よいお年をお迎えください。

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今年も残すところ、あと僅かとなりました。

今年の4月にブログ「日本の過疎地」を始めました。

ブログを始めた切っ掛けですが、実際は「なんとなく」始めたのです。
開設当初、日本各地の「学校跡がある廃村・限界集落」をテーマに始めたのですが、調べていくうちにたくさん存在することを知り、それならばということで北海道内を調べようと思い立ちました。北海道も広いので、まずは私の生まれ育った道北を中心に調べて記録することにしたのです。もちろん、道北だけには拘らず、オホーツクや空知、遠くは日高方面へも訪ねました。
 
廃村、と一口に申し上げても農山村や漁村、林業、鉱業、戦後開拓など多岐に渡ります。それらは過疎化による離農だけではなく、鉱業の閉山、ダム建設に伴う集団移転、中には自然災害により集団離村した地域もあります。

今、現状を記録しないと何もなくなってしまう。

かつての記憶を記録しないと、歴史の闇に消えてしまう。

こんな思いでスタートしました。

和寒町の高度過疎集落 東和を探訪したとき、取材した方のおっしゃった言葉で「学校が廃校になったら、集落の歴史も終わったようなものだ」という言葉は深く印象に残りました。

この言葉がなければ、精力的に調べなかったかもしれません。

そして一番は「好奇心」です。

歴史を調べるのも大事ですが、現地はいったいどのような状態なのだろう?という思いです。
通い作で田畑が維持されている集落、廃屋だらけとなった集落、自然に還ってしまい、集落の痕跡すら消えてしまった集落もあります。
北海道内にはまだまだ「学校跡のある廃村」は存在します。来年、どれだけ訪ねることができるのでしょうか。
来年もどうぞ宜しくお願いします。

写真は浦河町の廃村 滝ノ上(戦後開拓集落)の第二野深小学校滝ノ上分校跡(校門・へき地等級3級)です。
昭和30年に開校、昭和40年に閉校しました。
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様似町新富

様似町新富(平成23年10月23日探訪)

新富は元々「新様似」と呼ばれていた。
明治38年、39年、44年に合計30戸ほどの集団入植者が現れた。これが新富集落開拓の始まりであった。
明治42年7月7日 筒淵春蔵の居宅を改装し「岡二尋常小学校付属新様似特別教授場」として発足した。
現在地の新富197番地(旧名エショマナイ)に校舎移転したのは明治44年10月31日のことであった。
明治40年頃に水銀鉱山の開発が始まり精錬所が建設されたが、精錬方法が未熟であったため短命に終わってしまう。
大正末期や、昭和26年にも新しい精錬法を導入し好成績を挙げたが、いずれも短命に終わってしまった。

現在の校舎は昭和11年頃に建設された。これは「様似小学校統合20周年 開校100周年」という本(様似町立図書館蔵)の中の「新富小の歩み」という項目に出てくる。
「頃」と書いたのは、はっきりと明記されていなかった。ただ、「昭和11年 小学校ができた」と記されているそうである。
また、「新様似」から「新富」の名前の変更時期もはっきりしない。町史には「昭和16年 新富国民学校」と書かれているだけで、いつから「新富」という名前に変更されたか触れられていなかった。
新富国民学校は戦後、昭和22年に新富小学校と改称された。
戦後、新富集落にも数名の入植者が現れた。しかし、急傾斜面であることや作物が不作で終わったことから、昭和30年代初めに離農してしまった。
新富集落もこの頃より離農者が出始め、昭和44年、新富小学校は閉校となった。
しかし、新富小学校は閉校後「青年研修所」宿泊施設として転用された。その他の学校(岡田小学校・西様似小学校・冬島小学校)は閉校後、校舎は解体された。
青年研修所は平成16年頃まで活用されていたが、現在は閉鎖されている。
そして、新富集落も現在は1世帯のみとなっている。


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探訪時は激しい雨に見舞われた。

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玄関も封鎖されている。

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入れそうなところがあったので、内部へ入ってみた。
入った瞬間、かび臭い匂いでむせそうになった。

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「宿泊研修施設」というのは「アポイ自然の村」という名称だった。

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「第一教室」
町史から推定すると、恐らく小学校教室部分と思われる。

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便所
この辺りは、床が腐っていた。
危険なので遠目で確認した程度である。

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名称不明の部屋。
町史には「7坪」としか記載されていない。宿直室か?

