標茶町阿歴内共和
標茶町阿歴内共和 平成28年5月28日探訪
標茶町阿歴内共和は農村集落である。
阿歴内は明治40年 道庁が殖民区画を測定し告示した。
しかし、この時の入植者応募はなかった。
大正4年 11戸の集団移民が入植したことがきっかけで、阿歴内の集落が形成されていった。
大正6年 9月12日 塘路尋常小学校所属阿歴内特別教授場 開校(後の阿歴内小学校 平成28年3月閉校)
昭和5年 10月1日 阿歴内第二特別教授場 開校(後の阿歴内第二小学校 平成7年3月閉校)
ここから先は阿歴内共和の沿革である。
大正時代、本州より移住した入植者が3戸あったが、学校設置の必要性はなかった。
昭和8年度に本州より18戸の補助移民が現れた。
その頃は阿歴内小学校へ通学していたが道路状況が悪く、通学は困難を極めた。
昭和11年3月 部落総会を開き、学校設置の必要性を全会一致で確認。
当時、阿歴内第一地区に居住していた村議 高橋甚三郎を中心として村会に提議した結果、理事者や村会議員が賛成可決した。
学校の沿革は次のとおりである。
昭和11年3月 高橋甚三郎、阿歴内共和に学校設置を村会に提議、可決
昭和11年8月 学校建設の工事開始(校舎土地は藤原敬助の寄付による)
昭和11年12月10日 校舎落成開校式挙行
昭和14年 3月31日 阿歴内第三小学校として独立
昭和16年 4月 1日 阿歴内第三国民学校と変更
昭和22年4月 1日 阿歴内第三小学校と変更
昭和50年11月30日 閉校
この間、第3回全道へき地教育実践奨励賞(昭和41年8月)、管内教育振興実践奨励表彰(昭和46年3月)の受賞。
教育局、町教委研究指定校(昭和47~48年度)、全道へき地複式研究大会での研究発表(昭和48年9月)等が行われた。
閉校当時の新聞記事を以下に紹介する。
しんみりとお別れ会 月末閉校の阿歴内第三小
「【標茶】さようなら、思い出の第三小学校」と、在校生や部落の人たちのさまざまな感慨のうちに阿歴内第三小(佐藤要校長)の閉校式が16日、同校で行われた。今月いっぱいで閉校、12月から阿歴内小に統合となる。
同校は昭和11年、阿歴内小の分教場としてスタート。今春までに135人の卒業生を送り出してきたが、今年は校長と佐野教諭、それに児童は小関厚子さん(6年)と寺田新一君(5年)の二人という小さな学校になってしまい、このほど廃校が決まったもの。
同日は学校のある阿歴内第一部落の人たち、同窓生、かつて勤めていた先生、それに40年から毎年のように慰問に来ていた釧路の働く青年たちのグループ「ガリバンクラブ」の人たちなど125人が集まり、小さな学校ははち切れそう。
閉校式は効果の斉唱で始まり、熊谷町教育長らがあいさつ、最後は在校生二人が「もうこの学校に通えなくなるのは寂しい」と〝呼びかけ〟を行い、一同が「ウサギ追いしかの山…」と「故郷」をしんみりと合唱して終わった。
同校は12月からは阿歴内小に統合、児童たちはスクールバスで送られることになる。廃校になった学校の建物については、出席していた門屋町長も「思い出として残るよう考えたい」と約束したが、集会所などへの転用が考えられるほか、大阪からの従業員の子弟の林間学校にしたいという企業の打診もあったので、有効な利用策を研究してゆくという。」(北海道新聞釧路・根室版昭和50(1975)年11月18日)

