美瑛町美園・五稜

美瑛町美園・五稜(平成25年5月3日・5月19日探訪)

美瑛町美園・五稜は美瑛町内の戦後開拓集落である。

このうち美園は3戸の高度過疎集落として、五稜は集落として存続している。

大正14年頃 入口である「大区画」(現 中ルベシベ)に福井県人 岡田多伊助ら6戸が入植していた。

終戦直前の昭和20年8月8日 東京都南多摩郡扱いの北海道集団帰農団美瑛隊東京団体 隊長 野口美実 副隊長 半沢義吽ら26戸137人が 美瑛町内に到着。

間もなく8月20日 名古屋団体 隊長 堀場判三郎 副隊長 伊藤早稔ら26戸が到着し、美園・五稜に入植した。

このうち9戸がオマン川沿いに開拓小屋を建てて入植した。

同年12月8日 現地に入地した坂本兄弟、川崎・福井・橋本・神戸・川越と大区画に入地した野口・半沢・伊藤・庄口らが集まり、庄口の発案で美郷集落を形成する。

昭和21年1月 名古屋より10戸が入植した。

同月、名古屋部落会館建設に伴い、堀場判三郎が児童を会館に集め寺子屋形式で授業を始め、美瑛国民学校ルベシベ分教場として開校。

昭和22年 樺太引揚者の隊長 伊藤駒太郎により樺郷(豊郷)集落を形成、後の中ルベシベ集落へと繋がる。

これら美郷・名古屋・豊郷・大区画の小集落は昭和22年12月6日の美園小学校開校に伴い、岡田文太郎の発案で美園となった。 

「五稜」の名の由来は、地形が大まかな五つの稜線からなっていることや、昭和24年当時入地していた手坂慶一郎の出身地である函館の五稜郭から名づけられたといわれている。

昭和22年12月6日 美瑛町立美園小学校として開校。

美園や五稜の開拓は厳しいものがあった。

開拓が始まって間もなく、昭和21年5月より離農が始まった。

東京団体6戸帰郷、名古屋団体隊長の堀場など7戸が集団離農、また名古屋団体からも7戸が集団離農した。

昭和22年4月20日 大阪先発隊5戸が阪和へ、10戸が和郷に入植。

昭和23年5月 樺太より三輪栄正隊長ら30余戸が美園(豊郷)に入植。

昭和24年1月 老知安(オイチアン)第一~第四集落結成。
この時期中ルベシベ・美開第一・第二、水郷第一・第二集落が形成される。

昭和25年2月1日 美田小学校五稜分校設置。

五稜分校開設に伴い、児童69名が移動した。

翌 昭和26年4月 五稜小学校に昇格。

昭和29年6月 水郷第三(後の五稜第七)に開拓者入植。

昭和30年 行政区条例が出来たためそれぞれ五稜第一から第七まで区分けされる。

区分は以下の通りである。

本郷・和郷・阪和   五稜第一
豊郷      五稜第二
老知安第一・第二   五稜第三
老知安第三・第四   五稜第四
大郷・島牛      五稜第五
水郷第一・第二    五稜第六
水郷第三       五稜第七
美開・中ルベシベ・美園 美園

※この他「上豊郷」という集落もあったが、美瑛町立図書館で問い合わせた結果、「開拓 五稜開拓50年記念誌」にも記載されておらず何処に在ったかは判らない、とのことであった。
ただ、「推測だが豊郷の上手にあったので便宜上、そう呼称したかもしれない」と情報を頂いた。

美園小学校を含む美園ルベシベにも入植者が増加し、昭和30年代は在校児童数40~50名が学んでいた。

しかし、昭和40年代に入ると離農者が続出した。

離農に伴い児童数も激減し、昭和45年の児童数は4名にまでなっていた。

昭和46年3月24日 廃校式が挙行された。

卒業生総数 152名であった。

美園はその後、昭和56年 中ルベシベ、美開、美園で形成されていた美園行政区は戸数減少により、五稜第五へ統合した。

五稜の行政区もまた、統廃合していった。

現在の行政区を列挙すると、以下の通りである。

五稜第一
五稜第二
五稜第三
五稜第五 
五稜第七(昭和39~40年頃の離農対策により全戸離農)

五稜第六は昭和61年1月 戸数減少により第五に統合された。

五稜第四は第五に統合されたが、統合年月は不明である。

但し、住所については五稜第一から第六まで現在もある。

五稜小学校は昭和54年12月 新校舎が竣工され、翌55年2月に落成式が挙行された。

五稜小学校は平成17年3月 休校となっている。

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平成25年5月3日 「学舎の風景」piro氏、A.D.1600氏と共に訪れた。
「美園」は、五稜寄りの高台に数戸の人家がある高度過疎集落であるが、学校周辺は自然に帰ってしまっている。

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学校跡地を望む。
すっかり植林されている。

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校門らしき石碑が倒れていたが、銘盤どころか何もついていなかった。

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町史には木造校舎が写っているが、基礎すらも残されていなかった。

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学校手前の道路の法面の先に何かが見えた。
法面をよじ登り、先へと進む。


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廃屋と化した家があった。

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この家へ行く為の道路が見当たらない。
道路工事と共に消えてしまったのか。

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内部は床も抜け、足元も危ない。

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五右衛門風呂は原形を留めていた。

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家の玄関前より。
学校前で人々が暮らしていた、唯一の痕跡であった。

