古平町稲倉石
古平町稲倉石(平成30年6月9日探訪)
古平町稲倉石は鉱山集落であった。
明治18年大井嘉蔵・猪股五平・和田清作の3名が川に木を流していたとき川岸で金の鉱石が地表に現れているのを発見した。当初は「大股鉱山」と名付けられたが資金難のため間もなく中止した。
明治22年5月ごろ、北海道鉱山株式会社が買収し、試掘したところ金鉱の鉱脈から銀の含有量が多かったことから金・銀・銅鉱山として操業した。最盛期は従業員300人を超えていたが日清戦争後の不況により経営が悪化し、明治33年廃坑となる。
明治36年、田中鉱業株式会社が買い、高田為五郎が採掘と精錬に当たった。精錬は当初、然別鉱山へ運び委託していたが産出量も増えていったので稲倉石に精錬所を造った。
明治42年、然別鉱山経営者の小田良治所有となったが日露戦争後、外国からの金の輸入が増えたため明治44年に再び廃坑となる。
大正6年、函館の国屋忠五郎が鉄の精錬にマンガンの需要が高まってきたことに目をつけ、稲倉石鉱山からマンガンを掘り出し販売したが、第一次世界大戦後の需要低下により価格は暴落した。
大正7年、久原鉱業株式会社(後の日本鉱業株式会社)が捨てられていたマンガン鉱石に目をつけ、鉱山を買収するも、収支が償わないので大正9年に中止し休山した。
昭和4年、株式会社鉄興社が買収した。当時、鉄興社は鉄の精錬に必要な『フェロアロイ』といわれる製品を製造しており、事業拡大の計画や原料の確保のため大きなマンガン鉱山を手に入れる必要があった。
昭和5年4月、石川利雄が所長として赴任し、事務所兼所長住宅や従業員住宅の建設、選鉱場、焙焼炉の整備を急ぎ、採鉱をしながら新しい鉱脈を探したがフェロアロイが安価に輸入され始めたためマンガン鉱石の需要は急減。昭和6年2月出荷を停止し全職員は一時古平市街に降りて待機することとなった。その後、二酸化マンガンを製造する原料として使用することから8月に全従業員が元山に戻り、9月から作業を再開した。
昭和9年2月、鉄興社は稲倉石鉱山の経営を本社から分離して稲倉石鉱山株式会社を設立したが同年10月に鉄興社に吸収合併された。これは、鉄興社の増資のためであった。
昭和15年9月、日独伊三国軍事同盟が締結されると同時にマンガン鉱石の輸入が途絶えたため、稲倉石鉱山のマンガン鉱石は日本にとって極めて重要なものとなる。昭和19年の北海道内マンガン生産量第1位(8万2千トン余り)を記録、昭和28年に上ノ国鉱山が第1位になるまで続いた。
戦後、これまでの需要が途切れたため生産を中止し、規模も縮小したが昭和22年頃よりフェロアロイの需要が伸び始め、生産を再開した。
昭和38年をピークに、フェロアロイの需要減少や鉱脈の先細り、安価な鉱石の輸入が重なり赤字を抱えるようになった。
昭和45年、日本鉱業株式会社の仲介により子会社の北進鉱業へ売山することになり、大江鉱山との合併が決まった。
その後、昭和59年9月に閉山。また鉄興社も経営不振から原料吸収先の東洋曹達株式会社に吸収された。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和 9年 稲倉石尋常小学校として開校(4月)
昭和11年 校舎移転(5月)
昭和16年 稲倉石国民学校と改称(4月)
昭和17年 高等科併置(3月)
昭和18年 稲倉石青年学校(私設)を併置(9月)
昭和22年 稲倉石小学校と改称(4月)
昭和28年 校舎移転(7月)
昭和52年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 稲倉石中学校開校(5月)
昭和46年 閉校(3月)
鉱山の施設建築、集落関係は以下の通りである。
昭和 9年 第一策道 元山-堤の沢間運転開始(9月)
昭和12年 稲倉石消防組合結成(12月)
昭和15年 元山-堤の沢索道を港町まで延長(9月)
稲倉石郵便局開局(12月)
昭和17年 6万ボルト変電所新設(7月)
昭和18年 出戸の沢選鉱所第2索道が運転開始(8月)
昭和19年 稲倉石から余市まで第3索道の建設着手(7月)(注1)
昭和26年 重液選鉱設備完成(8月)
昭和29年 粉鉱の焼結設備完成(3月)
昭和32年 中央バスが稲倉石まで定期バス運行開始(5月)
昭和34年 6200トン浮遊選鉱設備完成(9月)
昭和39年 テレビ共同視聴のためテレビ組合結成(10月)
索道運転からトラック輸送に切り替え(12月)
昭和40年 旧校舎を改装して保育園開園(6月)
昭和50年 稲倉石郵便局廃局(3月)
中学校の閉校記事を掲載する
9人で最後の卒業式 古平 統合・閉校の稲倉石中
『【古平】町市街地から13キロほど離れたマンガン鉱山の学校、稲倉石中学校(藤田行雄校長、生徒数17人)の閉校式が14日行われ、同校は開校24年の歴史を閉じて今月限りで閉校、4月から町の中心校、古平中学校に統合されることになった。
同校は昭和22年5月1日に稲倉石小学校に併置で開校した。当時は生徒数わずか5人だったが、鉱山とともに発展、同37年ごろは89人に上った。しかしその後の合理化で漸減をたどり、昨年5月山が仁木町然別の北進鉱業大江鉱業所に買収され、職員の大幅転換に伴って生徒数は17人に減ってしまった。
このため昨年5月から2学級に縮小、複式授業を続けていたが『中学の複式授業では高校進学が心配だから大規模校に統合を-』というPTAの陳情もあって、もよりの古平中学と統合に踏み切った。
同校最後の卒業式は卒業生9人(男5人、女4人)に卒業証書を渡して閉校式に移った。
伊藤町長をはじめ町教育委員、歴代校長、父母ら多数が出席。高野町教育委員長、町長、藤田校長、吉田PTA会長らが『伝統ある母校がなくなることはたまらなく寂しいことだが、心を新たに勇気を振るい起こし、新たな古平中学で稲倉石魂を発揮して勉強して下さい。古平中学では大勢の友だちが手を広げて待っている』と生徒たちを励ました。
吉田PTA会長は涙ぐんで話がと切れがち。父母、先生たちもしきりと感涙をぬぐっていた。生徒たちも感無量の表情だったが、なつかしい『ふるさと』を歌って、思い出多い母校に別れを告げていった。』(「北海道新聞後志版」昭和46年3月16日)