広い阿歴内集落を通り、阿歴内第三小学校跡へ到着した。
民家は、ポツポツと点在するのみである。

HEYANEKO氏曰く「学校は移転しているみたいだから、移転前の跡地も行ってみよう(注1)」とのことで歩く。

ふと見ると、使われなくなって久しい農機具があった。

移転前の学校跡地付近。
学校跡を偲ばせるものは無かった。
広い牧草地と砂利道が続く風景が広がっていた。
余話
阿歴内第三小学校が置かれた集落は「阿歴内第一」。
しかし、国土地理院の地形図では「共和」と記載されている。
この「共和」の由来について標茶町郷土館とやりとりを交わしたが、由来については最後まで分からなかった。
その為、地形図に記載されている「共和」を掲載し「阿歴内第一」は用いないこととした。
(注1)
「移転したのではないか」と思われていたがその後の調査により学校移転の話は書かれていなかったことや、道路のずれなどから地形図を読み誤り「移転」と書いてしまいました。
謹んでお詫び申し上げます。
参考文献
阿歴内開基70周年記念期成会1985「『70年のあゆみ-阿歴内開基70周年記念誌-』阿歴内開基70周年記念期成会
北海道新聞1975「しんみりとお別れ会 月末閉校の阿歴内第三小」『北海道新聞釧路・根室版』11月18日
標茶町阿歴内共和は農村集落である。
阿歴内は明治40年 道庁が殖民区画を測定し告示した。
しかし、この時の入植者応募はなかった。
大正4年 11戸の集団移民が入植したことがきっかけで、阿歴内の集落が形成されていった。
大正6年 9月12日 塘路尋常小学校所属阿歴内特別教授場 開校(後の阿歴内小学校 平成28年3月閉校)
昭和5年 10月1日 阿歴内第二特別教授場 開校(後の阿歴内第二小学校 平成7年3月閉校)
ここから先は阿歴内共和の沿革である。
大正時代、本州より移住した入植者が3戸あったが、学校設置の必要性はなかった。
昭和8年度に本州より18戸の補助移民が現れた。
その頃は阿歴内小学校へ通学していたが道路状況が悪く、通学は困難を極めた。
昭和11年3月 部落総会を開き、学校設置の必要性を全会一致で確認。
当時、阿歴内第一地区に居住していた村議 高橋甚三郎を中心として村会に提議した結果、理事者や村会議員が賛成可決した。
学校の沿革は次のとおりである。
昭和11年3月 高橋甚三郎、阿歴内共和に学校設置を村会に提議、可決
昭和11年8月 学校建設の工事開始(校舎土地は藤原敬助の寄付による)
昭和11年12月10日 校舎落成開校式挙行
昭和14年 3月31日 阿歴内第三小学校として独立
昭和16年 4月 1日 阿歴内第三国民学校と変更
昭和22年4月 1日 阿歴内第三小学校と変更
昭和50年11月30日 閉校
この間、第3回全道へき地教育実践奨励賞(昭和41年8月)、管内教育振興実践奨励表彰(昭和46年3月)の受賞。
教育局、町教委研究指定校(昭和47~48年度)、全道へき地複式研究大会での研究発表(昭和48年9月)等が行われた。
閉校当時の新聞記事を以下に紹介する。
しんみりとお別れ会 月末閉校の阿歴内第三小
「【標茶】さようなら、思い出の第三小学校」と、在校生や部落の人たちのさまざまな感慨のうちに阿歴内第三小(佐藤要校長)の閉校式が16日、同校で行われた。今月いっぱいで閉校、12月から阿歴内小に統合となる。
同校は昭和11年、阿歴内小の分教場としてスタート。今春までに135人の卒業生を送り出してきたが、今年は校長と佐野教諭、それに児童は小関厚子さん(6年)と寺田新一君(5年)の二人という小さな学校になってしまい、このほど廃校が決まったもの。
同日は学校のある阿歴内第一部落の人たち、同窓生、かつて勤めていた先生、それに40年から毎年のように慰問に来ていた釧路の働く青年たちのグループ「ガリバンクラブ」の人たちなど125人が集まり、小さな学校ははち切れそう。
閉校式は効果の斉唱で始まり、熊谷町教育長らがあいさつ、最後は在校生二人が「もうこの学校に通えなくなるのは寂しい」と〝呼びかけ〟を行い、一同が「ウサギ追いしかの山…」と「故郷」をしんみりと合唱して終わった。
同校は12月からは阿歴内小に統合、児童たちはスクールバスで送られることになる。廃校になった学校の建物については、出席していた門屋町長も「思い出として残るよう考えたい」と約束したが、集会所などへの転用が考えられるほか、大阪からの従業員の子弟の林間学校にしたいという企業の打診もあったので、有効な利用策を研究してゆくという。」(北海道新聞釧路・根室版昭和50(1975)年11月18日)

広い阿歴内集落を通り、阿歴内第三小学校跡へ到着した。
民家は、ポツポツと点在するのみである。

HEYANEKO氏曰く「学校は移転しているみたいだから、移転前の跡地も行ってみよう(注1)」とのことで歩く。

ふと見ると、使われなくなって久しい農機具があった。

移転前の学校跡地付近。
学校跡を偲ばせるものは無かった。
広い牧草地と砂利道が続く風景が広がっていた。
余話
阿歴内第三小学校が置かれた集落は「阿歴内第一」。
しかし、国土地理院の地形図では「共和」と記載されている。
この「共和」の由来について標茶町郷土館とやりとりを交わしたが、由来については最後まで分からなかった。
その為、地形図に記載されている「共和」を掲載し「阿歴内第一」は用いないこととした。
(注1)
「移転したのではないか」と思われていたがその後の調査により学校移転の話は書かれていなかったことや、道路のずれなどから地形図を読み誤り「移転」と書いてしまいました。
謹んでお詫び申し上げます。
参考文献
阿歴内開基70周年記念期成会1985「『70年のあゆみ-阿歴内開基70周年記念誌-』阿歴内開基70周年記念期成会
北海道新聞1975「しんみりとお別れ会 月末閉校の阿歴内第三小」『北海道新聞釧路・根室版』11月18日
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