音威子府村 上音威子府
音威子府村 上音威子府(平成24年7月8日探訪)
上音威子府は北海道大学農学部演習林の、管理労力供給源確保のために入植した集落であった。
大正2年の秋に長津佐之次郎が、翌年の春(大正3年)に平田吉太郎ら3名が入植した。この年、国鉄上音威子府駅が開業した。
大正3年11月7日の北海タイムスにはこう記されている。
「本日開通の宗谷新線建設工事概況 宗谷線は旭川より北見国稚内港に達する延長約百六十哩の鉄道にして旭川名寄間四十七哩十九鎖は三十六年度迄に開通し爾来工事を中止せしが本道拓地殖民の趨勢は本線起工を促成し四十二年九月より再たび工事に着手するに至り名寄恩根内間廿二哩廿八鎖は四十四年十一月恩根内音威子府間十哩五十四鎖は大正元年十一月を以て営業を開始し音威子府小頓別間九哩五十八鎖は今回工事完成を告げ茲に営業を開始するに至れり(中略)
線路は天塩国中川村音威子府停車場に起り右折して大体「オトイネップ」川に沿ふて北進し八十一哩十一鎖附近に至り之を横断し八十二哩六十鎖附近に於て左折叉右転し八十三哩十五鎖に至りて再び同川を渡り四哩五十三鎖に上音威子府停車場を設け是より線路は狭隘なる渓谷の間を過ぎ紆余曲折して漸昇し数多の小渓流を横きり八十七哩十五鎖附近天塩国北見の国境に天北隋道を穿ち茲に北見国枝幸郡枝幸村に入り狭隘なる小頓別川の流域を縫い曲折数次に進むに随って下降し前後七回小頓別川を渡り東進して八十九哩七十九鎖に至りて小頓別停車場に達す(以下略)」
上音威子府駅の開業から3年後の大正6年11月10日 音威子府尋常小学校上音威子府特別教育所として開校した。
大正11年4月1日 上音威子府尋常小学校として独立する。この時の児童数は68名。
昭和16年4月1日 上音威子府国民学校となり、昭和22年4月1日 上音威子府小学校と改まった。
昭和42年8月20日 開校50周年記念式典を実施する。この頃より過疎化が進み、児童も急減する。
昭和50年3月16日 閉校式を行い、廃校となった。最後の児童在籍数は2名。卒業生総数 466名であった。
上音威子府は鉄道の他、北海道大学農学部付属演習林の管理労力の供給源確保のため入植者を勧め、栄えた。大正末期には40戸ほどを数えていた。入植者は貸付を受けた土地の開墾や営農の他、木炭焼き、演習林の労務を行い、冬は冬山造材に従事していた。
開拓当初は菜種等であったが、大正中期からはバレイショ一辺倒となる。
昭和39年 演習林の農地解放により自作地となったが、過疎化が少しずつ進み始めていた。そして昭和49年、北海道大学農学部付属演習林事務所の移転が決定的となってしまった。
閉校後も上音威子府駅舎は存続したが、平成元年5月1日を以て廃線となった。廃線後も駅舎は残っていたが、平成16年頃に解体された。

上音威子府小学校跡地が見えた。
笹藪の中、ポツンと佇む「上音威子府小学校」跡の碑。

学校前にはバス停があった。
このバス停は今も使われているのだろうか?

グラウンド跡地の防風林。
樹木が整然と並んでいるので、それと分る。

学校周辺の風景。左手が学校跡地。
生活の痕跡を見つけ出すことは出来なかった。

学校の傍にある神社跡。
神社跡を目指し、斜面を登ったが岩肌が脆く、滑落の危機に遭い断念した。
尚、神社跡では相撲大会などが催されていた。

国鉄上音威子府駅跡地に残るホーム跡。

廃線になり20年以上経つが、痕跡は消えかかっていた。

周囲は残土で覆われていた。
駅跡地が残土で覆われてしまうのも、時間の問題か?

