様似町大泉
様似町大泉(平成29年5月27日探訪)
様似町大泉は発電所の集落である。
また、大泉は昭和16年からの字名で、以前は雄鳴蘂(オナルシベ)と呼ばれていた集落である。
雄鳴蘂に学校ができたのは明治45年「日高製材合資会社」所有の牧場事務室の一室を借りて開校したのが始まりである。「日高製材合資会社」は明治35年に建設され、当時日高管内で一番の木材会社であった。日高製材は大正6年「三井物産会社」に継承されることとなる。
大正2年、雄鳴蘂特別教授場校舎が落成するも、3年後の大正5年に廃止される。廃止から19年後の昭和10年に再開校した。
昭和17年に大泉国民学校、昭和22年に大泉小学校と改称する。
昭和27年東邦電化株式会社において、第三発電所のダム建設計画が持ち上がった。この計画により、大泉小学校を含め、集落全体がダムに沈むこととなる。このため、学校は移転した。住民らは海岸地方に散らばり、電力関係者の子弟が通う学校となった。
昭和34年幌満小学校大泉分校となり、昭和39年9月をもって閉校になった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
明治45年 誓内尋常小学校付属雄鳴蘂特別教授場として開校(4月)
大正 5年 閉校(5月)
昭和10年 雄鳴蘂特別教授場再開(9月)
昭和17年 大泉国民学校と改称(4月)
昭和22年 大泉小学校と改称(4月)
昭和28年 ダム水没のため、校舎移転(12月)
昭和34年 幌満小学校大泉分校と改称
昭和39年 閉校(9月)
閉校時の記事を転載する。
58年の歴史閉ず 部落の開拓とともにあゆむ様似町幌満小学校大泉分校の廃校式
「【様似】町教育委員会では28日午前11時から幌満小学校大泉分校の廃校式を現地で行った。
当日の廃校式には留目町長、伊藤教育委員長、竹岡教育長も現地におもむき廃校式に参加したが、同校の廃校によって日高管内の分校は静内の高静小学校真歌分校もことしの春廃校しており、浦河町第二野深小学校滝の上分校がただひとつの分校となった。
大泉分校は様似町の幌満市街から幌満川沿いに約9キロ山奥にあり、明治45年誓内尋常小学校付属雄鳴しべ特別分教場として発足した。当時日高管財会社が近くにあった関係から一時は児童数も80人を超えたこともあったが、その後同会社が閉鎖したため大正5年5月に廃校となった。
しかし大正10年には大泉部落の開拓によって児童数も増加し20余人となり、昭和15年には28人にふえて同17年には大泉国民学校に独立した。
これも27年には旧東邦電化の第三発電所が開拓地に建設されることになり開拓地がダムの湖底に沈むことになって一挙に児童数は3人の児童しか在籍せず、日本一小さな学校として全国にラジオ放送で紹介されたこともあったが、その後3人、5人という時代が続いて31年には再び分校となって、昨年6人いた児童数もことし4月には4人にへり、日本電工ダム管理人の2人は日本電工の協力で本校に通学させることに決まり、1戸も自由労務者となって市街地におりることになって、児童は一人もいなくなってしまった。28日の廃校式には部落民も参加して行われたが、大泉の開拓と共にあゆんだ同分校もこの日で58年間の歴史を閉じることになってみんなかんがえ深けであった。」(『日高報知新聞』1964年9月29日)

