平取町仁世宇
平取町仁世宇(平成23年10月22日・平成29年5月29日探訪)
平取町仁世宇は鉱山で栄えた集落であった。
大正初期 後藤彦三郎の手によって日本製錬株式会社 日東鉱山(クロームの採掘)が開坑した。
大正6年に試掘が始まり、大正8年に大鉱脈が発見され飛躍的に事業が拡大していった。
学校はその前年度である大正5年5月18日 池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開校した。「池売尋常小学校」は元々「振内小学校」の前身であった。
昭和4年8月12日 池売尋常小学校の付属から、岩知志尋常小学校付属に変更になる。
大東亜戦争開戦前後(昭和16年)になると、軍需品として脚光を浴びてきたことから仁世宇地区もたくさんの人が暮らしていた。
「語りつぐ平取」(2002年3月31日刊)によると1棟4戸の長屋が120戸くらいあり、鉱山関係の建物のほかに木工場や映画館も建てられ、電灯がいち早く普及していた。
当時、平取村はまだ3分の1くらいしか電灯が普及していなかった頃であるので、それだけの人びとが暮らしていたことが伺える。
昭和18年 岩知志国民学校の付属から独立し、昭和22年 仁世鵜小学校になった。
クローム鉱石生産量のピークは昭和26年度の3,464トンであった。この年以降、朝鮮戦争の終結や輸入鉱石の増加もあって生産量は半減していった。
昭和30年代に入ると鉱床が貧床のため、一層生産量は減少し昭和34年2月14日 鉱員53名の人員整理を行なったが経営状態は芳しくなく、昭和35年に閉山した。
学校も例外なく、生徒数の減少により鉱山の閉山前年度(昭和34年)時点で小学校2学級23名 中学校1学級8名となり、町内で一番小さい小中併置校であった。
鉱山が閉山になると既存の農家しかなく、農家の離農による過疎化により昭和47年3月 振内小学校に統合され廃校になった。
仁世宇は現在、数世帯が暮らす過疎集落地域である。

仁世宇地区に今も残る建物。右側は集会所であるが、左の建物は個人商店と思われる。

仁世宇川を渡り、いよいよ学校跡地へ行く。

仁世宇林道。
この林道を約8キロ進むと、仁世鵜小中学校跡地がある。

仁世宇林道起点の標識。

仁世宇林道を進みはじめて6キロほど進むと、右手の小高いところに廃屋があった。
ここで暮らしていた人の家だろう。
旧版地形図を見ると川沿いに所々人家があったが、その痕跡も殆ど見受けられなかった。
ただ、この廃屋から手前2キロ地点には今も酪農家の家がある。ここに開拓に入った方の子孫が暮らしているだろうと推察される。

廃屋より奥の風景。
探訪当時「学舎の風景」 piro氏と訪れたが残り1キロ地点で、ある出来事があった。
piro氏「あと1キロ進むと、学校跡地です」
ナルセ「もうすぐですね。楽しみですね」
こんな話しを交わし、右カーブを曲がった瞬間…。
piro氏「ナルセさん、道路に黒い物体が…」
ナルセ「あれ、子グマではないですか?」
すると林の中から親グマがのそのそっと現れた。
咄嗟にバックでターンし、その場は離れた。
この探訪直前、道内ではクマによる被害報道が相次ぎ、なかにはクルマにも襲い掛かったクマもいたくらいである。
一気に戻り、比較的大きな振内集落に出たときは安堵した。
探索をはじめて10年、自衛隊での演習を何度も経験しているとはいえ、クマとの遭遇は今回が初めてであった。
仁世鵜小中学校跡地、リベンジはいつになるだろうか。
尚、行ってきた方の話しによると、コンクリートの外壁が残されているとのことである。
時は流れ、平成29年5月 HEYANEKO氏らの合同調査で再訪した。