学校跡地より周辺の風景。
すべての行事が学校中心に催されたのも、過去の話となってしまった。
上音威子府は北海道大学農学部演習林の、管理労力供給源確保のために入植した集落であった。
大正2年の秋に長津佐之次郎が、翌年の春(大正3年)に平田吉太郎ら3名が入植した。この年、国鉄上音威子府駅が開業した。
大正3年11月7日の北海タイムスにはこう記されている。
「本日開通の宗谷新線建設工事概況 宗谷線は旭川より北見国稚内港に達する延長約百六十哩の鉄道にして旭川名寄間四十七哩十九鎖は三十六年度迄に開通し爾来工事を中止せしが本道拓地殖民の趨勢は本線起工を促成し四十二年九月より再たび工事に着手するに至り名寄恩根内間廿二哩廿八鎖は四十四年十一月恩根内音威子府間十哩五十四鎖は大正元年十一月を以て営業を開始し音威子府小頓別間九哩五十八鎖は今回工事完成を告げ茲に営業を開始するに至れり(中略)
線路は天塩国中川村音威子府停車場に起り右折して大体「オトイネップ」川に沿ふて北進し八十一哩十一鎖附近に至り之を横断し八十二哩六十鎖附近に於て左折叉右転し八十三哩十五鎖に至りて再び同川を渡り四哩五十三鎖に上音威子府停車場を設け是より線路は狭隘なる渓谷の間を過ぎ紆余曲折して漸昇し数多の小渓流を横きり八十七哩十五鎖附近天塩国北見の国境に天北隋道を穿ち茲に北見国枝幸郡枝幸村に入り狭隘なる小頓別川の流域を縫い曲折数次に進むに随って下降し前後七回小頓別川を渡り東進して八十九哩七十九鎖に至りて小頓別停車場に達す(以下略)」
上音威子府駅の開業から3年後の大正6年11月10日 音威子府尋常小学校上音威子府特別教育所として開校した。
大正11年4月1日 上音威子府尋常小学校として独立する。この時の児童数は68名。
昭和16年4月1日 上音威子府国民学校となり、昭和22年4月1日 上音威子府小学校と改まった。
昭和42年8月20日 開校50周年記念式典を実施する。この頃より過疎化が進み、児童も急減する。
昭和50年3月16日 閉校式を行い、廃校となった。最後の児童在籍数は2名。卒業生総数 466名であった。
上音威子府は鉄道の他、北海道大学農学部付属演習林の管理労力の供給源確保のため入植者を勧め、栄えた。大正末期には40戸ほどを数えていた。入植者は貸付を受けた土地の開墾や営農の他、木炭焼き、演習林の労務を行い、冬は冬山造材に従事していた。
開拓当初は菜種等であったが、大正中期からはバレイショ一辺倒となる。
昭和39年 演習林の農地解放により自作地となったが、過疎化が少しずつ進み始めていた。そして昭和49年、北海道大学農学部付属演習林事務所の移転が決定的となってしまった。
閉校後も上音威子府駅舎は存続したが、平成元年5月1日を以て廃線となった。廃線後も駅舎は残っていたが、平成16年頃に解体された。

上音威子府小学校跡地が見えた。
笹藪の中、ポツンと佇む「上音威子府小学校」跡の碑。

学校前にはバス停があった。
このバス停は今も使われているのだろうか?

グラウンド跡地の防風林。
樹木が整然と並んでいるので、それと分る。

学校周辺の風景。左手が学校跡地。
生活の痕跡を見つけ出すことは出来なかった。

学校の傍にある神社跡。
神社跡を目指し、斜面を登ったが岩肌が脆く、滑落の危機に遭い断念した。
尚、神社跡では相撲大会などが催されていた。

国鉄上音威子府駅跡地に残るホーム跡。

廃線になり20年以上経つが、痕跡は消えかかっていた。

周囲は残土で覆われていた。
駅跡地が残土で覆われてしまうのも、時間の問題か?

学校跡地より周辺の風景。
すべての行事が学校中心に催されたのも、過去の話となってしまった。
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音威子府村物満内
音威子府村物満内(平成24年7月8日探訪)
音威子府村物満内は明治末期より開拓が始まった。村内でも早くから開拓された集落であったが、交通の便が悪いため離農するものが多く、昭和10年代には満洲(現 中国東北部)や樺太(現 サハリン)へ移住するものが多かった。
この地区の子供たちは10数キロ離れた物満内小学校(後の筬島小学校)に通学していた。その頃の思い出が村史に記載されていたので、以下引用する。
「夏は7キロの刈り分け道を歩いて通学した。しかし、雪が降ると学校の近くの寄宿舎に入った。1,2年生の炊事は近くに住んでいた古田のおばさんが面倒を見てくれたが、3年生以上は自分で煮たきをした。日曜日になっても道が雪に埋もれているので帰ることはできなかったが、友達がたくさんいたのでさびしいことはなかった。」
戦後、再び入植者が増加したため昭和30年10月1日 物満内小学校上物満内分校として開校した。
昭和34年5月1日 上物満内小学校として独立。
昭和36年7月23日 物満内1172番地に校舎を移転する。これは上物満内地区の離農による戸数減少の結果、国道沿いに校舎を移転した。
昭和38年4月1日 物満内小学校と校名を変更し、再出発。
戦後、村内の河上木材のヤマゴ(造材人夫)として従事した新木正氏(90歳)はこう記す。
「戦後、私も河上木材のヤマゴとして大木を切りました。いのちがけの仕事でした…(中略)上物満内小は造材山で働いていた頃、吹雪の日の昼にストーブにあたらして戴いた事。今は荒地で熊が居るので一人で山に行くなと村より公報で注意しています…(略)」
「私が上物満内で仕事したのは昭和30年過ぎです。上物満内熊撃ちの古田さん、瀧ヶ平さんなど熊を獲っていました。昭和38年頃より鉄道の除雪に出て山はやめました。山は寒く、今思い出しても苦しかったです…(略)」
しかし離農による過疎化が進み、昭和50年3月17日 廃校式を挙げて閉校した。へき地等級 5級の学校である。

まずは移転後(昭和36年)から閉校までの学校跡地。
ここは国道沿いの高台に位置している。

ブロックの残骸が散らかっていた。
校舎の一部なのか、それとも教員住宅の一部なのか?