様似町幌満集落に建つ幌満小中学校。平成15年3月に閉校となった。

大泉分校はこの先にある。
天候は雨。雨脚が強くなってきた。

先へ進むとゲートがある。
ゲートをずらして進む。

ゲートの先の風景。
雨は時折強くなり、半ばずぶ濡れになる。

左手に薬師如来像(石碑)がみえた。この上には不動明王の祠がある。
しかし、雨が強くなってきたため深入りしなかった。

幌満ダム第2発電所えん堤。 味わい深いえん堤である。

えん堤のすぐ傍に第2発電所が見える。
幌満小学校からだいぶ奥へ来たが、学校はその先である。

先へ進むと幌満川稲荷神社が見えた。

碑文の解読を試みようとするも、雨で断念した。

稲荷神社前の風景。
右手の建物は日高地方で最初に建てられた水力発電所である。

ようやく学校跡(その1)と思われる場所へ到着した。
すっかり自然に戻っていた。

周囲を探すと、井戸跡と思われる穴を見つけた。

井戸の傍に古いビンが転がっていた。
ここに人々が暮らしていた名残である。

もう少し先へ進み、学校跡(その2)と思われる場所も行ってみた。
コンクリートの破片も転がっていたが決め手が無く、分からなかった。

一番奥に位置する幌満ダム。
悪天候の中であったが、古いビンや井戸跡を見つけ、人々が暮らしていた名残を見つけ出すことができた。
参考文献
郵政省1960『幌満局郵便区全図 日高国様似郡』郵政省
様似町史編さん委員会1962『様似町史』留目四郎
様似町郷土史研究会1968『変遷・躍進様似のあゆみ』高瀬正次
日高報知新聞1964「58年の歴史閉ず 部落の開拓とともにあゆむ様似町幌満小学校大泉分校の廃校式」『日高報知新聞』昭和39年9月29日
様似町大泉は発電所の集落である。
また、大泉は昭和16年からの字名で、以前は雄鳴蘂(オナルシベ)と呼ばれていた集落である。
雄鳴蘂に学校ができたのは明治45年「日高製材合資会社」所有の牧場事務室の一室を借りて開校したのが始まりである。「日高製材合資会社」は明治35年に建設され、当時日高管内で一番の木材会社であった。日高製材は大正6年「三井物産会社」に継承されることとなる。
大正2年、雄鳴蘂特別教授場校舎が落成するも、3年後の大正5年に廃止される。廃止から19年後の昭和10年に再開校した。
昭和17年に大泉国民学校、昭和22年に大泉小学校と改称する。
昭和27年東邦電化株式会社において、第三発電所のダム建設計画が持ち上がった。この計画により、大泉小学校を含め、集落全体がダムに沈むこととなる。このため、学校は移転した。住民らは海岸地方に散らばり、電力関係者の子弟が通う学校となった。
昭和34年幌満小学校大泉分校となり、昭和39年9月をもって閉校になった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
明治45年 誓内尋常小学校付属雄鳴蘂特別教授場として開校(4月)
大正 5年 閉校(5月)
昭和10年 雄鳴蘂特別教授場再開(9月)
昭和17年 大泉国民学校と改称(4月)
昭和22年 大泉小学校と改称(4月)
昭和28年 ダム水没のため、校舎移転(12月)
昭和34年 幌満小学校大泉分校と改称
昭和39年 閉校(9月)
閉校時の記事を転載する。
58年の歴史閉ず 部落の開拓とともにあゆむ様似町幌満小学校大泉分校の廃校式
「【様似】町教育委員会では28日午前11時から幌満小学校大泉分校の廃校式を現地で行った。
当日の廃校式には留目町長、伊藤教育委員長、竹岡教育長も現地におもむき廃校式に参加したが、同校の廃校によって日高管内の分校は静内の高静小学校真歌分校もことしの春廃校しており、浦河町第二野深小学校滝の上分校がただひとつの分校となった。
大泉分校は様似町の幌満市街から幌満川沿いに約9キロ山奥にあり、明治45年誓内尋常小学校付属雄鳴しべ特別分教場として発足した。当時日高管財会社が近くにあった関係から一時は児童数も80人を超えたこともあったが、その後同会社が閉鎖したため大正5年5月に廃校となった。
しかし大正10年には大泉部落の開拓によって児童数も増加し20余人となり、昭和15年には28人にふえて同17年には大泉国民学校に独立した。
これも27年には旧東邦電化の第三発電所が開拓地に建設されることになり開拓地がダムの湖底に沈むことになって一挙に児童数は3人の児童しか在籍せず、日本一小さな学校として全国にラジオ放送で紹介されたこともあったが、その後3人、5人という時代が続いて31年には再び分校となって、昨年6人いた児童数もことし4月には4人にへり、日本電工ダム管理人の2人は日本電工の協力で本校に通学させることに決まり、1戸も自由労務者となって市街地におりることになって、児童は一人もいなくなってしまった。28日の廃校式には部落民も参加して行われたが、大泉の開拓と共にあゆんだ同分校もこの日で58年間の歴史を閉じることになってみんなかんがえ深けであった。」(『日高報知新聞』1964年9月29日)

