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平取町仁世宇

平取町仁世宇(平成23年10月22日探訪)

平取町仁世宇は鉱山で栄えた集落であった。

大正初期 後藤彦三郎の手によって日本製錬株式会社 日東鉱山(クロームの採掘)が開坑した。

大正6年に試掘が始まり、大正8年に大鉱脈が発見され飛躍的に事業が拡大していった。

学校はその前年度である大正5年5月18日 池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開校した。「池売尋常小学校」は元々「振内小学校」の前身であった。

昭和4年8月12日 池売尋常小学校の付属から、岩知志尋常小学校付属に変更になる。
大東亜戦争開戦前後(昭和16年)になると、軍需品として脚光を浴びてきたことから仁世宇地区もたくさんの人が暮らしていた。

「語りつぐ平取」(2002年3月31日刊)によると1棟4戸の長屋が120戸くらいあり、鉱山関係の建物のほかに木工場や映画館も建てられ、電灯がいち早く普及していた。
当時、平取村はまだ3分の1くらいしか電灯が普及していなかった頃であるので、それだけの人びとが暮らしていたことが伺える。

昭和18年 岩知志国民学校の付属から独立し、昭和22年 仁世鵜小学校になった。

クローム鉱石生産量のピークは昭和26年度の3,464トンであった。この年以降、朝鮮戦争の終結や輸入鉱石の増加もあって生産量は半減していった。

昭和30年代に入ると鉱床が貧床のため、一層生産量は減少し昭和34年2月14日 鉱員53名の人員整理を行なったが経営状態は芳しくなく、昭和35年に閉山した。

学校も例外なく、生徒数の減少により鉱山の閉山前年度(昭和34年)時点で小学校2学級23名 中学校1学級8名となり、町内で一番小さい小中併置校であった。

鉱山が閉山になると既存の農家しかなく、農家の離農による過疎化により昭和47年3月 振内小学校に統合され廃校になった。

仁世宇は現在、数世帯が暮らす過疎集落地域である。

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仁世宇地区に今も残る建物。右側は集会所であるが、左の建物は個人商店と思われる。

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仁世宇川を渡り、いよいよ学校跡地へ行く。

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仁世宇林道。
この林道を約8キロ進むと、仁世鵜小中学校跡地がある。

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仁世宇林道起点の標識。

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仁世宇林道を進みはじめて6キロほど進むと、右手の小高いところに廃屋があった。
ここで暮らしていた人の家だろう。
旧版地形図を見ると川沿いに所々人家があったが、その痕跡も殆ど見受けられなかった。

ただ、この廃屋から手前2キロ地点には今も酪農家の家がある。ここに開拓に入った方の子孫が暮らしているだろうと推察される。

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廃屋より奥の風景。

探訪当時「学舎の風景」 piro氏と訪れたが残り1キロ地点で、ある出来事があった。

piro氏「あと1キロ進むと、学校跡地です」
ナルセ「もうすぐですね。楽しみですね」

こんな話しを交わし、右カーブを曲がった瞬間…。

piro氏「ナルセさん、道路に黒い物体が…」
ナルセ「あれ、子グマではないですか?」

すると林の中から親グマがのそのそっと現れた。

咄嗟にバックでターンし、その場は離れた。

この探訪直前、道内ではクマによる被害報道が相次ぎ、なかにはクルマにも襲い掛かったクマもいたくらいである。

一気に戻り、比較的大きな振内集落に出たときは安堵した。
探索をはじめて10年、自衛隊での演習を何度も経験しているとはいえ、クマとの遭遇は今回が初めてであった。

仁世鵜小中学校跡地、リベンジはいつになるだろうか。
尚、行ってきた方の話しによると、コンクリートの外壁が残されているとのことである。
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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