猿払村石炭別
猿払村石炭別(平成29年9月16日探訪)
猿払村石炭別は炭鉱集落であった。
明治21年 石川貞治技師がセキタンウンベツを探検し石炭の露頭を発見したことにちなみ「セキタンウンベツ」と命名された。ここで、石川技師が石炭別を探索した時の様子を掲載する。
「次に北見国宗谷岬より10里南にあるサルブツ川奥のセキタンウンベツを探検した時の思ひ出がある。途中で糧食が缺乏してしまって一同揃って行を続けることが不可能になった。川口より約9里許の上流で川の中に石炭の流石を認めた。もう少し進めば炭層の露頭もあるといふ所まで来て此儘引返すのは如何にも無念である。そこで私と人夫1名だけが進み残余の者は其儘待つことにした。併し糧食といふても全く米と塩だけで、天幕代用に1枚の油紙を持ったのみであった。さうして上流に進んで炭層の見えるところまで来たところが生憎豪雨に襲われた。そこで早速油紙を利用して小屋を造りフキの葉で覆ふたりして避難したが豪雨は相当長く続き出水したために川下の組との連絡を全く絶たれてしまった。人夫と2人で心細く小屋に籠っていると、下の組にいた屈強のアイヌ2名が米と非常の御馳走を持って我々の救援に来て呉れた。御馳走とは熊の肉であるが、何んでも下の組が避難している小屋の附近に仔熊を連れた熊が現れ、親の方は逃げてしまったが仔熊だけは捕へたのである。あの時の空腹に熊の肉の甘さは今日でも忘れられぬ位である。「セキタンウンベツ」とはアイヌと相談して私の附けた名で石炭の有る川の義で立派な地図に載って居る地名となった。」石炭礦業聯合會1928「北海道探検当時の挿話-明治20年頃の北海道-」『石炭時報第3巻第7号』
石炭別は戦後になってから炭鉱と戦後開拓者の入植により児童数が増え、学校が設置された。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
昭和25年 開校
昭和43年 閉校(3月)
中学校
昭和27年 開校
昭和41年 閉校(上猿払中学校石炭別分校)
炭鉱の沿革は以下の通りである。
昭和23年 日本鉱業化工㈱が石炭別炭鉱と称し事業届け
昭和32年 天北鉱業㈱に変更
昭和33年 双見炭鉱と称す(前田吉景氏租鉱権設定)
昭和35年 三共鉱業㈱所有となり、セキタンベツ炭鉱と称し稼行
昭和39年 閉山届出
閉校時の報道は以下の通りである。
生徒減で廃校 石炭別小と上猿払中
「〔猿払〕猿払村の石炭別小学校(清水行雄校長)と上猿払中学校(井川武次校長)は生徒数の減少から本年度で廃校となるが、村では次の日程で廃校式を行なう。なお、石炭別小学校の児童5人は新年度から上猿払小に、上猿払中の生徒4人は浅茅野中に通学することになる。
▼石炭別小-21日(午前11時半)同校▼上猿払中-22日(午前11時)同校」(『日刊宗谷』昭和43年3月20日)」

