八雲町夏路
八雲町夏路(平成26年10月12日・13日/平成27年5月3日探訪)
八雲町夏路は農業・林業(炭焼・杣夫)で栄えた。
明治33年 利別-八雲間の仮定県道が開通し、翌 34年11月 夏路駅逓所が設けられ、管理を任された岩間儀八の努力により、明治35年 官林開放による入植者が現れた。
岩間は、入植者子弟の教育問題に腐心していたが、サックルペシベ(略称 サックル)から大関本校までの通学は極めて困難であった。
当時、大関本校まで片道6キロ(往復12キロ)かかり、さらに交通機関は夏路駅逓所しかなく、冬期間については雪で交通が杜絶するような状況であった。
「夏路」の名の由来は、道(路)は「夏」しかない(冬は雪で道が無い)ことから「夏路」と名づけられた。
岩間は、駅逓所の物置9坪を教室や所要施設として改造し、美唄より大岡兎喜男を迎え、明治37年6月 私設教育所として開校した。
開校当時、教科書はもとより、教具らしいものもなく、各自持ち寄った机や腰掛けのほか生徒一人当たり50銭を集めて教員の給料とし、教員の食糧も住民負担という状態であった。
明治38年3月 村の住民らは連署を携えて公設にするよう村に願い出たが、村の財政事情も厳しく、すぐに公設にできなかった。
公設の認可が下りたのは9月に入ってからで、大関尋常小学校付属サックルペシベ特別教授場として創設された。
このとき建てられた12坪の校舎は、住民の寄付によるものであった。
校舎が建てられ、公設の学校が認可されたが児童数が伸び悩み、また、トワルベツ(後の富咲集落)の開拓が進んでいた。
トワルベツも明治41年12月15日 大関尋常小学校付属トワルベツ特別教授場として開校しているので、トワルベツの校舎も建てなければいけない状況下であった。
こうしたことから、村当局は財政事情によりサックルとトワルベツの両教授場を統合する目的で、明治42年8月 サックルとトワルベツの境界付近に統合校舎を建てた。
だが、トワルベツは教員が不便であるという理由で移転せず、サックル側も通学が困難であることを理由に応じず、従来通りの教授場で続けていた。
村の目論見は失敗に終わり、再興を願う運動が実を結び、明治43年5月1日 再び「サックルペシベ特別教授場」として公設されることとなった。
大正4年4月 カタカナ書きの校名より「夏路特別教授場」と改めた。
この頃より通称 越後団体へ入植する人が多くなり当然、学童も増加していった。
大正6年 校舎が新築された。建築総工費 277円46銭であるが内訳は村からの補助金として50円、残り227円46銭はすべて夏路の人々(35戸)や、篤志家からの寄付によるものであった。
大正13年には児童数38名を数えていた。
大正中期から昭和初期にかけ、トワルベツ(富咲)にも相当数の入植者がいたことから、両地区の祭典の余興の盛大さは大関地区よりもはるかに凌ぐ人々で殷賑を極めていた。
昭和14年4月 大関尋常高等小学校夏路分教場と改称。
昭和16年4月 大関国民学校夏路分校と改称。
※越後山方面へ入植していった越後団体は、土地条件の悪さや家族の病気等により、次々と転出していった。
特に、戦時中には一気に10戸が転出していった。
転出先の多くは、駒ケ岳方面であった。
昭和22年4月 大関小学校夏路分校と改称。
夏路のピークは大正13年の34戸であった。
大正期の夏路のエピソードとして、「分校通信 夏路」(第19号)には、佐藤浪四郎が澱粉工場にまつわる思い出を寄せている。
「澱粉製造の盛んだった時代は、大正3年から7年にかけた時代でした。」
「この時は、5円のものが10円位までに価格があがりました。」
「(中略)サックルには、澱粉工場が4箇処ありました。」
「藤田さん、山田さん、大口さん、それに私たちのところです。」(後略)(注1)
(注1)「夏路分校閉校記念誌」によると、大正6年校舎新築時の居住者で澱粉工場があった世帯主の名前は藤田辰之助・山田木平・佐藤浪四郎である。「大口」の名前は見当たらなかった。
昭和20年頃より離村者が相次いだ。
それまで在籍児童数は二桁台で推移していたが、離村のために在籍児童数は二名にまで急減してしまった。(注2)
(注2)「八雲町史」によると「昭和22年ではわずかに5戸となり、23年には在籍児童数が2名となって、日本一小さい学校ということでニュース映画によって全国的に紹介されたほか、テレビでもしばしば紹介された。」とある。
しかし「夏路分校閉校記念誌-七一年の歴史を讃えて-」の「サックルベツ地区に居住した住民分布図」(昭和25年頃より35年頃まで)を見ると、12戸の氏名がある。
名前を列挙すると「藤原半七 藤田武次郎 佐藤寅蔵 吉田兼治 佐藤仁太郎 佐藤浪四郎 田原静 栗原清春 遠藤健一 阿部健 藤田宇三郎 阿部重男」の名前があるが、これらの人々は昭和15年頃の住民分布図にも名前が記載されているが、校区については何処が境界か分からなかった。
昭和36年 豚の飼育(5頭)が始まる。「文集 夏路」第11号には、こう記されている。
豚一号 PTA副会長 佐藤 忠助
「最初、豚の子5頭の飼育から始めました。最高飼育数は20頭でした。」
「その後、部落に電気が敷設されました時に、内線工事の資金を作るために全戸で豚の飼育を始めたわけです。」
「電気の敷設については、計画的に実現されたわけではなく、突発的に実現化されたものでしたから資金(現金による)のやりくりが実にめんどうでしたから豚の飼育による収入をそれに当てることにしたわけです。」
「(中略)それから後、各戸が計画的に豚の飼育を継続して、現在に至っております。(後略)」
また同年、藤原半七は田を造っているが、その時の話を「文集 夏路」(第9号)に寄せている。
「夏路で初めて田を造ったのは、私でした。」
「(中略)土地の条件、気候の条件に恵まれませんので予想以上の苦労がありました。」
「春が遅いため、自分で苗を作ることがめんどうですので、ほかの土地から苗を分けてもらってそれを植えなければなりません。」
「(中略)それでも自分の住む土地ではじめて米をとりいれ 自分の作った米を食べたときの嬉しさは今でも忘れることができません。(後略)」
夏路は人との繋がりもあるとともに、「花と小鳥と文集の学校」として有名な学校であった。
北海道新聞 渡島・檜山版 昭和32年8月1日付で「辺地校(夏路分校)を慰め八年間 その主、はるばる稚内から…喜びの対面へ」とある。
「(前略)二十九日の夕方山峡の石だらけの路をスーツケースを下げた色白のお下げの少女を先頭に日焼けしたこどもたちの一団が分校へ向かって急いでいた。(中略)この電気もない辺地の小さな学校の生徒たちを慰め続けてくれた少女がはるばる稚内からはじめて訪れて来てくれたのだ。」
「それは忘れもしない昭和二十五年二月のことだった。(中略)漁業、長尾啓太郎さんの三女久子さん(当時十一歳=稚内市北小学校六年生)は少年雑誌に生徒わずか三人という日本一小さい学校が遠い八雲町の奥にあることを知った。」
「学校からは折返し礼状がとどきそれから八年間夏路分校と北の海辺の少女との文通だけの交際が始まった。久子さんは月に一回は必ず北の海の模様を伝えた春ニシンの話、夏のコンブとり、冬はすさまじい海峡の吹雪のこと…夏路からは子牛の生まれたこと、夏のどじょうとり、秋のキノコ狩りの便りが伝えられ、やがてお互の写真までが交換されるようになった。(中略)」
「札幌の高校の通信教育を受けていた久子さんは七月の末、講習のため札幌に出ることに決り、そのついでに夏路を訪れるという手紙を六月の末学校に書き送った。夏路の部落は大騒ぎだった。開拓者のPT会長さんと昨年春拓大を卒業して辺地校を志願した二十五歳の先生(注3)との間で歓迎の準備が進められた。(中略)」
(注3)「二十五歳の先生」とは堀内利勝先生のことである。堀内先生は森高校・拓殖大学を経て昭和31年卒業、同年7月に夏路分校に赴任した。
「久子さんが到着した二十九日八雲駅には先生と、最初に文通した三人のかつての生徒が迎えに出た。(中略)学校では生徒はむろん、赤ん坊からおじさんまで部落中の人々が集まり焼ちゅうとお汁粉の表彰式が開かれた。孫やこどもたちがこの上なく慕っていた久子さんを目のあたりにしてPT会の年寄りたちは「世の中がみんなあんたさんみたいなやさしい心の人ばかりだったら、なんぼよいことだろう。なあ長尾さん、ダンナさんでもらっても来てくれろ」としみじみお礼をいった。冷害でアンコのうすいお汁粉をすする小さな生徒たちに囲まれて恥ずかしげにうつむく久子さんのほおにはあふれ出る涙の筋が光っていた。」
また、夏路は分校主任 渡辺富太郎が集落の人たちに、自分の教育に対する考え方や学校の様子を知らせようと「文集 夏路」を創刊した。
当初は教育の考え方や、学校内外で起きた出来事を紹介していたが、次第に子供たちの作文や詩、植物の観察日記を掲載していった。
子供たちが書いた作文の中には、北海道新聞に掲載されたものもあった。
一方で、夏路の気象は厳しいものがあった。
昭和46年1月31日付(市内版)
「過疎を見つめる」シリーズ3回目 医者のいない不安 30箇所余りが孤立 保健婦にも見放される
「ついこの間、吹雪の朝-。熱の下がらない幼い子をドラムかんを改造した牛乳運搬のそりに乗せて二十㌔も医者を求めて走った日のこと-。そのことが八雲町上八雲夏路部落の佐藤幸男さん(28)夫婦の頭に強く焼きついて離れない。いや昨年も同じようなことがあった。その時は、馬そりを引っぱってくれたあの馬が、深い雪に足をとられてまるで身代わりのように死んでいった。身近にお医者さんがいない不安、それが吹雪の夜にはいっそう切実なものとなって、この夫婦の頭をしめつけてくるかのようだった。」
「 それは一月六日のことである。生後九ヵ月の末娘の香代子ちゃんは三日間あまりも三十八度を超える熱が続いた。荒れ狂う吹雪は電話を途絶えさせ、電灯さえも奪った。戸数わずか五戸、そうでなくても寂しい部落の夜は何か無気味な感じさえする。お医者さんは二十㌔先の八雲までいない。この道も昨年までは七㌔が除雪されていなかった。ことしは冬山造材で林道が除雪され、雪深い道は二㌔に縮まった。」
「佐藤さんは決心した。とにかく医者に連れて行こう。夜が明けると唯一の隣組、大関小夏路分校主任の渡辺富太郎先生(45)水根和雄先生(27)が応援にかけつけてくれた。ドラムかんを改造して作った牛乳かん運搬用のそりに、香代子ちゃんを毛布にくるんだ妻の理津子さん(24)がうずくまる。そりを引っぱるスノーモービルのドライバーは水根先生だ。(中略)」
「吹きだまりでさえぎられそうな雪原を二十分ばかり走ってやっと除雪道路にたどりついた。林道わきの農家に預けてあった車に乗り換えたとき、佐藤さんは『これであと一時間』-熱でぐったりしている香代子ちゃんを抱きしめたものだ。」
「ところが、吹雪あとの道路はブルの跡はなく、乗用車はすぐに立ち往生。水根先生が数㌔離れた営林署の造材現場に駆けつけ、頼んでやっとブルを出してもらった。八雲の病院にころがり込んだ時は昼。香代子ちゃんの病名は〝急性肺炎〟だった。(中略)」
「この部落も十数年前までは戸数三十戸を数えた。それがクシの歯が抜けるように一戸減り、二戸減りして今は分校の教宅二戸を入れてわずか五戸になってしまった。(以下略)」
昭和46年春 佐藤家が転出したため、藤原家のみ居住する集落となった。
「八雲町富咲」でも触れたように「大関小学校夏路分校」には「四十五年には一家族の姉弟だけ四名という特異な現象となった。こうして、姉弟だけの学校として存続し、全員が卒業してしまった五十一年三月限りをもって在籍数はゼロとなり、自然廃校になった。」とあるが、実際は富咲小学校閉校後、富咲地区に居住していた富坂良春君が夏路分校に通学していた。
「卒業生名簿」には第43回卒業生(昭和49年度)の欄に富坂君の名前が記されている。
最後まで居住していた藤原家 最後の卒業生である藤原 強君が卒業して昭和51年3月末に閉校となった。

学校手前の藤原家敷地跡。
家の跡を示すのは、大きなマツの木だけであった。

藤原家跡地より学校方面を望む。
学校は、この道の先にある。

夏路の学校跡地にある記念碑。
草木に隠れてしまっている。

その傍に、夏路集落を開拓した岩間儀八を讃える顕彰碑が建立されている。

顕彰碑の背後には、倒壊した教員宿舎の屋根が残っていた。

教員宿舎は、校舎と棟続きであった。

校舎の屋根より教員宿舎跡地を見る。

学校跡地より周辺の風景。
すっかり自然に帰ってしまっている。

学校に隣接していた夏路神社の鳥居も、ササに飲み込まれていた。

学校前の佐藤家敷地跡。
佐藤家は本家・分家関係と思われるが、どちらが本家かはわからなかった。

学校横の「夏路林道」案内板。
ササに埋もれている。

夏路分校より奥の風景。
この奥にも人家や、移転前の神社が建立され、人々が暮らしていた。
これから紹介する記事は、夏路分校の運動会が取り上げられた記事の写真から抜粋したものである。
「教育月報」 No205号に「小さな学校のうんどう会 八雲町立大関小学校夏路分校の〝たのしみ会〟」として取り上げられている。
写真から推測するに、昭和43年頃に撮影されたものと思われる。

運動会(徒競争)の一コマ。
記事では「デコボコ道だがコースはいくらでも長くとれるよ!」とある。

校舎内にあったバスケットボールのゴールネット。
同じく、記事では「先生たちのつくってくれたバスケット・ゴールも利用して障害物競走。」

往時の夏路分校校舎。
記事では「お花にとりかこまれ、給食をとりながら〝たのしみ会〟の反省。」
手前に写っているのは百葉箱である。
昭和45年6月19日 NHKラジオ第二放送「昼休みのおくりもの」(12時45分~13時)で放送された内容より。
この内容は「文集と通信 夏路 第41集」(昭和45年7月30日発行)に集録されている。
分校主任の渡辺富太郎先生の話より
『過疎化の極限に立たされている村ではあるが、八雲で最も小さく 美しい学校、八雲で一番恵まれている』
昭和63年頃に同校を訪れたラオウ氏は、こう回想する。
「…昭和63年頃に夏路分校へ行った。校舎の中へ入ると、右手に「視聴室」、左手に「職員室」があり、教室はその奥にあった。向かいに洗面所とトイレがあった。」
「教室の黒板には『私はここの卒業生 学校を壊したら半殺し』と書かれていたが、誰が書いたかは分からない…。」
八雲町内で最も小さく、美しい「花と小鳥と文集の学校」は自然に帰っていた。
少し月日が流れた平成27年5月 再訪した。

夏路集落へ通じる通称「十三曲り峠」の道中。

こちらは下り(大関方面)。

学校前の、佐藤宅跡地。

浴槽?跡が残されていた。

校舎跡地。

学校隣接地の神社。
拝殿はこの先の、山の上にある。

ササにしがみつきながら進み、神社の境内に出た。
夏路神社の拝殿である。
※「土地台帳」によれば、夏路神社拝殿周辺はもと『咲来農事組合』が所有する敷地の一部である。

