美瑛町上俵真布
美瑛町上俵真布(平成25年5月3日探訪未遂・同年5月19日探訪)
美瑛町上俵真布は戦後開拓の集落であった。
上俵真布を含め、俵真布(タワラマップ)は元々「パンケシウムケタロマップ」(霧深き沢の奥、という意)と呼ばれていた。
草分け入地者である斎藤五郎治、三浦勇七、榊原嘉兵衛が長い呼称を嫌い、末尾の「マップ」は「真布」の仮借字をあて、さらに俵物がさかんに収穫できるように、と言う願いを込め「俵」の一字を上に当てたものである。
朗根内川の水源に近いため、アイヌ語の意の通り沢の奥であったので他の集落開拓よりも遅い大正2年 徳島、仙台の団体が入地した。
この時斎藤五郎治をはじめ田野島安太郎、北原常八等であった。
次いで三浦勇七、榊原嘉兵衛、間伊之吉、松本栄吉、富永芳太郎、大森善三郎、友成民平、小柏友蔵が入地して開墾に努めた。
入植当時、俵真布は8線から28線まで広大な御料地の土地であった。当然、上・下俵真布といった区分けはされていなかった。
学校設立は大正3年1月17日 影平安平の小屋(俵真布20線)を借り受けて明徳尋常小学校所属俵真布特別教授場 として開設した。
これが俵真布小学校の前身である。
一方、俵真布24線に明徳尋常小学校所属俵真布第二教授所が大正3年12月7日、開設した。これが上俵真布小学校の前身である。
だが、入学児童は年々減少し昭和19年3月 廃校となった。
戦後、樺太からの引揚者が入植し、戦後開拓集落として再出発した。
昭和23年11月 俵真布駅逓所(昭和19年廃止)の建物を改造し、俵真布小学校上俵真布分教場として開校した。
昭和27年4月1日 上俵真布小学校として独立した。
入植者が多かった頃は20人以上の子供たちが通学していた。
しかし、美瑛町の市街地から20キロ以上も離れ、尚且つ土地も気候も悪かったため離農していく開拓者が後を絶たなかった。
そして、昭和37年11月に8戸が集団離農し、在校生は3名に激減してしまった。
北海道新聞 上川中部版 昭和39年3月24日に「たった一人、最後の卒業式/集団離農で廃校」と掲載されている。
最後の卒業式は教室で行なわれ、日の丸とシャクナゲやネコヤナギを活けた花瓶があるだけであった。卒業生は新聞の見出しにもあるように、たった一人であった。

平成25年5月4日 「学舎の風景」piro氏、A.D.1600氏と現地調査に繰り出す。
しかし、今年の雪解けが遅かったこともあり、俵真布にはまだたくさんの雪が残っていた。

俵真布小学校の校舎は、まるでペンションのような佇まいである。

この先に上俵真布があった。
しかし、探訪当時はブラックアイスバーン状態であったので断念した。

それから間もなく5月19日、相互リンクさせていただいている「道北の釣りと旅」管理人 HIROAKI氏と一緒に探訪した。
この橋の右手に上俵真布小学校の校舎があった。

脇道があったので行ってみる。

校舎があったと思われる位置より。
HIROAKI氏はこう言った。
「駅逓は馬も扱っていたので、厩もあった。これだけ平地が広がっているから間違いない」とのことである。
確かに、そこだけ平地が広がっている。