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美園の探訪から間もない5月19日「道北の釣りと旅」管理人 HIROAKI氏とともに美瑛町内を訪れた。
隣接の五稜地区を訪ねたときのものである。
これは開拓記念公園内に建立された開拓記念碑である。

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五稜第一地区の沿革が刻まれている。

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五稜第一地区の周辺の風景。
山と山との僅かな平地を開拓していった。

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五稜第五にある五稜小学校。
休校扱いとなっているが、個人的には再開されてほしいものである。

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学校前の風景。
学校周辺は農家が点在している。

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五稜小学校の近くにある五稜神社。
そこには「拓魂」と刻まれた大きな石碑がある。

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五稜の沿革が刻まれていた。

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記念碑の背後には、五稜神社の拝殿が見えた。

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神社周辺の風景。
五稜は、集落としての機能を維持している。

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美園の高台に登り、五稜小学校周辺を眺める。
山と山との間にある、僅かな平地に家がひしめき合っている。

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美園の高台の風景。
戦後開拓で拓けていった五稜と対照的に、美園は過疎の波により高度過疎集落となってしまった。
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美瑛町上俵真布

美瑛町上俵真布(平成25年5月3日探訪未遂・同年5月19日探訪)

美瑛町上俵真布は戦後開拓の集落であった。

上俵真布を含め、俵真布(タワラマップ)は元々「パンケシウムケタロマップ」(霧深き沢の奥、という意)と呼ばれていた。
草分け入地者である斎藤五郎治、三浦勇七、榊原嘉兵衛が長い呼称を嫌い、末尾の「マップ」は「真布」の仮借字をあて、さらに俵物がさかんに収穫できるように、と言う願いを込め「俵」の一字を上に当てたものである。

朗根内川の水源に近いため、アイヌ語の意の通り沢の奥であったので他の集落開拓よりも遅い大正2年 徳島、仙台の団体が入地した。
この時斎藤五郎治をはじめ田野島安太郎、北原常八等であった。

次いで三浦勇七、榊原嘉兵衛、間伊之吉、松本栄吉、富永芳太郎、大森善三郎、友成民平、小柏友蔵が入地して開墾に努めた。

入植当時、俵真布は8線から28線まで広大な御料地の土地であった。当然、上・下俵真布といった区分けはされていなかった。

学校設立は大正3年1月17日 影平安平の小屋(俵真布20線)を借り受けて明徳尋常小学校所属俵真布特別教授場 として開設した。
これが俵真布小学校の前身である。

一方、俵真布24線に明徳尋常小学校所属俵真布第二教授所が大正3年12月7日、開設した。これが上俵真布小学校の前身である。

だが、入学児童は年々減少し昭和19年3月 廃校となった。

戦後、樺太からの引揚者が入植し、戦後開拓集落として再出発した。

昭和23年11月 俵真布駅逓所(昭和19年廃止)の建物を改造し、俵真布小学校上俵真布分教場として開校した。

昭和27年4月1日 上俵真布小学校として独立した。
入植者が多かった頃は20人以上の子供たちが通学していた。

しかし、美瑛町の市街地から20キロ以上も離れ、尚且つ土地も気候も悪かったため離農していく開拓者が後を絶たなかった。

そして、昭和37年11月に8戸が集団離農し、在校生は3名に激減してしまった。

北海道新聞 上川中部版 昭和39年3月24日に「たった一人、最後の卒業式/集団離農で廃校」と掲載されている。

最後の卒業式は教室で行なわれ、日の丸とシャクナゲやネコヤナギを活けた花瓶があるだけであった。卒業生は新聞の見出しにもあるように、たった一人であった。

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平成25年5月4日 「学舎の風景」piro氏、A.D.1600氏と現地調査に繰り出す。
しかし、今年の雪解けが遅かったこともあり、俵真布にはまだたくさんの雪が残っていた。

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俵真布小学校の校舎は、まるでペンションのような佇まいである。

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この先に上俵真布があった。
しかし、探訪当時はブラックアイスバーン状態であったので断念した。

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それから間もなく5月19日、相互リンクさせていただいている「道北の釣りと旅」管理人 HIROAKI氏と一緒に探訪した。
この橋の右手に上俵真布小学校の校舎があった。

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脇道があったので行ってみる。

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校舎があったと思われる位置より。
HIROAKI氏はこう言った。
「駅逓は馬も扱っていたので、厩もあった。これだけ平地が広がっているから間違いない」とのことである。
確かに、そこだけ平地が広がっている。

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その隣には、ニジマス養殖を営んでいた養魚池の跡が残る。

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ニジマス養殖を営まれていた方の家だろうか。

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煙突も倒壊して久しく、苔むしていた。

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上俵真布集落手前にあった神社跡。
参道の跡がはっきりと判る。

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神社前より上俵真布集落跡を望む。

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上俵真布(旧版地形図では「上俵開拓」と表記)集落跡。
人びとの暮らした痕跡は、既に無い。

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50年近く前に解散になった集落。
旧版地形図では人家マークが点在しているが、何処に建物があったのかすらも判らない。

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不自然なマツの木。
ここで暮らしていた方が庭木として植えたものだろう。

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上俵真布の最奥地。
この辺りまで来ると、流石に開拓した痕跡は無い。

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しかし、手前にはシラカバの木が群生していた。
HIROAKI氏は「恐らく、ここも元々は畑であった可能性がある。」とのことであった。

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集落跡の一部は大規模な畑と化していた。


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上俵真布集落跡地より奥の風景。

上俵真布小学校卒業生総数 38名。
美瑛町内で最奥の小学校は、集団離農で廃校になってしまった。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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