神社境内の風景。
拝殿の屋根はあったが、周囲は笹薮であった。

神社道中の風景。
かつては誰もが行き来することができたが、今は自然に帰っている。

学校よりもさらに奥へと進んでみる。
ここも家のマークがある。

家の跡と思われる場所より、学校方面を望む。
周辺は牧草畑となっていた。
参考・引用文献
八雲町史 昭和59年6月発行
夏路分校閉校記念誌-七一年の歴史を讃えて- 八雲町立大関小中学校 昭和51年2月発行
分校通信 夏路 第9号 昭和41年10月17日発行
第11号 昭和41年10月22日発行
第41集 昭和45年7月30日発行
「教育月報」 No205号 北海道教育委員会 昭和44年1月15日発行
北海道新聞 渡島・檜山版 昭和32年8月1日付「辺地校(夏路分校)を慰め八年間 その主、はるばる稚内から…喜びの対面へ」
北海道新聞 市内版(函館) 昭和46年1月31日付「過疎を見つめる」シリーズ3回目
八雲町夏路は農業・林業(炭焼・杣夫)で栄えた。
明治33年 利別-八雲間の仮定県道が開通し、翌 34年11月 夏路駅逓所が設けられ、管理を任された岩間儀八の努力により、明治35年 官林開放による入植者が現れた。
岩間は、入植者子弟の教育問題に腐心していたが、サックルペシベ(略称 サックル)から大関本校までの通学は極めて困難であった。
当時、大関本校まで片道6キロ(往復12キロ)かかり、さらに交通機関は夏路駅逓所しかなく、冬期間については雪で交通が杜絶するような状況であった。
「夏路」の名の由来は、道(路)は「夏」しかない(冬は雪で道が無い)ことから「夏路」と名づけられた。
岩間は、駅逓所の物置9坪を教室や所要施設として改造し、美唄より大岡兎喜男を迎え、明治37年6月 私設教育所として開校した。
開校当時、教科書はもとより、教具らしいものもなく、各自持ち寄った机や腰掛けのほか生徒一人当たり50銭を集めて教員の給料とし、教員の食糧も住民負担という状態であった。
明治38年3月 村の住民らは連署を携えて公設にするよう村に願い出たが、村の財政事情も厳しく、すぐに公設にできなかった。
公設の認可が下りたのは9月に入ってからで、大関尋常小学校付属サックルペシベ特別教授場として創設された。
このとき建てられた12坪の校舎は、住民の寄付によるものであった。
校舎が建てられ、公設の学校が認可されたが児童数が伸び悩み、また、トワルベツ(後の富咲集落)の開拓が進んでいた。
トワルベツも明治41年12月15日 大関尋常小学校付属トワルベツ特別教授場として開校しているので、トワルベツの校舎も建てなければいけない状況下であった。
こうしたことから、村当局は財政事情によりサックルとトワルベツの両教授場を統合する目的で、明治42年8月 サックルとトワルベツの境界付近に統合校舎を建てた。
だが、トワルベツは教員が不便であるという理由で移転せず、サックル側も通学が困難であることを理由に応じず、従来通りの教授場で続けていた。
村の目論見は失敗に終わり、再興を願う運動が実を結び、明治43年5月1日 再び「サックルペシベ特別教授場」として公設されることとなった。
大正4年4月 カタカナ書きの校名より「夏路特別教授場」と改めた。
この頃より通称 越後団体へ入植する人が多くなり当然、学童も増加していった。
大正6年 校舎が新築された。建築総工費 277円46銭であるが内訳は村からの補助金として50円、残り227円46銭はすべて夏路の人々(35戸)や、篤志家からの寄付によるものであった。
大正13年には児童数38名を数えていた。
大正中期から昭和初期にかけ、トワルベツ(富咲)にも相当数の入植者がいたことから、両地区の祭典の余興の盛大さは大関地区よりもはるかに凌ぐ人々で殷賑を極めていた。
昭和14年4月 大関尋常高等小学校夏路分教場と改称。
昭和16年4月 大関国民学校夏路分校と改称。
※越後山方面へ入植していった越後団体は、土地条件の悪さや家族の病気等により、次々と転出していった。
特に、戦時中には一気に10戸が転出していった。
転出先の多くは、駒ケ岳方面であった。
昭和22年4月 大関小学校夏路分校と改称。
夏路のピークは大正13年の34戸であった。
大正期の夏路のエピソードとして、「分校通信 夏路」(第19号)には、佐藤浪四郎が澱粉工場にまつわる思い出を寄せている。
「澱粉製造の盛んだった時代は、大正3年から7年にかけた時代でした。」
「この時は、5円のものが10円位までに価格があがりました。」
「(中略)サックルには、澱粉工場が4箇処ありました。」
「藤田さん、山田さん、大口さん、それに私たちのところです。」(後略)(注1)
(注1)「夏路分校閉校記念誌」によると、大正6年校舎新築時の居住者で澱粉工場があった世帯主の名前は藤田辰之助・山田木平・佐藤浪四郎である。「大口」の名前は見当たらなかった。
昭和20年頃より離村者が相次いだ。
それまで在籍児童数は二桁台で推移していたが、離村のために在籍児童数は二名にまで急減してしまった。(注2)
(注2)「八雲町史」によると「昭和22年ではわずかに5戸となり、23年には在籍児童数が2名となって、日本一小さい学校ということでニュース映画によって全国的に紹介されたほか、テレビでもしばしば紹介された。」とある。
しかし「夏路分校閉校記念誌-七一年の歴史を讃えて-」の「サックルベツ地区に居住した住民分布図」(昭和25年頃より35年頃まで)を見ると、12戸の氏名がある。
名前を列挙すると「藤原半七 藤田武次郎 佐藤寅蔵 吉田兼治 佐藤仁太郎 佐藤浪四郎 田原静 栗原清春 遠藤健一 阿部健 藤田宇三郎 阿部重男」の名前があるが、これらの人々は昭和15年頃の住民分布図にも名前が記載されているが、校区については何処が境界か分からなかった。
昭和36年 豚の飼育(5頭)が始まる。「文集 夏路」第11号には、こう記されている。
豚一号 PTA副会長 佐藤 忠助
「最初、豚の子5頭の飼育から始めました。最高飼育数は20頭でした。」
「その後、部落に電気が敷設されました時に、内線工事の資金を作るために全戸で豚の飼育を始めたわけです。」
「電気の敷設については、計画的に実現されたわけではなく、突発的に実現化されたものでしたから資金(現金による)のやりくりが実にめんどうでしたから豚の飼育による収入をそれに当てることにしたわけです。」
「(中略)それから後、各戸が計画的に豚の飼育を継続して、現在に至っております。(後略)」
また同年、藤原半七は田を造っているが、その時の話を「文集 夏路」(第9号)に寄せている。
「夏路で初めて田を造ったのは、私でした。」
「(中略)土地の条件、気候の条件に恵まれませんので予想以上の苦労がありました。」
「春が遅いため、自分で苗を作ることがめんどうですので、ほかの土地から苗を分けてもらってそれを植えなければなりません。」
「(中略)それでも自分の住む土地ではじめて米をとりいれ 自分の作った米を食べたときの嬉しさは今でも忘れることができません。(後略)」
夏路は人との繋がりもあるとともに、「花と小鳥と文集の学校」として有名な学校であった。
北海道新聞 渡島・檜山版 昭和32年8月1日付で「辺地校(夏路分校)を慰め八年間 その主、はるばる稚内から…喜びの対面へ」とある。
「(前略)二十九日の夕方山峡の石だらけの路をスーツケースを下げた色白のお下げの少女を先頭に日焼けしたこどもたちの一団が分校へ向かって急いでいた。(中略)この電気もない辺地の小さな学校の生徒たちを慰め続けてくれた少女がはるばる稚内からはじめて訪れて来てくれたのだ。」
「それは忘れもしない昭和二十五年二月のことだった。(中略)漁業、長尾啓太郎さんの三女久子さん(当時十一歳=稚内市北小学校六年生)は少年雑誌に生徒わずか三人という日本一小さい学校が遠い八雲町の奥にあることを知った。」
「学校からは折返し礼状がとどきそれから八年間夏路分校と北の海辺の少女との文通だけの交際が始まった。久子さんは月に一回は必ず北の海の模様を伝えた春ニシンの話、夏のコンブとり、冬はすさまじい海峡の吹雪のこと…夏路からは子牛の生まれたこと、夏のどじょうとり、秋のキノコ狩りの便りが伝えられ、やがてお互の写真までが交換されるようになった。(中略)」
「札幌の高校の通信教育を受けていた久子さんは七月の末、講習のため札幌に出ることに決り、そのついでに夏路を訪れるという手紙を六月の末学校に書き送った。夏路の部落は大騒ぎだった。開拓者のPT会長さんと昨年春拓大を卒業して辺地校を志願した二十五歳の先生(注3)との間で歓迎の準備が進められた。(中略)」
(注3)「二十五歳の先生」とは堀内利勝先生のことである。堀内先生は森高校・拓殖大学を経て昭和31年卒業、同年7月に夏路分校に赴任した。
「久子さんが到着した二十九日八雲駅には先生と、最初に文通した三人のかつての生徒が迎えに出た。(中略)学校では生徒はむろん、赤ん坊からおじさんまで部落中の人々が集まり焼ちゅうとお汁粉の表彰式が開かれた。孫やこどもたちがこの上なく慕っていた久子さんを目のあたりにしてPT会の年寄りたちは「世の中がみんなあんたさんみたいなやさしい心の人ばかりだったら、なんぼよいことだろう。なあ長尾さん、ダンナさんでもらっても来てくれろ」としみじみお礼をいった。冷害でアンコのうすいお汁粉をすする小さな生徒たちに囲まれて恥ずかしげにうつむく久子さんのほおにはあふれ出る涙の筋が光っていた。」
また、夏路は分校主任 渡辺富太郎が集落の人たちに、自分の教育に対する考え方や学校の様子を知らせようと「文集 夏路」を創刊した。
当初は教育の考え方や、学校内外で起きた出来事を紹介していたが、次第に子供たちの作文や詩、植物の観察日記を掲載していった。
子供たちが書いた作文の中には、北海道新聞に掲載されたものもあった。
一方で、夏路の気象は厳しいものがあった。
昭和46年1月31日付(市内版)
「過疎を見つめる」シリーズ3回目 医者のいない不安 30箇所余りが孤立 保健婦にも見放される
「ついこの間、吹雪の朝-。熱の下がらない幼い子をドラムかんを改造した牛乳運搬のそりに乗せて二十㌔も医者を求めて走った日のこと-。そのことが八雲町上八雲夏路部落の佐藤幸男さん(28)夫婦の頭に強く焼きついて離れない。いや昨年も同じようなことがあった。その時は、馬そりを引っぱってくれたあの馬が、深い雪に足をとられてまるで身代わりのように死んでいった。身近にお医者さんがいない不安、それが吹雪の夜にはいっそう切実なものとなって、この夫婦の頭をしめつけてくるかのようだった。」
「 それは一月六日のことである。生後九ヵ月の末娘の香代子ちゃんは三日間あまりも三十八度を超える熱が続いた。荒れ狂う吹雪は電話を途絶えさせ、電灯さえも奪った。戸数わずか五戸、そうでなくても寂しい部落の夜は何か無気味な感じさえする。お医者さんは二十㌔先の八雲までいない。この道も昨年までは七㌔が除雪されていなかった。ことしは冬山造材で林道が除雪され、雪深い道は二㌔に縮まった。」
「佐藤さんは決心した。とにかく医者に連れて行こう。夜が明けると唯一の隣組、大関小夏路分校主任の渡辺富太郎先生(45)水根和雄先生(27)が応援にかけつけてくれた。ドラムかんを改造して作った牛乳かん運搬用のそりに、香代子ちゃんを毛布にくるんだ妻の理津子さん(24)がうずくまる。そりを引っぱるスノーモービルのドライバーは水根先生だ。(中略)」
「吹きだまりでさえぎられそうな雪原を二十分ばかり走ってやっと除雪道路にたどりついた。林道わきの農家に預けてあった車に乗り換えたとき、佐藤さんは『これであと一時間』-熱でぐったりしている香代子ちゃんを抱きしめたものだ。」
「ところが、吹雪あとの道路はブルの跡はなく、乗用車はすぐに立ち往生。水根先生が数㌔離れた営林署の造材現場に駆けつけ、頼んでやっとブルを出してもらった。八雲の病院にころがり込んだ時は昼。香代子ちゃんの病名は〝急性肺炎〟だった。(中略)」
「この部落も十数年前までは戸数三十戸を数えた。それがクシの歯が抜けるように一戸減り、二戸減りして今は分校の教宅二戸を入れてわずか五戸になってしまった。(以下略)」
昭和46年春 佐藤家が転出したため、藤原家のみ居住する集落となった。
「八雲町富咲」でも触れたように「大関小学校夏路分校」には「四十五年には一家族の姉弟だけ四名という特異な現象となった。こうして、姉弟だけの学校として存続し、全員が卒業してしまった五十一年三月限りをもって在籍数はゼロとなり、自然廃校になった。」とあるが、実際は富咲小学校閉校後、富咲地区に居住していた富坂良春君が夏路分校に通学していた。
「卒業生名簿」には第43回卒業生(昭和49年度)の欄に富坂君の名前が記されている。
最後まで居住していた藤原家 最後の卒業生である藤原 強君が卒業して昭和51年3月末に閉校となった。

学校手前の藤原家敷地跡。
家の跡を示すのは、大きなマツの木だけであった。

藤原家跡地より学校方面を望む。
学校は、この道の先にある。

夏路の学校跡地にある記念碑。
草木に隠れてしまっている。

その傍に、夏路集落を開拓した岩間儀八を讃える顕彰碑が建立されている。

顕彰碑の背後には、倒壊した教員宿舎の屋根が残っていた。

教員宿舎は、校舎と棟続きであった。

校舎の屋根より教員宿舎跡地を見る。

学校跡地より周辺の風景。
すっかり自然に帰ってしまっている。

学校に隣接していた夏路神社の鳥居も、ササに飲み込まれていた。

学校前の佐藤家敷地跡。
佐藤家は本家・分家関係と思われるが、どちらが本家かはわからなかった。

学校横の「夏路林道」案内板。
ササに埋もれている。

夏路分校より奥の風景。
この奥にも人家や、移転前の神社が建立され、人々が暮らしていた。
これから紹介する記事は、夏路分校の運動会が取り上げられた記事の写真から抜粋したものである。
「教育月報」 No205号に「小さな学校のうんどう会 八雲町立大関小学校夏路分校の〝たのしみ会〟」として取り上げられている。
写真から推測するに、昭和43年頃に撮影されたものと思われる。

運動会(徒競争)の一コマ。
記事では「デコボコ道だがコースはいくらでも長くとれるよ!」とある。

校舎内にあったバスケットボールのゴールネット。
同じく、記事では「先生たちのつくってくれたバスケット・ゴールも利用して障害物競走。」

往時の夏路分校校舎。
記事では「お花にとりかこまれ、給食をとりながら〝たのしみ会〟の反省。」
手前に写っているのは百葉箱である。
昭和45年6月19日 NHKラジオ第二放送「昼休みのおくりもの」(12時45分~13時)で放送された内容より。
この内容は「文集と通信 夏路 第41集」(昭和45年7月30日発行)に集録されている。
分校主任の渡辺富太郎先生の話より
『過疎化の極限に立たされている村ではあるが、八雲で最も小さく 美しい学校、八雲で一番恵まれている』
昭和63年頃に同校を訪れたラオウ氏は、こう回想する。
「…昭和63年頃に夏路分校へ行った。校舎の中へ入ると、右手に「視聴室」、左手に「職員室」があり、教室はその奥にあった。向かいに洗面所とトイレがあった。」
「教室の黒板には『私はここの卒業生 学校を壊したら半殺し』と書かれていたが、誰が書いたかは分からない…。」
八雲町内で最も小さく、美しい「花と小鳥と文集の学校」は自然に帰っていた。
少し月日が流れた平成27年5月 再訪した。