上猿払探訪後、石炭別へ向かった。

地形図を見ると、正面の一本松のあたりが神社のようである。
瞬時に「これくらいの笹薮なら行ける」と判断し、神社の痕跡がないか探しに行く。

一本松の根元まで来た。
しかし、痕跡は見当たらなかった。

笹薮の中。
かき分けながら戻る。

学校跡には上猿払と同型の木碑が建立されているが、笹薮のため見つけられなかった。

薮の隙間から見える平坦な土地は住宅跡だろうか。それとも、畑跡だろうか。

人々の暮らした営みは、笹薮に戻っていた。
参考文献
日刊宗谷1968「生徒減で廃校 石炭別小と上猿払中」『日刊宗谷』昭和43年3月20日
石炭礦業聯合會1928「北海道探検当時の挿話-明治20年頃の北海道-」『石炭時報第3巻第7号』
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
内田大和2009『北海道炭鉱資料総覧』空知地方紙研究協議会
猿払村石炭別は炭鉱集落であった。
明治21年 石川貞治技師がセキタンウンベツを探検し石炭の露頭を発見したことにちなみ「セキタンウンベツ」と命名された。ここで、石川技師が石炭別を探索した時の様子を掲載する。
「次に北見国宗谷岬より10里南にあるサルブツ川奥のセキタンウンベツを探検した時の思ひ出がある。途中で糧食が缺乏してしまって一同揃って行を続けることが不可能になった。川口より約9里許の上流で川の中に石炭の流石を認めた。もう少し進めば炭層の露頭もあるといふ所まで来て此儘引返すのは如何にも無念である。そこで私と人夫1名だけが進み残余の者は其儘待つことにした。併し糧食といふても全く米と塩だけで、天幕代用に1枚の油紙を持ったのみであった。さうして上流に進んで炭層の見えるところまで来たところが生憎豪雨に襲われた。そこで早速油紙を利用して小屋を造りフキの葉で覆ふたりして避難したが豪雨は相当長く続き出水したために川下の組との連絡を全く絶たれてしまった。人夫と2人で心細く小屋に籠っていると、下の組にいた屈強のアイヌ2名が米と非常の御馳走を持って我々の救援に来て呉れた。御馳走とは熊の肉であるが、何んでも下の組が避難している小屋の附近に仔熊を連れた熊が現れ、親の方は逃げてしまったが仔熊だけは捕へたのである。あの時の空腹に熊の肉の甘さは今日でも忘れられぬ位である。「セキタンウンベツ」とはアイヌと相談して私の附けた名で石炭の有る川の義で立派な地図に載って居る地名となった。」石炭礦業聯合會1928「北海道探検当時の挿話-明治20年頃の北海道-」『石炭時報第3巻第7号』
石炭別は戦後になってから炭鉱と戦後開拓者の入植により児童数が増え、学校が設置された。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
昭和25年 開校
昭和43年 閉校(3月)
中学校
昭和27年 開校
昭和41年 閉校(上猿払中学校石炭別分校)
炭鉱の沿革は以下の通りである。
昭和23年 日本鉱業化工㈱が石炭別炭鉱と称し事業届け
昭和32年 天北鉱業㈱に変更
昭和33年 双見炭鉱と称す(前田吉景氏租鉱権設定)
昭和35年 三共鉱業㈱所有となり、セキタンベツ炭鉱と称し稼行
昭和39年 閉山届出
閉校時の報道は以下の通りである。
生徒減で廃校 石炭別小と上猿払中
「〔猿払〕猿払村の石炭別小学校(清水行雄校長)と上猿払中学校(井川武次校長)は生徒数の減少から本年度で廃校となるが、村では次の日程で廃校式を行なう。なお、石炭別小学校の児童5人は新年度から上猿払小に、上猿払中の生徒4人は浅茅野中に通学することになる。
▼石炭別小-21日(午前11時半)同校▼上猿払中-22日(午前11時)同校」(『日刊宗谷』昭和43年3月20日)」

上猿払探訪後、石炭別へ向かった。

地形図を見ると、正面の一本松のあたりが神社のようである。
瞬時に「これくらいの笹薮なら行ける」と判断し、神社の痕跡がないか探しに行く。

一本松の根元まで来た。
しかし、痕跡は見当たらなかった。

笹薮の中。
かき分けながら戻る。

学校跡には上猿払と同型の木碑が建立されているが、笹薮のため見つけられなかった。

薮の隙間から見える平坦な土地は住宅跡だろうか。それとも、畑跡だろうか。

人々の暮らした営みは、笹薮に戻っていた。
参考文献
日刊宗谷1968「生徒減で廃校 石炭別小と上猿払中」『日刊宗谷』昭和43年3月20日
石炭礦業聯合會1928「北海道探検当時の挿話-明治20年頃の北海道-」『石炭時報第3巻第7号』
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
内田大和2009『北海道炭鉱資料総覧』空知地方紙研究協議会
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猿払村猿骨開拓
猿払村猿骨開拓(平成29年9月16日探訪)
猿払村猿骨開拓は戦後開拓集落である。
昭和25年11月、猿骨団地に9戸、芦野団地に12戸入植者が現れた。
その後も昭和26年から34年にかけて延べ67戸が入植した。
開拓入植者の多くが山形県出身者で、泥炭地で根曲り竹が繁茂していた原野を開拓していった。
しかし、気候が厳しく度重なる冷害に見舞われたことや過剰入植対策の実施により、昭和34年の67戸のうち35戸が離農している。
また、浜鬼志別港から漁船が出るようになってから浜鬼志別へ転出していくものもいた。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和32年 芦野小学校栄分校開校(4月)
昭和46年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する
分校よサラバ 栄校で廃校式
「〔猿払〕芦野小学校栄分校の廃校式は30日午後1時から同校で盛大に行われた。
笠井村長をはじめ、議会議長、部落会長など多数の来賓が出席して行われ、功労者に感謝状が贈られた。
昭和32年3月31日に芦野小学校分校として創立され、同年4月1日に開校し今日までに至った。14年間の歴史にピリオドを打ち廃校の運びになった。
今までに81名の卒業生を送り出し多い年には10名の卒業生を送り出したという。」

