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豊富町豊幌

豊富町豊幌(平成29年9月17日探訪)

豊富町豊幌は農村集落である。
「豊幌」は元幌延村と沙流村に分かれていた。当時は幌延村に属していたが村の合併、分村(昭和15年)を経て豊富村の区域に入ったことから、両村の頭文字をとって「豊幌」とした。

明治44年工藤の入植が最初であった。大正4年秋田団体(12戸)が南沢からの転入、大正8年能登団体(6戸)、佐渡団体(5戸)の入植、さらに大正12年関東大震災による被災者対策として補助移民の入植を受け入れ、50余戸を数えた。
さらに各府県から自作農創設のため入植する者が増え、昭和3年には74戸を数えた。
子供たちは当初、幌延尋常小学校附属南沢特別教授場に通学していたが、8キロ余りの道のりで人家も殆どない刈分道路であった。冬季になれば学校付近の空家を借りて児童の合宿所として、父兄が監督して登校の便を図った。
その後奥地に移住する者がいないことや距離の関係もあって大正13年幌延尋常小学校附属北沢特別教授場として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校

大正13年 幌延尋常小学校附属北沢特別教授場として開校(2月)
昭和4年  北沢尋常小学校と変更(1月)
昭和15年 豊幌尋常小学校に変更(12月)
昭和16年 豊幌国民学校に変更(4月)
昭和22年 豊幌小学校と改称(4月)
昭和57年 閉校(3月)

中学校
昭和26年 開校(4月)
昭和57年 閉校(3月)

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日曹炭鉱を見終えた後、豊幌へ来た。
所々に酪農家が点在している。

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朽ちた校門があった。

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学校跡地は何も残っていない。

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倒壊した建物があったが、学校に関わる建物かは分からなかった。

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学校から2キロ先に神社があるので足を運び、参拝した。

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境内の笹薮の隙間から豊幌集落を見る。
へき地4級。
高度過疎集落であるが、神社は大切に維持されていた。

参考文献

豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
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豊富町日曹

豊富町日曹(平成29年9月16日探訪)

豊富町日曹は炭鉱集落である。

明治37年本願寺農場の管理人であった長門勇輔は日曹地区での採炭を計画し、農場の小作人をつかって明治42年から石炭を試掘した。
採掘した場所は大谷坑(後の三坑区域)で露天掘りであった。しかし輸送面の不備のため明治44年で操業を停止した。本格的な採炭は昭和時代に入ってからであった。

昭和11年日曹鉱業株式会社が5000万で鉱区を所有していた大谷光暢を買収し、7月9日会社重役、技手など10数名が現地調査し、炭層の有望性が確認され直ちに馬車道をつくり、物資の運搬を経て10月10日第1坑の採炭に着手した。
昭和13年豊富-日曹間に専用鉄道の敷設が始まり、昭和15年2月に専用鉄道が完成した。
この頃、冷害が全道を襲い南沢、北沢、目梨別、福永などの入植者は炭鉱労働に転業する者が増え児童も急増していった。このことから、学校設立の要望が高まり昭和13年9月に設立認可が下りた。学校の沿革は以下の通りである。

小学校
昭和13年 南沢尋常小学校附属本流特別教授場として開校(9月)
昭和14年 本流尋常小学校と改称(3月)
昭和15年 日曹尋常小学校と改称(12月)
昭和16年 日曹国民学校と改称(4月)
昭和22年 日曹小学校と改称(4月)
昭和45年 火災のため消失(3月)
        校舎新築(11月)
昭和48年 閉校(3月)

中学校
昭和22年 開校(5月)
昭和48年 閉校(3月)

炭鉱鉄道敷設時期(昭和13年)以降の炭鉱の動向は以下の通りである。
昭和13年    鉄道職員住宅、第一発電所建設、事務所落成
          一の沢、二の沢、熊の台集落の形成
昭和14年    日曹神社造営(6月10・11・12日祭典)
          バウム式水洗選炭機設置
昭和15年    第二発電所落成(この頃の戸数 410戸1980人)
昭和16年    日曹診療所竣工
昭和17年    新事務所(一の沢)完成
昭和18年    選炭場完成
昭和22年    日曹炭鉱株式会社設立
          新町1区・2区、富岡町、川向等に新たな炭鉱住宅の建設
昭和30年    日曹天塩鉱業所一時休山
昭和31年    選炭場火災により全焼
昭和35年以降 第3坑深部開発工事着手
         坑内運搬の機械化
         選炭機新設
         採炭掘進の機械化
昭和47年    閉山(7月) (閉山時の戸数251戸937人 うち鉱業所関係196戸767人)

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猿払村上猿払・石炭別を探訪後、豊富町日曹へやってきた。

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建物はすべて大自然に戻っている。

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日曹炭鉱跡地の記念碑。
残っている煙突は事務所の建物である。

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傍に、かなり傷んでいるが昭和28年頃の日曹の案内板が掲示されている。

煙突の傍に、往時の日曹の写真が掲示されていた。
量が多いため、3分割してここに掲載する。

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記念碑の向かいに学校があったが、既に痕跡は見当たらなかった。
手持ちの写真と見比べ、山の稜線で校舎跡地を特定した。

