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新十津川町留久

新十津川町留久(平成24年4月30日・平成27年9月10日探訪)

新十津川町留久は明治37年、奈良県吉野郡の団体移住者のうち46戸が入植し、翌38年には30戸ほどの入植者を迎えて開拓された。アイヌ語の「ルークシュベツ」(道が通っている川、の意)に因み留久(ルーク)と呼ばれるようになった。

明治39年 吉野簡易教育所(後の吉野小学校)が設置されるも通学距離が長く、児童の就学は困難であるとして学校設置を村会に要望したが、この時は認めてもらえなかった。
但し、北幌加に特別教授場(後の北幌加小学校・明治41年2月1日開校、昭和47年3月31日閉校)が設置されたので吉野・北幌加両方の学校から通学上便宜な方へ就学していた。

明治45年 側見鶴太郎・栃谷宗治ら有志60名が連署して村会に要望し、ようやく学校設置が決まり、大正2年3月28日 校舎が落成し4月2日に吉野尋常小学校留久特別教授場となった。
開所当時は単級で28名の児童が在籍していたが、大正9年1月12日 留久尋常小学校に昇格した。

昭和10年8月3日 留久青年学校を付設、昭和16年4月1日 留久国民学校と改称、昭和22年4月1日からは留久小学校と改称した。

昭和25年5月1日 吉野中学校留久分校を併置したが、昭和28年4月1日に留久中学校となった。

昭和43年4月1日 それまでの留久小中学校が校名変更となり、上吉野小中学校と改称した。

昭和45年8月28日 小学校を吉野小学校に移設し、同校へ児童を委託する。

昭和46年3月31日 吉野小学校と統合のため、廃校となった。

留久集落は集落再編事業として、日本で初めて「集落再編モデル事業」の対象となった集落であった。

昭和35年 留久ダムが完成し、集落の一部が湖底に沈むと残る集落はダム奥に孤立する留久小学校周辺のみとなり、ダム沿いは4キロも無人地帯ができてしまった。その後も過疎化が著しく進行した。

昭和42年10月 町村北海道知事に当時の町長 渋川勝石氏が「村落移動」について要請、その後経済企画庁において「集落再編モデル事業」の指定を受け、道も地域振興対策室を設けて援助する「夢の事業」は昭和44~45年に渡り6628万円の事業費をかけて実現した。

吉野市街地の近くに土地を取得し住宅をはじめ集会所、児童遊園、道路、飲料水、焼却炉の完備した団地を造成し、同時に水田の区画整理や暗渠排水を行い、農機具格納庫や共同畜舎を建設した。

昭和45年11月15日 全戸が留久から移転し、集落が再編された。所謂「夏山冬里方式」である。

書籍「廃村をゆく」で井手口征哉氏(北海道旅情報 管理人)はこう記している。

「北海道は30年後には人口が100万人減少すると予測されています。札幌一極集中の流れの下、農山村の集落はかなりの割合で消えていくことになるでしょう。実のところ、そんな地域にはコンパクトシティの概念による新たなる集落形成が必要かもしれません。しかしながら農家が点在し、その中心には学校と神社があり、まわりに郵便局と数軒の商店がある今の風景も大切なものではないかと思うのです…(以下略)」

全国で初めて導入したコンパクトシティ。

「夢の事業」と言われ、再編された吉野地区。

その吉野地区中心部にある吉野小学校も平成21年3月末で廃校となり、地域住民の高齢化も少しずつではあるが進んでいる。

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留久貯水池(留久ダム)を眺める。
この湖底にも、人々の営みがあった。

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傍にある石碑。平成24年の雪により石碑部分が落ちてしまっている。

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今年の雪害は記念碑にまでダメージを与えてしまっている。

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この奥に留久小学校跡地がある。

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途中にある廃屋。
人々の営みは瓦礫と化し、雪に飲み込まれる寸前である。

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人々の営みがあったことを探すのも難しくなってきた。

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途中にある廃屋を後にして、留久小学校跡へと行く。
学校跡は、これよりまだ奥にある。

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学校跡地が見えてきた。
正面の大きな木々がそれである。

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残雪を登る。
カメラを構えているこの場所に、校舎があった。

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学校の奥には崩れかけた家屋がある。
旧版地形図を見ると、崩れかけた家屋の付近に神社があった。
家屋は、神社が建立されていた頃からあるのかは分らなかった。

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学校跡地より周辺の風景。
学び舎の灯も消えて久しく、大きな木々がここに、学校があったことを物語っているように思えた。

平成27年9月10日 集落移転の調査として再訪した。

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留久は今も通い作でソバが栽培されている。
収穫していた方に伺うと、離農した方の土地を買い取ってソバを栽培しているとのことである。

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学校跡地の入口。
夏の廃校調査は、笹薮との戦いでもある。

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笹薮を歩くこと数十分。
学校の基礎を見つけた。

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校舎跡地より学校前を望むも、雑草や笹が生い茂り見渡すことができなかった。

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学校前より奥を望む。
学校より奥にも、ソバ畑が広がっている。

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学校より手前の風景。
畑はあるが、家屋は見られない。

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留久を後にして、集団移転先の上吉野団地を訪れた。
上吉野団地は、吉野地区にある。

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案内板は色褪せているものの、しっかりと判読できる。

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上吉野団地の風景。
山間部の団地も、完成して45年の歳月が流れている。
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当別町四番川

当別町四番川(平成24年4月30日探訪)

四番川は明治39(1906)年に開拓が始まった。当初は7戸しかいなかったが、翌年には15戸にまで増加した。さらに青山奥より浜益へ通じる道路工事が始まり、22戸に増加した。
部落の有志、小倉兵次郎、斉藤才太郎、松本亘らは部落民と協議し、同年6月に校舎を建設し、松本亘を教員として任命した。この時の児童数は19名であった。

明治42(1909)年1月まで松本が教鞭を執っていたが、都合により辞任したため山本辰次郎を委嘱して授業を継続した。
同年10月15日付で当別第三尋常小学校(後の青山中央小学校)四番川特別教授場として発足した。当時の児童は男子9名 女子9名の計18名であった。
大正8(1919)年4月1日 四番川尋常小学校と改称、昭和16(1941)年 四番川国民学校と改称、昭和22(1947)年 四番川小学校と改称する。

四番川小学校は2回、火災に見舞われた。
1回目は明治42年10月28日 校舎増築の際、人夫の焚き火不始末が原因で全焼した。この時は小倉兵次郎所有の倉庫を借りて30日より授業を再開し、明治43年5月に再建された。
2回目は昭和22(1947)年2月13日失火、校舎を含め付属する建物が全焼した。同年12月15日に新校舎が再建された。

昭和24年6月20日 NHK坂本アナウンサー他4名が取材に来る。同年7月3日に全国放送された後、道内外よりたくさんの反響が寄せられた。特に「波多野文庫」はその一つであった。
昭和26(1951)年12月、三番川地区より通学児童のために季節分室を設けた。これは12月より3月までの出張授業で林中孫十郎宅がつかわれた。
また、同年11月には弁華別中学校四番川分校を併置した。昭和33(1958)年4月に四番川中学校となる。
昭和37(1962)年9月に電気がついた。また10月には給食調理室も完成し、給食も始まった。
昭和42(1967)年4月 四番川中学校が廃校になった。

そして小学校も過疎化の波に逆らえず、昭和48(1973)年3月31日に閉校となった。

四番川小学校校歌 昭和44年4月28日制定
一 流れは清し 四番川 阿蘇山並の ふところに
   ここに開きて 幾世霜 祖先の労苦 胸にしめ
   明日は希望の 夢がわく

二 我が学舎は 四番川 桜も匂う 丘の上
   視界開けし 平和鏡 肩よせあって 語ろうよ
   明日は希望の 夢がわく

三 青山奥の 四番川 小さな胸に 火をともし
   スクラム組んで 進もうよ 明日は希望の 夢がわく

四 光かかげよ 四番川 心明るく 胸はって
   大きな瞳 輝やかし 互にきずく 児童会
   明日は希望の 夢がわく

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四番川小学校前の風景。
ここが四番川の市街地であった。
四番川小学校があり、神社もあり、そして商店や家屋もあった。
現在は農家の家屋が2戸と、季節営業の店があるのみである。

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学校前より国道451号線 新十津川方面を眺める。
往時を偲ぶものは見受けられなかった。

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学校跡手前にある建物。
教員住宅だろうか?内部を見ると瓦礫が散乱していた。

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すぐ近くには、屋根の一部が残されていた。

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学校跡地。
この雪の下に瓦礫になってしまった校舎がある。
探訪当時(平成24年4月30日)ですら、1メートル以上の残雪であった。

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校舎跡地より国道451号線 新十津川方面。
へき地等級 4級の山間部の学校も過疎の波により過疎集落となってしまった。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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