宗谷地方を巡る廃校廃村探訪 猿払村猿骨開拓を訪れた。

橋の名は「猿骨開拓橋」

川の名は「猿骨川」

橋を渡ると牧草畑が広がっている。

栄分校跡地。校舎の基礎や防風林も見当たらなかった。

見渡す限りの牧草畑が広がっている。

戦後開拓集落の名残は、橋の名前のみであった。
参考文献
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
日刊宗谷1971「分校よサラバ 栄校で廃校式」日刊宗谷昭和46年3月31日
猿払村猿骨開拓は戦後開拓集落である。
昭和25年11月、猿骨団地に9戸、芦野団地に12戸入植者が現れた。
その後も昭和26年から34年にかけて延べ67戸が入植した。
開拓入植者の多くが山形県出身者で、泥炭地で根曲り竹が繁茂していた原野を開拓していった。
しかし、気候が厳しく度重なる冷害に見舞われたことや過剰入植対策の実施により、昭和34年の67戸のうち35戸が離農している。
また、浜鬼志別港から漁船が出るようになってから浜鬼志別へ転出していくものもいた。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和32年 芦野小学校栄分校開校(4月)
昭和46年 閉校(3月)
閉校時の記事を掲載する
分校よサラバ 栄校で廃校式
「〔猿払〕芦野小学校栄分校の廃校式は30日午後1時から同校で盛大に行われた。
笠井村長をはじめ、議会議長、部落会長など多数の来賓が出席して行われ、功労者に感謝状が贈られた。
昭和32年3月31日に芦野小学校分校として創立され、同年4月1日に開校し今日までに至った。14年間の歴史にピリオドを打ち廃校の運びになった。
今までに81名の卒業生を送り出し多い年には10名の卒業生を送り出したという。」

宗谷地方を巡る廃校廃村探訪 猿払村猿骨開拓を訪れた。

橋の名は「猿骨開拓橋」

川の名は「猿骨川」

橋を渡ると牧草畑が広がっている。

栄分校跡地。校舎の基礎や防風林も見当たらなかった。

見渡す限りの牧草畑が広がっている。

戦後開拓集落の名残は、橋の名前のみであった。
参考文献
猿払村史編纂発行委員会1976『猿払村史』猿払村役場
猿払村史編さん発行委員会2014『猿払村史第2巻』猿払村役場
日刊宗谷1971「分校よサラバ 栄校で廃校式」日刊宗谷昭和46年3月31日
猿払村上猿払
猿払村上猿払(平成29年9月16日探訪)
猿払村上猿払は農村集落であった。
明治42年北海道拓殖計画地として指定され、同年石井忠司が浜猿払―上猿払間の川運送を始めた。
大正2年に上猿払開拓者が入植し始め、大正8年上猿払駅逓所が設置された。
昭和21年11月に戦後開拓入植者が8戸入り、昭和28年6月に上猿払神社大鳥居が建立された。
学校は大正8年猿払尋常小学校付属特別教授場として開校、昭和22年上猿払小学校となり、昭和47年11月に閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
大正8年 猿払尋常小学校付属特別教授場として開校
昭和16年 浅茅野国民学校上猿払分校と変更(4月)
昭和20年 上猿払国民学校と変更
昭和22年 上猿払小学校と変更(4月)
昭和47年 閉校(11月)
中学校
昭和22年 上猿払中学校として開校
昭和43年 閉校
閉校時の記事を掲載する
53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校
「猿払村立上猿払小学校は15日で開校以来53年の歴史を閉じ廃校となった。
同校は大正8年猿払小学校付属特別教授場として開設され昭和22年上猿払小学校となったが、大正2年頃から開拓者が入り一時は50名の児童、生徒がいたが、その後過疎化現象で離農が相次ぎ、本年の在校生はわずか3名。この父兄2戸も同村浜猿払に転住したため、15日で正式に廃校となった。
なお同校々長日下久夫氏は16日付で東利尻町鰊泊小学校長に発令された。」(日刊宗谷昭和47年11月17日)

