積丹町浜婦美

積丹町浜婦美(平成23年5月5日探訪)

積丹町浜婦美は海岸沿いの、漁村の集落であった。

廃村探訪の第一人者であるHEYANEKO氏によれば、漁村の廃村は日本国内で4箇所しかなく、そのうちの一つが積丹町浜婦美である。

浜婦美は江戸時代末期の安政年間(1854年から1859年)に漁場として開発された。

浜婦美は明治29年7月 美国尋常高等小学校浜婦美分教場として誕生した。

明治35年 婦美尋常小学校として独立した。

ニシン漁最盛期の大正時代には、浜婦美集落に60戸の民家があった。
この頃の児童数は約50名を数えていた。

昭和2年に再度、統合されて美国尋常高等小学校婦美分教場となった。

一方、浜婦美に対し「山婦美」と呼ばれている地域がある。字の如く、山側に位地している。
山婦美にある婦美小学校は昭和12年 美国尋常小学校婦美特別教授場として創立し、昭和16年 中の里国民学校として独立、昭和23年に婦美小学校となった。

元々「婦美小学校」と最初に名乗ったのは浜婦美であったがニシン漁の衰退、農地開発の進行と共に山婦美の学校が本校となった。
尚、婦美小学校の閉校は昭和52年である。

一方、浜婦美は昭和22年に美国小学校婦美分校と変更になり、昭和26年に浜婦美分校と改称された。

昭和30年代に入ると過疎化が進行した。

昭和37年3月の浜婦美分校卒業式では、卒業生1名 在校生8名が参加した。この当時、浜婦美には10戸の家があり、集落総出で卒業式が行なわれた。(昭和37年3月 北海タイムスの記事より)

昭和40年3月 閉校。閉校時の児童数は5名。総卒業整数は125名であった。

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探訪当日「北海道旅情報」管理人 井手口征哉氏、N氏、私の合同探索であった。
GPSを頼りに進んでいく。

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海が見えてきた。
積丹ブルーで、これには思わず感嘆の声を上げた。

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唯一残る番屋が見えた。

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斜面を下り、海岸に降り立った。
屋根に穴が開き使われていないのかと思ったが、後で聞くと「今も使っている。」とのことである。

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綺麗な積丹ブルーの海。
浜婦美はスキューバダイビングやカヌー愛好家の間で知られている場所だが、ここに学校があったことを知っているのはどれくらいいるのだろうか。

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番屋の後ろ側。
この辺りに神社があったみたいだが、既に無くなっていた。

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大きな鍋の中には浮き球が入っていた。

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石垣が残されている。
人々が暮らしていた痕跡の一つである。

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学校跡地は、集落の中腹にあった。
道(沢)沿いに歩いてみる。

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夏場は草木が生い茂り容易に進めないが、この時期は歩きやすい。

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途中、埋もれかかっていた瓶ビールを見つける。
「Sapporo」とあるので今のサッポロビールではないかと思うが…。

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配水管が繋がっていた。
配水管の先を行ってみる。

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朽ち果てた建物が姿を現した。
これが美国小学校 浜婦美分校の建物である。

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瓦礫にまみれながらも下駄箱が残っていた。

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学校は閉校後、集会所として活用されていたがいつまで活用されていたかは分らなかった。

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夏になれば薮で生い茂り、全容は掴めない。
この時期しか行くことができない。

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町内会館として使われていた頃のものだろうか。
ジュース瓶が転がっていた。

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校舎の背後には教員住宅があった。
瓶を埋めてかたどった花壇が残されていた。

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花壇の背後に、教員住宅の基礎が僅かに残されていた。

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校舎の背後に海が見える。
江戸時代よりニシン漁で開発された漁場も、ニシン漁の衰退や過疎化により廃村となってしまった。
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赤平市大谷沢

赤平市大谷沢(平成24年10月28日探訪)

赤平市大谷沢は炭鉱と、戦後開拓で賑わった集落であった。

大谷沢は明治29年頃に石炭が掘られていった。

大谷沢に住んでいた子供たちは当時、百戸簡易教育所(後の赤平市立百戸小学校)に通っていた。

大正12年 大谷炭鉱 昭和8年 宮尾空知、昭和9年 空知鉱業所恵須取炭鉱 昭和10年 再び大谷炭鉱 昭和14年大谷沢炭鉱と名称は変わっているが従業員数は昭和8年で21名だったのが、昭和12年には134名にまで増加していた。

赤平村は昭和13年3月20日の村会において、百戸小学校大谷分教場を設置することを決議、昭和13年7月30日 百戸尋常小学校大谷分教場が開校した。この頃、大谷沢は炭鉱を中心にした集落として発展していった。

