幌加内町母子里
幌加内町母子里(平成26年1月25日・2月26日探訪)
幌加内町母子里は、平成26年1月現在 35名が暮らす過疎の集落である。
明治34年 北海道大学演習林に第一基本林として大学運営資金の財源調達のため、国から割譲されたのが始まりであるが、母子里の開拓は昭和に入ってからである。
昭和4年 大学演習林の林内植民者として入植者を募り、昭和4年から昭和8年にかけて24戸が入植した。
主として美深村(現 美深町)出身者が多かった。
ついで中頓別村のピンネシリ(敏音知)・マツネシリ(松音知)より13戸、常盤村(現 音威子府村)より5戸が入植した。
「モシリ」は「茂尻」(赤平市茂尻炭鉱)や「茂尻」(江差町)、茂志利(士別市朝日町)、茂尻駅(根室本線)とあるので、当初は「茂知」と表記していた。
昭和5年8月5日 茂知に入植していた菅原貞助 チヤ夫婦に子供が授かった。
これを記念して現在の「母子里」になった。
ただ、雨龍演習林は林班界の名を茂知事業区として昭和45年頃まで「茂知」を使用していた。
母子里をはじめ、幌加内町を通過していた深名線は明治44年7月16日 吉利智宏が単独で「深川を基点とし三股(現 朱鞠内)経由で音威子府に至る鉄道」を鉄道院に出願したのが最初であった。
大正7年 第41回帝国議会において軽便鉄道としての協賛を得ることが出来、大正11年12月16日 第1工区 深川-鶴岡間16.936kmが着工された。
順次、鶴岡-鷹泊間、鷹泊-幌加内間が着工されていく。
昭和3年2月26日より幌加内-政和間、同年11月6日 政和-添牛内間が起工される。
昭和6年9月15日 幌加内-政和間が開業し、同年10月10日 線名である雨龍線を幌加内線と改称した。
昭和6年7月13日起工の添牛内-朱鞠内間は昭和7年10月25日開業。
残る朱鞠内-名寄間は昭和11年名羽線として名寄側より起工する。
昭和12年11月10日 名寄-初茶志内(後の天塩弥生)が開業。
昭和16年10月10日 名雨線初茶志内-幌加内線朱鞠内間が開業、これにより深川-名寄間が結ばれ「深名線」(総延長121.8km)となった。
母子里も勿論、開通したので駅名は「北」をつけて「北母子里駅」とした。
深名線鉄道工事に携わった松本輝子はこう話す。
「…母子里は当時、男手は兵隊に取られ、女、子供、老人しかいなかった。私は深名線の工事で、主にスコップを用いて砂利を敷く仕事をしていた。親方に「やり方が悪い」と怒られ「こうやるものだ」と手本を見せてくれた。その手本どおりにやると効率が上がった。今もやり方は覚えているが、年なので力が入らない…。」
「力仕事だったから腹が空き、昼の弁当では足りなかった。母に「もっと入れてくれ」と頼むと、母は「それは「仕事」が奪っていったものよ」と云った…。」
「当時『イナキビ』が腹持ちがよく、ほかにカボチャなんかを食べていた。米は配給制であまり食べられなかった…。」
学校は昭和6年6月20日 演習林の造材事務所を仮校舎とし、母子里尋常小学校として開校した。
昭和16年4月1日 母子里国民学校と改称。
昭和22年4月1日 母子里小学校と改称。
同年5月1日 母子里中学校を併置。
昭和34年 町制施行に伴い幌加内町立母子里小中学校と改称。
母子里は昭和25年の87戸 618名をピークに減少していく。
母子里に暮らす、ある方はこう話す。
「母子里はかつて、駅周辺を『市街班』と呼び、それ以外は『1組』から『5組』まで分かれていた。昭和20年代頃、各組15~6軒の家があり、それぞれ1軒ずつ澱粉工場があった。」
また、かつて母子里小中学校で教鞭を執っていた卜部信臣はこう話す。
「1組から5組まであったが、特に5組は『本流』と呼ばれていた。『本流』の由来は、雨竜川より枝分かれしたウトカマベツ川の、さらに枝分かれしたモシリウンナイ川のことを指している…。」
「私が赴任した昭和37年当時、小・中学校併せて120名くらいの児童や生徒がいた。教員は校長と力を合わせて、母子里集落を引っ張っていった。赴任した当時、澱粉工場は3軒あった…。」
しかし、昭和30年代末より過疎化が進み始める。
松本輝子は「いつの間にか、櫛の歯が抜けたように人がいなくなっていった」と云う。
転出者が増え始め、母子里小中学校は平成5年3月末で閉校となった。
ある方は「幌加内町自体が、南北に細長い町なので平成の初めまで学校が存続していた。もし、町自体が小さければもっと早くに廃校となっていた」と云う。
その2年後、平成7年9月4日をもって深名線は廃線となった。
過疎集落となった母子里だが、平成25年9月 北海道の過疎集落対策モデル事業のひとつとして選ばれた。
対象地区は幌加内町母子里のほか、占冠村占冠・中央・双珠別、深川市納内である。
モデル事業となった母子里地区は、北海道新聞紙上で「36人の集落 母子里の挑戦」として取り上げられている。