廃校関係でお世話になっている友人と一緒に宗谷地方の廃校廃村を巡る旅で訪れた。
上猿払はへき地5級。校門と記念の木碑が現存している。
探訪時は草木が生い茂っていたので、ポイントを絞ることにした。
そのポイントは ①学校 ②神社 ③寺院 である。
次に、学校から程近いところにあった神社跡を調べた。

恐らく神社の参道と思われる道だが、既に植林されており「ご神木」も見つけることができなかった。
そして、③寺院跡である。
『猿払村史』によれば「真宗大谷派上猿払教会」の往時の写真が掲載されている。
地形図には寺院の近くにも家屋マークが記されている。

私の背丈と同等か、それ以上に草が生い茂っていた。
「ちょっと行ってきます」と言って調べてみた。
結果、寺院跡の周辺は草木が生い茂り分からなかった。
学校の閉校(集落の無人化)から40年以上経ち、人々の営みを残すものは学校の校門のみであった。
参考文献
日刊宗谷1972「53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校」日刊宗谷昭和47年11月17日
猿払村役場1976『猿払村史』猿払村史編纂発行委員会
猿払村上猿払は農村集落であった。
明治42年北海道拓殖計画地として指定され、同年石井忠司が浜猿払―上猿払間の川運送を始めた。
大正2年に上猿払開拓者が入植し始め、大正8年上猿払駅逓所が設置された。
昭和21年11月に戦後開拓入植者が8戸入り、昭和28年6月に上猿払神社大鳥居が建立された。
学校は大正8年猿払尋常小学校付属特別教授場として開校、昭和22年上猿払小学校となり、昭和47年11月に閉校となった。
学校の沿革をまとめると以下の通りである。
小学校
大正8年 猿払尋常小学校付属特別教授場として開校
昭和16年 浅茅野国民学校上猿払分校と変更(4月)
昭和20年 上猿払国民学校と変更
昭和22年 上猿払小学校と変更(4月)
昭和47年 閉校(11月)
中学校
昭和22年 上猿払中学校として開校
昭和43年 閉校
閉校時の記事を掲載する
53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校
「猿払村立上猿払小学校は15日で開校以来53年の歴史を閉じ廃校となった。
同校は大正8年猿払小学校付属特別教授場として開設され昭和22年上猿払小学校となったが、大正2年頃から開拓者が入り一時は50名の児童、生徒がいたが、その後過疎化現象で離農が相次ぎ、本年の在校生はわずか3名。この父兄2戸も同村浜猿払に転住したため、15日で正式に廃校となった。
なお同校々長日下久夫氏は16日付で東利尻町鰊泊小学校長に発令された。」(日刊宗谷昭和47年11月17日)

廃校関係でお世話になっている友人と一緒に宗谷地方の廃校廃村を巡る旅で訪れた。
上猿払はへき地5級。校門と記念の木碑が現存している。
探訪時は草木が生い茂っていたので、ポイントを絞ることにした。
そのポイントは ①学校 ②神社 ③寺院 である。
次に、学校から程近いところにあった神社跡を調べた。

恐らく神社の参道と思われる道だが、既に植林されており「ご神木」も見つけることができなかった。
そして、③寺院跡である。
『猿払村史』によれば「真宗大谷派上猿払教会」の往時の写真が掲載されている。
地形図には寺院の近くにも家屋マークが記されている。

私の背丈と同等か、それ以上に草が生い茂っていた。
「ちょっと行ってきます」と言って調べてみた。
結果、寺院跡の周辺は草木が生い茂り分からなかった。
学校の閉校(集落の無人化)から40年以上経ち、人々の営みを残すものは学校の校門のみであった。
参考文献
日刊宗谷1972「53年の歴史閉ず 上猿払小が廃校」日刊宗谷昭和47年11月17日
猿払村役場1976『猿払村史』猿払村史編纂発行委員会