稚内市夕来
稚内市夕来(平成29年9月17日探訪)
稚内市夕来は農村集落である。
明治25年 東京の資産家らがユーチ地区からオネトマナイ地区にかけて森林の伐採、造材、牧場にする計画が認可され飯場兼用の事業所を建て搬出を始めたのが最初である。
明治30年に夕来駅逓が開設されると造材搬出が盛んとなり、人馬の往来も増えた。
明治44年東京の丸谷武松が牧場を開設し、支配人や牧夫を常駐させるなどして集落が形成されていった。
当時の子供たちは勇知簡易教育所へ通学していたが、1里半から2里の距離だけではなく峠越え、悪路、クマ出没で冬季間は休業状態であった。このため、学校設置を求める陳情が認められ校舎新築まで松本太作の住宅を仕切って借り受けた。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
大正2年 勇知教育所附属夕来特別教授場開校(5月)
大正3年 校舎新築(5月)
大正4年 夕来教育所と改称(4月)
大正6年 夕来尋常小学校と改称(4月)
昭和16年夕来国民学校と改称(4月)
昭和22年夕来小学校と改称(4月)
昭和25年校舎新築移転(11月)
昭和60年 閉校(3月)
中学校
昭和25年 下勇知中学校夕来分校設置(4月)
昭和33年 夕来中学校と改称(9月)
昭和60年 閉校(3月)
開校後、定住者も増え続けていったが農業もそれまでの畑作(ジャガイモ)から酪農に転換し、経営規模の拡大が図られていったが、農家戸数の減少に伴い児童も減少していった。

平成29年9月の廃校廃村探訪、夕来を訪れた。
広範囲に酪農家がある。

夕来会館。今も使われている。

会館の背後に校舎があった。
この笹薮を掻き分けて行く気にはなれず、遠望に留めた。

聳え立つマツの木は学校があった頃からの名残である。

会館前には集落で建立した牛魂碑がある。

よく見ると、回旋塔の支柱が残っていた。

笹で埋もれた教員住宅へ行ってみる。

中は住宅の面影が残っていた。

しかし、確実に朽ちつつある。

学校跡の周辺風景。
広大な牧草畑が広がっていた。
参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市史編さん委員会1999『稚内市史第2巻』稚内市
稚内市夕来は農村集落である。
明治25年 東京の資産家らがユーチ地区からオネトマナイ地区にかけて森林の伐採、造材、牧場にする計画が認可され飯場兼用の事業所を建て搬出を始めたのが最初である。
明治30年に夕来駅逓が開設されると造材搬出が盛んとなり、人馬の往来も増えた。
明治44年東京の丸谷武松が牧場を開設し、支配人や牧夫を常駐させるなどして集落が形成されていった。
当時の子供たちは勇知簡易教育所へ通学していたが、1里半から2里の距離だけではなく峠越え、悪路、クマ出没で冬季間は休業状態であった。このため、学校設置を求める陳情が認められ校舎新築まで松本太作の住宅を仕切って借り受けた。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
大正2年 勇知教育所附属夕来特別教授場開校(5月)
大正3年 校舎新築(5月)
大正4年 夕来教育所と改称(4月)
大正6年 夕来尋常小学校と改称(4月)
昭和16年夕来国民学校と改称(4月)
昭和22年夕来小学校と改称(4月)
昭和25年校舎新築移転(11月)
昭和60年 閉校(3月)
中学校
昭和25年 下勇知中学校夕来分校設置(4月)
昭和33年 夕来中学校と改称(9月)
昭和60年 閉校(3月)
開校後、定住者も増え続けていったが農業もそれまでの畑作(ジャガイモ)から酪農に転換し、経営規模の拡大が図られていったが、農家戸数の減少に伴い児童も減少していった。

