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士別市湖南

士別市湖南(平成25年6月30日探訪)

士別市湖南は、全戸離農して消えた集落であった。

湖南は士別市温根別町と朱鞠内町朱鞠内の境界に位置し、昭和29年5月 上砂川町出身の秋元雄一郎ら6戸が開拓した戦後開拓集落である。

その後、昭和32年1戸、33年2戸、34年2戸の計11戸が入植した。

子供たちは北14線にある北温小学校(明治41年5月15日開校・平成10年3月31日閉校)に通学していたが、片道8キロの道は悪路で、冬期は豪雪により欠席する日が多かった。

このような環境であったので穴沢友治、成田正貫、石沢豊作らが学校設置に奔走し、昭和32年10月20日 士別市立北温小学校湖南分校として開校した。

昭和34年11月1日 士別市立湖南小学校として独立した。

しかし、湖南の生活環境は厳しいものがあった。

「士別戦後開拓史」(平成元年12月20日発行)に「士別地区内の適地の選定」という項目がある。
この中に湖南が登場するが、その件を引用する。

「旧温根別村北十八線地区(別名湖南二八九㌶)」

「空知支庁幌加内村と、温根別村の境界に位置し発電用人造湖朱鞠内湖畔に在り、温根別市街より十八キロの遠隔地で、地形は平坦であったが、地味は瘦薄で飲料水の便利が悪く、湖畔特有の寒冷な気温は氷点下30度は珍しくないなど、あらゆる面から見ても開拓不適地で、国有林と道有林の開放地である。」とある。

また、元湖南小学校校長 佐々木定夫氏の手記にはこうある。

「…地形、地味も十分でないうえに寒冷豪雪、そして既存農家と遠隔のため冬季間の交通途絶、郵便物の集配や電気、電話も無く、飲料水まで川水利用という無い無いづくしの中で小学校が開校したのであった。」

そして、昭和45年4月1日付けの北海道新聞 上川北部版に「消える湖南(士別)の農家 融雪待ち全戸離農」と出た。

新聞掲載当時で5戸24名の人々が暮らし、夏季は麦、大豆、ジャガイモ、ビートを栽培し冬季は近くの冬山造材で生計を立てていた。
だが、交通の便が悪く最寄の病院まで17キロも離れており、尚且つ豪雪地帯であることが全戸離農に繋がってしまった。

士別市立湖南小学校は昭和45年3月31日付で廃校となった。

全戸離農後、昭和46年から48年にかけて163,8haの草地を造成し、道営大規模草地開発事業として「湖南放牧場」として昭和49年に開設された。
湖南牧場は畜産振興に大きな役割を果たしてきたが、昭和61年に廃止された。

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幌加内町と士別市の境界に位置する湖南地区。
右手のシラカバの背後に、校舎はあった。

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校舎は既に無く、牧場関連の施設が残る。

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ふと左手を見れば、錆びた街灯があった。
学校関係のものだろうか?

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遠くに見えるマツの木は、ここで人々の営みがあった数少ない名残である。

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学校跡地よりすぐ先には幌加内町のカントリーサインが見える。
探訪当時、ここが士別市の一部であることに驚いた。

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湖南の中央部より温根別方面を望む。

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何となく畑作が広がっていたような痕跡があるが、すっかり自然に還ってしまっている。

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開拓の夢は破れ、無住の地となってしまい40年以上が経過した。
「湖南」という地名も忘却の彼方か。

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湖南の中央部より学校跡を望む。
豪雪・寒冷・へき地・無医地区・交通不便と云う条件に勝てず消えてしまった。
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士別市大英(改訂)

士別市大英(平成24年9月22日探訪)

大英は戦前、銅鉱山の開発で賑わい、戦後は開拓農家で賑わった集落であった。

大英を含む上士別地区は明治33年に開拓・入植が始まり、明治末期には奥士別(現在の士別市朝日町)まで開拓が進んでいた。

大正4年頃に銅鉱石採掘のための調査が入り、大正7年から9年まで藤田鉱業により産出され、最盛期には工員数十人を数え、事務所、選鉱場、配給所、工員住宅、見張所、豆腐屋、荒物雑貨屋が建ち並んでいたが、鉱脈が狭かったために3年で採掘を終了している。

銅鉱山の開発により、現在の熊の沢入口までは早くから開拓されていたが、熊の沢入口より南側は未開の地であった。

大正15年 林野局で造林人夫確保のため、熊の沢入口以南の土地の貸付を行った。大和から11戸のほか、兼内・下士別・温根別・和寒からそれぞれ入植者が現れ、計15戸が入植した。しかし、ササが多く土地も固かったため、収穫は2,3年殆どなかったそうである。また、周囲は鬱そうと生い茂り、クマも出没していたため夜の外出はできなかった。