名寄よりJR北海道バスで母子里を訪ねた。

集落で唯一の商店(ガソリンスタンド併設)も平成24年の秋に閉店した。
あるのは自動販売機だけである。

北海道大学雨龍研究林の事務所。
隣接地には名古屋大学の観測所がある。

集落唯一の交差点より。
この先が「2組」で、左手にある母子里簡易郵便局の辺りが「市街班」である。

「市街班」にある母子里簡易郵便局。
昭和43年度の地図では、10世帯の名前が記されている。
この先に、北母子里駅があった。

そして、母子里小中学校跡地。
校舎は既に解体され、体育館のみが現存している。
話を聞くと「校舎や体育館は閉校後、一度も使われていない」とのことであった。

雨竜研究林事務所前より蕗の台方面を望む。
蕗の台は日鋼開拓団 千葉茂雄が中心となって昭和22年6月より開拓が始まった。
しかし、寒冷地であることと酸性土壌による農作物の不作や個人負債が重なり、昭和37年7月 蕗の台集落は解散となった。
卜部信臣曰く「蕗の台は空知管内で一番早く、集団離農した集落」とのことである。
ここも「学校跡がある廃村」のひとつである。

「2組」にある「母子里クリスタルパーク」
春になればエゾエンゴサクやカタクリ、ミズバショウの群生があり見ごたえがある、とのこと。

クリスタルパーク前の中垣橋より学校方面を望む。
昭和50年度の航空写真を見ると、2軒の農家があったが現在は無い。

「3組」と「4組」の境目に位置する母子里神社。
積雪により探訪することが出来なかった。

「4組」にある牧場。
母子里で唯一の基幹産業であった牧場も、平成23年6月に廃業した。

母子里集落の高台に位置する「5組(本流)」の家屋跡。
野生化したマツが育っていた。

5組(本流)の家屋跡。
ある人は「…5組の人たちは優秀な若い人が多かったが、転出も早かった…。」と云う。
そして、こう付け加えた。
「…ここまで人がいなくなるとは、予想もしていなかった…。」
過疎の波を受け、人口も少なくなってしまったが過疎集落対策のモデルとして選ばれた。
今後も、動向を注目したい過疎集落である。
幌加内町母子里は、平成26年1月現在 35名が暮らす過疎の集落である。
明治34年 北海道大学演習林に第一基本林として大学運営資金の財源調達のため、国から割譲されたのが始まりであるが、母子里の開拓は昭和に入ってからである。
昭和4年 大学演習林の林内植民者として入植者を募り、昭和4年から昭和8年にかけて24戸が入植した。
主として美深村(現 美深町)出身者が多かった。
ついで中頓別村のピンネシリ(敏音知)・マツネシリ(松音知)より13戸、常盤村(現 音威子府村)より5戸が入植した。
「モシリ」は「茂尻」(赤平市茂尻炭鉱)や「茂尻」(江差町)、茂志利(士別市朝日町)、茂尻駅(根室本線)とあるので、当初は「茂知」と表記していた。
昭和5年8月5日 茂知に入植していた菅原貞助 チヤ夫婦に子供が授かった。
これを記念して現在の「母子里」になった。
ただ、雨龍演習林は林班界の名を茂知事業区として昭和45年頃まで「茂知」を使用していた。
母子里をはじめ、幌加内町を通過していた深名線は明治44年7月16日 吉利智宏が単独で「深川を基点とし三股(現 朱鞠内)経由で音威子府に至る鉄道」を鉄道院に出願したのが最初であった。
大正7年 第41回帝国議会において軽便鉄道としての協賛を得ることが出来、大正11年12月16日 第1工区 深川-鶴岡間16.936kmが着工された。
順次、鶴岡-鷹泊間、鷹泊-幌加内間が着工されていく。
昭和3年2月26日より幌加内-政和間、同年11月6日 政和-添牛内間が起工される。
昭和6年9月15日 幌加内-政和間が開業し、同年10月10日 線名である雨龍線を幌加内線と改称した。
昭和6年7月13日起工の添牛内-朱鞠内間は昭和7年10月25日開業。
残る朱鞠内-名寄間は昭和11年名羽線として名寄側より起工する。
昭和12年11月10日 名寄-初茶志内(後の天塩弥生)が開業。
昭和16年10月10日 名雨線初茶志内-幌加内線朱鞠内間が開業、これにより深川-名寄間が結ばれ「深名線」(総延長121.8km)となった。
母子里も勿論、開通したので駅名は「北」をつけて「北母子里駅」とした。
深名線鉄道工事に携わった松本輝子はこう話す。
「…母子里は当時、男手は兵隊に取られ、女、子供、老人しかいなかった。私は深名線の工事で、主にスコップを用いて砂利を敷く仕事をしていた。親方に「やり方が悪い」と怒られ「こうやるものだ」と手本を見せてくれた。その手本どおりにやると効率が上がった。今もやり方は覚えているが、年なので力が入らない…。」
「力仕事だったから腹が空き、昼の弁当では足りなかった。母に「もっと入れてくれ」と頼むと、母は「それは「仕事」が奪っていったものよ」と云った…。」
「当時『イナキビ』が腹持ちがよく、ほかにカボチャなんかを食べていた。米は配給制であまり食べられなかった…。」
学校は昭和6年6月20日 演習林の造材事務所を仮校舎とし、母子里尋常小学校として開校した。
昭和16年4月1日 母子里国民学校と改称。
昭和22年4月1日 母子里小学校と改称。
同年5月1日 母子里中学校を併置。
昭和34年 町制施行に伴い幌加内町立母子里小中学校と改称。
母子里は昭和25年の87戸 618名をピークに減少していく。
母子里に暮らす、ある方はこう話す。
「母子里はかつて、駅周辺を『市街班』と呼び、それ以外は『1組』から『5組』まで分かれていた。昭和20年代頃、各組15~6軒の家があり、それぞれ1軒ずつ澱粉工場があった。」
また、かつて母子里小中学校で教鞭を執っていた卜部信臣はこう話す。
「1組から5組まであったが、特に5組は『本流』と呼ばれていた。『本流』の由来は、雨竜川より枝分かれしたウトカマベツ川の、さらに枝分かれしたモシリウンナイ川のことを指している…。」
「私が赴任した昭和37年当時、小・中学校併せて120名くらいの児童や生徒がいた。教員は校長と力を合わせて、母子里集落を引っ張っていった。赴任した当時、澱粉工場は3軒あった…。」
しかし、昭和30年代末より過疎化が進み始める。
松本輝子は「いつの間にか、櫛の歯が抜けたように人がいなくなっていった」と云う。
転出者が増え始め、母子里小中学校は平成5年3月末で閉校となった。
ある方は「幌加内町自体が、南北に細長い町なので平成の初めまで学校が存続していた。もし、町自体が小さければもっと早くに廃校となっていた」と云う。
その2年後、平成7年9月4日をもって深名線は廃線となった。
過疎集落となった母子里だが、平成25年9月 北海道の過疎集落対策モデル事業のひとつとして選ばれた。
対象地区は幌加内町母子里のほか、占冠村占冠・中央・双珠別、深川市納内である。
モデル事業となった母子里地区は、北海道新聞紙上で「36人の集落 母子里の挑戦」として取り上げられている。