平成30年、HEYANEKO氏と訪れた。
砂利の採石場となっているが、ここが学校跡である。

集落へ続く道。
草木が生い茂っているが先へ進む。

やがて「通行止」となった。
クルマは諦めて徒歩で行く。

事前に得た情報で「ジャングルジム」が残されていると聞いたが、この時は見つけられなかった。
その後、ジャングルジムのある場所は移転前の学校跡地で、保育園として転用されたことが分かった。

突き当り付近のコンクリート構造物、草木が生い茂っていたので手鎌で少し刈り取った。
次は草木が茂る前に再訪してみたいものである。
参考文献
北海道新聞1971「9人で最後の卒業式 古平 統合・閉校の稲倉石中」『北海道新聞後志版』昭和46年3月16日
古平町史編纂委員会1998『古平町史第3巻』古平町
古平町稲倉石は鉱山集落であった。
明治18年大井嘉蔵・猪股五平・和田清作の3名が川に木を流していたとき川岸で金の鉱石が地表に現れているのを発見した。当初は「大股鉱山」と名付けられたが資金難のため間もなく中止した。
明治22年5月ごろ、北海道鉱山株式会社が買収し、試掘したところ金鉱の鉱脈から銀の含有量が多かったことから金・銀・銅鉱山として操業した。最盛期は従業員300人を超えていたが日清戦争後の不況により経営が悪化し、明治33年廃坑となる。
明治36年、田中鉱業株式会社が買い、高田為五郎が採掘と精錬に当たった。精錬は当初、然別鉱山へ運び委託していたが産出量も増えていったので稲倉石に精錬所を造った。
明治42年、然別鉱山経営者の小田良治所有となったが日露戦争後、外国からの金の輸入が増えたため明治44年に再び廃坑となる。
大正6年、函館の国屋忠五郎が鉄の精錬にマンガンの需要が高まってきたことに目をつけ、稲倉石鉱山からマンガンを掘り出し販売したが、第一次世界大戦後の需要低下により価格は暴落した。
大正7年、久原鉱業株式会社(後の日本鉱業株式会社)が捨てられていたマンガン鉱石に目をつけ、鉱山を買収するも、収支が償わないので大正9年に中止し休山した。
昭和4年、株式会社鉄興社が買収した。当時、鉄興社は鉄の精錬に必要な『フェロアロイ』といわれる製品を製造しており、事業拡大の計画や原料の確保のため大きなマンガン鉱山を手に入れる必要があった。
昭和5年4月、石川利雄が所長として赴任し、事務所兼所長住宅や従業員住宅の建設、選鉱場、焙焼炉の整備を急ぎ、採鉱をしながら新しい鉱脈を探したがフェロアロイが安価に輸入され始めたためマンガン鉱石の需要は急減。昭和6年2月出荷を停止し全職員は一時古平市街に降りて待機することとなった。その後、二酸化マンガンを製造する原料として使用することから8月に全従業員が元山に戻り、9月から作業を再開した。
昭和9年2月、鉄興社は稲倉石鉱山の経営を本社から分離して稲倉石鉱山株式会社を設立したが同年10月に鉄興社に吸収合併された。これは、鉄興社の増資のためであった。
昭和15年9月、日独伊三国軍事同盟が締結されると同時にマンガン鉱石の輸入が途絶えたため、稲倉石鉱山のマンガン鉱石は日本にとって極めて重要なものとなる。昭和19年の北海道内マンガン生産量第1位(8万2千トン余り)を記録、昭和28年に上ノ国鉱山が第1位になるまで続いた。
戦後、これまでの需要が途切れたため生産を中止し、規模も縮小したが昭和22年頃よりフェロアロイの需要が伸び始め、生産を再開した。
昭和38年をピークに、フェロアロイの需要減少や鉱脈の先細り、安価な鉱石の輸入が重なり赤字を抱えるようになった。
昭和45年、日本鉱業株式会社の仲介により子会社の北進鉱業へ売山することになり、大江鉱山との合併が決まった。
その後、昭和59年9月に閉山。また鉄興社も経営不振から原料吸収先の東洋曹達株式会社に吸収された。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和 9年 稲倉石尋常小学校として開校(4月)