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学校跡地付近より日曹集落を望む。
道はいいが、ここに集落があったとは信じられないくらい自然に戻っていた。



参考文献

豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会

豊富町豊田

豊富町豊田(平成29年9月17日探訪)

豊富町豊田は農村集落である。

明治40年頃に数戸の農家が入植するも、交通不便であるため数年後に転出、冬季に菊井孝次郎が造材事業を行うのみであった。
大正15年に千葉・見延が入植したのを機に昭和2年に二浦、翌3年に藤沢、4年に高岡他4戸、5年に斉藤・熊谷他3戸、6年に打田他2戸が入植して豊田集落が形成されていった。
就学児童は昭和5年に入ってからであったが、当時は1里半余り隔てた兜沼尋常高等小学校阿沙流分校(後の阿沙流小学校)に通学していた。冬季間の通学困難な事情や集落の児童増加の見込みがあったため、集落の住民挙って学校設置の運動を起こした結果、昭和9年小学校設置の認可が下り(4月)、翌5月に仮校舎で授業が開始された。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校
昭和9年  豊田尋常小学校設置認可(4月)
        仮校舎にて授業開始(5月)
       新校舎落成移転(9月)
昭和16年 豊田国民学校と変更(4月)
昭和22年 豊田小学校と変更(4月)
昭和53年 閉校(3月)

中学校
昭和25年 開校
昭和53年 閉校(3月)

閉校時の記事を掲載する

過疎化の波…ついに廃校
離農、農業後継者の流出の過疎化の波にのまれて廃校になる小、中学校の最後の卒業式が14日、小平町(注1)と豊富町の2校で行われ、児童たちも父母たちもそれぞれ感慨深げだった。

しんみり、ほたるの光 卒業生1人 44年の歴史に幕
「【豊富】住民が減って今年の卒業生がたった1人、在校生も3人しかいなくなった小中学校が、卒業式後に閉校式を行ない44年の歴史に幕を閉じた。
豊富市街地から約25キロ離れた豊田小中学校(高橋善治校長)。校長のほか教員が4人いるが、児童、生徒は中学3年と同1年の兄弟、小学3年と4年の兄弟の計4人。同校は昭和9年に開校、これまでに小、中あわせて287人が巣立っている。へき地5級校だが体育などクラブ活動が盛んで、特に卓球では中学女子が全道大会で団体優勝したこともある。
豊田地区は大正15年(1926年)に入植して以来、畑作農地として栄え、最盛期の昭和30年代には農家43戸、児童、生徒58人を記録したこともあった。ところが畑作から酪農に切り替わり、経営規模が拡大するにつれて離農者が相次いだ。農業後継者の流出もあって現在は11戸、生徒数も4人になってしまった。
 昨年4月からは約7キロ離れた隣の庄内小中とスクールバスを利用して週に数回、体育や音楽の集合学習をし、各種行事も合同で行って教育効果を上げていた。しかし中学生が卒業したあとは、在校生がわずか3人になり、町教委ではついに閉校に踏み切った。
 同校体育館での卒業式には父母ら25人が出席、最後の卒業生となった中学の阿部茂君に高橋校長から卒業証書が手渡された。来賓の安田俊同町教育長と子供たちが新学期から通学する庄内小中の田中光蔵校長の祝辞もしめりがち。「蛍の光」の合唱に子供たちよりも父母たちの方がしんみりとしていた。
 このあと引き続いて閉校式。お別れ会には77歳になる地区の長老も参加、思い出話に花を咲かせたが、住民の心のよりどころであった学校の閉校に感慨ひとしお。参加者全員で記念撮影をして別れを惜しんだ。」(北海道新聞留萌・宗谷版 昭和53年3月16日)

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豊富町内で宿泊した翌日、豊田集落を訪れた。
豊富町内の土地はほぼ平坦な土地が広がっているが、豊田は山間の平地を開拓していった。
山がすぐそこまで迫っている。

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豊田小中学校跡地が見えた。
ここはへき地5級校である。

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閉校後も校舎は残されていたが、既に解体されていた。

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学校の隣には神社があった。
神社は移設されてきたものである。

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近くには教員住宅もあった。

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教員住宅の前には橋がある。

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橋の名は「学校橋」

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小さい川が流れている。

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川の名は「学校の沢川」
ここに学校があったことを伝えている。

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旧版地形図では、ここに寺院マークが記されている。

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ちょっと薮に入ってみるも、痕跡は見当たらなかった。

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帰り道、移設前の神社跡へ入ってみた。
なだらかな丘陵の頂上に神社はあったが、アプローチする道は消えていた。

(注1) 小平町の学校は富岡小学校であるが割愛する。

参考文献

豊富町史編さん委員会1986『豊富町史』豊富町史編さん委員会
北海道新聞1978「過疎化の波…ついに廃校 しんみり、ほたるの光 卒業生1人 44年の歴史に幕」北海道新聞留萌・宗谷版昭和53年3月16日
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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