夏路集落へ通じる通称「十三曲り峠」の道中。

こちらは下り(大関方面)。

学校前の、佐藤宅跡地。

浴槽?跡が残されていた。

校舎跡地。

学校隣接地の神社。
拝殿はこの先の、山の上にある。

ササにしがみつきながら進み、神社の境内に出た。
夏路神社の拝殿である。
※「土地台帳」によれば、夏路神社拝殿周辺はもと『咲来農事組合』が所有する敷地の一部である。

神社境内の風景。
拝殿の屋根はあったが、周囲は笹薮であった。

神社道中の風景。
かつては誰もが行き来することができたが、今は自然に帰っている。

学校よりもさらに奥へと進んでみる。
ここも家のマークがある。

家の跡と思われる場所より、学校方面を望む。
周辺は牧草畑となっていた。
参考・引用文献
八雲町史 昭和59年6月発行
夏路分校閉校記念誌-七一年の歴史を讃えて- 八雲町立大関小中学校 昭和51年2月発行
分校通信 夏路 第9号 昭和41年10月17日発行
第11号 昭和41年10月22日発行
第41集 昭和45年7月30日発行
「教育月報」 No205号 北海道教育委員会 昭和44年1月15日発行
北海道新聞 渡島・檜山版 昭和32年8月1日付「辺地校(夏路分校)を慰め八年間 その主、はるばる稚内から…喜びの対面へ」
北海道新聞 市内版(函館) 昭和46年1月31日付「過疎を見つめる」シリーズ3回目
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八雲町熊嶺
八雲町熊嶺(平成26年10月14日探訪)
八雲町熊嶺は戦後開拓の集落であった。
昭和21年5月 八雲町大新地区の砂蘭部川沿いの国有地が開放されると、外地からの引揚者や八雲鉱山の離職者ら17戸が入地した。
当時、飛行場に残っていた兵舎を仮住居として4キロの道のりを通い、開拓に従事した。
熊嶺の名の由来は、野田生の奥の山に熊嶺というところがあり、集落総意により「熊嶺部落」にしようと総会で決議した。
昭和22年から23年にかけ、熊嶺開拓道路が施工された。
ただ、「道路」といってもようやく馬車が通れる程度の道で、融雪期になれば道路がぬかるみ、道路本来の役割を果たせないままであった。
子供たちは当時、八雲小学校大新分校(後 大新小学校)に通学していたが、通学は困難を極めていた。
住民らは、旧軍で使われていた飛行場の建物(三角兵舎)を用いて、教員住宅を含め7坪の仮校舎を建て、昭和24年4月の開校を目指した。
ところが、仮校舎が「設備不十分」という理由で延期され、結局、昭和24年7月1日 「八雲小学校熊嶺分校」として開校した。
昭和25年4月 大新分校が独立して大新小学校と改称したのを機に、校名も「大新小学校熊嶺分校」と改称した。
この年、開拓事業入植施設補助規程による国費補助を受け、補助として新校舎と教員住宅を建築した。
中学生については、入植当初から八雲中学校が通学区域であったが13キロも離れており、通学は不可能であった。
このため、昭和26年7月より熊嶺分校の教員による委託授業方式を導入した。
昭和27年4月 八雲町立熊嶺小学校と独立。
同年11月 熊嶺中学校の設置が認可された。
昭和27年・28年に1世帯ずつ転出しているが、これが熊嶺地区における転出(離農)の始まりであった。
熊嶺は昭和30年代の半ば、牛乳集荷により集落が二分するという出来事があった。
昭和35年6月9日付で『罪な牛乳集荷合戦 部落、二つに割れる』とある。
「(前略)市街地から10キロ以上も離れた戸数わずか16戸の熊嶺部落は、11戸が乳牛を飼育しており、1日90リットル前後の牛乳をことしの4月まで農協を通し雪印乳業に出していた。ところが先月はじめ明治乳業が乗り込み説得した結果、数戸が名乳に出荷を約束、部落総出荷量90リットルのうち36リットル前後を出しているため、部落民が二つに割れてしまった。」
「(中略)これら数戸の農家は農協に借りがあるため牛乳代金がそっくりはいってこないので、明治乳業にクラ替えしたと部落民はみているが、最近ではこれがすべての面で感情的に対立しはじめ、お互いにイガミあっている。」
「このような空気が子供に反映しては困ると熊嶺分校でも心配しているが、これといった名案がなく、頭を痛めているという。」
昭和36年1月7日付の北海道新聞 渡島・桧山版には『゛集団"離農を決意 八雲町の熊嶺部落 渡島管内では初めて』とある。
「戦後国の緊急開拓で入植した開拓部落民の離農が目立ってふえてきているが、゛生活できない"と集団離農することになり問題になっている。渡島管内で入植者の集団離農はこんどが初めてという。」
「同町字熊嶺部落は戦後昭和二十一年国の緊急開拓政策で樺太からの引き揚げ者十五戸が入植、(中略)その後二十二年に一戸、二十九年に二戸がクワをかついで入り十八戸で部落を作り学校まで設けたが、その後二戸が離農し、十六戸が営農していた。」
※新聞報道によれば「樺太からの引き揚げ者十五戸」とあるが、樺太(外地)からの引揚者もいるが「くまね25年誌」を見ると「熊嶺は 鉱山から14名 その他4名 その他の集合団である。(斉藤順蔵)」と書かれている。従って、樺太からの引揚者十五戸…というのは間違いと思われる。
「(中略)しかし土地があっても山間地が多く耕地とは名ばかりで町内では落部の下二股開拓地とともに不振開拓地のラク印が押されていた。このようなことから十六戸のうち五戸がとても営農して行けないと近く離農することになった。(中略)」
「(中略)なお渡島管内で集団離農するのはこれは初めてで、実際の離農時期は三月末になる予定。」
昭和40年代半ばに入っても、熊嶺の生活は厳しいものがあった。
昭和44年5月4日付で『辺地の苦しさ訴える 田仲町長ら 熊嶺小・中を訪問、懇談』とある
「辺地校の多い町内でも最も山奥の熊嶺小・中(大野文比古校長・17人)に二日、田仲町長はじめ石垣町教育長ら町から5人が訪問、部落の人たちと懇談した。」
「この日はまず、子供たちが器楽を演奏、町長からチョコレートを贈られたあと三浦久義PTA会長ら10人が参加して懇談したが、『入植したものの、開拓では生活できず賃金労働をしている。このままでは離農しなくてはならない』『むすこたちがみんなマチへ出てしまった。ワシだけは残るつもりだが…』『病気になっても〝足〟がない、ぜひ診療車を-。』と、次々苦しい実情が報告され、田仲町長は『町としてもなんとかみなさんの力になりたい。道路改修や診療車の問題は早急に解決したい』と語っていた。」
昭和47年度当初は小学校児童6名、中学校生徒5名が在籍したものの、同年10月に児童2名が転出したため教員の子名だけ在籍という状態になった。
中学校は、10月15日付で生徒がゼロとなった。
年度の途中で閉校になったことについて『くまね25年誌』を見ると、川嶋健治氏は次のように書いている。
「(前略)ただ、熊嶺は離農の数が多くなっていたので、子供達がいなくなった時、私達はどうなるのかなあとフト考えた。(中略)だがこの件については、前教育長石垣氏と前校長の大野先生が話し合われ、昭和48年3月31日までは廃校にしないということで(中略)さ程気にはしなかった。」
「(中略)ところが、10月19日 校長は突然吾々に「熊嶺校は今年中に廃校になる。最終的決定は明日になるそうである」と告げたのである。」
「正に、晴天のヘキレキであった。」
これ以降、年度の途中で熊嶺小中学校が閉校になることについての疑問が記述されている。
しかし、年度内の閉校は決まってしまった。
昭和47年12月1日 八雲小・中学校に統合という形式をもって、閉校となった。

熊嶺集落手前にある大新集落の大新小学校。
探訪当時ですら老朽化が著しかったが、探訪した後に解体された。

大新小学校を過ぎ、いよいよ熊嶺地区へ入る。
電柱には「熊嶺」の名前が残っている。

熊嶺の道路。すっかり自然に帰っているが、酪農風景が広がっていた。
道が分岐しているが、熊嶺は一周できるようになっている。
左に曲がり、先へ進む。

左に曲がって間もなく、道路左手にサイロがある。
人々が暮らしていた痕跡である。

先へ進むと、周囲とは不釣りあいなプレハブの倉庫があった。
以下、ラオウ氏の回想。
「…ここは熊嶺小中学校に勤務していた川嶋先生(注1)が家族と一緒にキャンプをやっていた。元々は、熊嶺小中学校の教員住宅があった場所だ。」
「私は当時、廃校調査の駆け出しの頃(昭和62~3年)だったが、柏山校長先生(注2)に聞いて、川嶋先生の家族と一緒にキャンプした。」
「夜遅くに、川嶋先生が『熊嶺小中学校の跡地へ行って見るか』と言って、懐中電灯の灯りを頼りに学校跡地へ行った。それが、熊嶺小中学校の初めての訪問だった。」
(注1)川嶋先生とは熊嶺小中学校に勤務していた川嶋健治先生のことである。専門は国語で、平成2年に逝去された。
(注2)柏山校長先生とは、熊嶺小中学校に勤務していた柏山克己先生である。

プレハブ倉庫の近くにはブロックの基礎がある。
これは旧軍の解体資材を転用して、7坪の仮校舎を建てたときのものである。

周囲を回り、学校跡地へ通じていた「道」に出た。
「道」といっても、もはや廃道と化し、草木やササが生い茂っている。

意を決し、「通学路」を歩く。

「通学路」の道中。
人の背丈以上のササが生い茂り、行く手を阻むが払いのけて進む。

進むと、サイロが見えてきた。
熊嶺小中学校は、このサイロの下にある。

下った先に、遊具のタイヤがあった。
熊嶺小中学校のグラウンドである。

その傍には百葉箱?の一部が残されている。

グラウンド。
湿地帯と化しており、足元がぬかるむ。
それもその筈で、グラウンドは沼地を埋め立ててできたものである。
「八雲教育 第15号」 『教育の谷間にともしびを ⑩』でこう、記されている。
「ここのグラウンドは、沼地を埋立てしたもので、表土を十糎も掘れば水がつく。さらにその東側一帯から水が湧き、グランドに流れ込み特に雨天には、被害が大きい。」

グラウンドの端に、記念碑はあった。
記念碑より一段高くなったところに、校舎と棟続きの校長住宅があった。

校舎・校長住宅跡地。
基礎が残っている。

屋根の一部もどうにか残っていた。

閉校後、校舎や校長住宅は解体され、植林されてしまっている。

校庭の隅に、小林弘治校長が考案し、PTAの奉仕で完成した「希望の池」がある。
しかし、ツタやコケで覆われており、よく分からない。

折角なので、へばりついていたツタやコケを取り除いた。
「希望の池」と掘ったのは小林校長である。

希望の池の全景写真。
「希望の池」は復活した。

帰り道、学校隣接地にあった神社のご神木を探す。
しかし、この時ご神木を見つけることはできなかった。

熊嶺を離れる道中に見つけた基礎。
最後に転出された方の家の基礎である。
『くまね25年誌』巻末に記載されている「お礼のことば」より。
この言葉は、熊嶺小学校が新築された時のものである。
此の度、私等の学校の落成式に 多数の来賓がお出になり、何よりもうれしく思います。
私等は、父母と一しょに熊嶺に来てから勉強することも出来ないので、他の生徒をつくづくうらやましく思っておりました。
そして仕事のかたわら、父母から教えられておりました。
今日から、皆様のお情けによってりっぱな学校を建てて頂き、まことにありがたい幸福でございます。
これからよく先生の教えをまもり、一生県命勉強して少しでも役に立つ人になって、ごおんの万分の一でもお返ししたいと思います。
粗末ながらこれでお礼のことばといたします。
昭和二十五年八月十日 熊嶺分校在校生 総代 塚田綾子
参考・引用文献
くまね25年誌 川嶋健治 昭和48年3月5日発行
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島桧山版 昭和35年6月9日 『罪な牛乳集荷合戦 部落、二つに割れる』
同 昭和36年1月7日『゛集団"離農を決意 八雲町の熊嶺部落 渡島管内では初めて』
同 昭和44年5月4日『辺地の苦しさ訴える 田仲町長ら 熊嶺小・中を訪問、懇談』
広報 八雲教育 第15号 『教育の谷間にともしびを ⑩』 昭和43年11月30日発行
八雲町熊嶺は戦後開拓の集落であった。
昭和21年5月 八雲町大新地区の砂蘭部川沿いの国有地が開放されると、外地からの引揚者や八雲鉱山の離職者ら17戸が入地した。
当時、飛行場に残っていた兵舎を仮住居として4キロの道のりを通い、開拓に従事した。
熊嶺の名の由来は、野田生の奥の山に熊嶺というところがあり、集落総意により「熊嶺部落」にしようと総会で決議した。
昭和22年から23年にかけ、熊嶺開拓道路が施工された。
ただ、「道路」といってもようやく馬車が通れる程度の道で、融雪期になれば道路がぬかるみ、道路本来の役割を果たせないままであった。
子供たちは当時、八雲小学校大新分校(後 大新小学校)に通学していたが、通学は困難を極めていた。
住民らは、旧軍で使われていた飛行場の建物(三角兵舎)を用いて、教員住宅を含め7坪の仮校舎を建て、昭和24年4月の開校を目指した。
ところが、仮校舎が「設備不十分」という理由で延期され、結局、昭和24年7月1日 「八雲小学校熊嶺分校」として開校した。
昭和25年4月 大新分校が独立して大新小学校と改称したのを機に、校名も「大新小学校熊嶺分校」と改称した。
この年、開拓事業入植施設補助規程による国費補助を受け、補助として新校舎と教員住宅を建築した。
中学生については、入植当初から八雲中学校が通学区域であったが13キロも離れており、通学は不可能であった。
このため、昭和26年7月より熊嶺分校の教員による委託授業方式を導入した。
昭和27年4月 八雲町立熊嶺小学校と独立。
同年11月 熊嶺中学校の設置が認可された。
昭和27年・28年に1世帯ずつ転出しているが、これが熊嶺地区における転出(離農)の始まりであった。
熊嶺は昭和30年代の半ば、牛乳集荷により集落が二分するという出来事があった。
昭和35年6月9日付で『罪な牛乳集荷合戦 部落、二つに割れる』とある。
「(前略)市街地から10キロ以上も離れた戸数わずか16戸の熊嶺部落は、11戸が乳牛を飼育しており、1日90リットル前後の牛乳をことしの4月まで農協を通し雪印乳業に出していた。ところが先月はじめ明治乳業が乗り込み説得した結果、数戸が名乳に出荷を約束、部落総出荷量90リットルのうち36リットル前後を出しているため、部落民が二つに割れてしまった。」
「(中略)これら数戸の農家は農協に借りがあるため牛乳代金がそっくりはいってこないので、明治乳業にクラ替えしたと部落民はみているが、最近ではこれがすべての面で感情的に対立しはじめ、お互いにイガミあっている。」
「このような空気が子供に反映しては困ると熊嶺分校でも心配しているが、これといった名案がなく、頭を痛めているという。」
昭和36年1月7日付の北海道新聞 渡島・桧山版には『゛集団"離農を決意 八雲町の熊嶺部落 渡島管内では初めて』とある。
「戦後国の緊急開拓で入植した開拓部落民の離農が目立ってふえてきているが、゛生活できない"と集団離農することになり問題になっている。渡島管内で入植者の集団離農はこんどが初めてという。」
「同町字熊嶺部落は戦後昭和二十一年国の緊急開拓政策で樺太からの引き揚げ者十五戸が入植、(中略)その後二十二年に一戸、二十九年に二戸がクワをかついで入り十八戸で部落を作り学校まで設けたが、その後二戸が離農し、十六戸が営農していた。」
※新聞報道によれば「樺太からの引き揚げ者十五戸」とあるが、樺太(外地)からの引揚者もいるが「くまね25年誌」を見ると「熊嶺は 鉱山から14名 その他4名 その他の集合団である。(斉藤順蔵)」と書かれている。従って、樺太からの引揚者十五戸…というのは間違いと思われる。
「(中略)しかし土地があっても山間地が多く耕地とは名ばかりで町内では落部の下二股開拓地とともに不振開拓地のラク印が押されていた。このようなことから十六戸のうち五戸がとても営農して行けないと近く離農することになった。(中略)」
「(中略)なお渡島管内で集団離農するのはこれは初めてで、実際の離農時期は三月末になる予定。」
昭和40年代半ばに入っても、熊嶺の生活は厳しいものがあった。
昭和44年5月4日付で『辺地の苦しさ訴える 田仲町長ら 熊嶺小・中を訪問、懇談』とある
「辺地校の多い町内でも最も山奥の熊嶺小・中(大野文比古校長・17人)に二日、田仲町長はじめ石垣町教育長ら町から5人が訪問、部落の人たちと懇談した。」
「この日はまず、子供たちが器楽を演奏、町長からチョコレートを贈られたあと三浦久義PTA会長ら10人が参加して懇談したが、『入植したものの、開拓では生活できず賃金労働をしている。このままでは離農しなくてはならない』『むすこたちがみんなマチへ出てしまった。ワシだけは残るつもりだが…』『病気になっても〝足〟がない、ぜひ診療車を-。』と、次々苦しい実情が報告され、田仲町長は『町としてもなんとかみなさんの力になりたい。道路改修や診療車の問題は早急に解決したい』と語っていた。」
昭和47年度当初は小学校児童6名、中学校生徒5名が在籍したものの、同年10月に児童2名が転出したため教員の子名だけ在籍という状態になった。
中学校は、10月15日付で生徒がゼロとなった。
年度の途中で閉校になったことについて『くまね25年誌』を見ると、川嶋健治氏は次のように書いている。
「(前略)ただ、熊嶺は離農の数が多くなっていたので、子供達がいなくなった時、私達はどうなるのかなあとフト考えた。(中略)だがこの件については、前教育長石垣氏と前校長の大野先生が話し合われ、昭和48年3月31日までは廃校にしないということで(中略)さ程気にはしなかった。」
「(中略)ところが、10月19日 校長は突然吾々に「熊嶺校は今年中に廃校になる。最終的決定は明日になるそうである」と告げたのである。」
「正に、晴天のヘキレキであった。」
これ以降、年度の途中で熊嶺小中学校が閉校になることについての疑問が記述されている。
しかし、年度内の閉校は決まってしまった。
昭和47年12月1日 八雲小・中学校に統合という形式をもって、閉校となった。