様似町幌満集落に建つ幌満小中学校。平成15年3月に閉校となった。

大泉分校はこの先にある。
天候は雨。雨脚が強くなってきた。

先へ進むとゲートがある。
ゲートをずらして進む。

ゲートの先の風景。
雨は時折強くなり、半ばずぶ濡れになる。

左手に薬師如来像(石碑)がみえた。この上には不動明王の祠がある。
しかし、雨が強くなってきたため深入りしなかった。

幌満ダム第2発電所えん堤。 味わい深いえん堤である。

えん堤のすぐ傍に第2発電所が見える。
幌満小学校からだいぶ奥へ来たが、学校はその先である。

先へ進むと幌満川稲荷神社が見えた。

碑文の解読を試みようとするも、雨で断念した。

稲荷神社前の風景。
右手の建物は日高地方で最初に建てられた水力発電所である。

ようやく学校跡(その1)と思われる場所へ到着した。
すっかり自然に戻っていた。

周囲を探すと、井戸跡と思われる穴を見つけた。

井戸の傍に古いビンが転がっていた。
ここに人々が暮らしていた名残である。

もう少し先へ進み、学校跡(その2)と思われる場所も行ってみた。
コンクリートの破片も転がっていたが決め手が無く、分からなかった。

一番奥に位置する幌満ダム。
悪天候の中であったが、古いビンや井戸跡を見つけ、人々が暮らしていた名残を見つけ出すことができた。
参考文献
郵政省1960『幌満局郵便区全図 日高国様似郡』郵政省
様似町史編さん委員会1962『様似町史』留目四郎
様似町郷土史研究会1968『変遷・躍進様似のあゆみ』高瀬正次
日高報知新聞1964「58年の歴史閉ず 部落の開拓とともにあゆむ様似町幌満小学校大泉分校の廃校式」『日高報知新聞』昭和39年9月29日
スポンサーサイト
様似町新富
様似町新富(平成23年10月23日探訪)
新富は元々「新様似」と呼ばれていた。
明治38年、39年、44年に合計30戸ほどの集団入植者が現れた。これが新富集落開拓の始まりであった。
明治42年7月7日 筒淵春蔵の居宅を改装し「岡二尋常小学校付属新様似特別教授場」として発足した。
現在地の新富197番地(旧名エショマナイ)に校舎移転したのは明治44年10月31日のことであった。
明治40年頃に水銀鉱山の開発が始まり精錬所が建設されたが、精錬方法が未熟であったため短命に終わってしまう。
大正末期や、昭和26年にも新しい精錬法を導入し好成績を挙げたが、いずれも短命に終わってしまった。
現在の校舎は昭和11年頃に建設された。これは「様似小学校統合20周年 開校100周年」という本(様似町立図書館蔵)の中の「新富小の歩み」という項目に出てくる。
「頃」と書いたのは、はっきりと明記されていなかった。ただ、「昭和11年 小学校ができた」と記されているそうである。
また、「新様似」から「新富」の名前の変更時期もはっきりしない。町史には「昭和16年 新富国民学校」と書かれているだけで、いつから「新富」という名前に変更されたか触れられていなかった。
新富国民学校は戦後、昭和22年に新富小学校と改称された。
戦後、新富集落にも数名の入植者が現れた。しかし、急傾斜面であることや作物が不作で終わったことから、昭和30年代初めに離農してしまった。
新富集落もこの頃より離農者が出始め、昭和44年、新富小学校は閉校となった。
しかし、新富小学校は閉校後「青年研修所」宿泊施設として転用された。その他の学校(岡田小学校・西様似小学校・冬島小学校)は閉校後、校舎は解体された。
青年研修所は平成16年頃まで活用されていたが、現在は閉鎖されている。
そして、新富集落も現在は1世帯のみとなっている。

