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小平町花岡

小平町花岡(平成28年7月16日・平成29年4月19日及び25日探訪)

小平町花岡は農村集落である。

花岡は元々「鬼泊」(オニトマリ)と称されていた。
名前の由来はアイヌ語で「大きな(親の)澗」を意味し、幕末に番屋が置かれ、船澗があったとされている。

明治28年 栖原番屋付近に定住した中原将次(鳥取県人)にはじまり谷口農場、花田農場牧場地内に炭焼きや小作者の入植が現れ始めた。
この頃の子供らは小平蘂第一教育所(現 小平小学校)へ通学していたが山道を歩き、冬季は長期欠席せざるを得ない状態であった。
このため、区長であった中原将次を中心に協議した結果、明治42年高谷市次郎を教師として私塾を開いた。

学校の沿革は次のとおりである。

明治42年 小番新八の納屋を借用して私塾開校
明治43年 花田伝七牧場の事務所を譲受け、移築して校舎とする。
明治44年 小平蘂第一教育所付属恩寧泊特別教授譲渡して開校(5月15日)
大正7年  教室・屋内運動場・住宅兼職員室の改築
大正13年 校舎の模様替え 運動場を教室に、旧教室を職員室に変更
昭和9年  鬼泊尋常小学校に変更(6月1日)
昭和16年 鬼泊国民学校に変更(4月1日)
昭和22年 鬼泊小学校に変更(4月1日)
昭和23年 花岡小学校に変更
昭和35年 花岡小学校閉校(8月31日)

花岡小学校の閉校は、小平小学校の新築に併せて閉校となった。
閉校後、花岡の子供たちは学校前にあった花岡乗降場より汽車で小平小学校へ通学していた。

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平成28年7月、初めて花岡へ足を運んだ。

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橋の名前は「花岡橋」
この先へ足を運ぶ。

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先へ進むと崩れかけた家屋がある。

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傍に、笹に埋もれかけた建物が見えた。
笹を掻き分けて進む。

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『花岡農家担い手研修所 地域農政整備事業』という看板が掲げられているが、使われなくなって久しい。

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花岡小学校跡地に建てたのは分かったが、それにしても笹薮が酷く全容が掴めない。
諦めて周囲を散策する。

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『小平百話-記憶の中の物語-』に掲載されている昭和20年前後の花岡地区の住宅地図を見ると、Sさんの家のようである。

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牧草畑となっているが、この奥にも1軒家があった。

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学校向かいの家を遠望する。橋を渡った右隣に花岡乗降場があった。

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集落の奥より学校方面を望む。

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年が明けて平成29年4月19日に再訪した。
今回は建物の全容がよく分かる。

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学校横にある建物は半壊状態であった。

今回は、学校横にあった神社(鬼泊神社)を探すことにする。

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神社の基礎を見つけた。
『小平百話-記憶の中の物語-』では「鬼泊神社」と「御眞影奉置所」(奉安殿)と書かれている。
御真影奉置所の基礎と思われる?

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傍に、手水舎があった。

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折角なので溜まっていた土を取り除き、手水舎を復活させた。

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1週間後の4月25日、ラオウ氏とA.D.1600氏と共に再び足を運んだ。
学校跡と神社跡をそれぞれ案内したが、A.D.1600氏より花岡乗降場周辺をガイドして頂いた。

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学校前に置かれていた枕木。
花岡乗降場のものかは分からない。

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国鉄羽幌線路盤跡。この先は小平町大椴へ続いている。

学校も無くなり、居住者もいなくなったが通い作で田畑が維持管理されていた。
ただ、神社は歴史に埋もれようとしていた。

参考文献
小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
留萌教育研究所1981『学海悠悠-留萌の学校-』留萌教育研究所
鈴木 トミヱ2000『小平百話-記憶の中の物語-』小平町開基120年記念事業実行委員会
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小平町下記念別

小平町下記念別(平成28年7月16日・平成29年2月21日探訪)

小平町下記念別は戦後開拓と炭鉱で栄えた集落である。

『小平町史』によると、昭和22年樺太や満洲からの引揚者13戸が入植した。
入植した農家は3~4年で開畑に成功したが、子供らは達布小学校へ通学した。
しかしこの頃の道路状況は悪く、陳情を重ねた結果、昭和27年に達布小学校教諭 楠田登の出張授業が行われた。
また、昭和32年12月より東達布炭鉱㈱が採炭し始めたことから児童数も増加したが、昭和36年度の途中で閉山した。

学校の沿革は次の通りである。

昭和27年11月    達布小学校瑞穂分校 開校
昭和40年3月31日  閉校(注1)

閉校当時や閉校直前の報道記事を紹介する。

慰問袋500点以上 冷害地に隊員の善意
「留萌駐とん部隊の隊員が持ち寄った冷害地の児童に贈る〝慰問袋〟は500点以上を数えた。同隊では11日太野垣司令はじめ谷村広報幹部らがジープで辺地に向い直接手渡すことになった。
 なおこの温い贈りものを受けるのはことし3月で廃校になる小平村達布瑞穂小学校(原文ママ)など管内5校に配分される。慰問品は衣類200点をはじめ学用品、かんづめ、菓子、石けんなど」(留萌タイムス 昭和40(1965)年2月10日)

