朝日町似峡
朝日町似峡(平成23年8月13日探訪)
朝日町似峡(現 士別市朝日町)はダムで水没した集落であった。
明治43年 御料地第2期区画設定により御料小作地の指定を受け、大正2年 道内各地をはじめ宮城県団体をはじめ福島県、奈良県などの出身者が入地して開拓が始まった。
戸数の増加に従い、教育機関設立の必要性を感じ荒見權太郎、伊藤啓四郎の両名を始め有志らが尽力した結果、材料を含めて集落総出で仮校舎を新築した。
大正4年5月15日 糸魚尋常小学校付属似峡簡易教育所として開校。
大正6年4月1日 似峡尋常小学校と改称。
昭和14年3月29日 高等科を設置し、似峡尋常高等小学校と改称。
昭和16年4月1日 似峡国民学校と改称。
昭和22年4月1日 似峡小学校と改称、同年6月1日 糸魚中学校似峡分校を併置する。
昭和25年11月1日 糸魚中学校似峡分校 校舎が落成し、分離する。
主要な作物は水稲、バレイショ、ビート、アスパラガス等が栽培され、木材産業の基地として似峡市街地が形成された。
朝日営林署の事務所をはじめ似峡小学校および中学校、郵便局、駐在所、消防団詰所、診療所、農協支所、鉄工所、木工所、映画館、旅館、食堂、理容院、雑貨店、食料品店が軒を連ね、最盛期には戸数170戸余で人口 800人余(年代不明)として朝日町内の市街地の一つとして繁栄していた。
似峡はダム建設により水没した集落であったが、ダム建設が計画された要因として「天塩川の治水」「大東亜(太平洋)戦争末期より、戦後にかけての食糧危機による天塩川上流地区の農業開発」「ダム建設の旗印とされた電源開発」である。
特に、天塩川上流地域の農業用水不足問題は永らく市町村の課題であったとともに、発電設備は戦時中の酷使により稼働率が低下し、住民生活にも大きく影響を及ぼしていた。
昭和25年3月 当時の士別町長 中屋金次郎が北海道知事 田中敏文にダム建設の必要性を陳情した。
昭和26年11月 改めて書面上で陳情書を提出した。
昭和27年 電源開発本部による現地調査が行なわれていたが、その時は似峡までバスで移動し、現地への移動手段は森林鉄道を利用して調査が行なわれた。
昭和28年と30年に天塩川の洪水災害が発生する。
特に昭和28年7月31日 集中豪雨により上士別村にあった士別土地改良区の貯水池が決壊し、住民3名が濁流に飲まれ1名亡くなった。
これが契機となり、電源開発に重点をおいていた計画が洪水調節、さらに士別市の上水道、工業用水確保を併せた多目的ダムの構想が具体化して行った。
昭和32年に「天塩川上流総合開発概要」により岩尾内に決定する。
天塩川水系総合開発期成会の運動が実り、昭和38年度建設省予算に岩尾内ダム実施設計費が計上され、岩尾内ダム建設が決定した。
水没関係者は「岩尾内ダム対策委員会」を結成し、用地買収補償等の交渉が進められていった。
昭和40年12月 「岩尾内ダムの建設に伴う用地買収及び損失補償に関する協定書」の調印を終えた。
昭和40年12月7日付の北海道新聞 上川北部版に「さびしく最後の越冬へ 水没する似峡部落の近況」という記事がある。
越冬する約150世帯の日常生活を取り上げているが、食料品は農協支所が取り扱うだけで、まとまった買物や散髪は20キロ離れた朝日市街まで出なくてはいけないことが記されている。
昭和42年3月31日 似峡小中学校 閉校。
閉校後、昭和42年7月30日にダム建設起工式、8月25日に定礎式が行なわれた。
昭和45年11月2日14時 放水路のゲートが下り、湛水が開始されて似峡は水没した。