熊嶺集落手前にある大新集落の大新小学校。
探訪当時ですら老朽化が著しかったが、探訪した後に解体された。

大新小学校を過ぎ、いよいよ熊嶺地区へ入る。
電柱には「熊嶺」の名前が残っている。

熊嶺の道路。すっかり自然に帰っているが、酪農風景が広がっていた。
道が分岐しているが、熊嶺は一周できるようになっている。
左に曲がり、先へ進む。

左に曲がって間もなく、道路左手にサイロがある。
人々が暮らしていた痕跡である。

先へ進むと、周囲とは不釣りあいなプレハブの倉庫があった。
以下、ラオウ氏の回想。
「…ここは熊嶺小中学校に勤務していた川嶋先生(注1)が家族と一緒にキャンプをやっていた。元々は、熊嶺小中学校の教員住宅があった場所だ。」
「私は当時、廃校調査の駆け出しの頃(昭和62~3年)だったが、柏山校長先生(注2)に聞いて、川嶋先生の家族と一緒にキャンプした。」
「夜遅くに、川嶋先生が『熊嶺小中学校の跡地へ行って見るか』と言って、懐中電灯の灯りを頼りに学校跡地へ行った。それが、熊嶺小中学校の初めての訪問だった。」
(注1)川嶋先生とは熊嶺小中学校に勤務していた川嶋健治先生のことである。専門は国語で、平成2年に逝去された。
(注2)柏山校長先生とは、熊嶺小中学校に勤務していた柏山克己先生である。

プレハブ倉庫の近くにはブロックの基礎がある。
これは旧軍の解体資材を転用して、7坪の仮校舎を建てたときのものである。

周囲を回り、学校跡地へ通じていた「道」に出た。
「道」といっても、もはや廃道と化し、草木やササが生い茂っている。

意を決し、「通学路」を歩く。

「通学路」の道中。
人の背丈以上のササが生い茂り、行く手を阻むが払いのけて進む。

進むと、サイロが見えてきた。
熊嶺小中学校は、このサイロの下にある。

下った先に、遊具のタイヤがあった。
熊嶺小中学校のグラウンドである。

その傍には百葉箱?の一部が残されている。

グラウンド。
湿地帯と化しており、足元がぬかるむ。
それもその筈で、グラウンドは沼地を埋め立ててできたものである。
「八雲教育 第15号」 『教育の谷間にともしびを ⑩』でこう、記されている。
「ここのグラウンドは、沼地を埋立てしたもので、表土を十糎も掘れば水がつく。さらにその東側一帯から水が湧き、グランドに流れ込み特に雨天には、被害が大きい。」

グラウンドの端に、記念碑はあった。
記念碑より一段高くなったところに、校舎と棟続きの校長住宅があった。

校舎・校長住宅跡地。
基礎が残っている。

屋根の一部もどうにか残っていた。

閉校後、校舎や校長住宅は解体され、植林されてしまっている。

校庭の隅に、小林弘治校長が考案し、PTAの奉仕で完成した「希望の池」がある。
しかし、ツタやコケで覆われており、よく分からない。

折角なので、へばりついていたツタやコケを取り除いた。
「希望の池」と掘ったのは小林校長である。

希望の池の全景写真。
「希望の池」は復活した。

帰り道、学校隣接地にあった神社のご神木を探す。
しかし、この時ご神木を見つけることはできなかった。

熊嶺を離れる道中に見つけた基礎。
最後に転出された方の家の基礎である。
『くまね25年誌』巻末に記載されている「お礼のことば」より。
この言葉は、熊嶺小学校が新築された時のものである。
此の度、私等の学校の落成式に 多数の来賓がお出になり、何よりもうれしく思います。
私等は、父母と一しょに熊嶺に来てから勉強することも出来ないので、他の生徒をつくづくうらやましく思っておりました。
そして仕事のかたわら、父母から教えられておりました。
今日から、皆様のお情けによってりっぱな学校を建てて頂き、まことにありがたい幸福でございます。
これからよく先生の教えをまもり、一生県命勉強して少しでも役に立つ人になって、ごおんの万分の一でもお返ししたいと思います。
粗末ながらこれでお礼のことばといたします。
昭和二十五年八月十日 熊嶺分校在校生 総代 塚田綾子
参考・引用文献
くまね25年誌 川嶋健治 昭和48年3月5日発行
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島桧山版 昭和35年6月9日 『罪な牛乳集荷合戦 部落、二つに割れる』
同 昭和36年1月7日『゛集団"離農を決意 八雲町の熊嶺部落 渡島管内では初めて』
同 昭和44年5月4日『辺地の苦しさ訴える 田仲町長ら 熊嶺小・中を訪問、懇談』
広報 八雲教育 第15号 『教育の谷間にともしびを ⑩』 昭和43年11月30日発行
八雲町二股
八雲町二股(平成26年10月12日探訪)
八雲町二股は、戦後開拓の集落である。
戦後、落部上の湯地区の国有地が開放され、入植者が入地していった。
入植したものの、二股地区は子供たちの教育問題を抱えていた。
当時は上の湯小学校へ通学させていたが、通学距離が8~10kmであったため、低学年の通学は体力的にも無理で、冬期間は不就学児童も出るという状況であった。
昭和30年7月29日付の北海道新聞 渡島檜山版には「学校まで二里も歩く 何とかしたい二股開拓部落の子供たち」とある。
「終戦後開拓者として入地した落部村開拓部落の入植者約十戸はいままで子弟を上ノ湯小学校に通学させていたが、同校の校舎増築をきっかけに是非この際分教場を部落に設置してほしいと冬期間、遠いところは二里もの雪道を全校一、二年の幼い学童が通学している実情を訴え」とある。
一方で、上ノ湯小学校は「本校所在地の上ノ湯部落が分教場設置に反対して児童を寄宿舎に入れ本校に通わせる案を出し」とある。
「二股開拓部落民の言分としては冬期間吹雪の中を一里も二里も幼い子供を本校まで通わせるのは親としてみるにしのびない。(中略)上ノ湯側の主張する冬期間学童を寄宿舎に入れるということになれbな、まだ食うだけやっとの開拓者では食費その他の経費負担に耐え切れないと教育の機会不均等を訴えており(以下略)」とある。
二股32番地に入植した松田兼松も住宅(ブロック造)建築後、まもなく離農し、その後に入植するものもなく空き家となっていた。
住民は、この住宅を仮校舎として分校を設置するよう村に要請した。
これにより昭和31年10月に認可を受けた。
昭和32年1月22日から「上の湯小学校二股分校」として、10名の児童によって開校した。
学校開校当時のことを、北海道新聞 渡島檜山版 昭和32年1月26日付の記事にこう出ている。
「〝もう欠席しません〟 下二股に分教場できる」
「落部市街地から六里の山奥にある下二股部落では終戦直後入植した十八戸のうち九戸が定住 部落の学童は中学生九人、小学生二十一人に達し往復六里近い道を上の湯小、中学校まで通学、冬期は積雪が深いため低学年の生徒は通学不能となり(中略)同教委は元開拓者のいた住宅十六坪を校舎に一年―三年まで低学年の生徒十二人を対象として二十二日開校、上の湯校から寺沢先生が着任した。」とある。
「部落では父兄が小さな学校に集まり紅白のパンと冷酒で念願かなった喜びにひたりながら開校式を祝ったが、生徒も父兄もこれからは〝休みません〟と誓い合った。」
しかし、学校が開校して月日も経たぬうちから離農が始まっていった。
北海道新聞 昭和35年12月22日付の記事で「しわすの風に泣く不振開拓部落 八雲町下二股の人たち」とある。
『「ワシはなんのためにここに入植したのかわからない。家族を苦労させるのにこんなにムダ道を十数年も歩き続けてきたのだろうか、借金と不幸の連続がワシの体から離れようとしないのだ」 部落のひとり矢口次郎さん(39)は吹き抜けるすき間風にふるえながら、こう語った。』
『下二股開拓地は函館本線の落部駅から約二十四キロの山奥、いまだに電気を知らない。渡島管内一の〝不振〟のレッテルをはられ、そこに住む九戸は〝絶望〟の二字を背負って生きている。』
『二十一年から二十五年までに入植した十六戸のうち七戸はすでに去った。戦後の食糧難で、土地さえあれば食べられると入植した人たちにとって、はじめは適地にみえたものの、クワをいれてみると、二メートル以上もあるササヤブ、その下はデコボコの荒地だった。』
『「生まれてはじめてササ刈りガマを手にし、三年くらいは毎年一ヘクタールていど開墾した。しかしその間になけなしの金を全部食いつぶし、畑の収入といってもスズメの涙ほど。これでは生きて行けないと、四年目からは造材の出かせぎをはじめたんですが…」と矢口さんはいう。(中略)』
『他の人たちも矢口さんと同じだ。ジャガイモ、豆、ヒエがおもな作物だが、収穫は少なく、若い働き手が土地を離れてゆくため、わずかな耕地も年々縮小している。家畜は部落中合わせて子ウシ一頭、ウマ四頭、ニワトリ若干。』
『「ここから出たい気持ちはいっぱいです。だが出るにしても当座をしのぐ金がない。いまの借金を返すアテすらありません」とみんな絶望的だ。八雲町役場では『もう私たちの手ではどうにもならない。根本的な国の施策が必要だ』とサジを投げており、渡島支庁でも『いまの状態ではどうしようもない。立地条件が悪いのだが、来年は生産意欲をもり立ててやりたい』といってはいるが、これといった名案はないようだ。」
「開拓不振」というレッテルを貼られた二股でああるが、明るいニュースもある。
北海道新聞 昭和39年7月31日付の記事で「辺地校の子ら大喜び 渡島道職員の贈り物届く」
『渡島支庁では二十九日、八雲町の辺地校四校に愛の贈り物を届け、学校や子どもたちは思いがけないプレゼントに大喜びだった。』
『渡島支庁は四年前から、〝辺地の子らと手をつなぐ運動〟のひとつとして子どもたちに愛の贈り物を続けてきたが、ことしは各支庁のトップを切って六月ごろから道南の道職員に呼びかけ、職員一人当たり百円を集めて文化の光に恵まれぬ各校に希望の品物を贈ったもの(中略)』
『(前略)午後一時すぎ八雲町にはいり、出迎えの石垣町教育長らといっしょに上の湯小中校の二股分校に到着。キャンプ用テントひと張りと知事からの贈り物「偉人全集」十巻を贈った。』
『同校は一年から四年まで生徒数わずか五人。松橋先生といっしょにキャンプにいくのを楽しみにしていただけに、さっそく包みを広げて〝やあ、すごく大きいなあ〟と大はしゃぎ。(以下略)』
しかし、それでも離農の流れには逆らえず、住民らは転出していった。
「八雲教育」第4号 「学校紹介 南から④ 上の湯小・中学校」の手記で二股分校は、こう記されている。
「(前略)二股分校は、離農という流れのきびしさのなかに、現在只一名の児童を収容している状態に立ち至っているが、子どもだけは、すこやかに伸ばしたいものである。(後略)」
また、「八雲教育」第8号 「座談会 へき地の子と共に-きびしさも、よろこびも-」の席上で、上の湯小・中学校 校長夫人 長谷部ヨシは「数年前、隣の分校の先生で、手おくれのために、死なせてしまった例がありました。」と発言している。
この「分校」は二股分校のことを指している。
二股分校は昭和42年3月末をもって、廃校になった。
「八雲教育」第9号では、こう記されている。
「鉛川小学校並に二股分校の廃校と、富咲分校の本校昇格。」
「(前略)離農のため教師の子一人だけとなった二股分校が廃校となりました。(後略)」