隊長夫人も拠出 自衛隊冷害地に贈物
「自衛隊の隊員と家族が集めた冷害地のこどもたちに贈る救援物資は、14日の増毛町の信砂御料についで16日は小平村川上小、瑞穂分校に、18日遠別町東生(注3)正修、大成小に贈られる。
 同贈物は趣旨に感動した連隊長夫人太野垣幸代さんが、とくにキャラメルや菓子を「気の毒なこどもたちにあげてください」と買って現地に向かう谷1尉に託した。
 今回は隊員の善意が結集して学用品、菓子など500点が集まった。」(留萌タイムス 昭和40(1965)年2月16日)

辺地校、音楽の〝名門〟 瑞穂分校なくなる 全国入賞も思い出 これからは本校で勉強
「【小平】この4月で廃校になる留萌管内小平村達布小瑞穂分校の廃校式が3月31日に雪に埋もれた分校舎で行われた。戦後入植した開拓農家のこどもたちを育てて12年7か月、勇退する福田由雄分校主任(61)のオルガンで力いっぱい〝ホタルの光〟を歌って別れを惜しんだ。
 瑞穂部落字下記念別は達布市街から(小平市街から約28キロ)から沢づたいに5キロはいったところ。昭和24年入植者を中心に13戸の農家が入った。
 入植当時、橋がなくて川をわたったり、ガケっぷちを通って通学しなければならないためこどもたちが、あまりにもかわいそう―と地区住民が運動、27年に創設されたのが分校だった。主任は櫛田みのる先生(原文ママ・注2)で児童は7人、炭鉱が盛りの33年には45人にふくれあがった。その炭鉱も閉山したいま11戸の開拓農家が残り、児童数も開校時と同じ7人になった。
 数多い思い出を残した2代目主任の福田先生が着任したのは30年4月。学力にも、情操にも恵まれない分校生に福田先生は『開拓地にはいった以上、私も開拓者だ』と、まず音楽に力を注いだ。あきビン、石油カン、フライパン、サラ、茶わんなどを楽器に利用した演奏を31年に苫前町で研究発表。留萌自衛隊との友情が芽ばえたのもこのころ。演習休みに立ち寄った分校でこの変わった演奏を聞いた隊員たちは大ダイコ、縦笛を贈った。ほかにPTA、北海道新聞社からも楽器が贈られ、さっそく第1回辺地音楽のつどい(34年)に参加、全国放送され、みごとNHK奨励賞を受けた。これも今は楽しい思い出、福田先生は増毛町に移り、専門の陶芸で余生をおくる。
 式は午前11時から開かれ、五十嵐村長、阿部教育長、佐藤達布営林署長、部落の人など約25人が出席、雪に埋もれた小さな教室はいっぱい。五十嵐村長が『もっと大きく成長するために分校を閉じることになりました』とあいさつ、村から福田先生に感謝状が贈られた。達布小本校の寺沢邦雄校長が『きょうはみなさんを迎えにきました。これからはちゃんと野球もドッジボールもできます』と話しかけると、こどもたちは目を輝かせ、部落の人たちは喜びと寂しさの入りまじった表情でこどもたちを見つめていた。分校はこのあと部落会館に変わる。」(北海道新聞留萌版(夕刊) 昭和40(1965)年4月2日)


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平成28年7月16日、小平町達布、滝下、川上の集落調査の帰りに下記念別へ立ち寄った。

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下記念別にある唯一の畑。
この当時「学校跡地はこの辺りだろうか」と首を傾げながらの調査であった。

後日、A.D.1600氏と相談して「航空写真から察するに、あの畑のところだと思います。」と回答をいただき、再訪を決意する。

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平成29年2月21日、再び達布へ足を運んだ。
スノーシューとストックを携行して、この道を4~5キロ進む。

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学校手前の「数寄屋橋」。
地形図を見ると、この周辺にも家屋があったがすべて自然に帰ってしまっている。

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家屋マークのある辺りに、野生化した松の木が1本あった。

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橋を過ぎ、達布小学校瑞穂分校跡地へ到着した。
現在は個人所有の畑となっているので、畑の敷地に踏み込まないよう敷地外から撮影する。

スノーシューを装着し、学校裏周辺を散策する。

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地形図や航空写真では、学校裏に対岸へ通じる橋が書かれているが、橋は無くなっていた。
対岸には、住居跡を示す松の木が野生化して残っていた。

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達布市街へ戻る道中の栄光橋。正面の山は下記念山。
橋の名の如く、『音楽の名門』で名を馳せた瑞穂分校は、過去の栄光となってしまった。


(注1)『小平町史』では「同39年度半ばに至って閉校している。」とあるが、『北海道新聞』や『留萌タイムス』の記事の閉校年月日が正しい。
(注2)「櫛田みのる」は「楠田登」の誤植と思われる。
(注3)「東生」は「東野」の誤植と思われる。

参考文献

小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
留萌タイムス1965「慰問袋500点以上 冷害地に隊員の善意」『留萌タイムス』2月10日
留萌タイムス1965「隊長夫人も拠出 自衛隊冷害地に贈物」『留萌タイムス』2月16日
北海道新聞1965「辺地校、音楽の〝名門〟 瑞穂分校なくなる 全国入賞も思い出 これからは本校で勉強」『北海道新聞留萌版夕刊』4月2日
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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