その隣には、ニジマス養殖を営んでいた養魚池の跡が残る。

ニジマス養殖を営まれていた方の家だろうか。

煙突も倒壊して久しく、苔むしていた。

上俵真布集落手前にあった神社跡。
参道の跡がはっきりと判る。

神社前より上俵真布集落跡を望む。

上俵真布(旧版地形図では「上俵開拓」と表記)集落跡。
人びとの暮らした痕跡は、既に無い。

50年近く前に解散になった集落。
旧版地形図では人家マークが点在しているが、何処に建物があったのかすらも判らない。

不自然なマツの木。
ここで暮らしていた方が庭木として植えたものだろう。

上俵真布の最奥地。
この辺りまで来ると、流石に開拓した痕跡は無い。

しかし、手前にはシラカバの木が群生していた。
HIROAKI氏は「恐らく、ここも元々は畑であった可能性がある。」とのことであった。

集落跡の一部は大規模な畑と化していた。

上俵真布集落跡地より奥の風景。
上俵真布小学校卒業生総数 38名。
美瑛町内で最奥の小学校は、集団離農で廃校になってしまった。
美瑛町上俵真布は戦後開拓の集落であった。
上俵真布を含め、俵真布(タワラマップ)は元々「パンケシウムケタロマップ」(霧深き沢の奥、という意)と呼ばれていた。
草分け入地者である斎藤五郎治、三浦勇七、榊原嘉兵衛が長い呼称を嫌い、末尾の「マップ」は「真布」の仮借字をあて、さらに俵物がさかんに収穫できるように、と言う願いを込め「俵」の一字を上に当てたものである。
朗根内川の水源に近いため、アイヌ語の意の通り沢の奥であったので他の集落開拓よりも遅い大正2年 徳島、仙台の団体が入地した。
この時斎藤五郎治をはじめ田野島安太郎、北原常八等であった。
次いで三浦勇七、榊原嘉兵衛、間伊之吉、松本栄吉、富永芳太郎、大森善三郎、友成民平、小柏友蔵が入地して開墾に努めた。
入植当時、俵真布は8線から28線まで広大な御料地の土地であった。当然、上・下俵真布といった区分けはされていなかった。
学校設立は大正3年1月17日 影平安平の小屋(俵真布20線)を借り受けて明徳尋常小学校所属俵真布特別教授場 として開設した。
これが俵真布小学校の前身である。
一方、俵真布24線に明徳尋常小学校所属俵真布第二教授所が大正3年12月7日、開設した。これが上俵真布小学校の前身である。
だが、入学児童は年々減少し昭和19年3月 廃校となった。
戦後、樺太からの引揚者が入植し、戦後開拓集落として再出発した。
昭和23年11月 俵真布駅逓所(昭和19年廃止)の建物を改造し、俵真布小学校上俵真布分教場として開校した。
昭和27年4月1日 上俵真布小学校として独立した。
入植者が多かった頃は20人以上の子供たちが通学していた。
しかし、美瑛町の市街地から20キロ以上も離れ、尚且つ土地も気候も悪かったため離農していく開拓者が後を絶たなかった。
そして、昭和37年11月に8戸が集団離農し、在校生は3名に激減してしまった。
北海道新聞 上川中部版 昭和39年3月24日に「たった一人、最後の卒業式/集団離農で廃校」と掲載されている。
最後の卒業式は教室で行なわれ、日の丸とシャクナゲやネコヤナギを活けた花瓶があるだけであった。卒業生は新聞の見出しにもあるように、たった一人であった。

平成25年5月4日 「学舎の風景」piro氏、A.D.1600氏と現地調査に繰り出す。
しかし、今年の雪解けが遅かったこともあり、俵真布にはまだたくさんの雪が残っていた。

俵真布小学校の校舎は、まるでペンションのような佇まいである。

この先に上俵真布があった。
しかし、探訪当時はブラックアイスバーン状態であったので断念した。

それから間もなく5月19日、相互リンクさせていただいている「道北の釣りと旅」管理人 HIROAKI氏と一緒に探訪した。
この橋の右手に上俵真布小学校の校舎があった。

脇道があったので行ってみる。

校舎があったと思われる位置より。
HIROAKI氏はこう言った。
「駅逓は馬も扱っていたので、厩もあった。これだけ平地が広がっているから間違いない」とのことである。
確かに、そこだけ平地が広がっている。

その隣には、ニジマス養殖を営んでいた養魚池の跡が残る。

ニジマス養殖を営まれていた方の家だろうか。

煙突も倒壊して久しく、苔むしていた。

上俵真布集落手前にあった神社跡。
参道の跡がはっきりと判る。

神社前より上俵真布集落跡を望む。

上俵真布(旧版地形図では「上俵開拓」と表記)集落跡。
人びとの暮らした痕跡は、既に無い。

50年近く前に解散になった集落。
旧版地形図では人家マークが点在しているが、何処に建物があったのかすらも判らない。

不自然なマツの木。
ここで暮らしていた方が庭木として植えたものだろう。

上俵真布の最奥地。
この辺りまで来ると、流石に開拓した痕跡は無い。

しかし、手前にはシラカバの木が群生していた。
HIROAKI氏は「恐らく、ここも元々は畑であった可能性がある。」とのことであった。

集落跡の一部は大規模な畑と化していた。

上俵真布集落跡地より奥の風景。
上俵真布小学校卒業生総数 38名。
美瑛町内で最奥の小学校は、集団離農で廃校になってしまった。
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苫前町霧立
苫前町霧立(平成25年5月8日探訪)
苫前町霧立は、特に北海道の道路・峠情報で耳にする地名であるが、ここも「学校跡がある廃村」である。
霧立の由来は山(錐立山)が切り立っているのと、山間部で霧が立ち込めることから名づけられた。
元々は苫前御料地と呼ばれていたが、山間部のへき地で交通も不便なことから開拓は昭和8年であった。
この時28戸が入植したが、子弟教育にあたり15坪の仮校舎を建造し、昭和8年5月27日 上古丹別尋常小学校 として開校、同年10月25日 新校舎が落成した。
昭和16年4月1日 上古丹別国民学校と改称されるも同年5月19日「霧立国民学校」と改められた。
昭和22年4月1日 霧立小学校と改称した。
昭和36年4月1日 霧立中学校が併置され、翌昭和37年11月14日 開校30周年記念式を挙行した。
しかし、昭和30年代後半から急激に過疎化が進行していった。
過疎化の一面もあるが、米の生産調整による離農で住民は急激に減少した。
北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和50年3月28日付に「子ら壇上で絶句 苫前・霧立小中校の閉校式」という記事がある。
著作権の関係でアップできないが、校長や教員の励ましの言葉に対し、3名の生徒は記事の如く絶句し嗚咽し涙ながら閉校を惜しむ写真が掲載されていた。
霧立小中学校は昭和50年3月31日付で廃校となった。
また、霧立集落も昭和50年3月で11戸26名の人々が暮らしていたが、翌 昭和51年3月を以て解散となった。