名寄よりJR北海道バスで母子里を訪ねた。

集落で唯一の商店(ガソリンスタンド併設)も平成24年の秋に閉店した。
あるのは自動販売機だけである。

北海道大学雨龍研究林の事務所。
隣接地には名古屋大学の観測所がある。

集落唯一の交差点より。
この先が「2組」で、左手にある母子里簡易郵便局の辺りが「市街班」である。

「市街班」にある母子里簡易郵便局。
昭和43年度の地図では、10世帯の名前が記されている。
この先に、北母子里駅があった。

そして、母子里小中学校跡地。
校舎は既に解体され、体育館のみが現存している。
話を聞くと「校舎や体育館は閉校後、一度も使われていない」とのことであった。

雨竜研究林事務所前より蕗の台方面を望む。
蕗の台は日鋼開拓団 千葉茂雄が中心となって昭和22年6月より開拓が始まった。
しかし、寒冷地であることと酸性土壌による農作物の不作や個人負債が重なり、昭和37年7月 蕗の台集落は解散となった。
卜部信臣曰く「蕗の台は空知管内で一番早く、集団離農した集落」とのことである。
ここも「学校跡がある廃村」のひとつである。

「2組」にある「母子里クリスタルパーク」
春になればエゾエンゴサクやカタクリ、ミズバショウの群生があり見ごたえがある、とのこと。

クリスタルパーク前の中垣橋より学校方面を望む。
昭和50年度の航空写真を見ると、2軒の農家があったが現在は無い。

「3組」と「4組」の境目に位置する母子里神社。
積雪により探訪することが出来なかった。

「4組」にある牧場。
母子里で唯一の基幹産業であった牧場も、平成23年6月に廃業した。

母子里集落の高台に位置する「5組(本流)」の家屋跡。
野生化したマツが育っていた。

5組(本流)の家屋跡。
ある人は「…5組の人たちは優秀な若い人が多かったが、転出も早かった…。」と云う。
そして、こう付け加えた。
「…ここまで人がいなくなるとは、予想もしていなかった…。」
過疎の波を受け、人口も少なくなってしまったが過疎集落対策のモデルとして選ばれた。
今後も、動向を注目したい過疎集落である。
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