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滝上町白鳥松布

滝上町白鳥松布(シラトリマップ)(平成23年8月13日探訪)

白鳥松布は明治44年に、2名の入植者を皮切りに戸数が増加していった。
当時、児童たちは白鳥尋常小学校・滝美尋常高等小学校に通学していたが、遠距離であったため昭和初期頃より集落内に学校設置の要望があがっていた。
昭和7年 集落の片山国太郎、土屋新吾、直正宗一、長屋文四郎と滝上森林保護区員駐在所 伊藤清治主事の後援、相馬宗造の一反歩の寄附で「森林事務所用建物」の名義として校舎を新築。白鳥松府7線より奥地の4年生以下の児童を入学させたのが始まりとなった。
昭和10年4月1日より6年生まで入学させることとなり、昭和15年10月7日 尋常小学校に昇格し、校名も上白鳥尋常小学校と変更した。
昭和16年4月1日 上白鳥国民学校、昭和22年4月1日 上白鳥小学校と改称した。

昭和22年7月22日 村落に電灯が灯り、教室に1灯配される。昭和27年8月10日 村落内の畑地4反を購入し、運動場が設けられた。この時は校下の住民や青年団員が4日間、一日中整地作業に従事した。
昭和31年9月28日 上白鳥中学校が開校。昭和35年12月2日 屋内体育館が落成し、翌36年9月20日 新校舎が落成した。この年の11月30日に校歌が制定された。
校歌の歌詞を引用する。

1 山垣青く水巡る ゆたけき里に育まれ
  友のむつみもうるわしく 学ぶわれらに幸多し

2 明るく高き校風を 仰ぎてこころおおらかに
  人にささぐる広き愛 学ぶわれらに希望あり

3 まことの光もとめつつ はばたき強くかける鳥
  上白鳥の名をここに 学ぶわれらに誇あれ

昭和31年の児童数は74名であったが、過疎化の進行に伴い昭和40年には35名、昭和45年には25名にまで減少していた。
昭和46年4月1日 上白鳥中学校は滝上中学校上白鳥校と名称を変更したが昭和48年 中学校は滝上中学校に統合された。この年の児童数は8名にまで減少していた。

この年の運動会に臨席した教育委員会教育長の手記を引用する。

「つい先頃、といっても昨年(昭和四八年)の六月一五日、私はこの学校の運動会を訪れました。(中略)この日陽光もうららかで、まだウグイスも残り囀っていはしまいかと思われた。学童八名、校下の老若集まってにぎわしく、婦人部の出店サービスもあって、昔ながらの雰囲気もあり、和やかさの中で私もいつしか競技種目の一員に加わっていたのでした。このとき四人の六年生が卒業したあとは在校生四名の極少人数とはなるが、明年もまたこの楽しい光景が続くことを、私は疑うことがなかったのであります。」

ところが翌年の1月、地域内でやむを得ない出来事が起きてしまい、昭和49年度の通学児童が3名になること、将来の新入児童が皆無状態となり昭和49年3月31日 閉校となった。
閉校に際し、最後の校長はこう述べた。

「星霜四一年、学校としての歴史は終ります。しかし、母校は心の故郷、いつまでも同窓諸氏の心の中に生きていくことでありましょう。校舎の窓から見るあの山の木々から、グラウンドの土の中から、一本一本の草の中から、同窓二六〇名の四一年間に亘った喜びの声、悲しみの声、笑った声、怒った声、励ましの声が聞こえてくることでしょう。」

※参考文献 「続滝上町史」(平成13年3月発行)

白鳥松布は現在、5世帯が暮らす静かな集落となっている。

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集落入口にある集会所と神社。

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周辺には離農した農家の廃屋が朽ちつつも残されていた。

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白鳥松布集落の奥にあった上白鳥小学校。
この時は夏の探訪だった。

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「上白鳥小・中学校跡」という立派な石碑が建立されている。
それにしても、自然の石を利用した校門は興味深いものがある。

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小学校の表札も、そのまま残されていた。

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早速、校舎内を探訪する。

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画像がぶれてしまい、申し訳ない。
閉校から30年以上経ち、校舎の傷みもひどい。

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いつまでこの姿を保てるのだろうか。

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便所。
小便器の数が多い。大便器も同じ数だった。

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続いて、体育館に行ってみる。

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体育館は既に半分が倒壊していた。
しかし奥に、卒業生が製作した作品がそのまま飾られていた。

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昭和47年度 修了生製作。
「修了生」とはどういう意味なのだろう?
絵は学校周辺の風景を表したものだろうか?

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こちらは昭和47年度卒業生製作。
酪農作業を表している。

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上記2点は製作年度が分からなかった。
そして、何を表しているのか分からなかった。
ただ、下の絵は鳥と畑?、山が描かれているので、秋の収穫後の畑の風景を表しているのかもしれない。

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学校を後にし、さらにダートとなった道を進むと年季の入った廃屋があった。

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ダートの道より学校方面を眺める。
「山の学校でも負けんべな」を合言葉に頑張った学び舎も、閉校して38年の歳月が流れた。
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滝上町奥札久留

滝上町奥札久留(オクサックル)(平成23年8月13日探訪)

奥札久留はサクルー原野の最奥に位置し、道路が開通した後でさえも札久留小学校への通学は困難であったことから、住民の寄付と高橋清左衛門の所有地を校舎敷地とし、大正8年7月15日札久留尋常小学校所属奥札久留特別教授場として開校した。
昭和9年3月22日 奥札久留尋常小学校に昇格し、昭和16年4月1日 奥札久留国民学校、昭和22年4月1日 奥札久留小学校と改称になった。
翌 昭和23年4月1日 札久留中学校奥札久留分校が設置され、中学校は昭和26年に独立した。
校舎は昭和27年12月2日に建設されたが、昭和31年4月18日に突風が発生し体育館が倒壊。昭和32年7月31日に新 体育館が建設された。

ここの学校は特に、児童の優良こども銀行が評価され、昭和36年に大蔵大臣賞・日銀総裁賞を受賞。昭和38年 優勢局長賞を受賞した。
昭和40年代に入ると、過疎化に伴い児童数も減少して昭和46年度には児童1名 生徒4名の見通しとなったため昭和46年3月31日 奥札久留小・中学校が閉校した。
卒業生 小学生275名。中学生109名であった。

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学校周辺の風景。
酪農家が点在している。奥札久留の戸数は平成18年現在で2戸。

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校舎。
校舎は閉校後、養豚施設に転用されたようだが、それも廃業して久しい。
校舎も倒壊しており、体育館だけが原形をとどめている。

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表札は残されていた。

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ヤブを掻き分けて進む。
倒壊した屋根が恐らく、校舎と思われる。

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体育館へ行ってみる。

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体育館 外観。

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体育館内部。外観のみ、辛うじて面影を保っているようなものであった。

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崩れたトタンや、木材を踏みしめながらさらに進む。

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体育館の反対側。
倒壊寸前である。あと何年、この状態を維持できるものか。

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体育館の奥にあったブロック造りの建物。
サイロのような印象を受けたが、この時は分からなかった。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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