昭和9年ごろに開拓道路が開発されたりもしたが、大英としては大きな変化が無かった。

大きな転換となったのが昭和20年である。

大東亜(太平洋)戦争が激化し、終戦直前に北海道帰農隊の募集が都内で行われた。
この時参加した方の話によると7月13日 上野駅集合時、2000人あまりの人であった。7月20日 上士別地区に20戸入植したが、入植者の大半は農業未経験者であった。

昭和21年、政府の戦後緊急開拓入植政策により、21戸が「大和開拓団」と称し入植した。
ササの根を掘り起こしての開拓から始まり、この他に開拓日報の提出に伴う常会も行われていた。

昭和24年頃になると入植者数もさることながら、子供の数も増加した。平岡司を筆頭に集落挙げて、村(上士別村)に働きかけた。上士別開拓農協参事であった折田万之亟、佐藤雅雄の協力で陳情書を提出したが財源が無かった。
上川支庁開拓係から、開拓予算の中に教育施設枠の予算があるのを聞き、陳情に赴いたが下川村(現 下川町)との折半であった。不足分については現 上士別中学校のところにあった馬検場の建物の移築、村有林の払下げを行うことによりようやく学校設立の目処が立った。

昭和25年 馬検場を解体し、材料を運び入れて建設が始まり、同年11月1日 1教室及び教員住宅(50坪)として大英小学校が開校した。

大英は農繁期(5月中旬)、休校していたが雨天のときは有線放送で授業がある旨を伝えていた。

昭和34年8月30日 大英神社の設立が行われ、9月5日 神社の祭典が初めて行われた。この日は短縮授業となり、校内では映画会が催され約100名の人びとが来校した。

昭和38年11月14日 体育館と校長住宅が落成し、落成式・祝賀式が開催された。感謝状は大江建設株式会社社長・専務・折田万之亟の3名に授与された。

昭和40年4月2日の北海道新聞 上川北部版に大英の記事が掲載されているので紹介する。

「二人で築こうしあわせを 開拓地に咲いたある結婚」

【士別】農村での花嫁探しは深刻な問題にまでなっているが、“開拓地にも希望はある。幸福は二人の努力で築くもの-”と、十九歳の若い女性が花嫁に立候補、たくましく美しいカップルの誕生は春に咲いた開拓地の話題になっている-。
士別市上士別の大英開拓地、公民館で三十日、部落の人たちが総出で結婚式に出席、若いカップルの誕生を心から祝い、喜び合った。大英開拓地の山路正義さん(28)と共和開拓地の竹島美津子さん(19)の結婚。(中略)正義君にいいお嫁さんを探してあげよう-と部落の人たちが花嫁さがしを始めた。ところが、なかなか見つけることができなかった。そんなとき、共和開拓地の竹島美津子さんがこの話を耳にした。美津子さんは上士別中学校を卒業して仕事の手伝いをしていただけに開拓地の苦労は身にしみて知っていた。
『人間一度は苦労するものと聞いている。幸福はみずからの努力の上に築くものだし、開拓地にも希望はある-』としっかりした考えの持ち主だった。『わたしでよければ-』と花嫁に立候補。大英小学校の井出校長の夫妻も喜んでなこうどになってくれた。
祝賀会場には五十三人の部落の人たちがみんな自分のところのように喜び合い、若い二人を祝ったが、雪深い山峡の開拓地に祝いの歌声が明るくこだましていた-。

しかし、離農による過疎化が進み、昭和44年2月15日 PTAの臨時総会が行われた際『大英小学校統合の件』が議題に挙がった。

同年10月1日 臨時総会が再び行われた。話し合った内容を一部引用する。

車(スクールバス)は10人乗りの安心して乗れる車を入れて欲しい、
車の乗り降りの指導の徹底、待合所の具体化。
道路の除雪を完全にしてほしい。
統合の時期は11月23日の学芸会が終わってから統合はどうか。上小(上士別小学校)の新校舎が完成と同時に統合(11月25日頃を考える)
その他 卒業式の時廃校式を行なう。公民館の運営について、学校の財産処分についてなど話し合われた。

その結果、11月14日の臨時総会で以下が決定した。一部を抜粋する。
・昭和45年度より統合、12月1日より形式統合
・大型のマイクロバス(21人)を購入した。
・車の持ち主と地本(原文ママ)PTAが契約
・乗車場 工藤氏 山内氏 泉谷光氏宅前の三ヶ所とし、7時40分集合

昭和45年3月15日(日)大英小学校閉校式が行なわれ、閉校になった。卒業生総数85名。最終年度の卒業生は2名であった。

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今回は手前の大和集落より峠道(パンケ越)を通って、徒歩で探訪した。
手前の砂利道へ行ってみる。

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この砂利道の先に山路氏のお宅があったが、今は何も無い。
山路宅周辺は昭和21年以降、山路氏を含め5軒の開拓農家があった。

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大英小学校手前に残る教員住宅。

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右側の住宅は面影をとどめている。

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教員住宅内部。昭和58年頃まで使われていた。

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左側の住宅は雪害で倒壊していた。

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士別市大英小学校。校舎は傷みながらも健在であった。

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教室内部。この後ろには体育館が建てられていたが、既に撤去されている。

