唯一の教育文化センタ-として部落の人たちから親しまれてきた。
しかし生活が困難なところなので移住する人が相つぎ、ことし2人が卒業して残ったのはたった7人になり、うち5人が遠軽湧別町東地区などへ移住することになっているので、あと2人しかいなくなるため、こんど廃校することになったもの。
こんご4キロ以上ある信部内小中学校へ子供を通わすことになるので部落の人たちの表情は複雑だ。同校の通学区域にある戸数は7戸で、かつてはもっと多かったのだが交通に不便なのと土地条件がよくないためつぎつぎと離脱し、この春にも3戸が新天地を求めて移住していく。だが、部落に残る人たちは『私たちはここで立派にやって行くつもりですが、学校がなくなるのはやはりとても寂しいことです』とやがて姿を消す母校をながめ感無量の面持ちである。」(『北海道新聞北見版』昭和35年3月24日)

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令和元年5月の廃校廃村探索2日目、最初に訪れた「学校跡がある廃村」である。
正面に見えるマツの木は、かつての屋敷跡か。

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振り返った風景。
牧草畑が所々広がっているが、学校は先である。

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植林風景が広がっている。

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屋敷跡の名残も無い。

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しかし、学校跡を示す記念碑、校門が在った。
緑蔭小学校の跡地である。

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校舎の基礎も残っていた。

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別角度より。
倒木や草で隠れてしまっているが、春先なら基礎がはっきり分る。

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校門を拡大。
周りは植林されているが。記念碑があるお陰でこの地にも人々の暮らした名残を見つけることが出来た。


参考文献
北海道新聞1960「部落民も寂しそう 湧別の緑蔭小で廃校式」『北海道新聞北見版』昭和35年3月24日
湧別町史編さん委員会1982『湧別町百年史』湧別町
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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