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興部町オタッペ

興部町オタッペ(平成31年2月11日・令和元年7月27日探訪)

興部町朝日は農村集落である。
元々は奥藻興部や於達辺と呼ばれていたが、昭和26年の字名改正で朝日と改称された。朝日は行政区が1区から3区に分かれ、このうち朝日小学校があった地域が朝日3区と呼ばれていた。

明治35年5月未墾地請願によって磯田虎造らがはじめて入植したのがはじまりである。
その後明治43年相馬農場(網走)として開拓以来、戸数も増えていったが当時の学童は藻興部小学校(後の秋里小学校)へ通学していた。しかし距離や道路の不完全な状態から渡辺牛之助、黒沢源治、堀清水彦太郎、増田与作、高館丑之助、益子寅次郎、三浦六兵衛を中心に学校設置の要望が高まり、昭和4年9月1日藻興部小学校於達辺教授場として開校した。
昭和10年頃には於達辺銅鉱床(大琉鉱山)の試掘が行われていた。他にも桑部木材の冬山造材や遠藤鍛冶屋もあり賑わいをみせていた。
戦後開拓で5戸の入植もあったが昭和28年からの冷害を機に、大型酪農へ転換する者も現れ始めた。しかし、小規模農家や後継者難による離農や造材事業の衰退で人口が減少していき、昭和60年3月に朝日小学校は閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。

昭和4年  藻興部小学校於達辺教授場として開校(9月)
昭和9年  於達辺尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 於達辺国民学校と改称(4月)
昭和22年 於達辺小学校と改称(4月)
昭和26年 朝日小学校と改称(4月)
昭和60年 閉校(3月)

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平成31年2月、HEYANEKO氏らと訪れた。

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地神さまや馬頭観世音の碑は雪で埋もれている。

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民家にはポストがあった。

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朝日小学校跡の記念碑。

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記念碑裏面。

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同年7月、K.T氏,A.D.1600氏らと再訪する。

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夏の地神さま、馬頭観世音の碑。

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学校跡地は牧草畑となっていた。

参考文献
興部町立朝日小学校1985『五十六年史』朝日小学校PTA
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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