遠別町金浦
遠別町金浦(平成25年5月8日及び6月9日探訪)
遠別町金浦は、トマタウシュナイと呼ばれていた。
アイヌ語で「トマ草ノ根ヲ掘ル沢」(トマは「エゾエンゴサク」を指す)と呼ばれ、「自然のはたけでトマを掘る、小川(沢)があるところ」という意味である。
明治33年 栗崎佐太郎が御料地解除の願いを出し、翌 明治34年に許可を受け、明治35年より開墾が始まった。
明治39年1月 垣内林蔵を筆頭に有志とはかり、自身の所有地内に茅葺掘建小屋の校舎を建てた。
当初は垣内氏自ら読み書きを教えていたが、雪解けと共に開墾が始まるため、渡辺平太郎の紹介により鬼鹿村から松村覚太郎を教師として招いた。
寺子屋形式の授業が続いていたが、次第に児童数も増加し当時の戸長に教授場設置の陳情を続け、明治40年4月15日 トマタウシュナイ特別教授場が設けられた。
この頃の児童数は男8名 女4名の計12名。戸数は10戸であった。
大正6年9月 それまでの掘建小屋より新築された。
昭和2年1月7日 道庁の訓令により苫年内尋常小学校に変更になった。
昭和14年 字名改正が行なわれ「金浦」に変更になった。
由来は「農又は一部海浜部落なる故魚のとれる浜の意を含め名付ける」とのことであった。
昭和16年 金浦国民学校に変更になり、昭和22年 金浦小学校になった。
在学児童のピークは昭和36年度 66名となり、2学級複式学級であったと共に、遠別町内で唯一の海浜学校でもあった。
昭和37年 ブロック造りモルタル仕立ての新校舎、校長住宅が新築落成した。
しかし、過疎化の波は少しずつ進行していった。
昭和初期より昭和29年までニシンの群来で賑わいを見せていたが、ニシンが不漁になり、漁家が離れていった。
併せて、離農による過疎化も進行し、戸数が減少していった。
昭和53年3月末 閉校式が挙行された。
学校閉校後、居住者は少なくなってしまったが他集落からの通い作で畑作を続けている。
また、エゾカンゾウの群生地が広がっており昭和55年 「金浦原生花園」として指定を受ける。毎年6月から7月にかけて開花するので、遠別町の観光名所の一つでもある。

平成25年5月8日 旧丸松小学校探訪帰りに立ち寄った。

表札はすっかり色褪せており判読不能である。

校舎は既に無く、残っていた教員住宅は「金浦公民館」として転用されていたが既に解体されている。

「第1金浦」のバス停留所。この背後に学校があった。

バス停より遠別市街地方面を望む。

反対に、初山別村方面を望む。

金浦の山間部方面を望む。

遠くに見えるのは利尻富士。
これだけくっきりと見えるのも珍しい。

1ヵ月後の6月9日「学舎の風景」管理人piro氏を含め常連の方々と探訪した。
遠くに見えるのはサイロ。

サイロを拡大。遺跡の如く聳えている。
遠別町史第二巻 「金浦小学校」に記載されていた「お別れのことば」より。
「…金浦で統合のことが決まってからの1年は、さびしかった。ほんとうにさびしかった。でも3人で力を合わせてがんばったよね。(中略)いよいよお別れです。3月31日。学校よ、きみは廃校になるのだ。僕らは遠別に行ってしまう。ひとりぼっちになってさびしいだろうなあ。君、君も帰れよトマトウシュの野へ、山へ、そして僕らをみていて欲しい。僕らは、汗を流して働く人に、人を愛し、感謝の気持ちを忘れない人間になるようがんばります。70年もの間、ほんとうにありがとう。ありがとう金浦校。さようなら。さようなら金浦小学校!!」
金浦小学校卒業生総数 440名。
風光明媚なこの地にも、学び舎は在った。
遠別町金浦は、トマタウシュナイと呼ばれていた。
アイヌ語で「トマ草ノ根ヲ掘ル沢」(トマは「エゾエンゴサク」を指す)と呼ばれ、「自然のはたけでトマを掘る、小川(沢)があるところ」という意味である。
明治33年 栗崎佐太郎が御料地解除の願いを出し、翌 明治34年に許可を受け、明治35年より開墾が始まった。
明治39年1月 垣内林蔵を筆頭に有志とはかり、自身の所有地内に茅葺掘建小屋の校舎を建てた。
当初は垣内氏自ら読み書きを教えていたが、雪解けと共に開墾が始まるため、渡辺平太郎の紹介により鬼鹿村から松村覚太郎を教師として招いた。
寺子屋形式の授業が続いていたが、次第に児童数も増加し当時の戸長に教授場設置の陳情を続け、明治40年4月15日 トマタウシュナイ特別教授場が設けられた。
この頃の児童数は男8名 女4名の計12名。戸数は10戸であった。
大正6年9月 それまでの掘建小屋より新築された。
昭和2年1月7日 道庁の訓令により苫年内尋常小学校に変更になった。
昭和14年 字名改正が行なわれ「金浦」に変更になった。
由来は「農又は一部海浜部落なる故魚のとれる浜の意を含め名付ける」とのことであった。
昭和16年 金浦国民学校に変更になり、昭和22年 金浦小学校になった。
在学児童のピークは昭和36年度 66名となり、2学級複式学級であったと共に、遠別町内で唯一の海浜学校でもあった。
昭和37年 ブロック造りモルタル仕立ての新校舎、校長住宅が新築落成した。
しかし、過疎化の波は少しずつ進行していった。
昭和初期より昭和29年までニシンの群来で賑わいを見せていたが、ニシンが不漁になり、漁家が離れていった。
併せて、離農による過疎化も進行し、戸数が減少していった。
昭和53年3月末 閉校式が挙行された。
学校閉校後、居住者は少なくなってしまったが他集落からの通い作で畑作を続けている。
また、エゾカンゾウの群生地が広がっており昭和55年 「金浦原生花園」として指定を受ける。毎年6月から7月にかけて開花するので、遠別町の観光名所の一つでもある。

