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京極町東花

京極町東花(平成30年6月24日探訪)

京極町東花は農村集落である。

明治41年、向出次一ら20戸の加賀団体が入植したのが始まりである。着手小屋を建て、現在の公民館から数キロの道を通いきり、開拓していった。
明治42年に東花に移住し笹小屋を建てて生活が始まった。この頃は楢の巨木が枝を張り、草木は生い茂り笹小屋の周囲にはクマが出没し、小屋の中に入ってくることもあった。
学校は明治43年4月東倶知安第一尋常小学校付属東カシプニ特別教授所として開校したのが始まりである。大正12年には東倶知安第三尋常小学校(後の錦小学校)から独立し、校舎が建設された。
元々は「14区」と呼ばれていた地域を初代校長が「村の東方に文化を」の理想に基づいたもので「東化」と呼称したが、昭和16年の字名改正により東花に改正された。
集落の主要作物はソバ・イナキビ・ササゲであったが大正10年頃より酪農が導入された。

学校の沿革は以下の通りである。

小学校
明治43年 東倶知安第一尋常高等小学校所属東カシプニ特別教授所として開校(4月)
大正 2年 東倶知安第三尋常小学校所属東カシプニ特別教授所と改称(10月)
大正12年 東化尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 東花国民学校と改称(4月)
昭和22年 東花小学校と改称(4月)
昭和51年 閉校(3月)


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平成30年2月、錦の先にあった東花へ行こうとしたが、積雪により断念した。
学校は、ここから結構先にあった。

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6月24日、錦の再訪後に足を運んだ。

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橋の名前は東花橋。
東花に近づいてきた。

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学校手前に残るサイロ。
結構、高い位置に建っている。

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学校跡付近まで来た。
草木が生い茂り、建物の基礎さえも分からなくなっている。

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学校跡地。
草木が生い茂っていた。

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傍に、木製電柱が倒れ掛かりながらも残っていた。

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帰り際、もう一度サイロを眺める。
集落の名残は「東花橋」と「電柱」、そして高所に聳えるサイロであった。

参考文献
京極町教育委員会・京極町立東花小学校1976『清流 京極町立東花小学校閉校記念誌』
京極町教育委員会2018『旧東花小学校・旧錦小学校校区から見た地域』
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
「角川日本地名大辞典」編纂委員会1987『角川日本地名大辞典1-[1]北海道上巻』角川書店

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京極町錦

京極町錦(平成30年2月10日・6月24日探訪)

京極町錦は農村集落であり、高度過疎集落である。

開拓は明治40年に富山県出身庄川農場が開拓したのが始まりである。富山県庄川の改修工事により川流域の耕地を失った者のために375町歩の未開地貸付の許可を受け小作人75戸を募集し、明治40年5月より入植を開始したが事情により同年9月小作地を開放して各個人に貸付許可されるに至った。
また、明治45年福島県会津団体(秋山辰四郎総代人35戸)も錦地区の開拓に従事していった。

学校は倶知安第六尋常小学校(現京極町公民館)に通学していたが、通学は山越え、沢越えの遠路であり冬季は通学困難であったことから地域住民は倶知安村役場(注1)に陳情を重ねた。その結果、明治39年10月に倶知安第六尋常小学校カシプニ特別教授所として開校した。
字名の由来はアイヌ語「カシプニ」の和訳である「ニシキ科マユミの木」であり、昭和16年の字名改正により錦となった。それ以前は「9区」「12区」「13区」と呼ばれ、ササゲ・除虫菊・バレイショを栽培していた。

学校の沿革は以下の通りである。

小学校
明治39年 倶知安第六尋常小学校付属カシプニ特別教授所として開校(10月)
明治43年 東倶知安第一尋常小学校付属カシプニ特別教授所と改称(4月)
大正 2年 東倶知安第三尋常小学校と独立(10月)
昭和11年 高等科分教室併置(9月)
昭和13年 東倶知安第三尋常高等小学校と改称、校舎移転(12月)
昭和16年 東倶知安第三国民学校と改称(4月)
        字名改称により錦国民学校と改称(4月)
昭和22年 錦小学校と改称(4月)
昭和56年 閉校(3月)