霧立小中学校跡地の眼前に聳える錐立山。
こんな山間部に学校があったなんて、信じられなかった。

学校跡地は現在、霧立除雪ステーションとなっている。
学校の隣接地に、神社もあった。

除雪ステーションに掲げられているカントリーサイン。

目の前は国道239号線が走っている。
道路は立派である。

霧立除雪ステーションの裏側。
神社や学校跡地が判然としない。

奥も行ってみたが、傾斜地であるため学校を建てていたとは考えにくい。
何処にあったのだろうか?

霧立峠方面を望む。
このマツも、もしかしたらかつて住まわれていた方の庭に植えられていたものかもしれない。

橋を渡り、もう少し進んでみる。

橋を渡り、進むと廃屋が見えた。

これが霧立集落で現存する、唯一の家屋である。

傍には物置?らしき建物もあった。
住居としては狭いので、考えにくいと思うが…。

内部は瓦礫と化していたが、風呂場のタイルがきれいな状態で残っていた。

この廃屋は国道沿いにあるので発見しやすい。

廃屋の向かいの風景。
平地はかつての田畑や住まいの名残、これぐらいしか見出すことが出来ない。

学校跡地正面の木々の間に、大きな大木が聳えていた。

かつての営みは、もう忘却の彼方か。

旧版地形図を見ると、対岸にも人家がある。
この時期、旧道や人家の跡(庭に植えたマツ)がはっきりと判るがそこへ渡る術がない。
もはや探訪することは出来ないのだろうか。

木々の間から学校跡地を望む。
総卒業生数 小学校188名 中学校61名であった。
苫前町霧立は、特に北海道の道路・峠情報で耳にする地名であるが、ここも「学校跡がある廃村」である。
霧立の由来は山(錐立山)が切り立っているのと、山間部で霧が立ち込めることから名づけられた。
元々は苫前御料地と呼ばれていたが、山間部のへき地で交通も不便なことから開拓は昭和8年であった。
この時28戸が入植したが、子弟教育にあたり15坪の仮校舎を建造し、昭和8年5月27日 上古丹別尋常小学校 として開校、同年10月25日 新校舎が落成した。
昭和16年4月1日 上古丹別国民学校と改称されるも同年5月19日「霧立国民学校」と改められた。
昭和22年4月1日 霧立小学校と改称した。
昭和36年4月1日 霧立中学校が併置され、翌昭和37年11月14日 開校30周年記念式を挙行した。
しかし、昭和30年代後半から急激に過疎化が進行していった。
過疎化の一面もあるが、米の生産調整による離農で住民は急激に減少した。
北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和50年3月28日付に「子ら壇上で絶句 苫前・霧立小中校の閉校式」という記事がある。
著作権の関係でアップできないが、校長や教員の励ましの言葉に対し、3名の生徒は記事の如く絶句し嗚咽し涙ながら閉校を惜しむ写真が掲載されていた。
霧立小中学校は昭和50年3月31日付で廃校となった。
また、霧立集落も昭和50年3月で11戸26名の人々が暮らしていたが、翌 昭和51年3月を以て解散となった。

霧立小中学校跡地の眼前に聳える錐立山。
こんな山間部に学校があったなんて、信じられなかった。

学校跡地は現在、霧立除雪ステーションとなっている。
学校の隣接地に、神社もあった。

除雪ステーションに掲げられているカントリーサイン。

目の前は国道239号線が走っている。
道路は立派である。

霧立除雪ステーションの裏側。
神社や学校跡地が判然としない。

奥も行ってみたが、傾斜地であるため学校を建てていたとは考えにくい。
何処にあったのだろうか?

霧立峠方面を望む。
このマツも、もしかしたらかつて住まわれていた方の庭に植えられていたものかもしれない。

橋を渡り、もう少し進んでみる。

橋を渡り、進むと廃屋が見えた。

これが霧立集落で現存する、唯一の家屋である。

傍には物置?らしき建物もあった。
住居としては狭いので、考えにくいと思うが…。

内部は瓦礫と化していたが、風呂場のタイルがきれいな状態で残っていた。

この廃屋は国道沿いにあるので発見しやすい。

廃屋の向かいの風景。
平地はかつての田畑や住まいの名残、これぐらいしか見出すことが出来ない。

学校跡地正面の木々の間に、大きな大木が聳えていた。

かつての営みは、もう忘却の彼方か。

旧版地形図を見ると、対岸にも人家がある。
この時期、旧道や人家の跡(庭に植えたマツ)がはっきりと判るがそこへ渡る術がない。
もはや探訪することは出来ないのだろうか。

木々の間から学校跡地を望む。
総卒業生数 小学校188名 中学校61名であった。