平成25年5月8日 旧丸松小学校探訪帰りに立ち寄った。

表札はすっかり色褪せており判読不能である。

校舎は既に無く、残っていた教員住宅は「金浦公民館」として転用されていたが既に解体されている。

「第1金浦」のバス停留所。この背後に学校があった。

バス停より遠別市街地方面を望む。

反対に、初山別村方面を望む。

金浦の山間部方面を望む。

遠くに見えるのは利尻富士。
これだけくっきりと見えるのも珍しい。

1ヵ月後の6月9日「学舎の風景」管理人piro氏を含め常連の方々と探訪した。
遠くに見えるのはサイロ。

サイロを拡大。遺跡の如く聳えている。
遠別町史第二巻 「金浦小学校」に記載されていた「お別れのことば」より。
「…金浦で統合のことが決まってからの1年は、さびしかった。ほんとうにさびしかった。でも3人で力を合わせてがんばったよね。(中略)いよいよお別れです。3月31日。学校よ、きみは廃校になるのだ。僕らは遠別に行ってしまう。ひとりぼっちになってさびしいだろうなあ。君、君も帰れよトマトウシュの野へ、山へ、そして僕らをみていて欲しい。僕らは、汗を流して働く人に、人を愛し、感謝の気持ちを忘れない人間になるようがんばります。70年もの間、ほんとうにありがとう。ありがとう金浦校。さようなら。さようなら金浦小学校!!」
金浦小学校卒業生総数 440名。
風光明媚なこの地にも、学び舎は在った。
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士別市湖南
士別市湖南(平成25年6月30日探訪)
士別市湖南は、全戸離農して消えた集落であった。
湖南は士別市温根別町と朱鞠内町朱鞠内の境界に位置し、昭和29年5月 上砂川町出身の秋元雄一郎ら6戸が開拓した戦後開拓集落である。
その後、昭和32年1戸、33年2戸、34年2戸の計11戸が入植した。
子供たちは北14線にある北温小学校(明治41年5月15日開校・平成10年3月31日閉校)に通学していたが、片道8キロの道は悪路で、冬期は豪雪により欠席する日が多かった。
このような環境であったので穴沢友治、成田正貫、石沢豊作らが学校設置に奔走し、昭和32年10月20日 士別市立北温小学校湖南分校として開校した。
昭和34年11月1日 士別市立湖南小学校として独立した。
しかし、湖南の生活環境は厳しいものがあった。
「士別戦後開拓史」(平成元年12月20日発行)に「士別地区内の適地の選定」という項目がある。
この中に湖南が登場するが、その件を引用する。
「旧温根別村北十八線地区(別名湖南二八九㌶)」
「空知支庁幌加内村と、温根別村の境界に位置し発電用人造湖朱鞠内湖畔に在り、温根別市街より十八キロの遠隔地で、地形は平坦であったが、地味は瘦薄で飲料水の便利が悪く、湖畔特有の寒冷な気温は氷点下30度は珍しくないなど、あらゆる面から見ても開拓不適地で、国有林と道有林の開放地である。」とある。
また、元湖南小学校校長 佐々木定夫氏の手記にはこうある。
「…地形、地味も十分でないうえに寒冷豪雪、そして既存農家と遠隔のため冬季間の交通途絶、郵便物の集配や電気、電話も無く、飲料水まで川水利用という無い無いづくしの中で小学校が開校したのであった。」
そして、昭和45年4月1日付けの北海道新聞 上川北部版に「消える湖南(士別)の農家 融雪待ち全戸離農」と出た。
新聞掲載当時で5戸24名の人々が暮らし、夏季は麦、大豆、ジャガイモ、ビートを栽培し冬季は近くの冬山造材で生計を立てていた。
だが、交通の便が悪く最寄の病院まで17キロも離れており、尚且つ豪雪地帯であることが全戸離農に繋がってしまった。
士別市立湖南小学校は昭和45年3月31日付で廃校となった。
全戸離農後、昭和46年から48年にかけて163,8haの草地を造成し、道営大規模草地開発事業として「湖南放牧場」として昭和49年に開設された。
湖南牧場は畜産振興に大きな役割を果たしてきたが、昭和61年に廃止された。

幌加内町と士別市の境界に位置する湖南地区。
右手のシラカバの背後に、校舎はあった。

校舎は既に無く、牧場関連の施設が残る。

ふと左手を見れば、錆びた街灯があった。
学校関係のものだろうか?

遠くに見えるマツの木は、ここで人々の営みがあった数少ない名残である。

学校跡地よりすぐ先には幌加内町のカントリーサインが見える。
探訪当時、ここが士別市の一部であることに驚いた。

湖南の中央部より温根別方面を望む。

何となく畑作が広がっていたような痕跡があるが、すっかり自然に還ってしまっている。

開拓の夢は破れ、無住の地となってしまい40年以上が経過した。
「湖南」という地名も忘却の彼方か。

湖南の中央部より学校跡を望む。
豪雪・寒冷・へき地・無医地区・交通不便と云う条件に勝てず消えてしまった。
士別市湖南は、全戸離農して消えた集落であった。
湖南は士別市温根別町と朱鞠内町朱鞠内の境界に位置し、昭和29年5月 上砂川町出身の秋元雄一郎ら6戸が開拓した戦後開拓集落である。
その後、昭和32年1戸、33年2戸、34年2戸の計11戸が入植した。
子供たちは北14線にある北温小学校(明治41年5月15日開校・平成10年3月31日閉校)に通学していたが、片道8キロの道は悪路で、冬期は豪雪により欠席する日が多かった。
このような環境であったので穴沢友治、成田正貫、石沢豊作らが学校設置に奔走し、昭和32年10月20日 士別市立北温小学校湖南分校として開校した。
昭和34年11月1日 士別市立湖南小学校として独立した。
しかし、湖南の生活環境は厳しいものがあった。
「士別戦後開拓史」(平成元年12月20日発行)に「士別地区内の適地の選定」という項目がある。
この中に湖南が登場するが、その件を引用する。
「旧温根別村北十八線地区(別名湖南二八九㌶)」
「空知支庁幌加内村と、温根別村の境界に位置し発電用人造湖朱鞠内湖畔に在り、温根別市街より十八キロの遠隔地で、地形は平坦であったが、地味は瘦薄で飲料水の便利が悪く、湖畔特有の寒冷な気温は氷点下30度は珍しくないなど、あらゆる面から見ても開拓不適地で、国有林と道有林の開放地である。」とある。
また、元湖南小学校校長 佐々木定夫氏の手記にはこうある。
「…地形、地味も十分でないうえに寒冷豪雪、そして既存農家と遠隔のため冬季間の交通途絶、郵便物の集配や電気、電話も無く、飲料水まで川水利用という無い無いづくしの中で小学校が開校したのであった。」
そして、昭和45年4月1日付けの北海道新聞 上川北部版に「消える湖南(士別)の農家 融雪待ち全戸離農」と出た。
新聞掲載当時で5戸24名の人々が暮らし、夏季は麦、大豆、ジャガイモ、ビートを栽培し冬季は近くの冬山造材で生計を立てていた。
だが、交通の便が悪く最寄の病院まで17キロも離れており、尚且つ豪雪地帯であることが全戸離農に繋がってしまった。
士別市立湖南小学校は昭和45年3月31日付で廃校となった。
全戸離農後、昭和46年から48年にかけて163,8haの草地を造成し、道営大規模草地開発事業として「湖南放牧場」として昭和49年に開設された。
湖南牧場は畜産振興に大きな役割を果たしてきたが、昭和61年に廃止された。

幌加内町と士別市の境界に位置する湖南地区。
右手のシラカバの背後に、校舎はあった。

校舎は既に無く、牧場関連の施設が残る。

ふと左手を見れば、錆びた街灯があった。
学校関係のものだろうか?

遠くに見えるマツの木は、ここで人々の営みがあった数少ない名残である。

学校跡地よりすぐ先には幌加内町のカントリーサインが見える。
探訪当時、ここが士別市の一部であることに驚いた。

湖南の中央部より温根別方面を望む。

何となく畑作が広がっていたような痕跡があるが、すっかり自然に還ってしまっている。

開拓の夢は破れ、無住の地となってしまい40年以上が経過した。
「湖南」という地名も忘却の彼方か。

湖南の中央部より学校跡を望む。
豪雪・寒冷・へき地・無医地区・交通不便と云う条件に勝てず消えてしまった。