平成29年9月の廃校廃村探訪、夕来を訪れた。
広範囲に酪農家がある。

夕来会館。今も使われている。

会館の背後に校舎があった。
この笹薮を掻き分けて行く気にはなれず、遠望に留めた。

聳え立つマツの木は学校があった頃からの名残である。

会館前には集落で建立した牛魂碑がある。

よく見ると、回旋塔の支柱が残っていた。

笹で埋もれた教員住宅へ行ってみる。

中は住宅の面影が残っていた。

しかし、確実に朽ちつつある。

学校跡の周辺風景。
広大な牧草畑が広がっていた。
参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市史編さん委員会1999『稚内市史第2巻』稚内市
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稚内市峰岡
稚内市峰岡(平成29年9月・令和元年10月・11月・令和2年3月探訪・大幅改定)
稚内市峰岡は漁村集落であり、元々は時前と称されていた。
開拓した記録は明治10年や、14年、20年と言われており特定はできないが、明治時代初期には人々が暮らしていた。
学校は明治41年9月5日、森田源太を主唱として玉木儀八郎、岩谷秀太郎、森田来治等の尽力により宗谷村大字泊内村トキマエ番外地に間口5間、奥行2間の教育所校舎を設立した。翌明治42年5月29日、公立時前教育所として認可された。この当時の戸数は13戸、児童は19名であった。
学校の沿革は以下の通りである
小学校
明治41年 私設教育所を設立(9月)
明治42年 時前教育所として認可(5月)
大正6年 時前尋常小学校と改称(3月)
大正13年 猿払村立知来別尋常小学校苗太路特別教授場、時前尋常小学校所属となる(1月)
昭和3年 苗太路特別教授場、苗太路尋常小学校と独立(5月)
昭和16年 時前国民学校と改称(4月)
同年 峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和24年 校舎新築移転(12月)
昭和42年 峰岡家庭教育学級開校(12月)
昭和44年 閉校(9月)
中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校開校(12月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校(9月)
集落の主要な出来事
大正12年 本校訓導兼校長 小笠原志富、病死のため部落葬執行(原文ママ)
昭和23年 目梨に引揚者11戸入植(6月)
同年 電話開通落成祝賀会(9月)
昭和26年 泊内沿岸にシャチ群来 全校見学(2月)
昭和27年 ニシン大漁のため繁忙休業(4月22~29日)
昭和28年 ソ連船だ捕・スパイ関三次郎事件(8月)
昭和35年 東信秀校長急逝、学校葬執行(3月)
昭和37年 峰岡地区に電灯導入(12月)
昭和44年 開基80年・創立60周年記念行事挙行(9月)
閉校時の新聞記事を転載する。
名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式
「部落ぐるみで移転することになっている稚内市峰岡の部落解散と、小中学校の閉校式は、部落の開基80年、小学校創立60年の記念式典とあわせ、1日午前11時から同校で行った。出席した部落民や生徒は「蛍の光」で別れを惜しみ、サイダーやジュースでお互いの健康を祈りあっていた。
同部落は稚内市の最東端にある。明治20年頃から開拓のクワが入れられ、ホタテの「貝場」、ニシンで栄えた。また戦後の外地引揚者も数多く入り、一時は戸数60戸、人口は400人にもなったことがある。しかし、漁業資源の不足、花嫁不足、後継者難の社会情勢から、他地区への転出が相次ぎ、現在では一般住宅5戸、先生の住宅3戸、人口わずか31人に減少している。生徒の数もわずか9人で、そのうち1戸から6人が通学している状態。
部落民は数年前から漁港の建設、船揚場の設置などを市へ要望していたが、衰退する部落の姿から「巨費を投じる価値がない」と判断、市議会などとともに部落の移転が将来のため―と住民に諮った。先祖の代から住みついでいる部落民は、はじめ部落閉鎖という事態にかなり強い難色を示していたが、宮本岩太郎部落会長らが中心になって話合いを続けた結果、移転費さえ補償されるならとこの移転案に同意、この日の部落解散式となったもの。
全国的にも例がないこの解散に、市でも異例といわれる移転補助金を13戸分700万円を計上、今議会で承認を得ることになっている。
現在部落に残っている5戸も遅い人でも11月中には移転し、生徒も今月10日過ぎまでには他へ転校する。したがって、この日の解散式、閉校式後若干の間は部落も存在するがその後は完全に無人化状態になる。
この日の式典には、部落民や峰岡出身者など約40人、それに来賓などが出席。最後の別れを惜しんだ。浜森市長も「消滅するための解散ではなく、将来に向かって発展するための解散であってほしい」と部落民を激励していた。
部落の発展や学校のためにつくした宮本岩太郎氏ら多数に感謝状と記念品が贈られた後、残り少ない生徒たちが「ああ、美わしきわが故郷(さと)よ」と校歌を唄い、また参加者全員で「蛍の光」を唄って、つきぬ名残りを惜しんだ。」(「日刊宗谷」昭和44年9月2日)
学校の沿革は以下のとおりである。
小学校
明治42年 時前教育所として開校(5月)
大正 6年 時前尋常小学校と改称(6月)
昭和16年 時前国民学校と変更(4月)
同年 峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校
中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校として開校(5月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校