まずは本校である上の湯小学校。
校舎は閉校後、陶芸家のアトリエとして活用されていたが、既に閉鎖されている。

閉鎖されて久しく、老朽化が著しい。

これより分校のあった場所へ行く。
下二股林道の出発地点である。

林道の案内板に、その名前が記されている。

林道を進んで間もなく、砂防ダムの傍に魚道が設けられていた。
魚道を見下ろすが、結構な高さである。

魚道が見える場所より先の風景。
まだまだ進む。

道中、道が一部崩れかかっていた。

なかには車幅ギリギリのところもある。

やがて、大きく開けた場所に出た。

ラオウ氏の話によると、近年までこの場所にサイロが残されていたらしいが、植林のため解体されてしまったとのことである。

振り返って来た道を望む。
開拓の痕跡は全く残されていない。

さらに進む。
学校跡地はもうすぐだが、単独での探訪は勇気がいる。

橋を渡り、先へ進むと、右手に「国旗掲揚塔」があった。
国旗掲揚塔は折れていた。

その先に、記念碑があった。
ここに、分校があった。

驚きと興奮によりピンボケとなってしまい、失礼。
基礎が残っている。

傍には、仮校舎として活用された松田兼松宅の家屋も、外壁だけ残されている。

階段と思われる基礎。

奥には、学校の防風林と思われる樹木が野生化していた。

学校跡地より振り返った風景。
戦後に開拓された集落は植林され、面影を失っていた。
参考・引用文献
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和30年7月29日付「学校まで二里も歩く 何とかしたい二股開拓部落の子供たち」
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和32年1月26日付「〝もう欠席しません〟下二股に分教場できる」
北海道新聞 昭和35年12月22日付「しわすの風に泣く不振開拓部落 生産意欲失いがち」
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和39年7月31日付「辺地校の子ら大喜び 渡島道職員の贈り物届く」
八雲教育 第4号 昭和42年1月1日発行 「学校紹介 南から④ 上の湯小・中学校」
八雲教育 第8号 昭和42年10月5日発行「座談会 へき地の子と共に-きびしさも、よろこびも-」
八雲教育 第9号 昭和42年12月1日発行「昭和四十二年 八雲町教育十大ニュース」
八雲町二股は、戦後開拓の集落である。
戦後、落部上の湯地区の国有地が開放され、入植者が入地していった。
入植したものの、二股地区は子供たちの教育問題を抱えていた。
当時は上の湯小学校へ通学させていたが、通学距離が8~10kmであったため、低学年の通学は体力的にも無理で、冬期間は不就学児童も出るという状況であった。
昭和30年7月29日付の北海道新聞 渡島檜山版には「学校まで二里も歩く 何とかしたい二股開拓部落の子供たち」とある。
「終戦後開拓者として入地した落部村開拓部落の入植者約十戸はいままで子弟を上ノ湯小学校に通学させていたが、同校の校舎増築をきっかけに是非この際分教場を部落に設置してほしいと冬期間、遠いところは二里もの雪道を全校一、二年の幼い学童が通学している実情を訴え」とある。
一方で、上ノ湯小学校は「本校所在地の上ノ湯部落が分教場設置に反対して児童を寄宿舎に入れ本校に通わせる案を出し」とある。
「二股開拓部落民の言分としては冬期間吹雪の中を一里も二里も幼い子供を本校まで通わせるのは親としてみるにしのびない。(中略)上ノ湯側の主張する冬期間学童を寄宿舎に入れるということになれbな、まだ食うだけやっとの開拓者では食費その他の経費負担に耐え切れないと教育の機会不均等を訴えており(以下略)」とある。
二股32番地に入植した松田兼松も住宅(ブロック造)建築後、まもなく離農し、その後に入植するものもなく空き家となっていた。
住民は、この住宅を仮校舎として分校を設置するよう村に要請した。
これにより昭和31年10月に認可を受けた。
昭和32年1月22日から「上の湯小学校二股分校」として、10名の児童によって開校した。
学校開校当時のことを、北海道新聞 渡島檜山版 昭和32年1月26日付の記事にこう出ている。
「〝もう欠席しません〟 下二股に分教場できる」
「落部市街地から六里の山奥にある下二股部落では終戦直後入植した十八戸のうち九戸が定住 部落の学童は中学生九人、小学生二十一人に達し往復六里近い道を上の湯小、中学校まで通学、冬期は積雪が深いため低学年の生徒は通学不能となり(中略)同教委は元開拓者のいた住宅十六坪を校舎に一年―三年まで低学年の生徒十二人を対象として二十二日開校、上の湯校から寺沢先生が着任した。」とある。
「部落では父兄が小さな学校に集まり紅白のパンと冷酒で念願かなった喜びにひたりながら開校式を祝ったが、生徒も父兄もこれからは〝休みません〟と誓い合った。」
しかし、学校が開校して月日も経たぬうちから離農が始まっていった。
北海道新聞 昭和35年12月22日付の記事で「しわすの風に泣く不振開拓部落 八雲町下二股の人たち」とある。
『「ワシはなんのためにここに入植したのかわからない。家族を苦労させるのにこんなにムダ道を十数年も歩き続けてきたのだろうか、借金と不幸の連続がワシの体から離れようとしないのだ」 部落のひとり矢口次郎さん(39)は吹き抜けるすき間風にふるえながら、こう語った。』
『下二股開拓地は函館本線の落部駅から約二十四キロの山奥、いまだに電気を知らない。渡島管内一の〝不振〟のレッテルをはられ、そこに住む九戸は〝絶望〟の二字を背負って生きている。』
『二十一年から二十五年までに入植した十六戸のうち七戸はすでに去った。戦後の食糧難で、土地さえあれば食べられると入植した人たちにとって、はじめは適地にみえたものの、クワをいれてみると、二メートル以上もあるササヤブ、その下はデコボコの荒地だった。』
『「生まれてはじめてササ刈りガマを手にし、三年くらいは毎年一ヘクタールていど開墾した。しかしその間になけなしの金を全部食いつぶし、畑の収入といってもスズメの涙ほど。これでは生きて行けないと、四年目からは造材の出かせぎをはじめたんですが…」と矢口さんはいう。(中略)』
『他の人たちも矢口さんと同じだ。ジャガイモ、豆、ヒエがおもな作物だが、収穫は少なく、若い働き手が土地を離れてゆくため、わずかな耕地も年々縮小している。家畜は部落中合わせて子ウシ一頭、ウマ四頭、ニワトリ若干。』
『「ここから出たい気持ちはいっぱいです。だが出るにしても当座をしのぐ金がない。いまの借金を返すアテすらありません」とみんな絶望的だ。八雲町役場では『もう私たちの手ではどうにもならない。根本的な国の施策が必要だ』とサジを投げており、渡島支庁でも『いまの状態ではどうしようもない。立地条件が悪いのだが、来年は生産意欲をもり立ててやりたい』といってはいるが、これといった名案はないようだ。」
「開拓不振」というレッテルを貼られた二股でああるが、明るいニュースもある。
北海道新聞 昭和39年7月31日付の記事で「辺地校の子ら大喜び 渡島道職員の贈り物届く」
『渡島支庁では二十九日、八雲町の辺地校四校に愛の贈り物を届け、学校や子どもたちは思いがけないプレゼントに大喜びだった。』
『渡島支庁は四年前から、〝辺地の子らと手をつなぐ運動〟のひとつとして子どもたちに愛の贈り物を続けてきたが、ことしは各支庁のトップを切って六月ごろから道南の道職員に呼びかけ、職員一人当たり百円を集めて文化の光に恵まれぬ各校に希望の品物を贈ったもの(中略)』
『(前略)午後一時すぎ八雲町にはいり、出迎えの石垣町教育長らといっしょに上の湯小中校の二股分校に到着。キャンプ用テントひと張りと知事からの贈り物「偉人全集」十巻を贈った。』
『同校は一年から四年まで生徒数わずか五人。松橋先生といっしょにキャンプにいくのを楽しみにしていただけに、さっそく包みを広げて〝やあ、すごく大きいなあ〟と大はしゃぎ。(以下略)』
しかし、それでも離農の流れには逆らえず、住民らは転出していった。
「八雲教育」第4号 「学校紹介 南から④ 上の湯小・中学校」の手記で二股分校は、こう記されている。
「(前略)二股分校は、離農という流れのきびしさのなかに、現在只一名の児童を収容している状態に立ち至っているが、子どもだけは、すこやかに伸ばしたいものである。(後略)」
また、「八雲教育」第8号 「座談会 へき地の子と共に-きびしさも、よろこびも-」の席上で、上の湯小・中学校 校長夫人 長谷部ヨシは「数年前、隣の分校の先生で、手おくれのために、死なせてしまった例がありました。」と発言している。
この「分校」は二股分校のことを指している。
二股分校は昭和42年3月末をもって、廃校になった。
「八雲教育」第9号では、こう記されている。
「鉛川小学校並に二股分校の廃校と、富咲分校の本校昇格。」
「(前略)離農のため教師の子一人だけとなった二股分校が廃校となりました。(後略)」

まずは本校である上の湯小学校。
校舎は閉校後、陶芸家のアトリエとして活用されていたが、既に閉鎖されている。

閉鎖されて久しく、老朽化が著しい。

これより分校のあった場所へ行く。
下二股林道の出発地点である。

林道の案内板に、その名前が記されている。

林道を進んで間もなく、砂防ダムの傍に魚道が設けられていた。
魚道を見下ろすが、結構な高さである。

魚道が見える場所より先の風景。
まだまだ進む。

道中、道が一部崩れかかっていた。

なかには車幅ギリギリのところもある。

やがて、大きく開けた場所に出た。

ラオウ氏の話によると、近年までこの場所にサイロが残されていたらしいが、植林のため解体されてしまったとのことである。

振り返って来た道を望む。
開拓の痕跡は全く残されていない。

さらに進む。
学校跡地はもうすぐだが、単独での探訪は勇気がいる。

橋を渡り、先へ進むと、右手に「国旗掲揚塔」があった。
国旗掲揚塔は折れていた。

その先に、記念碑があった。
ここに、分校があった。

驚きと興奮によりピンボケとなってしまい、失礼。
基礎が残っている。

傍には、仮校舎として活用された松田兼松宅の家屋も、外壁だけ残されている。

階段と思われる基礎。

奥には、学校の防風林と思われる樹木が野生化していた。

学校跡地より振り返った風景。
戦後に開拓された集落は植林され、面影を失っていた。
参考・引用文献
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和30年7月29日付「学校まで二里も歩く 何とかしたい二股開拓部落の子供たち」
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和32年1月26日付「〝もう欠席しません〟下二股に分教場できる」
北海道新聞 昭和35年12月22日付「しわすの風に泣く不振開拓部落 生産意欲失いがち」
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和39年7月31日付「辺地校の子ら大喜び 渡島道職員の贈り物届く」
八雲教育 第4号 昭和42年1月1日発行 「学校紹介 南から④ 上の湯小・中学校」
八雲教育 第8号 昭和42年10月5日発行「座談会 へき地の子と共に-きびしさも、よろこびも-」
八雲教育 第9号 昭和42年12月1日発行「昭和四十二年 八雲町教育十大ニュース」
八雲町八線
八雲町八線(平成26年10月12日探訪)
八雲町八線は農業(酪農)で栄えた集落であった。
明治38年 福島県人 石川竹三郎が5戸の小作人を引き連れて入地したことに始まった。
その後も入植者が増え、子弟の教育のために石川夫妻が明治40年6月 子弟を自宅に集めて寺子屋形式の教育を始めたのが始まりであった。
しかし、このような私設教育を長く続けることも難しく、子弟らが大関本校まで通学することも困難であった。
村当局に公設特別教授場の開設を要請し続けた結果、明治43年の村会において議決がなされ、実現の見通しが立った。
住民らは石川らと協力し合い、ペンケルペシュベ406番地に校舎を建築し、「大関尋常小学校付属ペンケルペシベ特別教授場」として明治43年6月1日開校した。
校舎は、石川農場敷地内に建てられた。
しかし、翌44年5月 野火のために校舎が焼失してしまい、住民らは再び再建へ向け努力した。
同年12月 教員住宅を併設した校舎を建て直した。
この時、1年生から4年生までがここに通い、5年生以上は大関本校に通わせていた。
大正4年4月「八線特別教授場」として名称が変更された。
「八線」という名前は教授場の位置を現し、地区の「俗称」であった。
そのため、支庁側は「数詞ト誤解セラルベク」としてペンケルペシュベを意訳した「上路」(ウワジ)とするよう促したが、村は原案で押し切った。
大正期に入ると子弟の数も増大し、大正9年4月1日 八線尋常小学校と改称。
改称に併せて、大関本校に通っていた5・6年生も八線尋常小学校に収容した。
しかし、制度的には特別教育規定による小学校であって、小学校令によるものとは異なる扱いであった。
第一次世界大戦後の不況を受けて大正10年の在籍児童数 60名をピークとし、以降は減少へ転じていく。
そのため、小学校令による小学校の昇格させるべき条件が揃わず、大正15年と昭和7年、特別教育規定の適用延長について特認を受けていた。
昭和8年 ペンケルペシュベ263番地(現 上八雲769番地)に校舎を移設し、別棟の教員住宅を建てて整備した。
併せて、町内の鉛川・赤笹の各学校とともに特別教育規定の長期適用を脱し、小学校令による小学校として昇格させた。
この時の児童数は32名にまで減少し、昭和15年では25名になり減少傾向は続いた。
昭和16年4月 八線国民学校と改称。
昭和22年4月 八線小学校と改称。
児童数の減少は尚も続き、昭和18年には14名。
昭和20年には9名にまで減少した。
戦後開拓により八線も入植者が現れ始めるが「教育月報」1956年(昭和31)2月号に、当時の校長である松井理一郎が「小さい学校経営の苦心」と題し、寄稿している。
この中で八線地区のことについて触れられているが、以下、引用する。
「(前略)思い出す3年前、隣家からの火事で丸焼けの憂目から赴任、いとも軽い引越荷をトラックから馬車に積み替え一里半のぬかるみの山坂道を喘ぎながら、それこそ八重葎茂れる淋しい宿の鉛筆のカケラ、紙一枚ない学校でたまっていた事務を辿々しく片付けて、やれやれの間もあればこそ、次々と至急のハンコが来る来る一日か二日で期限切れの火のつく様な報告物、相談相手もなければ、〒局から疑問をただすには往復三里の山道。(中略)」
「(前略)目に映るものはただ起伏する山ずらと、ポツンポツンと一粁距ての谷間の家、丘の家とサイロと牛ばかり、隣家とは凡そいえない部落分布、半年は六尺の雪に鎖された人っ子一人通らない道の長い長い冬。(以下略)」
松井校長離任後、次に着任された佐伯篤光校長は前任地である野田生小学校勤務時代に辺地教育の重要性を感じ、自ら志願して八線小学校に着任した。
北海道新聞 昭和39年8月18日付(渡島・桧山版)に「長年、辺地教育に尽力 八雲の佐伯八線小校長に近く奨励賞」とある。
「(前略)ここは冬は交通途絶、ときにはクマも出るという奥地。部落個数14戸、半分は開拓農家で経営も楽でない。辺地のため教材も満足にない。」
「このため佐伯先生は学力向上には学習方法、教材、施設の改善を図らなければ-と鉄棒、平均台、花壇、川をせきとめた水泳場、ニジマスの養魚池など部落民や子供たちといっしょになって作りあげ学習環境を整備した。」
「また健康管理や社会科の勉強のために毎年夏休みになるとまちや海をみせるため奥さんを助手に子供たちを連れてまちへ出るのが学校の重要な行事となった。(後略)」
「(中略)二十日、奥さんとともに札幌で表彰を受けるが『これからも辺地教育にいっそう努力したい』と控えめに喜びを語っていた。」
この年の9月、教員配置基準の改正により初めて2教員制となった。
しかし、昭和40年代に入ると離農による転出が始まった。
八雲教育 第26号に「特集 山の便りをもとめて 町内へき地学校リレー訪問記」があるが、そのなかで八線小学校は、こう取り上げられている。
「二人の学校 へき地三級 八線小学校」
「朝公民館を出発するとき心配された天候も昼頃にはあがり、花の夏路をあとに八線小学校に向かって出発した。」
「雑草のおおいかぶさった山道も想像以上に整備され、大関から六粁ダラダラ斜面を上りつめたところ目の前が急に開け八線盆地がある。その行く手坂下に樹々に囲まれ六十年の歴史をもつ八線小学校の校舎がみえる。」
「(中略)八線部落は明治三十八年の開拓で、学校の歴史も古く大正13年頃はもっとも入殖者の多かった年で七十戸と記録され、生徒の数も六十六名にも及び八線地域農業の全盛期でもありました。」
「しかしここ八線にも過その波がおしよせ広々とした耕地に酪農を経営する者六戸、先生二戸、計八戸、生徒数も二名という八雲町内でも一番小さな学校です(後略)。」
一方で、八線の冬の気候について、八雲教育第22号に「やまの便り-昭和45年1月31日からの吹雪-」と題し、八線地区の雪害について記されている。
「前略 今日も吹雪、あれて四日目になり、全くあきれてしまいました。」
「三十一日のあらしで配電線と電話線がズタズタ、折れた電柱二本腕木の破損数知れず、回復までに一週間はかかるという。郵便屋さんも訪れず明りもなく、音も声も聞こえない暗黒生活を送って四日目になります。」
「ただきこえるのは無常な風の音と、深い溜息ばかりです。」
「二日の朝、学校と住宅は吹きだまりの中に入り、雪にスッポリ埋り、屋根が僅かにつき出、どうにか給食室の窓から校内に入ったが、映画館なみの暗やみ。電灯を片手に校内を巡視し、異常のなかったことに安心しました。」
「部落の方々は電気の復旧工事にかりだされ、除雪を依頼していたが思うようにならず、私どもだけで教室の窓あけをしています。」
「道路はドカ雪と吹きだまりのため馬も歩けず、雪のおちつくのをまって道路つけをするとのこと。大関まででれるようになるのはいつのことやら…。」
「『この分では牛乳もなげなければ』と、部落の方々はあきらめ顔です。まことに気の毒なことで胸がつまる思いがします。」
「古老の話しでは、『子供の頃こんなあらしがあった』とのこと自然の恐ろしさをまざまざと見せつけられ、全くおどろいてしまいました。」
「何はともあれ、急病人や事故がなかったことを、せめてもの幸いと思い、今後とも、復旧まで健康と無事故を願い続けています。まずは現況報告まで。さようなら」
発信者は八線小学校校長 千葉貫一で、あて先は当時の八雲教育委員会 石垣教育長である。
昭和47年3月に在校児童4名のうち、2名が卒業した。
在校児童数は2名になった。
八線の集落について、ラオウ氏はこう話す。
「石川農場設立後も、八線の開拓に入植した人々は所謂「刑務所出所」者が多かった…。戦後開拓入植者も、外地からの引揚者もいたが刑務所服役を経て出所した人が多かった。」
「農業の経験もないまま、農業をやっても当然うまくいかず、転出していった…。転出先は、すぐに稼ぐことができる八雲鉱山が多かった。また、火災で家が焼けてしまったために離農していった人もなかにはいた…。」
これらの情報は昭和63年頃、ラオウ氏が八線小学校卒業生に訊いたことをまとめたものである。
昭和47年度は新規入学者もいないまま2名のまま継続したが、うち1名は年度の途中で転出した。
そのため、12月には最小限の一人となってしまった。
将来においても入学する児童が皆無で、教育効果が期待できない状況と判断され、年度の途中である昭和48年1月末を以って閉校となった。
閉校後、八線地区は大きく変貌を遂げた。
昭和48年 既に過疎化が進んでいた八線地区の土地の有効活用を図るべく東京の香川治義が、土地の所有者らと協議を進めて約260ヘクタールの確保に成功した。
香川は、肉牛の育成牧場経営を計画し「有限会社八雲牧場」を設立したが、間もなく経営不振に陥ってしまう。
その頃、北里大学獣医畜産学部が既存の牧場や施設が手狭になり、より充実した学生の研修牧場を造成する適地を探していた。
昭和50年春 北里大学は八雲牧場を買収して活用したい旨、町に伝えた。
町も当時、大学の誘致に熱意を示していたとともに、土地の有効活用にかなうものとして歓迎された。
これにより、町を仲介役として協議が進められ、有限会社八雲牧場の土地や施設すべて買収し、昭和51年早々に「北里大学獣医畜産学部付属八雲牧場」となり、使用が開始された。
また、同年7月より本格的な施設建設工事が着手され、円形牛舎三棟をはじめ、関連施設の建物の整備が進められたと同時に、北里大学PPAの寄贈により「八雲綜合実習所」の建設も行われた。
八雲綜合実習所は昭和53年7月に完成し、使用され始めた。
校舎はその後、北里大学の休憩所として転用されたが、老朽化のために解体された。

