fc2ブログ

八雲町八雲鉱山

八雲町八雲鉱山(平成26年10月12日探訪)

八雲町八雲鉱山は、鉱業で栄えた集落である。

鉱山の生い立ちは古く、延宝2年(1674)に金・銀・鉛などを採掘し、当時は「遊楽部鉱山」と呼ばれていた。
ただし八雲市街地からも離れていたため、生産高に限界が生じ経営者も何回か代わっていった。

昭和6年 八雲鉱業株式会社が経営するようになり、当時産出していたマンガン鉱が脚光を浴びると、経営規模も次第に拡張していった。

経営規模の拡張に伴い、戸数も増加するとともに子弟も増えていった。

会社側は、子弟の教育のために町と折衝した。

将来的に、校舎や設備関係は会社が負担するが、取りあえず鉱夫長屋を仮校舎として、机・腰掛け等の設備の全部を負担すること、教員の俸給・消耗品といった経費関係の半額を会社に寄付することを条件とした。

昭和9年5月20日 八雲尋常高等小学校付属八雲鉱山特別教授場として開校した。
開校当時の教員として、斉藤左一郎が任命された。

昭和11年 八雲鉱山の経営母体が中外鉱業株式会社に移行した。

支那事変により、マンガンの増産が要請され事業を拡張していった。
当然、児童も急激に増加し、尋常科を卒業した者の教育も配慮しなくてはいけなくなった。

昭和15年 会社としては新校舎を建築し、会社が経営している間は無償で町に貸与すること、経費一切を寄付することを条件として提示した上で高等科を併設するよう請願した。

これについて、昭和15年3月27日付の函館新聞に、こう記されている。

「独立を要望 二小学校昇格申請」
「(前略)又八雲鉱山特別教授場は入山者の増加に伴う二学級編成と共に八雲鉱山尋常小学校として独立の希望あり。この申請も渡島支庁に提出されたがいづれも附日認可をみる模様であると」とある。

町はこれを認め、同年3月26日 八雲鉱山尋常高等小学校として認可。
新校舎は同年9月に完成。2学級編成(60名)となった。

これを裏付けるものとして、昭和15年3月31日付の函館新聞に「八雲鉱山尋常校申請認可さる」とある。

「予ねて申請中の八雲鉱山教授所は二学級に増級。四月一日より尋常小学校に昇格指令され八雲鉱山尋常小学校と改称されて始業することになった」とある。

昭和16年4月1日 八雲鉱山国民学校と改称。

昭和22年4月 八雲鉱山小学校と改称。
併せて、八雲中学校八雲鉱山分校が併設されたが、昭和23年4月 中学校は独立。

昭和25年 中学校校舎を増築。

昭和31年6月 へき地集会室の増設。

学校の経費に対する会社側の寄付もその後廃止され、校舎も町に寄付された。

昭和30年 小学校児童数129名(3学級) 中学校生徒62名(2学級)を数え、さらに増加していった。
特に、小学校児童数は昭和34年から36年にかけて、150名(4学級)を超えていた。

町では昭和35年に中学校校舎に2教室を増築した。
併せて、小学校校舎も一部増築や修繕を行った。

この時がピークだった。

昭和37年 マンガン埋蔵量に限界が見えてきたことから大幅な縮小転換が行われた。

昭和38年の在籍数 小学校90名 中学生37名に激減した。

町は理科実験室(昭和39年)、へき地集会室(昭和40年)の新築を行い、整備に努めた。

会社の経営母体は、昭和40年に八雲鉱業株式会社に移行した。
だが、生産額の減少や悪条件が重なった。

昭和44年4月末をもって閉山となった。

昭和44年当初は小学校39名 中学校14名が在籍していたが、閉山に伴い転出者が続出した。

北海道新聞(渡島・桧山) 夕刊 昭和44年5月23日付の記事に「残り少ない〝ヤマの灯〟 閉山の八雲鉱業所の表情」として取り上げられている。
記事が掲載された時点で、鉱山勤務者は事務職員・選鉱員・退職者ら30名ほどが最後の仕事に従事していた。
一方、学校のほうは15名の子供たちが、運動会の練習に余念がない様子を取り上げていた。

