静内町高見
静内町高見(平成29年5月28日探訪)
静内町高見は戦後開拓集落である。
最初の入植は昭和4年8月旧土人給与地として開放許可され、54戸が入植した。しかし僻遠地であることや満州事変の勃発(昭和6年)が重なり開拓を断念し、国有地に帰した経緯がある。
昭和22年満州移民八紘団の引揚者20戸66名(団長 名児耶政四)が奥高見の地へ入植した。
当時は道もなく40キロの道を河原に沿って歩いて入地し、心あるものによって子弟の教育が行われた。「敷地は12坪位のコゴメが沢山生えている割合に起伏のないところに、皆が腰を下して坐ることにして、黒板は6尺に1尺5寸の4分板、白樺の皮の裏に問題を解き或は説明して」とあるように、屋根もない文字通りの青空のもとで授業が行われた。
やがて父母の協力の下、仮校舎が建設された。仮校舎は笹葺屋根、床や壁は丸太で組んだ山小屋式の建物である。
この校舎は2,3年で柱が傾くなどしたが校舎以外にも結婚式場、投票所、会議室、診療上、青年集会場、宿泊施設などあらゆる用途を果たした。
昭和23年開拓者に対する国庫補助費夜校舎建設の許可が出て速やかに建設委員会を設け、高見住民が一丸となって校舎の建設に取り組んだ。昭和25年11月に新校舎が完成、翌26年には独立校となった。
しかし、静内市街地から40キロ離れた地での営農は困難を極めた。
理由として ①交通の便の悪さ
②土壌条件の悪さ
③気象条件が山間高地のため春が遅く秋が早い
④営農類型の策定が困難
⑤後継者不足 が挙げられる。
こうした条件が重なり、昭和35,6年頃より転出者が現れ始め、昭和39年1月全戸離農。昭和40年3月末で学校は閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである
小学校
昭和22年 「青空学校」として授業開始(6月)
同 年 仮校舎完成(12月)
昭和23年 御園小学校高見分校となる(4月)
昭和25年 校舎新築(11月)
昭和26年 高見小学校と独立(8月)
昭和40年 閉校(3月)
中学校
昭和32年 中学校開校
昭和40年 閉校(3月)
集落解散後、高見集落がダムの湖底に沈むことが決まり昭和54年、町の協力を得て「高見開拓之碑」が建立された。
閉校当時の新聞記事を転載する
18年の歴史閉じる 開拓入植者の全戸離農下山で 青空学級で有名な奥高見小中学校
【静内】校舎もなく、青空学校から始まった静内町高見小中学校が、全戸離農することになり、この7日に閉校式を行なうことになったが、事実上、18年間で廃校のうき目を見た。
高見開拓地は、静内町市街地から約40キロ奥地で、昭和22年5月に満州からの引揚者が入植、生活に追われて学校開設ものび、同年8月に低下する一方の子供の学力を何とかしなければ、と部落内で話しが持ち上がり、学校を建てるにしても、開墾作業を休むこともできず、林間に青空学級を開設したのが、高見小中学校の始まりである。
冬が近づいてきた10月、たき火を囲んで寒さにふるえながら勉強している子供たちの姿を見た部落民は、何とかして学校を建てようと忙しい開墾作業の合間をみては作業にかかり、雪が降り積もった12月下旬、丸太壁、笹屋根12坪の仮校舎が完成、16人の子供にとっては、待望の校舎である。
昭和25年11月上旬、現在の草屋根、板壁の校舎が完成、教材も徐々に整えられ、現在は坂本校長はじめ、4人の教員と小学校19人、中学校12人の児童生徒が在籍している。
しかし立地条件に恵まれない開拓者は、生活することができず、26年春には20戸の入植者のうち8戸が離農移転、さらに同年11月中旬と翌27年春に各1戸が離農、現在では開拓者9戸、既存農家2戸と4人の教員住宅だけとなってしまい、これも3月いっぱいで全戸離農することになり、これに伴って学校も廃校となるわけ。
このため町教委では、卒業式である7日に、関係者を集めて閉校式を行ない翌8日と9日の2日間で教材を運搬することになり、3月いっぱいで廃校されることになった。」(「日高報知新聞」1965年3月6日)