北里大学 八雲総合実習所棟。
学校跡地は、この奥にある。

電柱には「八線」の名前が今も残っている。

学校へ行く途中の風景。
八線の集落を残す痕跡は少ない。

正面のマツの木は、かつて家があったことを示すものか。

やがて、学校跡地へ到着した。
奥に見えるのが、学校跡地を示す記念碑である。

学校跡地へ近づく。
跡地にある木々は、開校当時に植樹されたものである。

ウシが放牧されているため、記念碑に有刺鉄線が巻かれていたがそれも果たしていなかった。

周囲を見渡すと、遊具のタイヤが残されている。

こちらは学校池である。
池にはかつて、ニジマスやヤマベが泳いでいた。

これは教員住宅と校舎の基礎である。
ラオウ氏は「校舎は、入って左側が職員室兼応接室で、右側が教室だった。教室は13畳くらいはあったと思う。その奥にトイレと洗面所があった」と話す。

これも基礎と思われるが、この当時は分からなかった。

学校より石川農場の防風林を望む。
樹木が一列に並んでいるので分かり易い。

石川農場の風景。
八雲教育 第20号「学校紹介 南から⑳ 八線小学校の巻」より
「(前略)春ともなれば巣箱を塒(ねぐら)に飛び交う小鳥の数も多く、囀ずる声を梢ごしにきかれたり、七十匹の虹鱒やヤマベが元気に泳ぐ百五十平方米の池の回りや、緑の校庭のそこそこに色とりどりの花が咲き乱れ、学校の景観をいやが上にももりあげ、牛追いや野良帰りの人達が池に佇み、一日の疲れを癒す等学校を憩の場所として親しんでいる。」
「辺地の弊害打破の一策として読書教育ととりくんでき、その一端としての文集発行も子供の手により三十一号を数えるに至り、部落の大きな楽しみへと発展した。」
「又勤労と貯蓄奨励にも意をむけ昨年全道表彰を受けて部落をあげて喜びあったことも、子ども達の大きな自信となったことと思う。」
参考・引用文献
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和39年8月18日「長年、辺地教育に尽力 八雲の佐伯八線小校長に近く奨励賞」
「教育月報」 1956年(昭和31)2月号
八雲教育 第20号 「学校紹介 南から⑳ 八線小学校の巻」 昭和44年10月25日発行
八雲教育 第22号 「やまの便り-昭和45年1月31日からの吹雪-」 昭和45年3月10日発行
八雲教育 第26号 山の便りをもとめて 町内へき地学校リレー訪問記」 昭和45年9月25日発行
八雲町八線は農業(酪農)で栄えた集落であった。
明治38年 福島県人 石川竹三郎が5戸の小作人を引き連れて入地したことに始まった。
その後も入植者が増え、子弟の教育のために石川夫妻が明治40年6月 子弟を自宅に集めて寺子屋形式の教育を始めたのが始まりであった。
しかし、このような私設教育を長く続けることも難しく、子弟らが大関本校まで通学することも困難であった。
村当局に公設特別教授場の開設を要請し続けた結果、明治43年の村会において議決がなされ、実現の見通しが立った。
住民らは石川らと協力し合い、ペンケルペシュベ406番地に校舎を建築し、「大関尋常小学校付属ペンケルペシベ特別教授場」として明治43年6月1日開校した。
校舎は、石川農場敷地内に建てられた。
しかし、翌44年5月 野火のために校舎が焼失してしまい、住民らは再び再建へ向け努力した。
同年12月 教員住宅を併設した校舎を建て直した。
この時、1年生から4年生までがここに通い、5年生以上は大関本校に通わせていた。
大正4年4月「八線特別教授場」として名称が変更された。
「八線」という名前は教授場の位置を現し、地区の「俗称」であった。
そのため、支庁側は「数詞ト誤解セラルベク」としてペンケルペシュベを意訳した「上路」(ウワジ)とするよう促したが、村は原案で押し切った。
大正期に入ると子弟の数も増大し、大正9年4月1日 八線尋常小学校と改称。
改称に併せて、大関本校に通っていた5・6年生も八線尋常小学校に収容した。
しかし、制度的には特別教育規定による小学校であって、小学校令によるものとは異なる扱いであった。
第一次世界大戦後の不況を受けて大正10年の在籍児童数 60名をピークとし、以降は減少へ転じていく。
そのため、小学校令による小学校の昇格させるべき条件が揃わず、大正15年と昭和7年、特別教育規定の適用延長について特認を受けていた。
昭和8年 ペンケルペシュベ263番地(現 上八雲769番地)に校舎を移設し、別棟の教員住宅を建てて整備した。
併せて、町内の鉛川・赤笹の各学校とともに特別教育規定の長期適用を脱し、小学校令による小学校として昇格させた。
この時の児童数は32名にまで減少し、昭和15年では25名になり減少傾向は続いた。
昭和16年4月 八線国民学校と改称。
昭和22年4月 八線小学校と改称。
児童数の減少は尚も続き、昭和18年には14名。
昭和20年には9名にまで減少した。
戦後開拓により八線も入植者が現れ始めるが「教育月報」1956年(昭和31)2月号に、当時の校長である松井理一郎が「小さい学校経営の苦心」と題し、寄稿している。
この中で八線地区のことについて触れられているが、以下、引用する。
「(前略)思い出す3年前、隣家からの火事で丸焼けの憂目から赴任、いとも軽い引越荷をトラックから馬車に積み替え一里半のぬかるみの山坂道を喘ぎながら、それこそ八重葎茂れる淋しい宿の鉛筆のカケラ、紙一枚ない学校でたまっていた事務を辿々しく片付けて、やれやれの間もあればこそ、次々と至急のハンコが来る来る一日か二日で期限切れの火のつく様な報告物、相談相手もなければ、〒局から疑問をただすには往復三里の山道。(中略)」
「(前略)目に映るものはただ起伏する山ずらと、ポツンポツンと一粁距ての谷間の家、丘の家とサイロと牛ばかり、隣家とは凡そいえない部落分布、半年は六尺の雪に鎖された人っ子一人通らない道の長い長い冬。(以下略)」
松井校長離任後、次に着任された佐伯篤光校長は前任地である野田生小学校勤務時代に辺地教育の重要性を感じ、自ら志願して八線小学校に着任した。
北海道新聞 昭和39年8月18日付(渡島・桧山版)に「長年、辺地教育に尽力 八雲の佐伯八線小校長に近く奨励賞」とある。
「(前略)ここは冬は交通途絶、ときにはクマも出るという奥地。部落個数14戸、半分は開拓農家で経営も楽でない。辺地のため教材も満足にない。」
「このため佐伯先生は学力向上には学習方法、教材、施設の改善を図らなければ-と鉄棒、平均台、花壇、川をせきとめた水泳場、ニジマスの養魚池など部落民や子供たちといっしょになって作りあげ学習環境を整備した。」
「また健康管理や社会科の勉強のために毎年夏休みになるとまちや海をみせるため奥さんを助手に子供たちを連れてまちへ出るのが学校の重要な行事となった。(後略)」
「(中略)二十日、奥さんとともに札幌で表彰を受けるが『これからも辺地教育にいっそう努力したい』と控えめに喜びを語っていた。」
この年の9月、教員配置基準の改正により初めて2教員制となった。
しかし、昭和40年代に入ると離農による転出が始まった。
八雲教育 第26号に「特集 山の便りをもとめて 町内へき地学校リレー訪問記」があるが、そのなかで八線小学校は、こう取り上げられている。
「二人の学校 へき地三級 八線小学校」
「朝公民館を出発するとき心配された天候も昼頃にはあがり、花の夏路をあとに八線小学校に向かって出発した。」
「雑草のおおいかぶさった山道も想像以上に整備され、大関から六粁ダラダラ斜面を上りつめたところ目の前が急に開け八線盆地がある。その行く手坂下に樹々に囲まれ六十年の歴史をもつ八線小学校の校舎がみえる。」
「(中略)八線部落は明治三十八年の開拓で、学校の歴史も古く大正13年頃はもっとも入殖者の多かった年で七十戸と記録され、生徒の数も六十六名にも及び八線地域農業の全盛期でもありました。」
「しかしここ八線にも過その波がおしよせ広々とした耕地に酪農を経営する者六戸、先生二戸、計八戸、生徒数も二名という八雲町内でも一番小さな学校です(後略)。」
一方で、八線の冬の気候について、八雲教育第22号に「やまの便り-昭和45年1月31日からの吹雪-」と題し、八線地区の雪害について記されている。
「前略 今日も吹雪、あれて四日目になり、全くあきれてしまいました。」
「三十一日のあらしで配電線と電話線がズタズタ、折れた電柱二本腕木の破損数知れず、回復までに一週間はかかるという。郵便屋さんも訪れず明りもなく、音も声も聞こえない暗黒生活を送って四日目になります。」
「ただきこえるのは無常な風の音と、深い溜息ばかりです。」
「二日の朝、学校と住宅は吹きだまりの中に入り、雪にスッポリ埋り、屋根が僅かにつき出、どうにか給食室の窓から校内に入ったが、映画館なみの暗やみ。電灯を片手に校内を巡視し、異常のなかったことに安心しました。」
「部落の方々は電気の復旧工事にかりだされ、除雪を依頼していたが思うようにならず、私どもだけで教室の窓あけをしています。」
「道路はドカ雪と吹きだまりのため馬も歩けず、雪のおちつくのをまって道路つけをするとのこと。大関まででれるようになるのはいつのことやら…。」
「『この分では牛乳もなげなければ』と、部落の方々はあきらめ顔です。まことに気の毒なことで胸がつまる思いがします。」
「古老の話しでは、『子供の頃こんなあらしがあった』とのこと自然の恐ろしさをまざまざと見せつけられ、全くおどろいてしまいました。」
「何はともあれ、急病人や事故がなかったことを、せめてもの幸いと思い、今後とも、復旧まで健康と無事故を願い続けています。まずは現況報告まで。さようなら」
発信者は八線小学校校長 千葉貫一で、あて先は当時の八雲教育委員会 石垣教育長である。
昭和47年3月に在校児童4名のうち、2名が卒業した。
在校児童数は2名になった。
八線の集落について、ラオウ氏はこう話す。
「石川農場設立後も、八線の開拓に入植した人々は所謂「刑務所出所」者が多かった…。戦後開拓入植者も、外地からの引揚者もいたが刑務所服役を経て出所した人が多かった。」
「農業の経験もないまま、農業をやっても当然うまくいかず、転出していった…。転出先は、すぐに稼ぐことができる八雲鉱山が多かった。また、火災で家が焼けてしまったために離農していった人もなかにはいた…。」
これらの情報は昭和63年頃、ラオウ氏が八線小学校卒業生に訊いたことをまとめたものである。
昭和47年度は新規入学者もいないまま2名のまま継続したが、うち1名は年度の途中で転出した。
そのため、12月には最小限の一人となってしまった。
将来においても入学する児童が皆無で、教育効果が期待できない状況と判断され、年度の途中である昭和48年1月末を以って閉校となった。
閉校後、八線地区は大きく変貌を遂げた。
昭和48年 既に過疎化が進んでいた八線地区の土地の有効活用を図るべく東京の香川治義が、土地の所有者らと協議を進めて約260ヘクタールの確保に成功した。
香川は、肉牛の育成牧場経営を計画し「有限会社八雲牧場」を設立したが、間もなく経営不振に陥ってしまう。
その頃、北里大学獣医畜産学部が既存の牧場や施設が手狭になり、より充実した学生の研修牧場を造成する適地を探していた。
昭和50年春 北里大学は八雲牧場を買収して活用したい旨、町に伝えた。
町も当時、大学の誘致に熱意を示していたとともに、土地の有効活用にかなうものとして歓迎された。
これにより、町を仲介役として協議が進められ、有限会社八雲牧場の土地や施設すべて買収し、昭和51年早々に「北里大学獣医畜産学部付属八雲牧場」となり、使用が開始された。
また、同年7月より本格的な施設建設工事が着手され、円形牛舎三棟をはじめ、関連施設の建物の整備が進められたと同時に、北里大学PPAの寄贈により「八雲綜合実習所」の建設も行われた。
八雲綜合実習所は昭和53年7月に完成し、使用され始めた。
校舎はその後、北里大学の休憩所として転用されたが、老朽化のために解体された。

