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八雲町夏路 S氏の証言・墓地探訪

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八雲町立大関小学校夏路分校 閉校記念碑

私は昭和30年に夏路分校を卒業した。
中学は大関中学校だったが、夏は自転車、冬は徒歩かスキーで十三曲りを越えて通った。

馬は馬車として、よく利用していた。
特に荷物を積んで八雲市街へ降りるとき、川べりをふと見れば一緒にクマも歩いていたこともあった。
 
私の家では当時、クルマを所有していたのでしょっちゅう集落の人から「病院に行くからクルマに乗せていってくれ」と頼まれ、仕事がすすまなかったこともあった。

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夏路に残る神社の鳥居

サックルに住んで、転出していった人の多くは駒ヶ岳方面が多かった。
サックルではデンプン工場が何軒も操業していたが私の家が最後まで操業していた。
中学時代(昭和30~33年頃)水路を利用した発電施設を考えたが、必要としていたモーターが高価であったため買うことができなかった。その為、自転車でモーターを発電させた。
 
昭和35年5月 サックルで強盗事件が起きた。
サックルには営林署の飯場があったが飯場で働いていた人が、Fさんのおばあちゃんを襲い、金銭を盗んだ。
私は当時、畑仕事をしていたが手を振っていた(手招きしていた)ので何かと思っていくと、「強盗に襲われた」と聞かされた。
犯人は山側の道を通り、鉛川まで徒歩で逃げたが捕まった。

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集落風景

墓地は北海道電力の送電線から八雲よりのヤチ(湿地)があり沢(クマが出る沢)の上にあった。
Fさんのおばあちゃんの葬儀は墓所へ行って地面が見えるまで雪を掘り、薪を積んで中間に棺を置き、その上に薪を積んだ。
これだけでまる一日費やした。

牛が出産する際、産まれてくる仔牛を引っ張った。
人手が足りないときは先生も駆け付け、応援した。何かあれば先生も手伝ったりした。
集落と学校は家族のようなものであった。

父も母もサックルにいたかった。私も山にいたかった。山を下りる前、トラクターや作業農機具類を購入していた。
子どものことや、学校が閉校になることは予測できていたので山を降りた。
子どもがいなかったらまだ山に残っていたかもしれない。生活を第一に考えていた。


聞き取り後、墓地跡を一緒に調べたがこの時は分らなかった。
翌年、墓守をされていた方(80代半ば)と一緒に墓地を案内していただくことが出来た。

墓地の名称は「富咲墓地」
しかし、墓地までの道は笹藪で覆われているので草刈機を用いて進む。

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草刈機でササを刈って進む。

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富咲墓地

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正面の盛り上がった土が墓である。
墓守をされた方の話しでは「眠っているのはK一族だと思う…」

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足元に鎖。
「棺を鎖で繋ぎ、馬で運んでいたものではないか…」とのことであった。


聞き取り           平成27年5月 4日八雲町にて
墓地調査(墓地の写真)  平成28年9月24日撮影
集落の写真       平成30年9月22日撮影
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増毛町信砂御料 S氏の証言



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信砂御料集落で印象深い「苗字が描かれたサイロ」(平成21年5月3日撮影)と、現在の「苗字が描かれたサイロ」

私は昭和31(1956)年に生まれた。信砂御料に戦後入植した人の多くは大阪出身であった。
自宅は元々、土壁の古い家であった。昭和29(1954)年の洞爺丸台風のときに家が壊れそうになったので、自宅を新築した。

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信砂御料集落入口の「御料橋」

食料品は「三栄食品」がバスで行商に来ていた。大抵は行商で済ませていたが、行商で買えないものは留萌か増毛まで出た。
昔は農協(増毛農協)でツケで買うことができたので、ツケで買ってから一括清算した。

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電柱に残る「信砂御料」の名前

小5(昭和42 1967)年に学校給食が始まり、家から牛乳を出せといわれ牛乳をバイクに乗せて学校まで運搬した。
この頃に歩古丹小学校に一泊したことがある。体育館のような部屋(教室)にゴザを敷いて一泊した。

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信砂御料小中学校跡

小6(昭和43 1968)になると父にクルマのハンドル操作を覚えさせられた。
中1(昭和44 1969)には既にクルマを運転していた。
お祭りには、集落の人々をトラックの荷台に載せて運転した。お祭りは神社で子供や大人の相撲大会が行われ、夜は学校で映画を観た。運動会になると集落総出で大人も子供も入り混じっていた。