探訪時は激しい雨に見舞われた。

玄関も封鎖されている。

入れそうなところがあったので、内部へ入ってみた。
入った瞬間、かび臭い匂いでむせそうになった。

「宿泊研修施設」というのは「アポイ自然の村」という名称だった。

「第一教室」
町史から推定すると、恐らく小学校教室部分と思われる。

便所
この辺りは、床が腐っていた。
危険なので遠目で確認した程度である。

名称不明の部屋。
町史には「7坪」としか記載されていない。宿直室か?

体育館。

最近まで活用されていたみたいである。

折角なので、管理人が生まれた年のも紹介。

学校を出て、隣接する教員住宅と思われる廃屋。

学校周辺の風景。
校庭だったところに道路が走っていた。
校門も現存しているが探訪時、大雨に見舞われてしまい、校門の撮影は諦めた。
新富は元々「新様似」と呼ばれていた。
明治38年、39年、44年に合計30戸ほどの集団入植者が現れた。これが新富集落開拓の始まりであった。
明治42年7月7日 筒淵春蔵の居宅を改装し「岡二尋常小学校付属新様似特別教授場」として発足した。
現在地の新富197番地(旧名エショマナイ)に校舎移転したのは明治44年10月31日のことであった。
明治40年頃に水銀鉱山の開発が始まり精錬所が建設されたが、精錬方法が未熟であったため短命に終わってしまう。
大正末期や、昭和26年にも新しい精錬法を導入し好成績を挙げたが、いずれも短命に終わってしまった。
現在の校舎は昭和11年頃に建設された。これは「様似小学校統合20周年 開校100周年」という本(様似町立図書館蔵)の中の「新富小の歩み」という項目に出てくる。
「頃」と書いたのは、はっきりと明記されていなかった。ただ、「昭和11年 小学校ができた」と記されているそうである。
また、「新様似」から「新富」の名前の変更時期もはっきりしない。町史には「昭和16年 新富国民学校」と書かれているだけで、いつから「新富」という名前に変更されたか触れられていなかった。
新富国民学校は戦後、昭和22年に新富小学校と改称された。
戦後、新富集落にも数名の入植者が現れた。しかし、急傾斜面であることや作物が不作で終わったことから、昭和30年代初めに離農してしまった。
新富集落もこの頃より離農者が出始め、昭和44年、新富小学校は閉校となった。
しかし、新富小学校は閉校後「青年研修所」宿泊施設として転用された。その他の学校(岡田小学校・西様似小学校・冬島小学校)は閉校後、校舎は解体された。
青年研修所は平成16年頃まで活用されていたが、現在は閉鎖されている。
そして、新富集落も現在は1世帯のみとなっている。

探訪時は激しい雨に見舞われた。

玄関も封鎖されている。

入れそうなところがあったので、内部へ入ってみた。
入った瞬間、かび臭い匂いでむせそうになった。

「宿泊研修施設」というのは「アポイ自然の村」という名称だった。

「第一教室」
町史から推定すると、恐らく小学校教室部分と思われる。

便所
この辺りは、床が腐っていた。
危険なので遠目で確認した程度である。

名称不明の部屋。
町史には「7坪」としか記載されていない。宿直室か?

体育館。

最近まで活用されていたみたいである。

折角なので、管理人が生まれた年のも紹介。

学校を出て、隣接する教員住宅と思われる廃屋。

学校周辺の風景。
校庭だったところに道路が走っていた。
校門も現存しているが探訪時、大雨に見舞われてしまい、校門の撮影は諦めた。