宗谷管内の廃校廃村を巡る旅、メインである稚内市峰岡。
ここから学校までは徒歩約20分と見積もって歩きはじめた。

歩き始めてから少し経ち、地形図に書かれた「墓地マーク」のポイントに来た。
明治時代からある集落なので、学校と神社、墓地は集落に「なくてはならないもの」である。
その墓地は植林されていた。

墓地を後にして先へ進む。

学校跡へ近づいてきた。

峰岡小中学校へ到達した。
へき地4級、日本最北の「学校跡がある廃村」である。

周辺には水道関係の基礎や教員住宅の基礎、瓶などが転がっている。

学校と神社・その先にあった桃尻集落へ続く橋の基礎。
尚、「桃尻」は「モムジリ」と読む。

瓶が転がっている。
平坦地が所々に広がっているので、屋敷跡の決め手にもなる。

学校の背後にあった神社跡へ進む。

しかし。背丈以上のササがびっしりと生い茂っていた。
これでは前に進むこともできない。
諦めて移転前の学校跡地へ行くことにした。

地形図を見比べると、移転前の学校は神社の隣接地に文マークがしるされている。
校舎・校庭があってもおかしくない広さである。

学校の入り口らしき跡には松の木が生えていた。

移転前の校舎跡より移転後の校舎跡を眺める。
これより先は再訪した時(令和元年10月・11月)のものである。

戦後、引揚者が入植した目梨集落跡。
子どもたちは峰岡の学校へ通学していた。

目梨集落風景。

旧版地形図では左手の森に神社マークがある。

神社跡地付近。

「峰岡」の地名は今もある。

学校跡地(水飲み場)。

タコ工場跡の基礎。

対岸の高台より峰岡集落を俯瞰する。

3メートル近い笹をかき分けて進んだが、この時は遭難寸前だった。
令和2年3月、HEYANEKO氏らと再び、足を運ぶ。

学校手前の旧道の風景。

現在の学校跡と移転前の学校跡を比較する。

時前川の河口は凍っていた。

対岸の旗竿。

神社跡地付近に残る電柱。

神社跡地。
決め手は「サクラ」の樹が植わっていたことである。

神社跡地周辺の風景。

対岸の位置関係。
冬の探索は基礎が埋もれている反面、旧道がしっかり姿を現すので位置関係がよく分かった。
参考文献
北海道新聞1953「関三次郎を起訴 最高検で司令 出入国管理令違反等で」『北海道新聞』昭和28年8月26日
北海道新聞上川・宗谷天塩版1953「現地特派記者が語るソ連船だ補事件の裏話」『北海道新聞』昭和28年8月16日
1969『あゆみ』峰岡開基80年 峰岡小学校開校60周年記念協賛会
日刊宗谷1969「名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式」『日刊宗谷』昭和44年9月2日
稚内市峰岡は漁村集落であり、元々は時前と称されていた。
開拓した記録は明治10年や、14年、20年と言われており特定はできないが、明治時代初期には人々が暮らしていた。
学校は明治41年9月5日、森田源太を主唱として玉木儀八郎、岩谷秀太郎、森田来治等の尽力により宗谷村大字泊内村トキマエ番外地に間口5間、奥行2間の教育所校舎を設立した。翌明治42年5月29日、公立時前教育所として認可された。この当時の戸数は13戸、児童は19名であった。
学校の沿革は以下の通りである
小学校
明治41年 私設教育所を設立(9月)
明治42年 時前教育所として認可(5月)
大正6年 時前尋常小学校と改称(3月)
大正13年 猿払村立知来別尋常小学校苗太路特別教授場、時前尋常小学校所属となる(1月)
昭和3年 苗太路特別教授場、苗太路尋常小学校と独立(5月)
昭和16年 時前国民学校と改称(4月)
同年 峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和24年 校舎新築移転(12月)
昭和42年 峰岡家庭教育学級開校(12月)
昭和44年 閉校(9月)