中学校
昭和22年 錦中学校開校(4月)
昭和45年 閉校(3月)

(注1)当時、京極町は倶知安村に属し東倶知安と称していた。

閉校時の記事を掲載する

75年の歴史に〝幕〟=京極の錦小で閉校式= 最後の児童小上兄弟が別れの言葉
「【京極】戦前まで地域の中心校であった錦小学校の閉校式が29日、中山後志教育局長をはじめ阿部町長、地元有志、札幌、室蘭など道内各地の同窓生など合わせて170人が参加して行われた。
 式では阿部町長が「児童のよりよい教育を進めるため閉校する」と告辞を述べ、歴代校長、現旧教職員、歴代PTA会長に感謝状が渡された。
 続いて最後の児童となった小上淳一君(6年)幸樹君(3年)の兄弟が壇上に上がり、「錦小学校よ、さようなら」と別れのことばを述べた。
 江川校長は「毎年毎年春はやってくるし、草木が芽をふき小鳥がさえずるけれども、昭和56年の錦の春は学校のない春で、75年前に戻った春になる。先生がたも、小上兄弟も一生忘れることの出来ない春だ。新しい春に向かって錦魂を燃やそう」と名残りを惜しみ、最後は全員で「ふるさと」を斉唱した。
 同校は明治39年(1906年)10月11日、当時倶知安村の第六尋常小学校(現京極小学校)付属カシュプニ特別教授所として創立、大正3年(1914年)には東倶知安村第三尋常小学校として独立、東カシュプニなど2つの分教場を持つ中心校となり、大正から昭和19年までは150人もの児童、それに高等科生徒を合わせると200人以上の学童でにぎわっていた。
 これまで小学校、高等科、中学生、それに大正時代の補習科生など合わせると延べ2000人の卒業生を送ってきたが、昨年春は児童4人となり、さらに8月からは2人が転出、小上兄弟の2人に減ってしまったことから、京極小に統合されることになった。」(『北海道新聞後志版』昭和56年3月31日)

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平成30年2月、HEYANEKO氏らと京極町脇方探訪後に訪ねた。

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公共の建物である「寿の家」は使われておらず、うず高く雪が積もっている。

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昭和15年2月開局・昭和51年6月閉局の錦郵便局。
閉局後、一般の方が局舎を使っている。

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この上に校舎があった。スノーシューを履いて進む。
(画像提供 HEYANEKOさま)

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校舎は既に解体されており、だだっ広い風景が広がっていた。

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何かの小屋を見つけたが、この時は分からなかった。

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点在する家屋。
HEYANEKO氏が何かを見つけ、声が聞こえた。

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見ると、馬頭観世音の碑である。

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学校より手前の風景。
正面に見える建物は集乳所の跡である。

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少し月日が流れ、6月に再訪を果たした。
集乳所の建物は存在感がある。

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雪に埋もれていた馬頭観世音の碑は大きかった。
別な言い方をすれば、馬頭観世音の碑が埋まるくらい雪深い集落である。

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寿の家は健在である。
建物左に何か見えた。

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地神さまとお地蔵さまである。
お地蔵さまの建立年は分からなかったが、地神さまは大正11年9月建立された。

最後に、地神さまに彫られた名前をここに「再復刻」する。
尚、単独で調べたので誤字の可能性もあること、判読不能の箇所があったことを予めご了承願います。

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佐々木亀二郎
松木米次
小林豊吉
関口勝美
小西徳次郎
髙嶋仁四郎
佐藤彦次
○湊卯之吉
三条○蔵
今村長蔵
藤原○平
老田○○
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相髙友吉
岡野慶太郎
小林直次郎
堀市太郎
宗守●蔵 ●は示す偏に「力」
高橋寅三郎
森田栄八
宮杢羊之助
米川清
老田甚平
萩原米次郎
奥野栄次郎
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山本栄太郎
前本慶次
芳賀貢
香川武平
上野与七
小上次市
小上要太
笹倉竹蔵
松下ソト
三好藤○
菊地倉蔵
○○晋蔵
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森下○吉
佐藤繁二郎
石丸長○
小上茂
大坪○○
大坪吉○
遠藤久○
藤○徳○
香川○○

参考文献
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
京極町1981『我が母校錦小学校閉校記念誌』京極町教育委員会・錦小学校閉校行事実行委員会
北海道新聞1981「75年の歴史に〝幕〟=京極の錦小で閉校式= 最後の児童小上兄弟が別れの言葉」『北海道新聞後志版』昭和56年3月31日
京極町教委委員会2018『旧東花小学校・旧錦小学校校区から見た地域』
「角川日本地名大辞典」編纂委員会1987『角川日本地名大辞典1-[1]北海道上巻』角川書店

京極町脇方

京極町脇方(平成30年2月10日探訪)

京極町脇方は明治期に福島団体が入植したが、後に鉱山集落へ発展を遂げた。

明治41年 福島団体(信夫郡吉井田村 佐藤久三郎団長)29戸
        舟山団体(信夫郡野田村  舟山亀之助団長)12戸
明治44年 信夫団体(信夫郡吉井田村・土湯村 唯木七郎治総代人) 27戸
大正 3年 和歌山団体(北風種吉総代人)戸数不詳 が脇方地内に入植した。

しかし、凶作冷害や地力の減退により和歌山団体は大正12年全戸離農。福島団体は前記のほか鉱山開発により昭和14,5年頃には数戸のみの就農。舟山団体は脇方駅や官舎、鉱山事務所、社宅、小中学校用地として買収され団体全員四散した。

明治31年に藤村徳治によって褐鉄鉱鉱床が発見され、大正5年に三井鉱山㈱の所有となり本格的な試錐が行われた。大正7年に北海道製鉄に譲渡され、翌8年日本製鋼所と北海道製鉄の合併により日本製鋼所倶知安鉱業所として操業を開始。大正9年に鉱石輸送のため脇方線が開業した。
第一次世界大戦後の不況により大正10年から13年にかけて休山したが、翌14年より操業を再開。昭和6年の満洲事変の影響により第2次世界大戦まで軍需資源増産により倶知安鉱山の全盛期を迎えた。
昭和6年 輪西製鉄所(株)、昭和9年輪西鉱山(株)昭和14年日鉄鉱業(株)と所属が変わり、昭和19年の脇方地区は従業員の家族を合わせて4000人が暮らしていた。
終戦後、戦災を受けた室蘭製鉄所が操業を一時休止したため昭和21年の生産は激減、昭和23年の脇方市街大火により事務所・倉庫を焼失したが朝鮮戦争を機に需要も活発になっていった。
昭和30年代に入ると海外鉱石の輸入増加や倶知安鉱山の鉱量枯渇が重なり、昭和44年10月に閉山した。

学校は明治44年4月 奥ワッカタサップ特別教授場として開校した。
大正4年末に児童数が100名を超えたため大正5年 地元の村会議員より奥ワッカタサップ特別教授場・ワッカタサップ特別教授場(明治42年1月開校)を統合して第四尋常小学校建設の議を提出した。村は小学校建設を可決したが、付帯条件として
建築費の4割を関係集落が負担
学校の統合・学校位置は集落住民が選定 されることとなった。

しかし、建築費の4割負担や両教授場の位置問題で互いに譲らず、協議を重ねた結果大正7年、現在地(閉校時の位置)に決まった。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校
明治42年 ワッカタサップ特別教授場(通称 中山梨分教場) 開校(1月)
明治44年 奥ワッカタサップ特別教授場開校(4月)
大正7年  東倶知安第四尋常小学校と改称(10月)
大正11年 火災により焼失(12月)
大正12年 校舎新築(11月)
昭和16年 脇方国民学校と改称(4月)
昭和22年 脇方小学校と改称(4月)
昭和45年 閉校(10月)

中学校
昭和22年 開校(6月)
昭和24年 脇方中学校と独立(4月)
昭和38年 小中併置校となる(4月)
昭和45年 閉校(3月)

閉校直前の「お別れ会」の記事を掲載する。

楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校 
〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ
【京極】鉄のヤマとともに歩んできた脇方小中校がヤマとともに消えることになった。10月の閉校を前に20日、同校で卒業生、父母らが集まって〝お別れ会〟が開かれ、思い出多い校舎、マチ並みをながめながら互いにしあわせを祈り、いつまでもなごりを惜しんでいた。
 町市街地から約7キロ、谷間の脇方が開かれたのは明治31年。当時、東倶知安村の一農民によってかっ(褐)鉄鉱の鉱床が発見されてから鉱量1千万トンといわれる鉱山とあって大正5年、三井鉱山の手で本格的な採掘が始められ、その後昭和14年に日鉄鉱業の所属となった。16年には胆振縦貫鉄道が完成、第二次大戦の需要増加から戦時中は年に60万トン近い生産高を記録、同地区の人口も約4千人にふくれあがった。
 戦後は30年代に入って大量の海外鉱石が輸入され、加えて鉱量の枯渇という事態になったことから昨年10月、倶知安鉱山はついに閉山。日鉄鉱業の北海道本部が残っていただけになったが、この10月には本部も脇方から引き揚げることに決まった。
 脇方の鉱山の盛衰とともに歩んできた脇方小中学校は明治44年に設けられたワッカタサップ特別教授所が前身。その後東倶知安村第四尋常小学校として独立。戦前戦後を通じて鉱山従業員の子供が学んできたが、昭和19年の脇方国民学校時代には552人の児童を数えたこともある。しかし日鉄鉱業の縮小に伴って児童数は減少。現在は51人を残すだけ。10月には全員が家族とともに転校、学校は自然閉校となる。このため同窓生らが主体になって〝なつかしい母校にもう一度集まってお別れを〟と、この会を催した。
 会には札幌、小樽、管内各地に住んでいる卒業生、父母ら150人が出席。阿部校長、来賓らが『いつの日か脇方が再開発されてにぎわいを取り戻すことを祈っています。それまで健康に気をつけて-』とあいさつ。このあと児童生徒代表らが『授業やお祭りなど楽しかったことばかり。新しい土地に友だちはいませんが、しっかり勉強します』と作文を朗読、さらに子供たちが〝思い出〟〝蛍の光〟など数曲を鼓笛演奏するとそっと目がしらを押える人もみられた。」(北海道新聞後志版昭和45年9月22日)

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平成30年2月、HEYANEKO氏らと脇方を訪ねた。
正面の建物は産廃処分場であるが、そこにかつての脇方駅があった。

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橋の名前は「鉄見橋」
ここから鉄道が見えたことに由来する。

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川の名前は「ワッカタサップ川」である。
ちょっと川を覗いてみる。

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川の色は鉄を含んでいるせいか、少し茶色っぽい色をしていた。

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鉄見橋から右へ行く道は通行止めであった。
この先にはかつて、神社があった。

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脇方駅跡。
駅のすぐ近くに学校があった。

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ふと見ると、何かこんもりしたモノが見える。
学校跡の碑である。

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学校跡の碑。
碑の高さは2メートルくらいあるが、雪が降り積もり、これでは分からない。

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ゴム手袋をはめて、雪から掘り起こした。
脇方小中学校の碑を復活させた。

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もう少し先へ進むと、煙突が見えた。
煙突までツボ足で進む。

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学校跡の煙突。
積雪で行ける範囲は限定されたので、次は雪のない時期に再訪してみたい。


参考文献

北海道新聞1970「楽しい思い出胸に〝お別れ会〟ヤマとともに消える京極の脇方小中校 〝あなたも元気で〟 卒業生父母 鼓笛演奏に涙ぐむ」『北海道新聞』昭和45年9月22日
京極町史編纂委員会1977『京極町史』京極町
京極町教育委員会2016『昭和の時代を振り返る ふるさと京極120年昔日の脇方-ワッカタサップと倶知安鉱山50年-解説編』
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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