右手の小高いところにあった家屋(廃屋)は倒壊していた。
この先で母子熊に遭遇したが、今回はいなかったので安心して進む。

A.D氏の「ありましたよ」という声を聞き、足を運ぶと校舎が姿を見せた。

コンクリートの外壁や煙突が残り、往時を偲ばせてくれる。

傍には教員住宅もある。

便槽。
ここまで完璧な姿で残っている便槽は初めて見る。

近くには浴槽も残っていた。

持ってきた手鎌で笹を刈り、正面玄関から校舎を写す。

学校手前の耕作放棄地(田圃跡)を望む。
過疎化が進み校舎は閉校したが、外壁が残り往時を偲ぶことができた。
閉校当時の新聞記事を転載する。
姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕
「【平取】仁世鵜小中学校(吉田達男校長)は、過疎化の波に勝てず本年度限りで廃校、22日には卒業式と閉校式を同時に行ない、55年間の歴史を閉じる。
同校は大正6年5月15日、池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開設、昭和17年2月、仁世鵜国民学校として独立、24年6月、振内中仁世鵜分校が併設され、29年11月、仁世鵜小中学校となった。山のなかのへき地3級校で現在児童数11人、生徒数3人の小、中とも単級複式校。教職員は校長以下4人で、児童、生徒3・5人に先生1人というぜいたくな学校。小学校は154人、中学校は64人の卒業生を送り出している。
農村地帯で、戦時中から戦後にかけ一時は20数戸あったが、30年頃から離農が相次ぎ、今はわずか4戸、うち3戸が松沢姓の兄弟で、児童、生徒のうち10人が松沢姓のいとこ同士という。
同校廃止の計画は、町内の中学校を平取、振内、貫気別の3校に集約するということで、まず44年に中学校を振内へ統合する話が出た。ところが中学生を振内へ行かせるのであれば、小学校も振内小へ統合して児童、生徒を一緒に輸送してはどうかという意見が教育委員会から持ち上がった。
その後、同教委と父母との会合を重ねてやっとことし1月下旬の教育委員会で廃校を決め、10日から開かれている定例町議会に同校廃校のための学校設置条例の改正が提案されている。
新学期の同地域の小、中学生は、先生の子供を除くと児童9人、生徒4人の13人。大規模校への吸収による廃校は時代の流れとはいうものの、心のよりどころだった学校を失う地域の人たちの心は複雑。それでも子供たちは『仁世鵜の学校がなくなるのは寂しい』と述べながらも『振内小へ行ったら、新しい友だちをつくって、一生懸命勉強しよう』とひそやかに期待感を抱いている。
振内への通学は、町がハイヤー会社と年間契約して自動車輸送するが、具体的方法は町議会が終わってから話し合って決められる。」(北海道新聞日高版 昭和47年3月12日)
参考文献
北海道新聞1972「姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕」北海道新聞日高版 昭和47年3月12日
平取町2002『語りつぐ平取』平取町
平取町仁世宇は鉱山で栄えた集落であった。
大正初期 後藤彦三郎の手によって日本製錬株式会社 日東鉱山(クロームの採掘)が開坑した。
大正6年に試掘が始まり、大正8年に大鉱脈が発見され飛躍的に事業が拡大していった。
学校はその前年度である大正5年5月18日 池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開校した。「池売尋常小学校」は元々「振内小学校」の前身であった。
昭和4年8月12日 池売尋常小学校の付属から、岩知志尋常小学校付属に変更になる。
大東亜戦争開戦前後(昭和16年)になると、軍需品として脚光を浴びてきたことから仁世宇地区もたくさんの人が暮らしていた。
「語りつぐ平取」(2002年3月31日刊)によると1棟4戸の長屋が120戸くらいあり、鉱山関係の建物のほかに木工場や映画館も建てられ、電灯がいち早く普及していた。
当時、平取村はまだ3分の1くらいしか電灯が普及していなかった頃であるので、それだけの人びとが暮らしていたことが伺える。
昭和18年 岩知志国民学校の付属から独立し、昭和22年 仁世鵜小学校になった。
クローム鉱石生産量のピークは昭和26年度の3,464トンであった。この年以降、朝鮮戦争の終結や輸入鉱石の増加もあって生産量は半減していった。
昭和30年代に入ると鉱床が貧床のため、一層生産量は減少し昭和34年2月14日 鉱員53名の人員整理を行なったが経営状態は芳しくなく、昭和35年に閉山した。
学校も例外なく、生徒数の減少により鉱山の閉山前年度(昭和34年)時点で小学校2学級23名 中学校1学級8名となり、町内で一番小さい小中併置校であった。
鉱山が閉山になると既存の農家しかなく、農家の離農による過疎化により昭和47年3月 振内小学校に統合され廃校になった。
仁世宇は現在、数世帯が暮らす過疎集落地域である。