学校は複複式だったので、15分くらい勉強したらあとは自習だった。
学校で勉強したことよりも家で働いていたときのほうが思い出がある。

例えば、水道を山の貯水池から引っ張ってパイプで繋げていく作業や敷地内に張り巡らされている電牧(電気牧柵)の草刈作業などをやった。
家では牛を21頭飼っていたが、そのうち8頭くらい家族分担で乳絞りをやった。ランプのほや磨きやガス磨きは日常であった。
牛のほかに畑作(イモ)をつくっていたが後になって、信砂に水田を借りてコメもつくっていた。

向かいの家(Sさん)にマージャンを教えてもらったことが切っ掛けで始めたが、集落じゅうの人から「マージャンを教えてくれ」と言われ、集落に広めた。

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学校裏にあったスキー場跡

信砂御料は雪が非常に多かった。自宅は、学校よりも数キロ奥にあった。
学校までは道路の除雪がされていたが、学校より奥はされていなかったので毎日スキーで通学した。
雪が多いので、屋根の雪下ろしも日課だった。屋根の軒を蹴ると雪が落ちていくが、雪と一緒に落ちたこともあった。
しかし「落ちたって死なない」と思っていたので屋根でも飛んだり走ったりした。玄関は雪で埋もれていたので、窓から出入りした。

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スキー場頂上付近より信砂方面を望む

中学2年(昭和45 1970)年に留萌へ転出した。信砂御料で条件のいいところに入植した人は良かったが、条件の悪いところに入植して離農していった人は大変だったかもしれない…。

写真 平成21年5月3日撮影以外の写真は平成29年3月14日撮影
聞き取り 平成28年8月28日 旭川市内

増毛町歩古丹 S氏の証言

私は昭和16年に歩古丹の日方泊というところで生まれた。
歩古丹は漁業が中心であったが、畑も作っていた。段々畑みたいになっているところが、畑の名残である。

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集落風景 畑跡を望む

昭和22年に歩古丹小学校へ入学した。児童数は10人くらいいたと思う。夏場だけ通学していた子供もいた。
担任は、入学から卒業までずっと一緒の先生であった。先生(天内先生)は、当時50代くらいでよぼよぼした感じであった。

学校に運動場(グラウンド)は無かった。教室・職員室・トイレと棟続きの先生の部屋(教員宿舎)であった。運動場が無いので運動会も無く、学芸会も無かった。運動会は私が卒業して10年後くらいに開催された(注1)。
その頃の子供の遊びは、夏は木登り、秋はブドウをとっていた。冬になれば雪の中を漕いで遊んだ。

集落の人々が学校に寄るときは「フナダマさん」(船の神様)のお参りのときであった。お参りの後は一杯飲んでいた。

戦後まもなくの頃、ある子供が漂着した爆弾を拾ってストーブに入れて爆発し、亡くなる事故がおきた。
戦争中の爆弾と分からないで、ストーブに投げ入れてしまったものだと思う…。

歩古丹の人々は、漁の帰りに増毛へ寄って買い物を済ませていたが、冬は行くことができない。秋に味噌・醤油・米・油といった腐らないものをまとめて買って、自宅に置いていた。
歩古丹に電気が導入されたのは、昭和39年であった。それ以前はランプ生活だった。

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歩古丹硫黄鉱山施設跡

歩古丹の硫黄は昔から採れた。俺らも、親父も採ってきた硫黄を火に入れて溶かし、柾葺屋根に塗っていた。
このレンガの建物は硫黄鉱山の施設で間違いないが、一度も使われなかった。硫黄を運ぶ術や採算が採れなかったからである。

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昭和40年5月新築の歩古丹小学校校舎

現在ある歩古丹の校舎は昭和40年5月に新築されたが、学校が建つ前は年代さんのニシン番屋があった。
新しい学校は土地が狭いことから広場(グラウンド)が無く、子供たちは体育館で遊んでいた。学校前の海岸にある船着場は年代さんのものだ。
学校が閉校になる直前の子供は猪股、中村さんしかいなかった。
その時の校長である松本先生は当時50代であったが、集落のためにバリバリ動く先生だった。

学校の近くには寺があり、お坊さんがいた。宗派には拘らず、よくお参りしていた。
併せて、お葬式は増毛市街まで行ったが本当の昔(明治時代)は、ここで野焼きをしていたと聞いたことがある。墓石は無かったので玉石を置いていた。
また、学校から見て増毛方面の山に神社(稲荷神社)があった。歩古丹の集落が無くなる前に増毛町内の三吉神社に合祀され、三吉神社の例大祭のときに歩古丹の神社祭も一緒に行ったが、今は厳島神社に合祀されている。