北里大学 八雲総合実習所棟。
学校跡地は、この奥にある。

電柱には「八線」の名前が今も残っている。

学校へ行く途中の風景。
八線の集落を残す痕跡は少ない。

正面のマツの木は、かつて家があったことを示すものか。

やがて、学校跡地へ到着した。
奥に見えるのが、学校跡地を示す記念碑である。

学校跡地へ近づく。
跡地にある木々は、開校当時に植樹されたものである。

ウシが放牧されているため、記念碑に有刺鉄線が巻かれていたがそれも果たしていなかった。

周囲を見渡すと、遊具のタイヤが残されている。

こちらは学校池である。
池にはかつて、ニジマスやヤマベが泳いでいた。

これは教員住宅と校舎の基礎である。
ラオウ氏は「校舎は、入って左側が職員室兼応接室で、右側が教室だった。教室は13畳くらいはあったと思う。その奥にトイレと洗面所があった」と話す。

これも基礎と思われるが、この当時は分からなかった。

学校より石川農場の防風林を望む。
樹木が一列に並んでいるので分かり易い。

石川農場の風景。
八雲教育 第20号「学校紹介 南から⑳ 八線小学校の巻」より
「(前略)春ともなれば巣箱を塒(ねぐら)に飛び交う小鳥の数も多く、囀ずる声を梢ごしにきかれたり、七十匹の虹鱒やヤマベが元気に泳ぐ百五十平方米の池の回りや、緑の校庭のそこそこに色とりどりの花が咲き乱れ、学校の景観をいやが上にももりあげ、牛追いや野良帰りの人達が池に佇み、一日の疲れを癒す等学校を憩の場所として親しんでいる。」
「辺地の弊害打破の一策として読書教育ととりくんでき、その一端としての文集発行も子供の手により三十一号を数えるに至り、部落の大きな楽しみへと発展した。」
「又勤労と貯蓄奨励にも意をむけ昨年全道表彰を受けて部落をあげて喜びあったことも、子ども達の大きな自信となったことと思う。」
参考・引用文献
八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和39年8月18日「長年、辺地教育に尽力 八雲の佐伯八線小校長に近く奨励賞」
「教育月報」 1956年(昭和31)2月号
八雲教育 第20号 「学校紹介 南から⑳ 八線小学校の巻」 昭和44年10月25日発行
八雲教育 第22号 「やまの便り-昭和45年1月31日からの吹雪-」 昭和45年3月10日発行
八雲教育 第26号 山の便りをもとめて 町内へき地学校リレー訪問記」 昭和45年9月25日発行
八雲町富咲
八雲町富咲(平成26年10月12日探訪)
八雲町富咲は、農業で栄えた集落であった。
明治30年2月 大阪出身である長谷川寅次郎・井上徳兵衛と下関出身 安井作次郎・大井重吉ら4名が共同出願して、ペンケルペシベ川以北 およそ1043町歩(約1043ヘクタール)の貸付を受け、大関農場を創設し38戸の入植者をみた。
トワルベツ(後の富咲)は大関農場の開拓を中心として、明治36年 330町歩(約330ヘクタール)の貸付を受けた萩原農場をはじめ吉植農場、さらに増田・田下・久保などの牧場が開設され、入植者や炭焼き業者を迎えた。
子供たちは大関尋常小学校まで通っていたが、トワルベツから大関まで8キロも離れていた。
住民らは協議し、明治40年1月 高橋忠蔵所有の澱粉乾燥場を改造し、私設教育所を開設した。教員として、伊能大吉を雇った。
しかし、維持するのは容易ではなく、同年5月に休校。同年11月に木戸忠之助所有の澱粉乾燥小屋を借りて再開したが、教育所を維持することは易しくなかった。
明治41年4月 増田鶴寿ら38名の連署のうえ、公設教授場の開設を陳情したところ認められた。
明治41年12月15日 大関尋常小学校付属トワルベツ特別教授場として開校した。
開校に伴い、校舎を久保市蔵所有の澱粉置場に移転し、伊能大吉が引き続き教員となった。
村として、数多くの教授場を設置することは経済的な面からも妥当ではないことからトワルベツ特別教授場とサックルペシベ特別教授場(後の大関小学校夏路分校)の統合を計画し、両地区の境界付近に新校舎を建設した。
だが、トワルベツ側は教員自体も不便であるという理由で移転せず、サックルペシベ側も従来どおりの教授場に通っていたため、統合計画は失敗に終わった。
明治44年7月 高橋勝次所有の薪小屋を仮校舎に当てた後、同年10月に増田農場事務所の傍らに校舎を新築した。
大正4年4月1日 それまでのカタカナを漢字に改め「富有別(トアルベツ)特別教授場」と改称。
改称にあたり、地域の住民らが用いつつあった「都有別」という漢字を支庁に上申した。
支庁側は「読み誤り」の恐れがあるので「トワルベツ」を意訳した「温川(ヌルカワ)」という名称を提案したが、地域の住民らは「学校ノ名称ハ概して所在地又ハ其部落ヲ代表スル特殊呼称ヲ冠セザルナク」として、「都」から「富」に改めたものの「富有別」で押し切った。
その後、教場は継続されたが山間へき地であることや、薪炭材の皆伐、地力低下、水害による橋の流出が重なり、離農者が続出し昭和15年には3名となった。
近い将来においても、戸数の増加が期待できなかったため、昭和15年3月31日付で閉校となった。
同じく、明治末期から大正初期にかけてトワルベツ川上流地帯の黒岩側稜線寄りの高台地が解放され、入植者が現れた。
ここはトワルベツ特別教授場が最寄であったが、学校まで8キロも離れていた。
住民らは協議を重ねた結果、伊藤栄記所有の建物を借受け、仮教場として大正3年 児童12名を集め、佐藤乙吉を教員として雇い授業を行った。
同年5月には地域住民の奉仕で教員住宅併設の教場を新築した。
教場建設のみならず、教員の俸給を含めたすべての経費を負担するのは容易ではなかった。
同年11月 地域住民らは村当局に公設の教授場設置を陳情したが、回答は「村経済ノ関係上当分開設シ能ハサル」であった。
そのため、私設のまま継続せざるを得なかった。
これと前後して、黒岩地区の高台奥地(黒岩原野)が解放され、入植者が現れた。
ここも、最寄りの黒岩校まで8キロも離れていた。
地域住民らは協議を重ねた結果、大正5年5月 児童8名を収容し私設教育所を開校した。
だが、諸経費は地域住民がすべて負担していたため、経営は困難であったが、翌年11月に教員が退職してしまい、廃止された。
両地区とも同じ問題を抱えていたが、村当局では特別教授場を設置する条件を満たしていないことや、財政問題から双方の折衷案を出すよう説得した。
説得の結果、大正9年3月にトワルベツ地区(8戸) 伊藤栄記 黒岩地区(22戸)岩渕音作が連署して町当局に出願した。
出願に際し、教授場の建物や一切の設備は住民負担ということを条件とした。
これにより、双方の地区名より一字ずつとって「黒岩尋常小学校付属富岩特別教授場」として、同年5月1日の開校を見た。
但し、5月1日開校にあわせて指定された場所への移動は難しかったため、応急処置としてトワルベツ地区の旧教場を当てた。
校舎を新築したのは、同年11月のことであった。
しかし学校が山間地域ということもあり、開校してから間もなく離農者が現れ始め、昭和7年には9名。
昭和13年には4名にまで減少した。
町では将来の増加も見込めないことから、児童一人に月額5円の就学奨励費を支給し、昭和14年3月末を以って廃校となった。
子供たちは、黒岩尋常小学校へ通学することとなった。
昭和14年3月6日付の函館新聞には「教授場を廃止 児童に奨学金給与」とある。
「(八雲発)黒岩所属富岩特別教授場は第一回八雲町会において三月三十一日限り廃止と決定 在学児童四名につき年額60円の奨学金を給与して黒岩校に通学せしめることになった」
昭和22年より、戦後開拓によりトワルベツに入植者が現れた。
昭和22年 7戸入植。
昭和24年 15戸入植。
昭和29年 2戸入植。
昭和30年 6戸入植。
子供たちは、最寄の大関小学校まで通っていたが遠距離で悪路であったため、通学は困難であった。
地区住民から分校設置の要望の声が高まっていった。
昭和31年3月13日付 北海道新聞(渡島・桧山版)に「雪解け待ち着工 トワルベツ部落に分教場」とある。
「ユーラップ川の支流トワルベツ川の源にのぞむトワルベツ部落は桧山との境に近い八雲で最も奥深い部落で、五、六年前からユーラップ川の流域各農家の二、三男が入植、戸数二十五を数えているが、同部落の学童は小学生二十五名、中学生十名もあり、かよわい子供たちが冬は体を没する除雪に悩み、秋は熊の襲撃に怯えながら一里半も離れた下流の大関小、中学校に通学している。(中略)このほど、大関小トワルベツ分教場として六十坪の校舎を融雪早々つくることになった。(後略)」とある。
同年11月13日の北海道新聞(渡島・桧山版)に「16年ぶりに明るい顔 富咲部落 待望の開拓分校完成」とある。
「終戦後まで開拓地を守り続けた家はわずかに二戸しかなかったが、二十三年から再び入植が始まり、南北三里の流域一帯に現在までに引揚者、八雲町の農家の二・三男などが計三十戸入り(中略)、部落では昨年から分教場の開設を町に陳情、町でもトワルベツ川流域が今後さらに開拓する発展する可能性のあることを考え合わせ、七月から工費百七十万円で六十坪の分教場新築工事に取り掛かり(中略)先生も今金町から松橋保夫先生が着任したので、大島町教育委員長北口助役らをはじめ、生徒、部落民一同で七日校舎落成と開校の式を挙げた。(後略)」
しかし、校下は入植者も現れず、むしろ転出者が現れ始めていた。
昭和42年4月 富咲小学校と改称。
昭和44年7月16日付北海道新聞(渡島・桧山版)に「単複校の友だちが交歓 楽しく合唱、演奏 ウサギのプレゼントも」とある。
これは八雲町内のすべての学校を対象にした、音楽交歓会の記事で、趣旨としては歌や器楽演奏を通し、交流の少ない他校の児童たちと交流することであった。
八雲町内の子供たちは、得意の合唱や器楽、遊戯を披露した。
そんななか、会場の話題を呼んだのは富咲小学校であった。以下、抜粋する。
「なかでも会場の話題を呼んだのは富咲小(安井貢校長、八人)のウサギ贈呈式。子供たちにやさしい心を育てよう-と安井校長の発案で一昨年から飼い始めた四匹の親ウサギがこの春子供を生んだため、以前、ダリアの球根をたくさんもらった上ノ湯小(長谷部実校長、三十人)にお礼の気持ちをこめてプレゼントしたもの。」
「富咲小五年の稲垣政広君が『まだ名前はついていませんがかわいがってください』とあいさつしたあと、ピョンピョン元気にはねまわる子ウサギを手渡すと、上ノ湯小の児童は『かわいいな』とニッコリ。〝山の学校〟」同士の暖かな友情の輪の中でしっかり握手をかわし合っていた。(後略)」
文面に登場する安井貢校長はこの後も新聞に度々掲載されている。
昭和47年1月14日付の北海道新聞 渡島桧山版には「通学少しでも楽に、八雲富咲小の先生たちが思いやり ムシロで防雪さく作る」とある。
「(前略)児童たちの登、下校が少しでも楽なように-と安井校長らが、学校近くの通学路にムシロを張った防雪さくを作った。(中略)一時は農家も二十戸ほどあったが、離農が相次ぎ、いまではたったの二戸。このため、冬は道路の除雪もできず、市街地との連絡は安井校長のと〝雪上車〟と、農家の富坂福之助さんが持っているスノーモービルによってかろうじて保たれている状態。(中略)同校では、〝吹雪から子供たちを少しでも守ってやろう〟と町から無償で七十枚のムシロをもらい、このほど安井校長、神原先生、それに富坂さんと三人で、学校近くのいつも吹きだまりが出来る個所、四十五メートルに防雪さくを作った。」
「安井校長は、『この山奥では、これだけの防雪さくは焼け石に水のようなものだが、ふぶかれる子供たちにとってこれほどありがたいものはない。三学期も元気に登校してほしい』と、元気な子供たちの姿を見るのを楽しみにしている」とある。
しかし、この年の3月末を以て閉校になった。
昭和47年3月25日付の北海道新聞 渡島桧山版(夕刊)には、こうある。
「〝さよなら!富咲小〟 在校生ついに一人 寂しく卒業、閉校式」
「(前略)戦後の開拓者入植で三十一年に大関小学校富咲分校として開校、四十三年には独立したが、離農が相次ぎ、一時は二十人を越えた児童もいまではわずか四人。さらにこの三月で六年生二人(注1)が卒業、二年生一人(注2)も転出して、残るのは五年生の富坂良春君(注3)ただ一人になるため、新学期から約八キロ離れた隣の大関小に統合することになった。」
「卒業式と閉校式には小泉町助役らや、たった二戸残った農家の人たちが出席、『離農者は歯がかけるように次々と出て行きました』『楽しかったみんなとの生活がいつまでも忘れません』-こもごも呼びかける子供たちや先生の声は寂しさを隠し切れず、こらえ切れずに目にハンカチをあてるお母さんもいた。」
(注1) 「六年生二名」は、富咲集落で残っていた富坂・松本両家の児童(女子)である。
(注2) 「二年生一人」は、富咲小学校に赴任していた神原先生の娘である。
(注3) 「五年生の…」とあるが、閉校式当時は4年生である。閉校後、富坂良春君は本校(大関小学校)ではなく、大関小学校夏路分校へ通学していた。
そのため「改訂 八雲町史 下巻」 の「大関小学校夏路分校」には「四十五年には一家族の姉弟だけ四名という特異な現象となった。こうして、姉弟だけの学校として存続し、全員が卒業してしまった五十一年三月限りをもって在籍数はゼロとなり、自然廃校になった。」というのは誤りである。