まずは道道111号静内中札内線(日高横断道路)から見た静内ダムである。

ダムの横に、高見へ通じる道道111号線が続くが、厳重に封鎖されている。
これでは行くことができない。

そのため、三石ダム方面から行くことにした。
ゲートの鍵を開けて、先へ進む。

ゲート手前の風景。
道はしっかりしている。

しかし、進むうちに路面が荒れてきた。

荒れた路面からは高見湖が見えた。

荒れた道の先には丸太が積まれていた。造材の会社が出入りしているようである。

丸太の先へ行くと、倒木があり行く手を阻んでいた。
ここは連携して倒木を取り除く。

勢多橋を渡り、先へ進む。

橋を渡った先を見ると。道が流出しており先へ進めなくなってしまった。
道は続いているが、これではお手上げである。
話し合いの結果、高見湖畔へ降りることにした。

湖畔の風景。
ここに集落があり、学校や神社もあった。

周囲を歩くと、コンクリートの基礎が残っている。

旧道?らしき道も残っていた。

対岸には学校跡地、高見開拓記念碑が残っている。
学校跡地へは行けなかったが、高見集落には到達した。
最後に、北海道新聞(胆振日高版)昭和34年7月26日に「辺地慰問の小林さん 高見小、中学校校歌を贈る」と記事がある。
ここで、新聞記事に掲載されていた高見小中学校の校歌(昭和34年7月制定)を掲載する。
作詞 名児耶喜七郎 作曲 小林幸男
遠くに望むペテガリの 流れる雲の青空に
明るい声が聞こえます 強く正しくむつみ合い
高見の良い子になりましょう
山百合匂う窓のはて 山鳩の声のどかなり
ひらける土がにおいます 教える心を学びつつ
高見の良い子は育ちます
参考文献
郵政省1960『静内・御園局郵便区全図 日高国静内郡』郵政省
静内町史編さん委員会1996『増補改訂静内町史上・下巻』増本一男
北海道新聞1959「辺地慰問の小林さん 高見小、中学校校歌を贈る」『北海道新聞胆振日高版』昭和34年7月26日
日高報知新聞1965「18年の歴史閉じる 開拓入植者の全戸離農下山で 青空学級で有名な奥高見小中学校」『日高報知新聞』昭和40年3月6日
静内町高見は戦後開拓集落である。
最初の入植は昭和4年8月旧土人給与地として開放許可され、54戸が入植した。しかし僻遠地であることや満州事変の勃発(昭和6年)が重なり開拓を断念し、国有地に帰した経緯がある。
昭和22年満州移民八紘団の引揚者20戸66名(団長 名児耶政四)が奥高見の地へ入植した。
当時は道もなく40キロの道を河原に沿って歩いて入地し、心あるものによって子弟の教育が行われた。「敷地は12坪位のコゴメが沢山生えている割合に起伏のないところに、皆が腰を下して坐ることにして、黒板は6尺に1尺5寸の4分板、白樺の皮の裏に問題を解き或は説明して」とあるように、屋根もない文字通りの青空のもとで授業が行われた。
やがて父母の協力の下、仮校舎が建設された。仮校舎は笹葺屋根、床や壁は丸太で組んだ山小屋式の建物である。
この校舎は2,3年で柱が傾くなどしたが校舎以外にも結婚式場、投票所、会議室、診療上、青年集会場、宿泊施設などあらゆる用途を果たした。
昭和23年開拓者に対する国庫補助費夜校舎建設の許可が出て速やかに建設委員会を設け、高見住民が一丸となって校舎の建設に取り組んだ。昭和25年11月に新校舎が完成、翌26年には独立校となった。
しかし、静内市街地から40キロ離れた地での営農は困難を極めた。
理由として ①交通の便の悪さ
②土壌条件の悪さ
③気象条件が山間高地のため春が遅く秋が早い
④営農類型の策定が困難
⑤後継者不足 が挙げられる。
こうした条件が重なり、昭和35,6年頃より転出者が現れ始め、昭和39年1月全戸離農。昭和40年3月末で学校は閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである
小学校
昭和22年 「青空学校」として授業開始(6月)
同 年 仮校舎完成(12月)
昭和23年 御園小学校高見分校となる(4月)
昭和25年 校舎新築(11月)
昭和26年 高見小学校と独立(8月)
昭和40年 閉校(3月)
中学校
昭和32年 中学校開校
昭和40年 閉校(3月)
集落解散後、高見集落がダムの湖底に沈むことが決まり昭和54年、町の協力を得て「高見開拓之碑」が建立された。
閉校当時の新聞記事を転載する
18年の歴史閉じる 開拓入植者の全戸離農下山で 青空学級で有名な奥高見小中学校
【静内】校舎もなく、青空学校から始まった静内町高見小中学校が、全戸離農することになり、この7日に閉校式を行なうことになったが、事実上、18年間で廃校のうき目を見た。
高見開拓地は、静内町市街地から約40キロ奥地で、昭和22年5月に満州からの引揚者が入植、生活に追われて学校開設ものび、同年8月に低下する一方の子供の学力を何とかしなければ、と部落内で話しが持ち上がり、学校を建てるにしても、開墾作業を休むこともできず、林間に青空学級を開設したのが、高見小中学校の始まりである。
冬が近づいてきた10月、たき火を囲んで寒さにふるえながら勉強している子供たちの姿を見た部落民は、何とかして学校を建てようと忙しい開墾作業の合間をみては作業にかかり、雪が降り積もった12月下旬、丸太壁、笹屋根12坪の仮校舎が完成、16人の子供にとっては、待望の校舎である。
昭和25年11月上旬、現在の草屋根、板壁の校舎が完成、教材も徐々に整えられ、現在は坂本校長はじめ、4人の教員と小学校19人、中学校12人の児童生徒が在籍している。
しかし立地条件に恵まれない開拓者は、生活することができず、26年春には20戸の入植者のうち8戸が離農移転、さらに同年11月中旬と翌27年春に各1戸が離農、現在では開拓者9戸、既存農家2戸と4人の教員住宅だけとなってしまい、これも3月いっぱいで全戸離農することになり、これに伴って学校も廃校となるわけ。
このため町教委では、卒業式である7日に、関係者を集めて閉校式を行ない翌8日と9日の2日間で教材を運搬することになり、3月いっぱいで廃校されることになった。」(「日高報知新聞」1965年3月6日)