この記事から間もなく、昭和44年5月27日付の渡島・桧山版に「閉山、廃校を前に最後の運動会 まちぐるみ楽しく」とある。

5月25日、鉱山最後の運動会ということもあり、八雲鉱業・八雲鉱山小中連合の大運動大会が行われた。函館や町内各地より先輩や先生らが詰め掛けた。

紅白玉入れのほか、リレー、ビールやジュースを早飲みする「ちょっと一杯」などのゲームが行われた。

ソーラン節や盆踊りを踊って終了した時、香田校長(注)は「もうこの体育館を使って運動会を開くこともないでしょう。みなさん、きょうの思い出を忘れないで…」と言葉を詰まらせながら挨拶すると、父母の中には目にハンカチをあてる姿も見られた。

(注)北海道新聞記事では香田校長とあるが、道南の廃校に詳しいラオウ氏の話によると、実際は教頭職で、当時は大橋校長が赴任していた。

運動会の後、町長、教育委員長も出席して「お別れパーティー」が行われ、昔のヤマの話やこれからの生活の話で盛り上がった。

学舎は、昭和44年7月31日付で閉校となった。
最後まで残っていたのは、校長先生の娘だけであった。

その後、昭和44年8月22日付の夕刊(道南版)に「小中校の統廃合必至」という記事が掲載されたが、写真は八雲鉱山小中学校であった。

CIMG4203.jpg
八雲町上鉛川小学校跡地を過ぎ、どんどん進む。

CIMG4204.jpg
この橋(道)の先に坑口があるが、木々が生い茂っており見出すことはできない。
また、かつて橋を渡って左手に、ズリ山があった。

今回は橋を渡らず、先へ進む。

CIMG4167.jpg
走っていくと、右手に学校跡の記念碑が見えた。
記念碑建立が話に出たとき、八雲鉱山出身者で結成しているOB会が「学校の記念碑を建てるなら、一番立派なものを建ててくれ」と町に頼んだ経緯がある。

CIMG4170.jpg
学校跡地は草木で覆われていた。

CIMG4171.jpg
しかし、よく見ると体育館の基礎が残っている。

CIMG4173.jpg
こちらは体育館の基礎ではなく、職員玄関の基礎である。

CIMG4199.jpg
鉱山事務所の手前の道路わきに「お墓」があった。
手を合わせていたワンダーフォーゲルの方に伺うと、かつての八雲鉱山の墓地はこの真上にある、とのことであった。
参拝者が少なくなったため、集約したとのことである。

CIMG4200.jpg
八雲鉱山墓地はこの上にある。
手を合わせた後、ササにしがみつきながら上へ目指す。

CIMG4189.jpg
上りきった先には、墓石が転がっていた。

CIMG4191.jpg
あちこちに転がっている。
草木も生えているので、うっかりすると踏みそうになってしまう。

CIMG4193.jpg
刻まれた文字を読み取ろうとするも、風化が著しく困難であった。
ただ、読み取れたものは「江戸末期~明治初期」の墓石であった。

CIMG4197.jpg
目印にイチイ(オンコ)の木があるが、これではわかり辛い。
再び、斜面を下る。

CIMG4188.jpg
墓地の向かいには、橋が架かっている。
ワンダーフォーゲルの話によれば、この橋の先にはかつて、診療所や迎賓館があった。

橋を渡らず、先へと進む。

CIMG4187.jpg
少し先へと進むと、イチイの木が一本見えた。
何かがあると思い、ササを掻き分けて上る。

CIMG4183.jpg
上った先には「殉職産業人之碑」が建立されていた。
八雲鉱山部落会が昭和18年7月に建立した。

CIMG4186.jpg
その隣には潰れた屋根があった。
後でワンダーフォーゲルの人に訊くと「薬師如来像」が祀られていたとのことである。

CIMG4181.jpg
さらに進み、八雲鉱山事務所跡へと着いた。
現在は、雄鉾岳登山の入口になっている。

CIMG4177.jpg
傍には山神社が祀られている。

CIMG4178.jpg
橋が崩れてしまっていたが、小川を越えて参拝した。

CIMG4175.jpg
最奥に、郵便局(鉛川郵便局)の局舎があった。
局は学校と同じ、昭和44年7月31日付で閉局となった。
現在は、山小屋として八雲ワンダーフォーゲルが管理している。

CIMG4201.jpg
帰り道、ふと見ると木製電柱が残されていた。
登山ブームで賑わいを見せているが、鉱山で賑わいを見せていた人々の声は、もう聞こえない。

八雲町上鉛川

八雲町上鉛川(平成26年10月12日探訪)