昭和11年 校舎移転(5月)
昭和16年 稲倉石国民学校と改称(4月)
昭和17年 高等科併置(3月)
昭和18年 稲倉石青年学校(私設)を併置(9月)
昭和22年 稲倉石小学校と改称(4月)
昭和28年 校舎移転(7月)
昭和52年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 稲倉石中学校開校(5月)
昭和46年 閉校(3月)
鉱山の施設建築、集落関係は以下の通りである。
昭和 9年 第一策道 元山-堤の沢間運転開始(9月)
昭和12年 稲倉石消防組合結成(12月)
昭和15年 元山-堤の沢索道を港町まで延長(9月)
稲倉石郵便局開局(12月)
昭和17年 6万ボルト変電所新設(7月)
昭和18年 出戸の沢選鉱所第2索道が運転開始(8月)
昭和19年 稲倉石から余市まで第3索道の建設着手(7月)(注1)
昭和26年 重液選鉱設備完成(8月)
昭和29年 粉鉱の焼結設備完成(3月)
昭和32年 中央バスが稲倉石まで定期バス運行開始(5月)
昭和34年 6200トン浮遊選鉱設備完成(9月)
昭和39年 テレビ共同視聴のためテレビ組合結成(10月)
索道運転からトラック輸送に切り替え(12月)
昭和40年 旧校舎を改装して保育園開園(6月)
昭和50年 稲倉石郵便局廃局(3月)
中学校の閉校記事を掲載する
9人で最後の卒業式 古平 統合・閉校の稲倉石中
『【古平】町市街地から13キロほど離れたマンガン鉱山の学校、稲倉石中学校(藤田行雄校長、生徒数17人)の閉校式が14日行われ、同校は開校24年の歴史を閉じて今月限りで閉校、4月から町の中心校、古平中学校に統合されることになった。
同校は昭和22年5月1日に稲倉石小学校に併置で開校した。当時は生徒数わずか5人だったが、鉱山とともに発展、同37年ごろは89人に上った。しかしその後の合理化で漸減をたどり、昨年5月山が仁木町然別の北進鉱業大江鉱業所に買収され、職員の大幅転換に伴って生徒数は17人に減ってしまった。
このため昨年5月から2学級に縮小、複式授業を続けていたが『中学の複式授業では高校進学が心配だから大規模校に統合を-』というPTAの陳情もあって、もよりの古平中学と統合に踏み切った。
同校最後の卒業式は卒業生9人(男5人、女4人)に卒業証書を渡して閉校式に移った。
伊藤町長をはじめ町教育委員、歴代校長、父母ら多数が出席。高野町教育委員長、町長、藤田校長、吉田PTA会長らが『伝統ある母校がなくなることはたまらなく寂しいことだが、心を新たに勇気を振るい起こし、新たな古平中学で稲倉石魂を発揮して勉強して下さい。古平中学では大勢の友だちが手を広げて待っている』と生徒たちを励ました。
吉田PTA会長は涙ぐんで話がと切れがち。父母、先生たちもしきりと感涙をぬぐっていた。生徒たちも感無量の表情だったが、なつかしい『ふるさと』を歌って、思い出多い母校に別れを告げていった。』(「北海道新聞後志版」昭和46年3月16日)

平成30年、HEYANEKO氏と訪れた。
砂利の採石場となっているが、ここが学校跡である。

集落へ続く道。
草木が生い茂っているが先へ進む。

やがて「通行止」となった。
クルマは諦めて徒歩で行く。

事前に得た情報で「ジャングルジム」が残されていると聞いたが、この時は見つけられなかった。
その後、ジャングルジムのある場所は移転前の学校跡地で、保育園として転用されたことが分かった。

突き当り付近のコンクリート構造物、草木が生い茂っていたので手鎌で少し刈り取った。
次は草木が茂る前に再訪してみたいものである。
参考文献
北海道新聞1971「9人で最後の卒業式 古平 統合・閉校の稲倉石中」『北海道新聞後志版』昭和46年3月16日
古平町史編纂委員会1998『古平町史第3巻』古平町
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