似峡跡地への入口。
この看板の先に、水没した似峡集落がある。

探訪した時は水位が低下していたので、集落跡地へ行く事ができた。
学校跡地は、このT字路付近にあったららしい、とのことである。

この道を進むと、かつては茂志利地区へ続いていたが水没している。

T字路周辺を見るが、学校の基礎らしきものは見つけることが出来なかった。

周辺には、玉石や側溝の跡も残っている。

もう少し進むと、建物やと桝と思われる基礎があった。

傍にある建物の基礎を見ると、キャンプをした痕跡があった。

遠くを見ると、あちこち建物の基礎を確認することが出来る。

普段は湖底に沈んでいるので、なかなか見る機会もない。
次に見られるのはいつになるだろうか。

学校跡地周辺の風景。
人々が去り、ダムの底に沈んでも集落の面影は辛うじて残っていた。
朝日町似峡(現 士別市朝日町)はダムで水没した集落であった。
明治43年 御料地第2期区画設定により御料小作地の指定を受け、大正2年 道内各地をはじめ宮城県団体をはじめ福島県、奈良県などの出身者が入地して開拓が始まった。
戸数の増加に従い、教育機関設立の必要性を感じ荒見權太郎、伊藤啓四郎の両名を始め有志らが尽力した結果、材料を含めて集落総出で仮校舎を新築した。
大正4年5月15日 糸魚尋常小学校付属似峡簡易教育所として開校。
大正6年4月1日 似峡尋常小学校と改称。
昭和14年3月29日 高等科を設置し、似峡尋常高等小学校と改称。
昭和16年4月1日 似峡国民学校と改称。
昭和22年4月1日 似峡小学校と改称、同年6月1日 糸魚中学校似峡分校を併置する。
昭和25年11月1日 糸魚中学校似峡分校 校舎が落成し、分離する。
主要な作物は水稲、バレイショ、ビート、アスパラガス等が栽培され、木材産業の基地として似峡市街地が形成された。
朝日営林署の事務所をはじめ似峡小学校および中学校、郵便局、駐在所、消防団詰所、診療所、農協支所、鉄工所、木工所、映画館、旅館、食堂、理容院、雑貨店、食料品店が軒を連ね、最盛期には戸数170戸余で人口 800人余(年代不明)として朝日町内の市街地の一つとして繁栄していた。
似峡はダム建設により水没した集落であったが、ダム建設が計画された要因として「天塩川の治水」「大東亜(太平洋)戦争末期より、戦後にかけての食糧危機による天塩川上流地区の農業開発」「ダム建設の旗印とされた電源開発」である。
特に、天塩川上流地域の農業用水不足問題は永らく市町村の課題であったとともに、発電設備は戦時中の酷使により稼働率が低下し、住民生活にも大きく影響を及ぼしていた。
昭和25年3月 当時の士別町長 中屋金次郎が北海道知事 田中敏文にダム建設の必要性を陳情した。
昭和26年11月 改めて書面上で陳情書を提出した。
昭和27年 電源開発本部による現地調査が行なわれていたが、その時は似峡までバスで移動し、現地への移動手段は森林鉄道を利用して調査が行なわれた。
昭和28年と30年に天塩川の洪水災害が発生する。
特に昭和28年7月31日 集中豪雨により上士別村にあった士別土地改良区の貯水池が決壊し、住民3名が濁流に飲まれ1名亡くなった。
これが契機となり、電源開発に重点をおいていた計画が洪水調節、さらに士別市の上水道、工業用水確保を併せた多目的ダムの構想が具体化して行った。
昭和32年に「天塩川上流総合開発概要」により岩尾内に決定する。
天塩川水系総合開発期成会の運動が実り、昭和38年度建設省予算に岩尾内ダム実施設計費が計上され、岩尾内ダム建設が決定した。
水没関係者は「岩尾内ダム対策委員会」を結成し、用地買収補償等の交渉が進められていった。
昭和40年12月 「岩尾内ダムの建設に伴う用地買収及び損失補償に関する協定書」の調印を終えた。
昭和40年12月7日付の北海道新聞 上川北部版に「さびしく最後の越冬へ 水没する似峡部落の近況」という記事がある。
越冬する約150世帯の日常生活を取り上げているが、食料品は農協支所が取り扱うだけで、まとまった買物や散髪は20キロ離れた朝日市街まで出なくてはいけないことが記されている。
昭和42年3月31日 似峡小中学校 閉校。
閉校後、昭和42年7月30日にダム建設起工式、8月25日に定礎式が行なわれた。
昭和45年11月2日14時 放水路のゲートが下り、湛水が開始されて似峡は水没した。

似峡跡地への入口。
この看板の先に、水没した似峡集落がある。

探訪した時は水位が低下していたので、集落跡地へ行く事ができた。
学校跡地は、このT字路付近にあったららしい、とのことである。

この道を進むと、かつては茂志利地区へ続いていたが水没している。

T字路周辺を見るが、学校の基礎らしきものは見つけることが出来なかった。

周辺には、玉石や側溝の跡も残っている。

もう少し進むと、建物やと桝と思われる基礎があった。

傍にある建物の基礎を見ると、キャンプをした痕跡があった。

遠くを見ると、あちこち建物の基礎を確認することが出来る。

普段は湖底に沈んでいるので、なかなか見る機会もない。
次に見られるのはいつになるだろうか。

学校跡地周辺の風景。
人々が去り、ダムの底に沈んでも集落の面影は辛うじて残っていた。
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