昭和14年 石鳳炭礦(株)が大谷炭鉱を買収し、大谷澤炭鉱と改称して事業が拡大すると児童数も併せて増加していった。

昭和14年度46名(1~3年) 15年度98名(1~4年) 16年度77名(1~4年) 17年度117名(1~6年) そして18年度は125名(1~6年)にもなった。

しかし、昭和18年4月 中小炭鉱を対象にした「炭鉱整理実施要綱」が発表された。

これは炭鉱の資材や労力を優良炭鉱に集中することにより、石炭増産を企図するものであった。

対象の炭鉱は年産5万トン以下の炭鉱であり、炭鉱統合の目安は年産10万トン以上の炭鉱にすることであった。
大谷澤炭鉱も炭鉱整理実施要綱に基づき、昭和18年6月6日 閉山式が行われた。
また百戸尋常小学校大谷分教場も昭和18年9月28日 閉校した。

終戦を迎え戦後復員者や引揚者、戦災者等が赤平に入植した。

大谷沢も例外なく、戦後開拓により再び活気を取り戻すようになった。

大谷沢には昭和21年9戸 22年10戸 24年11戸 26年3戸 27年1戸 計39戸が入植した。「入植者家族台帳」によると昭和26年までの入植者数は38戸を数え、家族を含め人口181名であった。

ただし、開拓者が入植した土地は傾斜地が多く、山林を皆伐しなければ開拓できない地域であったので苦難を極めた。住まいも「名ばかりの拝小屋」であった。

子供たちは百戸小学校に通学していたが、片道8キロ歩かないといけなかった。

このような状況であったことから大山美代司・簔口勇・京野網雄の3氏が発起人となり当時、芦別林務所の造材小屋を買い受けて当局に陳情。

昭和25年1月1日 赤平町立百戸小学校大谷沢分校として開校した。

この年、開拓部落が「開拓団旭丘」として百戸より分離独立した年でもあった。

昭和26年に大谷沢炭鉱が開坑した。この炭鉱は昭和28年に閉山になったが、炭鉱で働く人たちも大谷沢に定住するようになり、独立校を創立する声が高まってきた。昭和29年から30年にかけ、議会や赤平市に対し強力な運動を展開して行った。

市も独立校を認可する方針を決め、昭和30年8月1日 赤平市立旭丘小学校が開校した。分校はこの日で以て廃止された。

昭和30年代に入ると旭丘炭鉱、北振大谷沢炭鉱、新大谷沢炭鉱、平岸栄炭鉱、平岸大谷沢炭鉱の開鉱や閉鉱が繰り返された。

昭和31年8月26日 旭丘小学校に電気が導入され電灯が灯される。

昭和32年10月31日 屋内体育館を兼ね備えた辺地集会室が完成。

昭和33年9月30日 校舎増改築完成。着工は同年5月であった。

昭和33年度から35年度にかけて児童数が60名を越えていた。ピークは35年度の64名であった。

しかし昭和30年代後半になると、炭鉱の閉山や戦後開拓の離農者が相次いでいった。

昭和40年度の在籍児童数は16名。
昭和43年度で6名となっていた。

ところで、この旭丘小学校の閉校年月日は興味深いことに「3つ」存在する。

「北海道炭鉱資料総覧」(平成21年3月 内田大和編著・空知地方史研究協議会発行)「平岸栄炭鉱」の項目には次のように記されている。

「平岸栄炭鉱の閉山により、大谷沢部落から炭鉱が消えることになり、地域に大きな打撃を与えることになった。(中略)炭礦閉山により、炭鉱バスに便乗していた中高生11名の足の確保と、旭丘小学校の在校生6名中炭鉱従業員の子供が四名のため、同校の閉校問題も浮上し、翌昭和44年6月30日をもって閉校となった。(後略)」

一方「赤平市史(下巻)」(平成13年1月1日刊)には「(昭和)44年7月28日に廃校となった」と記されている。

どちらが正しいか赤平市教育委員会に伺うと、「子供たちの通学を考えて7月末の廃校の可能性があり、道教委の官報で昭和44年度末の廃校になったのではないか…」とのことであった。

HEYANEKO氏の見解によれば「児童がいなくなっても、事務仕事は残るので、 6月末に児童がいなくなって、7月28日に事務仕事が終わって、 年度末に正式な手続きというように想像できる」とのことであった。

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学校途中に残る炭鉱施設の一部。
笹藪に埋もれるようにして佇んでいた。

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近くで一服休憩していたおじさんに伺うと「坑道に空気を送り込む扇風施設」とのことであった。