大関小学校を過ぎ「大富橋」を渡る。
この先から、富咲集落になる。

電柱を見ると「富咲」と記されている。

ピンボケとなってしまい、失礼。
道沿いを進むと、学校跡地が見えてきた。
これは、振り返っての風景。

学校跡地手前。
正面にある大きな松の木は、閉校記念に植樹されたものである。

記念碑を探すべく、薮の中に入る。以下、ラオウ氏の回想である。
「平成2年に富坂福之助さんや、伊藤千代吉さんと一緒に富咲を案内していただいたことがあった。二人とも、富咲の『生き字引』的な存在だった。」と語る。

薮を書き分けていくと、学校跡地の記念碑が姿を現した。

裏面には閉校年月日が記されている。

記念碑周辺は、人の背丈ほどのササが生い茂っており、この時期の発見は困難を極める。

記念碑周辺を歩くと、学校の便槽(トイレ)が残っていた。

トイレ前の風景。
校舎があった場所は、原生林に帰っていた。

しかし、よく見ると屋根の一部が残っていた。

富岩特別教授場の跡地を目指すべく、富咲小学校よりも奥へと進む。
離農したサイロがポツンと佇んでいる。

そのサイロより奥の風景。
進んでみる。
この後、地図と照らし合わせたりして迷いながらも、『推測』の域だがそれらしき場所に到達する。

富岩特別教授場跡地前と思われる場所である。
周囲は笹薮で覆われており、一見すると「ただの笹薮」である。

しかし左手には、明らかに周囲の植生と違う「マツ」の木が並んでいる。

富岩特別教授場跡地と思われる場所である。
雪解け直後、笹が倒れているときに再訪すれば、もしかしたら何らかの「痕跡」があるかもしれない。

帰りがけに見た風景。
ススキや笹の向こうがわに、サイロがあった。
校舎は閉校後、間もなく解体されて八雲町栄町会館の建築資材として転用された。
しかし、それも随分前に解体され、今は新しい栄町会館が建っている。
八雲町富咲は、農業で栄えた集落であった。
明治30年2月 大阪出身である長谷川寅次郎・井上徳兵衛と下関出身 安井作次郎・大井重吉ら4名が共同出願して、ペンケルペシベ川以北 およそ1043町歩(約1043ヘクタール)の貸付を受け、大関農場を創設し38戸の入植者をみた。
トワルベツ(後の富咲)は大関農場の開拓を中心として、明治36年 330町歩(約330ヘクタール)の貸付を受けた萩原農場をはじめ吉植農場、さらに増田・田下・久保などの牧場が開設され、入植者や炭焼き業者を迎えた。
子供たちは大関尋常小学校まで通っていたが、トワルベツから大関まで8キロも離れていた。
住民らは協議し、明治40年1月 高橋忠蔵所有の澱粉乾燥場を改造し、私設教育所を開設した。教員として、伊能大吉を雇った。
しかし、維持するのは容易ではなく、同年5月に休校。同年11月に木戸忠之助所有の澱粉乾燥小屋を借りて再開したが、教育所を維持することは易しくなかった。
明治41年4月 増田鶴寿ら38名の連署のうえ、公設教授場の開設を陳情したところ認められた。
明治41年12月15日 大関尋常小学校付属トワルベツ特別教授場として開校した。
開校に伴い、校舎を久保市蔵所有の澱粉置場に移転し、伊能大吉が引き続き教員となった。
村として、数多くの教授場を設置することは経済的な面からも妥当ではないことからトワルベツ特別教授場とサックルペシベ特別教授場(後の大関小学校夏路分校)の統合を計画し、両地区の境界付近に新校舎を建設した。
だが、トワルベツ側は教員自体も不便であるという理由で移転せず、サックルペシベ側も従来どおりの教授場に通っていたため、統合計画は失敗に終わった。
明治44年7月 高橋勝次所有の薪小屋を仮校舎に当てた後、同年10月に増田農場事務所の傍らに校舎を新築した。
大正4年4月1日 それまでのカタカナを漢字に改め「富有別(トアルベツ)特別教授場」と改称。
改称にあたり、地域の住民らが用いつつあった「都有別」という漢字を支庁に上申した。
支庁側は「読み誤り」の恐れがあるので「トワルベツ」を意訳した「温川(ヌルカワ)」という名称を提案したが、地域の住民らは「学校ノ名称ハ概して所在地又ハ其部落ヲ代表スル特殊呼称ヲ冠セザルナク」として、「都」から「富」に改めたものの「富有別」で押し切った。
その後、教場は継続されたが山間へき地であることや、薪炭材の皆伐、地力低下、水害による橋の流出が重なり、離農者が続出し昭和15年には3名となった。
近い将来においても、戸数の増加が期待できなかったため、昭和15年3月31日付で閉校となった。
同じく、明治末期から大正初期にかけてトワルベツ川上流地帯の黒岩側稜線寄りの高台地が解放され、入植者が現れた。
ここはトワルベツ特別教授場が最寄であったが、学校まで8キロも離れていた。
住民らは協議を重ねた結果、伊藤栄記所有の建物を借受け、仮教場として大正3年 児童12名を集め、佐藤乙吉を教員として雇い授業を行った。
同年5月には地域住民の奉仕で教員住宅併設の教場を新築した。
教場建設のみならず、教員の俸給を含めたすべての経費を負担するのは容易ではなかった。
同年11月 地域住民らは村当局に公設の教授場設置を陳情したが、回答は「村経済ノ関係上当分開設シ能ハサル」であった。
そのため、私設のまま継続せざるを得なかった。
これと前後して、黒岩地区の高台奥地(黒岩原野)が解放され、入植者が現れた。
ここも、最寄りの黒岩校まで8キロも離れていた。
地域住民らは協議を重ねた結果、大正5年5月 児童8名を収容し私設教育所を開校した。
だが、諸経費は地域住民がすべて負担していたため、経営は困難であったが、翌年11月に教員が退職してしまい、廃止された。
両地区とも同じ問題を抱えていたが、村当局では特別教授場を設置する条件を満たしていないことや、財政問題から双方の折衷案を出すよう説得した。
説得の結果、大正9年3月にトワルベツ地区(8戸) 伊藤栄記 黒岩地区(22戸)岩渕音作が連署して町当局に出願した。
出願に際し、教授場の建物や一切の設備は住民負担ということを条件とした。
これにより、双方の地区名より一字ずつとって「黒岩尋常小学校付属富岩特別教授場」として、同年5月1日の開校を見た。
但し、5月1日開校にあわせて指定された場所への移動は難しかったため、応急処置としてトワルベツ地区の旧教場を当てた。
校舎を新築したのは、同年11月のことであった。
しかし学校が山間地域ということもあり、開校してから間もなく離農者が現れ始め、昭和7年には9名。
昭和13年には4名にまで減少した。
町では将来の増加も見込めないことから、児童一人に月額5円の就学奨励費を支給し、昭和14年3月末を以って廃校となった。
子供たちは、黒岩尋常小学校へ通学することとなった。
昭和14年3月6日付の函館新聞には「教授場を廃止 児童に奨学金給与」とある。
「(八雲発)黒岩所属富岩特別教授場は第一回八雲町会において三月三十一日限り廃止と決定 在学児童四名につき年額60円の奨学金を給与して黒岩校に通学せしめることになった」
昭和22年より、戦後開拓によりトワルベツに入植者が現れた。
昭和22年 7戸入植。
昭和24年 15戸入植。
昭和29年 2戸入植。
昭和30年 6戸入植。
子供たちは、最寄の大関小学校まで通っていたが遠距離で悪路であったため、通学は困難であった。
地区住民から分校設置の要望の声が高まっていった。
昭和31年3月13日付 北海道新聞(渡島・桧山版)に「雪解け待ち着工 トワルベツ部落に分教場」とある。
「ユーラップ川の支流トワルベツ川の源にのぞむトワルベツ部落は桧山との境に近い八雲で最も奥深い部落で、五、六年前からユーラップ川の流域各農家の二、三男が入植、戸数二十五を数えているが、同部落の学童は小学生二十五名、中学生十名もあり、かよわい子供たちが冬は体を没する除雪に悩み、秋は熊の襲撃に怯えながら一里半も離れた下流の大関小、中学校に通学している。(中略)このほど、大関小トワルベツ分教場として六十坪の校舎を融雪早々つくることになった。(後略)」とある。
同年11月13日の北海道新聞(渡島・桧山版)に「16年ぶりに明るい顔 富咲部落 待望の開拓分校完成」とある。
「終戦後まで開拓地を守り続けた家はわずかに二戸しかなかったが、二十三年から再び入植が始まり、南北三里の流域一帯に現在までに引揚者、八雲町の農家の二・三男などが計三十戸入り(中略)、部落では昨年から分教場の開設を町に陳情、町でもトワルベツ川流域が今後さらに開拓する発展する可能性のあることを考え合わせ、七月から工費百七十万円で六十坪の分教場新築工事に取り掛かり(中略)先生も今金町から松橋保夫先生が着任したので、大島町教育委員長北口助役らをはじめ、生徒、部落民一同で七日校舎落成と開校の式を挙げた。(後略)」
しかし、校下は入植者も現れず、むしろ転出者が現れ始めていた。
昭和42年4月 富咲小学校と改称。
昭和44年7月16日付北海道新聞(渡島・桧山版)に「単複校の友だちが交歓 楽しく合唱、演奏 ウサギのプレゼントも」とある。
これは八雲町内のすべての学校を対象にした、音楽交歓会の記事で、趣旨としては歌や器楽演奏を通し、交流の少ない他校の児童たちと交流することであった。
八雲町内の子供たちは、得意の合唱や器楽、遊戯を披露した。
そんななか、会場の話題を呼んだのは富咲小学校であった。以下、抜粋する。
「なかでも会場の話題を呼んだのは富咲小(安井貢校長、八人)のウサギ贈呈式。子供たちにやさしい心を育てよう-と安井校長の発案で一昨年から飼い始めた四匹の親ウサギがこの春子供を生んだため、以前、ダリアの球根をたくさんもらった上ノ湯小(長谷部実校長、三十人)にお礼の気持ちをこめてプレゼントしたもの。」
「富咲小五年の稲垣政広君が『まだ名前はついていませんがかわいがってください』とあいさつしたあと、ピョンピョン元気にはねまわる子ウサギを手渡すと、上ノ湯小の児童は『かわいいな』とニッコリ。〝山の学校〟」同士の暖かな友情の輪の中でしっかり握手をかわし合っていた。(後略)」
文面に登場する安井貢校長はこの後も新聞に度々掲載されている。
昭和47年1月14日付の北海道新聞 渡島桧山版には「通学少しでも楽に、八雲富咲小の先生たちが思いやり ムシロで防雪さく作る」とある。
「(前略)児童たちの登、下校が少しでも楽なように-と安井校長らが、学校近くの通学路にムシロを張った防雪さくを作った。(中略)一時は農家も二十戸ほどあったが、離農が相次ぎ、いまではたったの二戸。このため、冬は道路の除雪もできず、市街地との連絡は安井校長のと〝雪上車〟と、農家の富坂福之助さんが持っているスノーモービルによってかろうじて保たれている状態。(中略)同校では、〝吹雪から子供たちを少しでも守ってやろう〟と町から無償で七十枚のムシロをもらい、このほど安井校長、神原先生、それに富坂さんと三人で、学校近くのいつも吹きだまりが出来る個所、四十五メートルに防雪さくを作った。」
「安井校長は、『この山奥では、これだけの防雪さくは焼け石に水のようなものだが、ふぶかれる子供たちにとってこれほどありがたいものはない。三学期も元気に登校してほしい』と、元気な子供たちの姿を見るのを楽しみにしている」とある。
しかし、この年の3月末を以て閉校になった。
昭和47年3月25日付の北海道新聞 渡島桧山版(夕刊)には、こうある。
「〝さよなら!富咲小〟 在校生ついに一人 寂しく卒業、閉校式」
「(前略)戦後の開拓者入植で三十一年に大関小学校富咲分校として開校、四十三年には独立したが、離農が相次ぎ、一時は二十人を越えた児童もいまではわずか四人。さらにこの三月で六年生二人(注1)が卒業、二年生一人(注2)も転出して、残るのは五年生の富坂良春君(注3)ただ一人になるため、新学期から約八キロ離れた隣の大関小に統合することになった。」
「卒業式と閉校式には小泉町助役らや、たった二戸残った農家の人たちが出席、『離農者は歯がかけるように次々と出て行きました』『楽しかったみんなとの生活がいつまでも忘れません』-こもごも呼びかける子供たちや先生の声は寂しさを隠し切れず、こらえ切れずに目にハンカチをあてるお母さんもいた。」
(注1) 「六年生二名」は、富咲集落で残っていた富坂・松本両家の児童(女子)である。
(注2) 「二年生一人」は、富咲小学校に赴任していた神原先生の娘である。
(注3) 「五年生の…」とあるが、閉校式当時は4年生である。閉校後、富坂良春君は本校(大関小学校)ではなく、大関小学校夏路分校へ通学していた。
そのため「改訂 八雲町史 下巻」 の「大関小学校夏路分校」には「四十五年には一家族の姉弟だけ四名という特異な現象となった。こうして、姉弟だけの学校として存続し、全員が卒業してしまった五十一年三月限りをもって在籍数はゼロとなり、自然廃校になった。」というのは誤りである。

大関小学校を過ぎ「大富橋」を渡る。
この先から、富咲集落になる。

電柱を見ると「富咲」と記されている。

ピンボケとなってしまい、失礼。
道沿いを進むと、学校跡地が見えてきた。
これは、振り返っての風景。

学校跡地手前。
正面にある大きな松の木は、閉校記念に植樹されたものである。

記念碑を探すべく、薮の中に入る。以下、ラオウ氏の回想である。
「平成2年に富坂福之助さんや、伊藤千代吉さんと一緒に富咲を案内していただいたことがあった。二人とも、富咲の『生き字引』的な存在だった。」と語る。

薮を書き分けていくと、学校跡地の記念碑が姿を現した。

裏面には閉校年月日が記されている。

記念碑周辺は、人の背丈ほどのササが生い茂っており、この時期の発見は困難を極める。

記念碑周辺を歩くと、学校の便槽(トイレ)が残っていた。

トイレ前の風景。
校舎があった場所は、原生林に帰っていた。

しかし、よく見ると屋根の一部が残っていた。

富岩特別教授場の跡地を目指すべく、富咲小学校よりも奥へと進む。
離農したサイロがポツンと佇んでいる。

そのサイロより奥の風景。
進んでみる。
この後、地図と照らし合わせたりして迷いながらも、『推測』の域だがそれらしき場所に到達する。

富岩特別教授場跡地前と思われる場所である。
周囲は笹薮で覆われており、一見すると「ただの笹薮」である。

しかし左手には、明らかに周囲の植生と違う「マツ」の木が並んでいる。

富岩特別教授場跡地と思われる場所である。
雪解け直後、笹が倒れているときに再訪すれば、もしかしたら何らかの「痕跡」があるかもしれない。

帰りがけに見た風景。
ススキや笹の向こうがわに、サイロがあった。
校舎は閉校後、間もなく解体されて八雲町栄町会館の建築資材として転用された。
しかし、それも随分前に解体され、今は新しい栄町会館が建っている。