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学校前の海岸に残る年代さんの船着場

中村市郎さんは歩古丹の村長さんであった。小柄だったが元気があった。集落のために尽力したので叙勲を受けていたと思う。中村さんの記事で、明治時代に津波が来て30戸流出…とあるが、これは山津波(がけ崩れ)によるものだ。私も明治の山津波で30戸埋没した話は聞いたことがある。(注2)
歩古丹は確かに、津波が押し寄せたこともあったが土地が脆いので、建物は石垣の上に建てていた。

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集落風景。写真中央部の瓦礫は中村家跡。

私は昭和43年に増毛市街へ転出したが、この頃に残っていた世帯は桜井(2軒)、川口、猪股、中村の5軒だった。

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年代さんの船着場より学校跡を望む。上部の橋(望洋橋)は現在の国道231号である。

歩古丹集落に暮らしていた世帯は次のとおりである。
括弧で番屋と書いているものは、番屋の名称である。

佐藤、中村、鈴木、木村、川口、桜井、紀ノ国、猪股(番屋)、年代(番屋)、紀本(番屋)、同島(番屋)

(注1)歩古丹小学校の運動会は佐々木校長が赴任した昭和37年から始まった。
(注2)北海道新聞(夕刊)昭和46年3月15日付「゛部落消えても私はがんばる"増毛町歩古丹に一人で残る中村市郎さん」の記事に『明治42年12月8日、大津波が押し寄せて部落全戸が流失。またそのあと大正3年3月18日に今回閉校した歩古丹小学校すぐ裏の山がくずれて8戸が埋没、一瞬のうちに13人が死亡した大惨事などもよく記憶、部落と生死をかけてきた。』とある。

写真 平成28年4月25日・9月4日撮影
聞き取り調査 平成28年10月9日 増毛町にて

聞き取り調査にご協力していただきました増毛町役場様に感謝申し上げます。

参考文献
北海道新聞1964「六人が元気いっぱい 歩古丹小で第三回運動会」『北海道新聞』昭和29年6月29日版
北海道新聞1971「゛部落消えても私はがんばる"増毛町歩古丹に一人で残る中村市郎さん」『北海道新聞』昭和46年3月15日版

浦河町女名春別 S先生の証言

浦河町女名春別は、戦後開拓集落で「学校跡がある廃村」の一つである。

今回、筆者の中学時代の恩師が女名春別小中学校で勤務していたことを知り、19年ぶりの再会と聞き取りを兼ねて
記録したものをまとめた。

私は、昭和36年4月より昭和38年4月末まで女名春別中学校に教員として赴任した。

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集落風景。女名春別小中学校までの道中

大学を卒業した新卒であったので、面接官(女名春別小中学校校長 N先生)から「景色もいいところで何も荷物はいりません。体一つできてください」と言われ、そのまま引き受けた。
採用が決まり、浦河町の市街地から三輪トラックで上杵臼開拓農協まで乗せてもらい、女名春別までは徒歩で移動した。

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集落風景。川を渡った対岸に家が点在していた。

赴任した頃の女名春別は、電気・水道が通っていなかった。川の淵を掘ると水が湧き出てくる。この水を溜めて米とぎや洗面をした。
一番びっくりしたのが、ある日溜水で洗面しようとしたらカエルの卵があったことだ。私は美瑛町出身なので農村での生活は分かっていたが、カエルのタマゴには流石に驚いた。
女名春別には週1回、行商が来ていた。パンといった食料品のほかに新聞も取り扱っていたが、新聞は1週間遅れであった。
行商の買い物に間に合わなければ、上杵臼にある開拓農協(上杵臼開拓農協)まで買いに行った。夏場は刈分道路なので道路状況は悪かった。反面、冬は造材の道がついていたので歩きやすかった。

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集落風景。この先に学校があった。

私は中学の担当であったが、N校長は国語と音楽を教えていた。
校長が出張で不在になると私が9科目すべて教えることとなった。校歌はN校長が作詞・作曲したもので(年度不明)、校章・校旗はない。

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学校跡地を示す記念碑。

私が女名春別に赴任してから、学校風呂を作った。それまで、子供らは川で水浴びをしていたが冬は水を含ませた布で体を拭くのがせいぜいだったと思う。
学校医風呂は校長住宅と、教員住宅の間に設けた。
ところが、水汲みが問題となり水汲みは自分たちで、お湯を沸かすのは当番で決めていた。

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教員住宅。閉校後は「楽古山荘」として転用された。

運動会は、集落の一大行事であった。女名春別には神社が無かったので学校が中心であった。子供だけでなく、大人や教員も入り混じっていた。焼酎を飲んで参加したので、酔いもよくまわった。
子供たちは殆ど親の手伝いをしていたが、休日は縄跳びやケンケン、釣り(ヤマベ)をして楽しんだ。

へき地の学校に赴任してよかったことは、素直な子供たちと接して教育の原点や子供の気持ちを教えられたことだ。
後に、都市部の学校へ赴任したときに塾で予習してきた子供や、非行へ走る子供とも向き合った。