仁世宇地区に今も残る建物。右側は集会所であるが、左の建物は個人商店と思われる。

仁世宇川を渡り、いよいよ学校跡地へ行く。

仁世宇林道。
この林道を約8キロ進むと、仁世鵜小中学校跡地がある。

仁世宇林道起点の標識。

仁世宇林道を進みはじめて6キロほど進むと、右手の小高いところに廃屋があった。
ここで暮らしていた人の家だろう。
旧版地形図を見ると川沿いに所々人家があったが、その痕跡も殆ど見受けられなかった。
ただ、この廃屋から手前2キロ地点には今も酪農家の家がある。ここに開拓に入った方の子孫が暮らしているだろうと推察される。

廃屋より奥の風景。
探訪当時「学舎の風景」 piro氏と訪れたが残り1キロ地点で、ある出来事があった。
piro氏「あと1キロ進むと、学校跡地です」
ナルセ「もうすぐですね。楽しみですね」
こんな話しを交わし、右カーブを曲がった瞬間…。
piro氏「ナルセさん、道路に黒い物体が…」
ナルセ「あれ、子グマではないですか?」
すると林の中から親グマがのそのそっと現れた。
咄嗟にバックでターンし、その場は離れた。
この探訪直前、道内ではクマによる被害報道が相次ぎ、なかにはクルマにも襲い掛かったクマもいたくらいである。
一気に戻り、比較的大きな振内集落に出たときは安堵した。
探索をはじめて10年、自衛隊での演習を何度も経験しているとはいえ、クマとの遭遇は今回が初めてであった。
仁世鵜小中学校跡地、リベンジはいつになるだろうか。
尚、行ってきた方の話しによると、コンクリートの外壁が残されているとのことである。
時は流れ、平成29年5月 HEYANEKO氏らの合同調査で再訪した。

右手の小高いところにあった家屋(廃屋)は倒壊していた。
この先で母子熊に遭遇したが、今回はいなかったので安心して進む。

A.D氏の「ありましたよ」という声を聞き、足を運ぶと校舎が姿を見せた。

コンクリートの外壁や煙突が残り、往時を偲ばせてくれる。

傍には教員住宅もある。

便槽。
ここまで完璧な姿で残っている便槽は初めて見る。

近くには浴槽も残っていた。

持ってきた手鎌で笹を刈り、正面玄関から校舎を写す。

学校手前の耕作放棄地(田圃跡)を望む。
過疎化が進み校舎は閉校したが、外壁が残り往時を偲ぶことができた。
閉校当時の新聞記事を転載する。
姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕
「【平取】仁世鵜小中学校(吉田達男校長)は、過疎化の波に勝てず本年度限りで廃校、22日には卒業式と閉校式を同時に行ない、55年間の歴史を閉じる。
同校は大正6年5月15日、池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開設、昭和17年2月、仁世鵜国民学校として独立、24年6月、振内中仁世鵜分校が併設され、29年11月、仁世鵜小中学校となった。山のなかのへき地3級校で現在児童数11人、生徒数3人の小、中とも単級複式校。教職員は校長以下4人で、児童、生徒3・5人に先生1人というぜいたくな学校。小学校は154人、中学校は64人の卒業生を送り出している。
農村地帯で、戦時中から戦後にかけ一時は20数戸あったが、30年頃から離農が相次ぎ、今はわずか4戸、うち3戸が松沢姓の兄弟で、児童、生徒のうち10人が松沢姓のいとこ同士という。
同校廃止の計画は、町内の中学校を平取、振内、貫気別の3校に集約するということで、まず44年に中学校を振内へ統合する話が出た。ところが中学生を振内へ行かせるのであれば、小学校も振内小へ統合して児童、生徒を一緒に輸送してはどうかという意見が教育委員会から持ち上がった。
その後、同教委と父母との会合を重ねてやっとことし1月下旬の教育委員会で廃校を決め、10日から開かれている定例町議会に同校廃校のための学校設置条例の改正が提案されている。
新学期の同地域の小、中学生は、先生の子供を除くと児童9人、生徒4人の13人。大規模校への吸収による廃校は時代の流れとはいうものの、心のよりどころだった学校を失う地域の人たちの心は複雑。それでも子供たちは『仁世鵜の学校がなくなるのは寂しい』と述べながらも『振内小へ行ったら、新しい友だちをつくって、一生懸命勉強しよう』とひそやかに期待感を抱いている。
振内への通学は、町がハイヤー会社と年間契約して自動車輸送するが、具体的方法は町議会が終わってから話し合って決められる。」(北海道新聞日高版 昭和47年3月12日)
参考文献
北海道新聞1972「姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕」北海道新聞日高版 昭和47年3月12日
平取町2002『語りつぐ平取』平取町
スポンサーサイト