中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校開校(12月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校(9月)
集落の主要な出来事
大正12年 本校訓導兼校長 小笠原志富、病死のため部落葬執行(原文ママ)
昭和23年 目梨に引揚者11戸入植(6月)
同年 電話開通落成祝賀会(9月)
昭和26年 泊内沿岸にシャチ群来 全校見学(2月)
昭和27年 ニシン大漁のため繁忙休業(4月22~29日)
昭和28年 ソ連船だ捕・スパイ関三次郎事件(8月)
昭和35年 東信秀校長急逝、学校葬執行(3月)
昭和37年 峰岡地区に電灯導入(12月)
昭和44年 開基80年・創立60周年記念行事挙行(9月)
閉校時の新聞記事を転載する。
名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式
「部落ぐるみで移転することになっている稚内市峰岡の部落解散と、小中学校の閉校式は、部落の開基80年、小学校創立60年の記念式典とあわせ、1日午前11時から同校で行った。出席した部落民や生徒は「蛍の光」で別れを惜しみ、サイダーやジュースでお互いの健康を祈りあっていた。
同部落は稚内市の最東端にある。明治20年頃から開拓のクワが入れられ、ホタテの「貝場」、ニシンで栄えた。また戦後の外地引揚者も数多く入り、一時は戸数60戸、人口は400人にもなったことがある。しかし、漁業資源の不足、花嫁不足、後継者難の社会情勢から、他地区への転出が相次ぎ、現在では一般住宅5戸、先生の住宅3戸、人口わずか31人に減少している。生徒の数もわずか9人で、そのうち1戸から6人が通学している状態。
部落民は数年前から漁港の建設、船揚場の設置などを市へ要望していたが、衰退する部落の姿から「巨費を投じる価値がない」と判断、市議会などとともに部落の移転が将来のため―と住民に諮った。先祖の代から住みついでいる部落民は、はじめ部落閉鎖という事態にかなり強い難色を示していたが、宮本岩太郎部落会長らが中心になって話合いを続けた結果、移転費さえ補償されるならとこの移転案に同意、この日の部落解散式となったもの。
全国的にも例がないこの解散に、市でも異例といわれる移転補助金を13戸分700万円を計上、今議会で承認を得ることになっている。
現在部落に残っている5戸も遅い人でも11月中には移転し、生徒も今月10日過ぎまでには他へ転校する。したがって、この日の解散式、閉校式後若干の間は部落も存在するがその後は完全に無人化状態になる。
この日の式典には、部落民や峰岡出身者など約40人、それに来賓などが出席。最後の別れを惜しんだ。浜森市長も「消滅するための解散ではなく、将来に向かって発展するための解散であってほしい」と部落民を激励していた。
部落の発展や学校のためにつくした宮本岩太郎氏ら多数に感謝状と記念品が贈られた後、残り少ない生徒たちが「ああ、美わしきわが故郷(さと)よ」と校歌を唄い、また参加者全員で「蛍の光」を唄って、つきぬ名残りを惜しんだ。」(「日刊宗谷」昭和44年9月2日)
学校の沿革は以下のとおりである。
小学校
明治42年 時前教育所として開校(5月)
大正 6年 時前尋常小学校と改称(6月)
昭和16年 時前国民学校と変更(4月)
同年 峰岡国民学校と改称(9月)
昭和22年 峰岡小学校と改称(4月)
昭和44年 閉校
中学校
昭和24年 大岬中学校峰岡分校として開校(5月)
昭和27年 峰岡中学校と改称(4月)
昭和44年 閉校

宗谷管内の廃校廃村を巡る旅、メインである稚内市峰岡。
ここから学校までは徒歩約20分と見積もって歩きはじめた。

歩き始めてから少し経ち、地形図に書かれた「墓地マーク」のポイントに来た。
明治時代からある集落なので、学校と神社、墓地は集落に「なくてはならないもの」である。
その墓地は植林されていた。