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今も掲げられたままの校歌。

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隣接する校長住宅へ行ってみる。

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雪害で屋根が一部、抜け落ちていた。
2階の畳も腐り、もう足を踏み入れることは出来ない。あとどれくらい持つのだろうか。

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校舎を後にして、校舎前にあった大英神社跡地へ行く。
神社跡地はチップの集積場と化していた。

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チップの山に登り、校舎を望む。

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舗装道路に出て、大英に唯一住まわれている辻本牧場へ。

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大英地区で唯一住まわれている辻本牧場。
住まわれている辻本氏に話を伺うと「私は学校が無くなる前に、ここに住み始めたので詳しいことは分らない」とのことであった。

辻本牧場の間を通る通称「熊の沢」という道を辿ってみる。

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歩き始めて間もなく、家屋が見えてきた。

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此方の家屋は平尾宅。
平尾氏は現在、通い作で訪れているとのことである。

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平尾宅よりまだ道が続いているので、歩いてみる。


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やがて、左手の見通しが良くなった。

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五右衛門風呂だろうか?傍に、廃車が棄てられていた。

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さらに進むと、家屋が草木に埋もれかけていた。
表札は「鈴木」と書かれている。
玄関はしっかりと施錠されていた。

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鈴木氏宅の先には、離農して久しいサイロの基礎が2基あった。
このサイロ、道路から結構高いところに建てられている。
戦後開拓で入植した方が使用していたものと思われる。

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そのサイロの先に、倉庫があった。
誰か管理しているのだろうか。

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さらに奥は道が二股に分かれていたことと、熊と遭遇する可能性もあったのでここで引き返した。

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引き返した道の風景。
かつて、ここに家があり、畑が広がっていたとは思えない風景である。

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足元を見れば、倒壊して久しい家屋の一部があった。
こうして自然に還り、人々が暮らした痕跡も消えてしまうのだろうか。

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辻本牧場まで戻り、兼内方面へ再び歩く。
先に見える橋は六辻橋と呼ばれる橋である。
恐らく、この橋の近くに六辻氏が住まわれていた可能性があるが、確証は持てない。
六辻氏は戦後、澱粉工場を経営していた。

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右手を見ると地神さまが祀られていた。
元々は反対側にあったものだが、こちらに移設されたようである。

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パンケ橋の近くより大英を望む。
戦前は銅の産出、戦後は開拓農家で切り開かれたが、その痕跡も失われつつあった。

士別市大英

士別市大英(平成22年5月3日探訪)

大英小学校

大英小学校校舎内部


大英地域はもともと、営林署と銅鉱山、農家が点在していた地域でした。
作物は主に菜種、金時などが栽培されていたようです。
戦後、被災者の入植や満洲引揚者が急増して開拓されるようになりました。
昭和25年11月1日 大英小学校 開校。校名の由来は「英でた人物が育つように」という意味です。

山あいの学校でしたが昭和36年 当時の校長 井出宗重氏が「環境の整備」を掲げ花壇の造成。
沢水を利用して養魚(ニジマス)を始めます。
当初は理科の実験としての目的が強かったのですが、児童たちが自主的にニジマスの面倒を見るようになり
「ニジマスを飼う学校」という見出しで北海道新聞(上川北部版)に掲載されました。
その後、大英小学校は「環境美化」で有名な学校となり昭和40年 士別市花壇コンクールで最優秀賞を受賞しました。
しかし、このころから大英地区の離農が始まり昭和45年3月31日に閉校。

大英は現在、1世帯(牧場)しかいない集落です。


校舎前の廃屋と校門
校舎前にあった校門と廃屋。
廃屋は教員住宅の可能性があります。

校舎跡・池・花壇跡
校舎前の風景。
マル印をつけたところに「大英神社」がありました。

校歌
校舎内に残されていた校歌。
校歌は閉校直前、木造博・美恵の両氏によって作詞・作曲されました。

昭和45年 大英小学校は閉校しますがその時に作られた「歌」が存在します。
その名も「別れの歌」
恐らく、閉校式のために作られたものでしょう。歌詞を掲載します。

1 楽しく過ぎた大英の 学びの庭よさようなら
  明るく強く胸を張り 今日は別れの春の窓
  変らぬ誓い友情を みんなでみんなで歌おうよ

2 思いで残る校庭の 緑よ花よさようなら
  果てない夢をえがきつつ 今日は別れの手を握り
  伸び行く春の喜びを みんなでみんなで歌おうよ

校長住宅
複雑な思いを胸に秘め、隣接する校長住宅へ行きます。

校長住宅内部 居間?
校長住宅も傷みが進んでいました。

2階の窓より
2階へ昇り、2階の窓より校舎を眺めました。
大英も、再調査が必要なので機会があればまた、足を運びたいものです。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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