その反面、大変だったことは情報が入ってこないことや万が一のことであった。
情報源はトランジスターラジオであったが、山間部なので雑音が入り混じりよく聞こえない。
新聞も前述したとおり、週1なので他校の同僚と会うときは辛かった。

また、昭和36年12月に風邪を引いてしまうが無理をして授業を続けた。
終業式の日、オルガンで校歌を演奏中に意識を失い、集落の住民が上杵臼まで運び、浦河市街地の病院に運び込まれた。
気がついたのは年が明けた1月1日。親戚中が集まって何事かと思ったが、後で聞くと肺炎を起こしていた。

女名春別では現金よりも物のほうが価値があった。その為、給料が出ても現金を見たことが無かった。校長住宅で下宿していたときは、月6,000円であった。

集落の副産物として、シイタケが取れた。シイタケを乾燥させて売り込み、売り上げたお金で集落の住民とトラックに乗って海水浴に行った。ほかに、エンジュも取れたので中学生らと一緒にエンジュを採りにいき、バットの原材料として材木屋に売ったこともある。
家は学校の傍に1軒、その下手に1軒。学校の対岸に吊橋があり、渡った先の川沿いに人家が点在していた。

電気は昭和37年秋頃に導入されたが、電化の導入と同時くらいから転出者が現れ始めた。
電化以前はランプ生活だったので、ランプのほや磨きは子供たちの仕事であった。PTA会長は、ずっとOさんであった。

昭和38年4月に浦河市街の学校へ転出し、一緒に勤務したN校長は、様似町に転出していった。
学校関係の写真も幾らか持っていたが、生憎教え子に渡してしまったので手元には無い…。


聞き取り日時 平成28年6月18日 旭川市内
写真       平成28年5月30撮影

美唄市東美唄 S氏の証言

美唄市東美唄は三菱美唄炭鉱で栄えた地域である。
今回、昭和30年頃より三菱美唄炭鉱に入社したS氏の証言を織り交ぜて、三菱美唄炭鉱について紹介する。
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私は昭和14年に美唄町(現 美唄市)で生まれた。美唄国民学校、美唄中学校を卒業して少し経った昭和30年頃だったと思うが、三菱美唄炭鉱に就職した。
当時は中学を卒業したら集団就職で本州へ行くか、自衛隊か炭鉱しか選択肢がなかった。
学校には1クラス40名位いたが、高校進学者は数名程度であとは全員就職であった。

三菱美唄炭鉱に就職して、私は「工作機械課」に配属された。
「工作機械課」というのは4~5人1個チームで、坑内で使う機械類のメンテナンスを行っていた。
賃金は一番安かったが、残業で稼いだ。
炭鉱の仕事で一番賃金が高いのは採炭であったが、身体が小柄であったので採炭は出来ないと思った。
16年勤務したが、ずっと二坑のみであった。

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当時、私は我路の沢に居住していたが二坑で勤務する炭鉱マンは全員、旭台に住んでいた。

仕事が終わると自宅で宴会をするか、呑みに我路町へ出かけた。
作業中、いつ事故で死ぬか分らないから、仕事が終わったらよく飲んだ。
我路町よりも先に宮の下という地区があったが、そこは寿司屋、雑貨屋、食堂2軒、酒屋など10軒連ねていた。
酒屋の一角には角打ちが設けられており、焼酎の盛切りを呑むことができた。

ただ、宮の下は食事に行くような感覚で行ったので、呑みに行くのは我路町へ行くことが多かった。
旭台や常盤台など奥に住む炭鉱マンは、近道といって各地区の沢沿いに人ひとり通れるくらいの道路を往来していた。
行きは徒歩だが帰りは我路町にあったタクシー(昭和ハイヤー我路営業所)で帰宅した。

常盤台にも親戚が住んでいたので、何回か行った。常盤台は1区・2区・3区と分かれており、学校は3区にあった。
学校周辺(常盤台3区)のほうが店や飲み屋も軒を連ねていたので、一番賑やかだった。
いつぞや話していた「第三立坑」の櫓についてはすまないが分からない…。

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番町(現 スキー場)は炭鉱の職員住宅が建ち並んでいた。番町の頂上からさらに奥にも炭鉱があったが、私が入社した頃は既に閉山していた。

私はその後三菱南大夕張炭鉱へ配置換えとなり1年弱、夕張市南部菊水町に居住していた。
美唄のニ坑から3~400人くらい配置換えになったと思う。新鉱開発も行われたが、私はそこまで詳しく分らない。

※写真は平成18年10月28日・平成20年4月4日探訪時のものである。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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