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体育館。

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最近まで活用されていたみたいである。

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折角なので、管理人が生まれた年のも紹介。

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学校を出て、隣接する教員住宅と思われる廃屋。

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学校周辺の風景。
校庭だったところに道路が走っていた。

校門も現存しているが探訪時、大雨に見舞われてしまい、校門の撮影は諦めた。

滝上町奥札久留

滝上町奥札久留(オクサックル)(平成23年8月13日探訪)

奥札久留はサクルー原野の最奥に位置し、道路が開通した後でさえも札久留小学校への通学は困難であったことから、住民の寄付と高橋清左衛門の所有地を校舎敷地とし、大正8年7月15日札久留尋常小学校所属奥札久留特別教授場として開校した。
昭和9年3月22日 奥札久留尋常小学校に昇格し、昭和16年4月1日 奥札久留国民学校、昭和22年4月1日 奥札久留小学校と改称になった。
翌 昭和23年4月1日 札久留中学校奥札久留分校が設置され、中学校は昭和26年に独立した。
校舎は昭和27年12月2日に建設されたが、昭和31年4月18日に突風が発生し体育館が倒壊。昭和32年7月31日に新 体育館が建設された。

ここの学校は特に、児童の優良こども銀行が評価され、昭和36年に大蔵大臣賞・日銀総裁賞を受賞。昭和38年 優勢局長賞を受賞した。
昭和40年代に入ると、過疎化に伴い児童数も減少して昭和46年度には児童1名 生徒4名の見通しとなったため昭和46年3月31日 奥札久留小・中学校が閉校した。
卒業生 小学生275名。中学生109名であった。

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学校周辺の風景。
酪農家が点在している。奥札久留の戸数は平成18年現在で2戸。

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校舎。
校舎は閉校後、養豚施設に転用されたようだが、それも廃業して久しい。
校舎も倒壊しており、体育館だけが原形をとどめている。

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表札は残されていた。

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ヤブを掻き分けて進む。
倒壊した屋根が恐らく、校舎と思われる。

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体育館へ行ってみる。

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体育館 外観。

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体育館内部。外観のみ、辛うじて面影を保っているようなものであった。

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崩れたトタンや、木材を踏みしめながらさらに進む。

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体育館の反対側。
倒壊寸前である。あと何年、この状態を維持できるものか。

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体育館の奥にあったブロック造りの建物。
サイロのような印象を受けたが、この時は分からなかった。

紋別市鴻輝

紋別市鴻輝(コウキ)(平成23年8月13日探訪)

鴻輝の開拓は明治39年頃に富永熊太郎、豊村品蔵、前田栄太郎らが共同で牧場経営を始めたのが切っ掛けであった。
大正に入ってから開拓者が入地し、大正末期に鴻之舞に通じる自動車道路が開通したところからこの名前がつけられるようになる。
この頃、児童たちは8キロ以上も離れた上渚滑小学校へ通学していた。
戦後、隣の上東(ジョウトウ)に戦後開拓の入地が増え、鴻輝も入地者が増えた。
独立校設置運動や部落民 千葉繁、本間英雄からの校地寄付により昭和30年12月14日 新築校舎で開校した。
当時、戸数24戸 児童数26名であった。

昭和33年に風力発電を設置したが、昭和35年の30人を境に減少、昭和45年度に在校生が皆無となり廃校となった。

卒業生総数49名。
「部落民は多大の労力奉仕と経済的負担に耐えて努力した」学舎は15年という短い歴史だった。

現在、鴻輝という地名は無くなり「上東」地域となっている。
夏季間のみ牧場が1軒やっているだけである。

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学校跡。
マル印をつけたところに閉校記念碑がある。
本当の跡地はここより中に入ったところのようだ。

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記念碑の表面と裏面。
急な斜面を登ってみる。
探訪当時「こんなところに学校があったのだろうか?」と首をかしげた。

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記念碑裏手の風景。
この裏手に学校があったと思われる。

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斜面を降り、上東方面を眺める。

大体の位置は分かったが、再訪する必要がある。
神社も、この近くにあったが探訪当時は気づかず、未訪問となった。
プロフィール

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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