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扇風施設より奥の風景。
この奥に旭丘小学校があった。

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扇風施設より手前の風景。
手前にも人家マークがあったが、すべて自然に帰ってしまっている。
尚、一服休憩していたおじさんは自転車でここに来ていた。

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やがて、学校跡地が見えてきた。
旧版地形図によれば、手前の柵で囲まれたところに「文」マークが記されている。
しかし、実際はこの先に記念碑がある。

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学校跡地を示す記念碑があった。

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廃校は昭和44年7月28日付となっている。

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学校の防風林だったのか?
周囲の木々と比べ、明らかに大きい。

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周辺に住宅があったとは思えない。

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学校跡地より周辺の風景。
炭鉱と戦後開拓で賑わいを見せた集落も、すっかり自然に帰ってしまっていた。

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尚、学校跡地は発破警戒区域であるので、あまり長居は出来ないようである。

平取町仁世宇

平取町仁世宇(平成23年10月22日探訪)

平取町仁世宇は鉱山で栄えた集落であった。

大正初期 後藤彦三郎の手によって日本製錬株式会社 日東鉱山(クロームの採掘)が開坑した。

大正6年に試掘が始まり、大正8年に大鉱脈が発見され飛躍的に事業が拡大していった。

学校はその前年度である大正5年5月18日 池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開校した。「池売尋常小学校」は元々「振内小学校」の前身であった。

昭和4年8月12日 池売尋常小学校の付属から、岩知志尋常小学校付属に変更になる。
大東亜戦争開戦前後(昭和16年)になると、軍需品として脚光を浴びてきたことから仁世宇地区もたくさんの人が暮らしていた。

「語りつぐ平取」(2002年3月31日刊)によると1棟4戸の長屋が120戸くらいあり、鉱山関係の建物のほかに木工場や映画館も建てられ、電灯がいち早く普及していた。
当時、平取村はまだ3分の1くらいしか電灯が普及していなかった頃であるので、それだけの人びとが暮らしていたことが伺える。

昭和18年 岩知志国民学校の付属から独立し、昭和22年 仁世鵜小学校になった。

クローム鉱石生産量のピークは昭和26年度の3,464トンであった。この年以降、朝鮮戦争の終結や輸入鉱石の増加もあって生産量は半減していった。

昭和30年代に入ると鉱床が貧床のため、一層生産量は減少し昭和34年2月14日 鉱員53名の人員整理を行なったが経営状態は芳しくなく、昭和35年に閉山した。

学校も例外なく、生徒数の減少により鉱山の閉山前年度(昭和34年)時点で小学校2学級23名 中学校1学級8名となり、町内で一番小さい小中併置校であった。

鉱山が閉山になると既存の農家しかなく、農家の離農による過疎化により昭和47年3月 振内小学校に統合され廃校になった。

仁世宇は現在、数世帯が暮らす過疎集落地域である。

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仁世宇地区に今も残る建物。右側は集会所であるが、左の建物は個人商店と思われる。

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仁世宇川を渡り、いよいよ学校跡地へ行く。

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仁世宇林道。
この林道を約8キロ進むと、仁世鵜小中学校跡地がある。

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仁世宇林道起点の標識。

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仁世宇林道を進みはじめて6キロほど進むと、右手の小高いところに廃屋があった。
ここで暮らしていた人の家だろう。
旧版地形図を見ると川沿いに所々人家があったが、その痕跡も殆ど見受けられなかった。

ただ、この廃屋から手前2キロ地点には今も酪農家の家がある。ここに開拓に入った方の子孫が暮らしているだろうと推察される。

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廃屋より奥の風景。

探訪当時「学舎の風景」 piro氏と訪れたが残り1キロ地点で、ある出来事があった。

piro氏「あと1キロ進むと、学校跡地です」
ナルセ「もうすぐですね。楽しみですね」

こんな話しを交わし、右カーブを曲がった瞬間…。

piro氏「ナルセさん、道路に黒い物体が…」
ナルセ「あれ、子グマではないですか?」

すると林の中から親グマがのそのそっと現れた。

咄嗟にバックでターンし、その場は離れた。

この探訪直前、道内ではクマによる被害報道が相次ぎ、なかにはクルマにも襲い掛かったクマもいたくらいである。

一気に戻り、比較的大きな振内集落に出たときは安堵した。
探索をはじめて10年、自衛隊での演習を何度も経験しているとはいえ、クマとの遭遇は今回が初めてであった。

仁世鵜小中学校跡地、リベンジはいつになるだろうか。
尚、行ってきた方の話しによると、コンクリートの外壁が残されているとのことである。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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