比布町十号沢
比布町十号沢(平成24年8月5日探訪)
比布町十号沢は戦前より農家や澱粉工場が点在していた。戦時中は、十号沢の奥のほうにも国民学校があったようであるが、詳しい場所は不明である。
十号沢は、戦後開拓によって本格的に開けた集落であった。
但し、土地は石礫が多く養豚や牧畜が盛んであった。開拓や土壌改良が進むにつれ畑作も行われるようになった。
開拓に伴い、子供も増えてきたことから昭和31年4月1日 比布小学校西分校が開校した。小学1年生から4年生までが通学し、開校当初は村井吉松教員が担当した。また、十号沢(当時は『開拓区』と呼称されていた)の地区集会所としての一面も持っていた。
しかし相次ぐ離農による過疎化が進み、分校は昭和42年3月21日を以って廃校となった。
十号沢に暮らす椛本氏はこう話す。
「私の生まれは樺太であったが、終戦で引き上げてきて親父がこの地に開拓に入った。当時は、20戸ほどが暮らし、麓のほう(JR北比布駅周辺)から分校に通ってきている子供もいた。しかし、離農者が相次ぎ昔から住んでいるのは私のところだけになってしまった…」
校舎は廃校後に解体され、それまで『開拓区』と呼称されていたのを『第二六区』に変更し、解体された校舎の木材を利用して『第二六区部落会館』を建設した。
その部落会館も、分校時代の材料を使っていたため老朽化が著しく立て替えられたそうであるが、現在は何も無い。
十号沢地区は現在、数世帯が暮らす過疎地である。

十号沢への入口。
このすぐ後ろに、道央自動車道が聳え立っている。

比布小学校西分校は十号沢の麓に位置していた。
ここがその場所である。

記念碑が建立されていた。
記念碑のある位置がグラウンドで、校舎は隣接する、一段高くなった場所にあった。

永らく場所が分らなかった学校だけに、記念碑を見つけたときは驚いた。

学校跡地より奥に進むと、ブロック造りの廃屋が見えた。

ここに開拓で入植した方の家だろう。
家を去って、どれくらいの月日が流れたのだろうか。

これから先は、十号沢集落を歩いてみる。
ここは学校跡近辺のわき道。1989年のゼンリンでは、数軒の空き家(倉庫か?)が記されている。
現在は勿論、何も無い。

このような道を進む。

右手をふと見ると、薮の中に石垣らしきものが目に飛び込んできた。
薮を掻き分けると、石垣がそのまま残っていた。

石垣の先には、古い家屋が残されていた。
ここは1989年当時、Yさんが暮らしていた家屋である。

さらに進み、振り返った風景。

部落会館近くまで来たとき、見つけたサイロ。

そのサイロの傍に、椛本氏の父親が暮らしていた家があった。
父親は既に逝去され、家は空き家状態であるがきれいに管理されている。

椛本氏の斜め向かいに「第二六区部落会館」があった。
その会館も既に無く、立木と空間だけが残されていた。

「立木」と「会館」から考えた当初、ここが分校跡だと思った。
椛本氏に声をかけなければ、誤った情報を流すところだった。

会館跡地より椛本氏のサイロを望む。
人々の暮らしの痕跡を見つけ出すのも、難しくなってきた。
比布町十号沢は戦前より農家や澱粉工場が点在していた。戦時中は、十号沢の奥のほうにも国民学校があったようであるが、詳しい場所は不明である。
十号沢は、戦後開拓によって本格的に開けた集落であった。
但し、土地は石礫が多く養豚や牧畜が盛んであった。開拓や土壌改良が進むにつれ畑作も行われるようになった。
開拓に伴い、子供も増えてきたことから昭和31年4月1日 比布小学校西分校が開校した。小学1年生から4年生までが通学し、開校当初は村井吉松教員が担当した。また、十号沢(当時は『開拓区』と呼称されていた)の地区集会所としての一面も持っていた。
しかし相次ぐ離農による過疎化が進み、分校は昭和42年3月21日を以って廃校となった。
十号沢に暮らす椛本氏はこう話す。
「私の生まれは樺太であったが、終戦で引き上げてきて親父がこの地に開拓に入った。当時は、20戸ほどが暮らし、麓のほう(JR北比布駅周辺)から分校に通ってきている子供もいた。しかし、離農者が相次ぎ昔から住んでいるのは私のところだけになってしまった…」
校舎は廃校後に解体され、それまで『開拓区』と呼称されていたのを『第二六区』に変更し、解体された校舎の木材を利用して『第二六区部落会館』を建設した。
その部落会館も、分校時代の材料を使っていたため老朽化が著しく立て替えられたそうであるが、現在は何も無い。
十号沢地区は現在、数世帯が暮らす過疎地である。

十号沢への入口。
このすぐ後ろに、道央自動車道が聳え立っている。

比布小学校西分校は十号沢の麓に位置していた。
ここがその場所である。

記念碑が建立されていた。
記念碑のある位置がグラウンドで、校舎は隣接する、一段高くなった場所にあった。

永らく場所が分らなかった学校だけに、記念碑を見つけたときは驚いた。

学校跡地より奥に進むと、ブロック造りの廃屋が見えた。

ここに開拓で入植した方の家だろう。
家を去って、どれくらいの月日が流れたのだろうか。

これから先は、十号沢集落を歩いてみる。
ここは学校跡近辺のわき道。1989年のゼンリンでは、数軒の空き家(倉庫か?)が記されている。
現在は勿論、何も無い。

このような道を進む。

右手をふと見ると、薮の中に石垣らしきものが目に飛び込んできた。
薮を掻き分けると、石垣がそのまま残っていた。

石垣の先には、古い家屋が残されていた。
ここは1989年当時、Yさんが暮らしていた家屋である。

さらに進み、振り返った風景。

部落会館近くまで来たとき、見つけたサイロ。

そのサイロの傍に、椛本氏の父親が暮らしていた家があった。
父親は既に逝去され、家は空き家状態であるがきれいに管理されている。

椛本氏の斜め向かいに「第二六区部落会館」があった。
その会館も既に無く、立木と空間だけが残されていた。

「立木」と「会館」から考えた当初、ここが分校跡だと思った。
椛本氏に声をかけなければ、誤った情報を流すところだった。

会館跡地より椛本氏のサイロを望む。
人々の暮らしの痕跡を見つけ出すのも、難しくなってきた。
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