墓地を後にして先へ進む。

学校跡へ近づいてきた。

峰岡小中学校へ到達した。
へき地4級、日本最北の「学校跡がある廃村」である。

周辺には水道関係の基礎や教員住宅の基礎、瓶などが転がっている。

学校と神社・その先にあった桃尻集落へ続く橋の基礎。
尚、「桃尻」は「モムジリ」と読む。

瓶が転がっている。
平坦地が所々に広がっているので、屋敷跡の決め手にもなる。

学校の背後にあった神社跡へ進む。

しかし。背丈以上のササがびっしりと生い茂っていた。
これでは前に進むこともできない。
諦めて移転前の学校跡地へ行くことにした。

地形図を見比べると、移転前の学校は神社の隣接地に文マークがしるされている。
校舎・校庭があってもおかしくない広さである。

学校の入り口らしき跡には松の木が生えていた。

移転前の校舎跡より移転後の校舎跡を眺める。
これより先は再訪した時(令和元年10月・11月)のものである。

戦後、引揚者が入植した目梨集落跡。
子どもたちは峰岡の学校へ通学していた。

目梨集落風景。

旧版地形図では左手の森に神社マークがある。

神社跡地付近。

「峰岡」の地名は今もある。

学校跡地(水飲み場)。

タコ工場跡の基礎。

対岸の高台より峰岡集落を俯瞰する。

3メートル近い笹をかき分けて進んだが、この時は遭難寸前だった。
令和2年3月、HEYANEKO氏らと再び、足を運ぶ。

学校手前の旧道の風景。

現在の学校跡と移転前の学校跡を比較する。

時前川の河口は凍っていた。

対岸の旗竿。

神社跡地付近に残る電柱。

神社跡地。
決め手は「サクラ」の樹が植わっていたことである。

神社跡地周辺の風景。

対岸の位置関係。
冬の探索は基礎が埋もれている反面、旧道がしっかり姿を現すので位置関係がよく分かった。
参考文献
北海道新聞1953「関三次郎を起訴 最高検で司令 出入国管理令違反等で」『北海道新聞』昭和28年8月26日
北海道新聞上川・宗谷天塩版1953「現地特派記者が語るソ連船だ補事件の裏話」『北海道新聞』昭和28年8月16日
1969『あゆみ』峰岡開基80年 峰岡小学校開校60周年記念協賛会
日刊宗谷1969「名残り惜しむ部落民 消える峰岡部落 淋しさこらえて「蛍の光」学校閉鎖とあわせ解散式」『日刊宗谷』昭和44年9月2日
稚内市三井沢
稚内市三井沢(平成28年5月1日探訪)
稚内市三井沢は炭鉱集落であった。
昭和15年 三井栄一が三井砿業宗谷炭砿を設立した。
当時は主に、金山組に所属していた朝鮮人によって採炭されていた。
やがて終戦を迎え、樺太(サハリン)からの引き揚げ者が炭鉱に入っていった。
昭和21年3月 宗谷炭砿株式会社と変更。中村還一が社長に就任すると規模拡大され、三井沢一帯は炭鉱住宅、配給所、商店、学校ができた。
昭和23年 三井沢-曲淵駅を結ぶ送炭用の索道が架設された。索道は石炭を送るだけではなく、食糧、坑木、手紙等と云ったものも送られ、連絡機関の一面も持ち合せていた。
昭和38年12月 選炭工場付近からの火災が切っ掛けとなり、炭鉱は閉山。学校も閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和20年11月19日 曲淵国民学校三井沢分教場として開校。
昭和21年 7月 1日 三井沢国民学校として独立。
昭和22年 4月 1日 三井沢小学校と改称。
昭和27年 4月 1日 三井沢中学校併置。
昭和39年 6月10日 閉校。
宗谷炭砿閉山関係の記事を取り上げる。
18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式
「〝幸せは俺らのねがい……〟-会場に響く〝幸福の歌〟の合唱。だが皆んなが未来の幸福な生活を願って頑張りながら、遂に幸せは訪づれなかった。三井沢にある宗谷炭礦(田岡義彦社長)は18年の歴史をとじ事業閉鎖の止むなき状態に見舞われ、15日には悲しみの閉山式を行った。そして同時に同礦と共に歩んできた同礦労仂組合、職員組合も解散大会を開き、心尽しの料理で18年間の過去を振り返り、お互いに新しい道で幸福を掴もう-と語りかけていた。
同礦があらゆる方面からの融資によって再建に進みながら遂に再建できなかったのは昨年暮に突然襲った選炭機の焼失によるもので心臓部を失い機能は全く停止した。そしてヤマ元では遂に再建をあきらめ、今後の方策を考え出し、同礦の政府買上げに努力をはらったこの結果〝保安買上げ〟として正式に決った。
同礦は現在までに賃金未払いが約6000万円。これに対する保安買上げ価格は1500万円。苦労しながら頑張った結果の報いとしては極めて冷たいもの。だが、どうしにもならない。いまは新しい道に希望を持って静かに毎日を送っている。
閉山式にはヤマ元にいる従業員全員が出席し、田岡社長から閉山への経過、そして深く従業員に詫びる挨拶があったが、従業員は誰をもウラんではいず、予想以上に明るい表情だった。このあと職員、労仂組合の解散を決議、今後の幸福を夢見ながら〝幸福の歌〟を合唱。精神的にも一応のケリがつき、ヤマと共に夫と共にして来た奥さん達のサービスでささやかながら酒宴に入り往時を懐しみ、明日からの道について語りながら〝お互いに頑張ろう〟と約束し合っていた。なお同礦従業員の就職先はそれぞれ別だが、ヤマの男はやはりヤマを選ぶのがほとんどで、その約半数は5月から着手される猿払新坑開発に従事することになっている。」(原文ママ)(『日刊宗谷』昭和39年3月17日版)
閉山による最後の卒業式の記事は以下の通りである。
閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟
「【稚内】宗谷炭鉱は18年間の歴史を閉じ15日付で閉山したが、その閉山の炭鉱地区の市立三井沢小中学校でヤマを離れる子供たちの最後の卒業、終業式が行われ、先生も生徒もなごり惜しげだった。
三井沢小中は、国鉄天北線曲淵駅から5,6キロ奥に入った宗谷炭鉱炭住街にあり、炭鉱員の子供たちのための学校。炭鉱が開鉱した21年10月にまず小学校が三井沢国民学校として開校、中学校は28年に三井沢中学校として設けられた。小、中学生が同じ校舎で学ぶちっちゃな学校だが、炭鉱の18年間の歴史とともに歩み、炭住街の〝文化センター〟でもあった。
しかし、炭鉱が閉山となり、ほとんどの鉱員が5月頃までにヤマを去ると、学校はもはや閉校するほかなさそう。市教委ではまだ態度をはっきりしていないが『閉校するか、それとも規模を縮小して曲淵校の分校にするかどちらか』といっており、いずれにしても子供たちにとっては、これまでのかたちの三井沢校はなくなるわけ。
紅白の幕を張りめぐらした講堂に集まった小学生65人、中学生31人。それに父兄たちはみな『これが最後の卒業、終業式だね』とさびしそう。しかもこの1年間すでにヤマを去った子供たちは51人にものぼり『いっしょにこの式を終えたかったなあ』と生徒たちは先に去った友だちのことをなつかしげ。
大谷幸一校長が『別の学校に行っても、みなくじけずにしっかり勉強してください』と励ましのことばとともに小学校を卒業する久保節子さんら11人、中学校卒業の川村努君ら14人に卒業証書を手渡し式場は水を打ったような静けさ。おさない子供たちも楽しかった毎日に思いをはせ、その悲しみをジッと小さな胸に折りたたんでいるようだ。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』
また、同日のコラム「拡大鏡」にも取り上げられているので転載する。
ヤマとお別れに雪像群
「〇…校舎前の広場に雪像群が並んだ。『軍艦』『考える人』『クマ』などいずれも3メートルから4メートルはあろうという大きなものばかり。閉山した宗谷炭鉱のマチの三井沢小中学の全生徒96人が、おとうさん、おかあさんといっしょにヤマをおりることになり、これで学校ともお別れ、と体育館の時間たん精込めて作ったのが、この雪像群。
〇…3月はじめからとりかかってさきごろようやく完成、15日の卒業式に間に合わせることができた。式に出席した浜森市長、赤川教育長はじめ、来賓、父兄たちは『りっぱなものですね、子供たちもこの雪像のように大きく、たうましく成長してほしいもの』とちょっとシュンとした表情だった。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』

「三井沢」の地名が残る林道の表示板。
電柱の標識にも「三井沢」とあるので、名前は今も残っている。

林道風景。
しかし、集落や学校はこの先には無いので、引き返す。

林道より先の風景。
この先に集落があった。

先へ進むと、道路左手が湿地帯と化している場所を見つけた。

宗谷炭砿の遺構が残っている。
夏になれば、草木に覆われて発見は難しい。

同じく、炭鉱の遺構。
残されている遺構は、索道ではないかと思われる。

折角なので、宗谷炭砿のズリ山を登ってみる。

ズリ山頂上。
遺構関係は見当たらなかった。

ズリ山より周囲を俯瞰する。

先に進むと、道路右手にコンクリートの遺構を見つけた。

位置的に考えると、学校跡地と思われる。
その根拠として
①宗谷炭砿が稼動していた時代を考えると、コンクリートが使われていた建物は炭鉱施設を除くと公的な建物に限られる。
②地形図と照合すると、文マークの位置が合致する。 ことである。

記念碑も建立されていないのにもかかわらず、学校の基礎が残っている。
真夏なら、発見は困難である。

反対側より。
植樹されたと思われるマツの木も、数本残っている。

学校より奥の風景。
学校より奥は、道路左手に墓地があった。
炭鉱や集落の存在を知らなければ、ただの道路である。
しかし昭和30年代後半までは、学校も置かれていた集落が存在した。
引用・参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市編さん委員会1999『稚内市史第2巻』 稚内市
北海道新聞1964「閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟」『北海道新聞留萌・宗谷版』3月18日
日刊宗谷1964「18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式」『日刊宗谷』3月17日
稚内市三井沢は炭鉱集落であった。
昭和15年 三井栄一が三井砿業宗谷炭砿を設立した。
当時は主に、金山組に所属していた朝鮮人によって採炭されていた。
やがて終戦を迎え、樺太(サハリン)からの引き揚げ者が炭鉱に入っていった。
昭和21年3月 宗谷炭砿株式会社と変更。中村還一が社長に就任すると規模拡大され、三井沢一帯は炭鉱住宅、配給所、商店、学校ができた。
昭和23年 三井沢-曲淵駅を結ぶ送炭用の索道が架設された。索道は石炭を送るだけではなく、食糧、坑木、手紙等と云ったものも送られ、連絡機関の一面も持ち合せていた。
昭和38年12月 選炭工場付近からの火災が切っ掛けとなり、炭鉱は閉山。学校も閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和20年11月19日 曲淵国民学校三井沢分教場として開校。
昭和21年 7月 1日 三井沢国民学校として独立。
昭和22年 4月 1日 三井沢小学校と改称。
昭和27年 4月 1日 三井沢中学校併置。
昭和39年 6月10日 閉校。
宗谷炭砿閉山関係の記事を取り上げる。
18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式
「〝幸せは俺らのねがい……〟-会場に響く〝幸福の歌〟の合唱。だが皆んなが未来の幸福な生活を願って頑張りながら、遂に幸せは訪づれなかった。三井沢にある宗谷炭礦(田岡義彦社長)は18年の歴史をとじ事業閉鎖の止むなき状態に見舞われ、15日には悲しみの閉山式を行った。そして同時に同礦と共に歩んできた同礦労仂組合、職員組合も解散大会を開き、心尽しの料理で18年間の過去を振り返り、お互いに新しい道で幸福を掴もう-と語りかけていた。
同礦があらゆる方面からの融資によって再建に進みながら遂に再建できなかったのは昨年暮に突然襲った選炭機の焼失によるもので心臓部を失い機能は全く停止した。そしてヤマ元では遂に再建をあきらめ、今後の方策を考え出し、同礦の政府買上げに努力をはらったこの結果〝保安買上げ〟として正式に決った。
同礦は現在までに賃金未払いが約6000万円。これに対する保安買上げ価格は1500万円。苦労しながら頑張った結果の報いとしては極めて冷たいもの。だが、どうしにもならない。いまは新しい道に希望を持って静かに毎日を送っている。
閉山式にはヤマ元にいる従業員全員が出席し、田岡社長から閉山への経過、そして深く従業員に詫びる挨拶があったが、従業員は誰をもウラんではいず、予想以上に明るい表情だった。このあと職員、労仂組合の解散を決議、今後の幸福を夢見ながら〝幸福の歌〟を合唱。精神的にも一応のケリがつき、ヤマと共に夫と共にして来た奥さん達のサービスでささやかながら酒宴に入り往時を懐しみ、明日からの道について語りながら〝お互いに頑張ろう〟と約束し合っていた。なお同礦従業員の就職先はそれぞれ別だが、ヤマの男はやはりヤマを選ぶのがほとんどで、その約半数は5月から着手される猿払新坑開発に従事することになっている。」(原文ママ)(『日刊宗谷』昭和39年3月17日版)
閉山による最後の卒業式の記事は以下の通りである。
閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟
「【稚内】宗谷炭鉱は18年間の歴史を閉じ15日付で閉山したが、その閉山の炭鉱地区の市立三井沢小中学校でヤマを離れる子供たちの最後の卒業、終業式が行われ、先生も生徒もなごり惜しげだった。
三井沢小中は、国鉄天北線曲淵駅から5,6キロ奥に入った宗谷炭鉱炭住街にあり、炭鉱員の子供たちのための学校。炭鉱が開鉱した21年10月にまず小学校が三井沢国民学校として開校、中学校は28年に三井沢中学校として設けられた。小、中学生が同じ校舎で学ぶちっちゃな学校だが、炭鉱の18年間の歴史とともに歩み、炭住街の〝文化センター〟でもあった。
しかし、炭鉱が閉山となり、ほとんどの鉱員が5月頃までにヤマを去ると、学校はもはや閉校するほかなさそう。市教委ではまだ態度をはっきりしていないが『閉校するか、それとも規模を縮小して曲淵校の分校にするかどちらか』といっており、いずれにしても子供たちにとっては、これまでのかたちの三井沢校はなくなるわけ。
紅白の幕を張りめぐらした講堂に集まった小学生65人、中学生31人。それに父兄たちはみな『これが最後の卒業、終業式だね』とさびしそう。しかもこの1年間すでにヤマを去った子供たちは51人にものぼり『いっしょにこの式を終えたかったなあ』と生徒たちは先に去った友だちのことをなつかしげ。
大谷幸一校長が『別の学校に行っても、みなくじけずにしっかり勉強してください』と励ましのことばとともに小学校を卒業する久保節子さんら11人、中学校卒業の川村努君ら14人に卒業証書を手渡し式場は水を打ったような静けさ。おさない子供たちも楽しかった毎日に思いをはせ、その悲しみをジッと小さな胸に折りたたんでいるようだ。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』
また、同日のコラム「拡大鏡」にも取り上げられているので転載する。
ヤマとお別れに雪像群
「〇…校舎前の広場に雪像群が並んだ。『軍艦』『考える人』『クマ』などいずれも3メートルから4メートルはあろうという大きなものばかり。閉山した宗谷炭鉱のマチの三井沢小中学の全生徒96人が、おとうさん、おかあさんといっしょにヤマをおりることになり、これで学校ともお別れ、と体育館の時間たん精込めて作ったのが、この雪像群。
〇…3月はじめからとりかかってさきごろようやく完成、15日の卒業式に間に合わせることができた。式に出席した浜森市長、赤川教育長はじめ、来賓、父兄たちは『りっぱなものですね、子供たちもこの雪像のように大きく、たうましく成長してほしいもの』とちょっとシュンとした表情だった。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』