隅には錆び付いた遊具があった。

校舎の基礎が残されていたが、草木に覆われており全体を掴むことができなかった。

廃校跡地の記念碑。
元々は木に彫っていた。

ここから先は、移転前の学校跡(上物満内小学校)である。
手前の家屋から、10キロ先にあった。

途中にある林道(物満内林道)の案内板。
案内板よりもさらに奥地である。

途中の風景。まだまだ進む。

段々、心細くなってくる。

学校跡地手前の風景。
この奥に校舎があった。

しかし、すさまじい薮と、クマの恐怖で断念してしまった。

学校の奥より集落跡地を眺めてみる。
左側はすっかりシラカバ林になっているが、かつては畑が広がっていただろう。
ここにも「上物満内小学校跡」の記念碑が建立されているようであるが、この時は発見できなかった。
話によると、学校跡地の反対側に建てられていたそうである。
上物満内は自然に帰ってしまい、人々の暮らした痕跡は見つけられなかった。
音威子府村物満内は明治末期より開拓が始まった。村内でも早くから開拓された集落であったが、交通の便が悪いため離農するものが多く、昭和10年代には満洲(現 中国東北部)や樺太(現 サハリン)へ移住するものが多かった。
この地区の子供たちは10数キロ離れた物満内小学校(後の筬島小学校)に通学していた。その頃の思い出が村史に記載されていたので、以下引用する。
「夏は7キロの刈り分け道を歩いて通学した。しかし、雪が降ると学校の近くの寄宿舎に入った。1,2年生の炊事は近くに住んでいた古田のおばさんが面倒を見てくれたが、3年生以上は自分で煮たきをした。日曜日になっても道が雪に埋もれているので帰ることはできなかったが、友達がたくさんいたのでさびしいことはなかった。」
戦後、再び入植者が増加したため昭和30年10月1日 物満内小学校上物満内分校として開校した。
昭和34年5月1日 上物満内小学校として独立。
昭和36年7月23日 物満内1172番地に校舎を移転する。これは上物満内地区の離農による戸数減少の結果、国道沿いに校舎を移転した。
昭和38年4月1日 物満内小学校と校名を変更し、再出発。
戦後、村内の河上木材のヤマゴ(造材人夫)として従事した新木正氏(90歳)はこう記す。
「戦後、私も河上木材のヤマゴとして大木を切りました。いのちがけの仕事でした…(中略)上物満内小は造材山で働いていた頃、吹雪の日の昼にストーブにあたらして戴いた事。今は荒地で熊が居るので一人で山に行くなと村より公報で注意しています…(略)」
「私が上物満内で仕事したのは昭和30年過ぎです。上物満内熊撃ちの古田さん、瀧ヶ平さんなど熊を獲っていました。昭和38年頃より鉄道の除雪に出て山はやめました。山は寒く、今思い出しても苦しかったです…(略)」
しかし離農による過疎化が進み、昭和50年3月17日 廃校式を挙げて閉校した。へき地等級 5級の学校である。

まずは移転後(昭和36年)から閉校までの学校跡地。
ここは国道沿いの高台に位置している。

ブロックの残骸が散らかっていた。
校舎の一部なのか、それとも教員住宅の一部なのか?

隅には錆び付いた遊具があった。

校舎の基礎が残されていたが、草木に覆われており全体を掴むことができなかった。

廃校跡地の記念碑。
元々は木に彫っていた。

ここから先は、移転前の学校跡(上物満内小学校)である。
手前の家屋から、10キロ先にあった。

途中にある林道(物満内林道)の案内板。
案内板よりもさらに奥地である。

途中の風景。まだまだ進む。

段々、心細くなってくる。

学校跡地手前の風景。
この奥に校舎があった。

しかし、すさまじい薮と、クマの恐怖で断念してしまった。

学校の奥より集落跡地を眺めてみる。
左側はすっかりシラカバ林になっているが、かつては畑が広がっていただろう。
ここにも「上物満内小学校跡」の記念碑が建立されているようであるが、この時は発見できなかった。
話によると、学校跡地の反対側に建てられていたそうである。
上物満内は自然に帰ってしまい、人々の暮らした痕跡は見つけられなかった。