まずは道道111号静内中札内線(日高横断道路)から見た静内ダムである。

ダムの横に、高見へ通じる道道111号線が続くが、厳重に封鎖されている。
これでは行くことができない。

そのため、三石ダム方面から行くことにした。
ゲートの鍵を開けて、先へ進む。

ゲート手前の風景。
道はしっかりしている。

しかし、進むうちに路面が荒れてきた。

荒れた路面からは高見湖が見えた。

荒れた道の先には丸太が積まれていた。造材の会社が出入りしているようである。

丸太の先へ行くと、倒木があり行く手を阻んでいた。
ここは連携して倒木を取り除く。

勢多橋を渡り、先へ進む。

橋を渡った先を見ると。道が流出しており先へ進めなくなってしまった。
道は続いているが、これではお手上げである。
話し合いの結果、高見湖畔へ降りることにした。

湖畔の風景。
ここに集落があり、学校や神社もあった。

周囲を歩くと、コンクリートの基礎が残っている。

旧道?らしき道も残っていた。

対岸には学校跡地、高見開拓記念碑が残っている。
学校跡地へは行けなかったが、高見集落には到達した。
最後に、北海道新聞(胆振日高版)昭和34年7月26日に「辺地慰問の小林さん 高見小、中学校校歌を贈る」と記事がある。
ここで、新聞記事に掲載されていた高見小中学校の校歌(昭和34年7月制定)を掲載する。
作詞 名児耶喜七郎 作曲 小林幸男
遠くに望むペテガリの 流れる雲の青空に
明るい声が聞こえます 強く正しくむつみ合い
高見の良い子になりましょう
山百合匂う窓のはて 山鳩の声のどかなり
ひらける土がにおいます 教える心を学びつつ
高見の良い子は育ちます
参考文献
郵政省1960『静内・御園局郵便区全図 日高国静内郡』郵政省
静内町史編さん委員会1996『増補改訂静内町史上・下巻』増本一男
北海道新聞1959「辺地慰問の小林さん 高見小、中学校校歌を贈る」『北海道新聞胆振日高版』昭和34年7月26日
日高報知新聞1965「18年の歴史閉じる 開拓入植者の全戸離農下山で 青空学級で有名な奥高見小中学校」『日高報知新聞』昭和40年3月6日
スポンサーサイト