「三井沢」の地名が残る林道の表示板。
電柱の標識にも「三井沢」とあるので、名前は今も残っている。

林道風景。
しかし、集落や学校はこの先には無いので、引き返す。

林道より先の風景。
この先に集落があった。

先へ進むと、道路左手が湿地帯と化している場所を見つけた。

宗谷炭砿の遺構が残っている。
夏になれば、草木に覆われて発見は難しい。

同じく、炭鉱の遺構。
残されている遺構は、索道ではないかと思われる。

折角なので、宗谷炭砿のズリ山を登ってみる。

ズリ山頂上。
遺構関係は見当たらなかった。

ズリ山より周囲を俯瞰する。

先に進むと、道路右手にコンクリートの遺構を見つけた。

位置的に考えると、学校跡地と思われる。
その根拠として
①宗谷炭砿が稼動していた時代を考えると、コンクリートが使われていた建物は炭鉱施設を除くと公的な建物に限られる。
②地形図と照合すると、文マークの位置が合致する。 ことである。

記念碑も建立されていないのにもかかわらず、学校の基礎が残っている。
真夏なら、発見は困難である。

反対側より。
植樹されたと思われるマツの木も、数本残っている。

学校より奥の風景。
学校より奥は、道路左手に墓地があった。
炭鉱や集落の存在を知らなければ、ただの道路である。
しかし昭和30年代後半までは、学校も置かれていた集落が存在した。
引用・参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市編さん委員会1999『稚内市史第2巻』 稚内市
北海道新聞1964「閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟」『北海道新聞留萌・宗谷版』3月18日
日刊宗谷1964「18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式」『日刊宗谷』3月17日