八雲町上鉛川は、明治40年遊楽部川と鉛川の合流点より遡ることおよそ10キロから22キロに渡るペンケルペシュペ殖民地内の基線地帯が区画開放された。

※「遊楽部川と鉛川の合流点より遡ることおよそ10キロから22キロ」であるが、これだと八雲鉱山まで該当してしまうので「八雲町史」の文面は間違いである。
遊楽部川と鉛川の「合流点」から起算すれば、大体6キロである。

※「10キロから22キロ」は八雲駅から起算しての数字である。

当時の人々は「奥鉛川」と呼んでいた。

明治41年 渡辺久三郎ら5戸が入植し、明治44年には戸数40戸を超えていたが、当時は道路そのものが無かった。
そのため、開拓と同時並行して雲石街道の開削が進められていた。

鉛川下流区域の子供たちは、鉛川特別教授場(後の鉛川小学校)に通学することができたが、上流部の子供たちは通学の距離の関係で出来なかった。

住民らは総力を結集し、教育所の創設を陳情した。
その結果、大正2年1月 特別教授場の新設について議決を得ることができたが住民らは先駆けて私設教育所を開設し、末松謙を教員として雇った。

だが、公設が容易に実現しなかったため、私設のまま維持できる資金もなく翌3月限りで廃止となってしまった。

しかし村もこのままにするわけにはいかず、これを仮校舎に当てて大正3年4月10日 八雲尋常高等小学校付属上鉛川特別教授場として開校した。
開校当時の戸数は42戸で、児童数は24名。教員として大江安蔵が任命された。

翌大正4年 児童が32名に増えたことや仮校舎が粗末であったこと、建築場所自体が低湿地であったため、早急な改築が迫られた。

住民らは協議を重ね、ペンケルペシュペ基線10号58番地(当時 田中今吉所有)の土地を借り受け、村からの補助金100円と寄付金160円を集め、出役奉仕で同年9月に新校舎が落成した。

大正5年 児童数が36名を数えたが、この時が頂点であった。

大正12年度までは30名台を維持してきたが、大正13年度に20名以下に落ち込んだ。

昭和3年に再び20名台を維持し、昭和13年頃まで続いた。

昭和16年4月1日 八雲国民学校上鉛川分教場と改称。

昭和22年4月1日 八雲小学校上鉛川分教場と改称。

昭和25年10月1日 上鉛川小学校と独立。

昭和26年1月より中学生3名を、小学校で委託を受けて教授する方式が取り入れられていたが、昭和27年9月 上鉛川中学校が設立された。

また、老朽化した校舎の改築が急がれていたことから昭和29年10月 49坪の校舎を新築した。

小学生20名 中学生8名で新体制を整えたが、間もなく過疎化の影響を受け始めていった。

昭和34年 小学生10名 中学生6名。

昭和39年 小学生3名 中学生4名にまで減少し、残された住民と話し合いをした結果、児童生徒の通学輸送を要件として話がまとまった。

昭和40年3月31日 閉校となった。

閉校後、長らく校舎の一部や教員住宅が残されていた。

時が経ち、平成20年度・21年度に八雲町地域バイオマス利活用施設の建設工事が行われた。

工事は平成22年3月25日に完了し、稼働が始まった。

工事に伴い、辛うじて残っていた校舎の一部や教員住宅は解体された。

CIMG4162.jpg
学校前の風景。
真新しい工場が稼働しているが、工場以外の建物は見当たらない。

CIMG4163.jpg
工場の片隅に、学校跡地を示す記念碑はあった。

CIMG4165.jpg
紛れもない、上鉛川小中学校跡地である。

CIMG4205.jpg
学校跡地より奥の風景。
サイロも残されていたらしいが、道南の廃校に詳しいラオウ氏の話では「道路工事の際に撤去されてしまった」とのことである。

CIMG4212.jpg
学校手前にあった上鉛川神社跡地へ行ってみる。

CIMG4206.jpg
背後には、ご神木と思われる樹木が聳えている。
笹薮をかき分けて進む。

CIMG4207.jpg
拝殿の屋根があった。

CIMG4208.jpg
別な角度より。
上鉛川の痕跡は、学校跡地の記念碑と拝殿の屋根しか残されていなかった。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR