歌志内市新歌志内(新歌)

歌志内市新歌志内(平成23年5月4日探訪)

歌志内市 神威より約4キロ程入った山あいの集落でした。
「でした」と書いたのは、現在無人集落だからです。

新歌志内鉱は明治40年末に日本興業KKで試掘許可を受け、同44年9月 奔別炭鉱KKに移り、会社名の変更を経て昭和3年住友坂炭鉱KKの経営に移る。昭和28年8月3日閉山。
なお、昭和27年7月1日現在の人口 2529名。

幸袋興業KKは昭和32年5月、住友新歌志内鉱跡地を買い取って再鉱。しかし昭和38年3月31日閉山。

古老の話では、つづらおりの峠道を歩いてふもと(神威)にあった劇場へ行ったりしたという記述があります。
現在、新歌志内は露天掘りの敷地内にあります。また一帯は熊の出没地帯であるので、これを見たからといって探索せぬようお願いします。

新歌志内集落への道
新歌志内集落の入り口。
延々とつづらおりの道(峠道)を歩きます。

入り口の記念碑台座
集落入り口にあった「記念碑」台座。
記念碑は現在、神威厳にある救護施設「親愛の家」向かいに移設されました。

新歌志内選炭施設
新歌志内選炭施設2
新歌志内炭鉱選炭施設。
選炭施設よりさらに上へ通じる道がありますが、その先に「住友」時代の新歌志内小学校がありました。

神社跡
神社跡。社殿はおそらく、この上にあったものと思います。

集落跡
集落跡。
植林されていますが、平らな部分は炭鉱住宅(長屋)が建っていた頃の名残です。
幸袋鉱業時代の校舎は、結局、見つかりませんでしたが新歌志内の現状を紹介しているところは、そう多くないと思います。

新歌についてはまだ調べています。
何か情報がありましたらご一報ください。
スポンサーサイト

和寒町東陵

和寒町東陵(平成20年5月31日探訪)

東陵小学校跡

東陵小学校体育館


和寒町東和の奥に位置しています。
東陵は戦後、戦争引揚者により入植された「戦後開拓」集落でした。
開拓当初、子供たちは約4キロ離れた東和小学校まで通学していましたが不便であることから昭和27年4月1日、東陵小学校 開校となります。
東陵地域はその後、洋菜カリフラワー栽培で全道一位になりましたが、離農者が相次ぎ昭和46年閉校となりました。
閉校後、校舎は地域の集会所として活用されていたみたいですが、いつごろまで使われたかは分かりませんでした。

校舎跡は体育館の基礎と学校跡の標柱があるだけですが、周囲は通い作の畑が広がっています。
東陵小学校周辺

定住者はいませんが、しっかりと維持管理されているように思えました。


【追記】
平成23年8月、東陵出身の方とお会いし、色々と話を伺いました。

ご自身は昭和30年代前半に生まれ、小さい頃の遊びとして夏は田んぼにある「溜池」で泳いだり川で貝やザリガニつりをしたこと、冬は山に登ってスキーで遊んでました。
この頃、東陵はバレイショの栽培が多かったのですが、その他にも稲作、酪農、にじます養殖(上坊寺さんという方が経営)もありました。
仕事のない冬は山に行って木の切り出しを行い、馬で運んでいました。

バレイショの栽培に伴い、でんぷん工場も操業していました。特に南田、中振、上高さんのでんぷん工場が大きかったそうです。昭和20年代の開拓当初は、個人操業のでんぷん工場がたくさんありました。

酒や日用品は東和の店(上高商店、佐藤商店)で足りていましたが、生鮮食料品は士別から来る行商(ナス商店)で買っていました。

東陵に神社があったときは勝ち抜き戦の相撲大会が行われており、景品欲しさに頑張ったりしました。
大人は馬をつかい、学校奥にある山の中腹で「ばんば」をして賭け事で楽しんだそうです。

学校は複式学級の2クラスで、隣に校長住宅が併設されていました。学校の近くに教員住宅(1棟は教頭住宅)がありました。教頭住宅は閉校後、地域の町内会館として活用されていました。
娯楽も限られていたので、役場の職員や農協職員がバンドを組んで、体育館で子供たちにバンド演奏をしていました。演奏された曲は、当時の流行歌です。

時間割

手元に東陵小学校の時間割があります。
東陵出身の方から譲ってもらいました。一部加工しています。

東陵神社跡 - コピー
東陵神社跡。
神社の痕跡もありませんでした。
家屋も廃屋となって久しい印象を受けました。

一人では調べるのに限界があります。
今回、調査・協力いただいた方は自衛隊勤務時代、お世話になった後輩の父親です。
この場を借りて御礼申し上げます。

士別市大英

士別市大英(平成22年5月3日探訪)

大英小学校

大英小学校校舎内部


大英地域はもともと、営林署と銅鉱山、農家が点在していた地域でした。
作物は主に菜種、金時などが栽培されていたようです。
戦後、被災者の入植や満洲引揚者が急増して開拓されるようになりました。
昭和25年11月1日 大英小学校 開校。校名の由来は「英でた人物が育つように」という意味です。

山あいの学校でしたが昭和36年 当時の校長 井出宗重氏が「環境の整備」を掲げ花壇の造成。
沢水を利用して養魚(ニジマス)を始めます。
当初は理科の実験としての目的が強かったのですが、児童たちが自主的にニジマスの面倒を見るようになり
「ニジマスを飼う学校」という見出しで北海道新聞(上川北部版)に掲載されました。
その後、大英小学校は「環境美化」で有名な学校となり昭和40年 士別市花壇コンクールで最優秀賞を受賞しました。
しかし、このころから大英地区の離農が始まり昭和45年3月31日に閉校。

大英は現在、1世帯(牧場)しかいない集落です。


校舎前の廃屋と校門
校舎前にあった校門と廃屋。
廃屋は教員住宅の可能性があります。

校舎跡・池・花壇跡
校舎前の風景。
マル印をつけたところに「大英神社」がありました。

校歌
校舎内に残されていた校歌。
校歌は閉校直前、木造博・美恵の両氏によって作詞・作曲されました。

昭和45年 大英小学校は閉校しますがその時に作られた「歌」が存在します。
その名も「別れの歌」
恐らく、閉校式のために作られたものでしょう。歌詞を掲載します。

1 楽しく過ぎた大英の 学びの庭よさようなら
  明るく強く胸を張り 今日は別れの春の窓
  変らぬ誓い友情を みんなでみんなで歌おうよ

2 思いで残る校庭の 緑よ花よさようなら
  果てない夢をえがきつつ 今日は別れの手を握り
  伸び行く春の喜びを みんなでみんなで歌おうよ

校長住宅
複雑な思いを胸に秘め、隣接する校長住宅へ行きます。

校長住宅内部 居間?
校長住宅も傷みが進んでいました。

2階の窓より
2階へ昇り、2階の窓より校舎を眺めました。
大英も、再調査が必要なので機会があればまた、足を運びたいものです。

和寒町塩狩

和寒町塩狩(平成22年5月3日・平成23年4月28日探訪)

DSC01647_convert_20110508144244.jpg
ここは三浦綾子の小説「塩狩峠」で有名な集落です。
また、塩狩温泉は地元のみならず、北海道内でも有名でしたが廃業しました。

そんな塩狩ですが、地名の有名さとは裏腹に5世帯(実際は3~4世帯?)しかいない限界集落です。

そこに「塩狩神社」がかつて存在しました。
場所は塩狩駅 東側の山の頂上です。
明治末期に創建され、塩狩の歴史を見守ってきた神社でしたが昭和41年ころに祭典がなくなり、参拝者も絶えてしまいました。
地元の和寒神社ですら「知りませんでした」と仰るくらいなので、歴史の闇に消えかかっているといいくらいです。

その塩狩神社。ネットでの公開は、これが初めてだと思います。ご覧ください。

塩狩神社(国道沿い)がある地域は「塩狩第一」、神社より西側にあった地域は「塩狩第二」と呼ばれていました。
現在、塩狩第二地域は廃村地域となっています。そこに学校と地神さまが祀られていました。
尚、塩狩第二に住まわれていた方の庭に防空壕が存在しましたが、私はまだ未確認です。
防空壕の話は「広報わっさむ」1992年12月号に掲載されています。

塩狩第一。
国道沿いに数件の人家、駅東側には営林署や国設スキー場もありました。
営林署は既になく、スキー場もありません。
1504 - コピー


塩狩第二。
塩狩小学校、地神社がありました。
小学校は昭和7年12月1日に開校し、昭和44年3月31日に閉校しました。
閉校後、地域の集会所や南丘貯水池での交流施設などに活用されていましたが、老朽化のため最近、解体されました。
DSC00588 - コピー

塩狩第二の風景。
塩狩第二にあった廃屋の跡

塩狩第二に残るサイロ。
塩狩第二にあるサイロ廃墟

塩狩小学校の向かいにあった地神さま。
現在は和寒神社に祀られています。
塩狩第二に祀られていた地神社・和寒神社境内にて
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR