更新休止のお知らせ

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いつも当ブログをご覧いただき有難うございます。

さて実は、管理人の個人事情により札幌へ転居することとなりました。

併せてネット環境も整っていない為、今回を以て更新を当分休止します。


思い起こせば、「北海道の建物」を閉鎖してからもあちこち訪ね歩いてきましたが、知人であるHEYANEKOさまの「学校跡を有する廃村」調査に感化され、少しずつ北海道の「学校跡がある廃村」を調べ始めるようになりました。

ただ、北海道全域は難しいので、私自身が生まれ育った上川管内を含む道北をベースに始めました。

市町村史の学校教育欄や、集落の沿革もさることながら、閉校当時の新聞報道も調べるためにマイクロフィルムで北海道新聞の地方版を何度も探し、ブログの参考資料として取り上げてきました。

また、縁ある方とお会いできたときは学校を含め、集落全般の歴史も聞き取り反映させてきました。

平成25年5月5日 手前味噌ですが北海道新聞に掲載されたとき、かなりの反響がありました。

多数の「拍手」だけではなく「はてなブックマーク」に寄せられたコメントは大きな励みになりました。

また「拍手」でコメントを書いてくださった方々の文面も拝見しました。

特に歌志内市新歌出身の方、浦河町立上杵臼小学校卒業生の方のコメントは、こちらも胸が熱くなりました。

ネット環境が整いましたらブログを再開したいですし、札幌へ転居しても引き続き「学校跡がある廃村」の調査を行ないたいと思っています。

最後に、ブログ更新をはじめ廃校や廃村の情報を提供してくださったHEYANEKOさま、「学舎の風景」piroさまをはじめ常連の皆さま、調べもので何かとお世話になった旭川市立中央図書館の職員様、そして当サイトを応援してくださった皆様方に感謝申し上げます。


尚、画像は石狩市厚田区安瀬(ヤソスケ) 安瀬小学校跡地(明治18年6月開校・昭和42年10月閉校)
安瀬も10戸以下の過疎集落ですが、資料が乏しいため公開できませんでした。
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下川町珊瑠

下川町珊瑠(平成26年3月12日探訪・学校跡地探訪未遂)


珊瑠は明治39年 岐阜県出身である林 杉太郎、前田助兵衛、山本房吉、三島孫三郎らが入地したことに始まった。

子供たちは当時、上名寄簡易教育所(後の下川町立上名寄小学校)に通学していたが遠距離であった為、組長 前田助兵衛 伍長 林 杉太郎、市村大助、山本房吉らが主唱した。

明治41年2月17日 珊瑠七線 上ヶ島弥於吉の茅屋を借りて、授業が始まった。

同年6月 珊瑠簡易教育所と改称。

明治43年10月 珊瑠八線御料地四十九番地に校舎を移転する。

大正6年4月 名寄町立珊瑠尋常小学校と改称。

大正11年8月23日 台風により校舎が倒壊。
同年10月 九線高台下に移転。

大正13年1月 分村により下川村立珊瑠尋常小学校と改称。

昭和6年8月 九線高台より、現在地である十二線に移転する。

昭和16年4月 珊瑠国民学校と改称。

昭和22年4月 珊瑠小学校と改称。併せて下川中学校珊瑠分教室を併置。

昭和27年4月 中学校が独立し、小中併置校となった。


珊瑠は、鉱山と農業で栄えた集落であった。

大正6年 寺島庄太郎が転石を発見するも、その後別人により露頭の発見もあった。

鉱区の出願や試掘もされたが、資本金が少なかったことから大正15年 斎藤ヤエから三井鉱山へ渡った。
この時、買収と同時に直属と成り「珊瑠出張所」と命名された。

昭和8年 諸般の設備が整い、三井珊瑠鉱業所と改称。

鉱業所の子弟は珊瑠小学校に通学していたが、学校から4キロ離れていることや、冬期間の積雪量により通学が困難であったことから同年12月 「珊瑠第二尋常小学校」が設立された。

昭和15年頃 鉱山周辺は300戸の職員住宅や鉱員住宅が建ち並んでいた。

一方、既存の農村のほうも珊瑠木工場や澱粉工場、国有林事業の隆盛もあり120戸 700名を数えていた。

この頃、珊瑠尋常小学校に通学していたある方は、こう回想する。
「…学校の傍には杉野さんと云う澱粉工場があった。あの頃は珊瑠第一も、学校周辺の珊瑠第二もたくさんの人が暮らしていた…。」

昭和16年の「国民学校」改正に伴い、珊瑠第二国民学校と改まったが昭和17年4月時点で、尋常科4学級 225名 高等科1学級 42名の子弟が通学していた。

しかし、鉱山は大東亜戦争の最中である昭和18年7月 戦争遂行のため帝国鉱発株式会社の手に渡り、不急産業として閉山した。

閉山と同時に、珊瑠第二国民学校も閉校となった。

戦後、鉱山は昭和25年 磯部鉱業株式会社の手に渡り再開した。

昭和40年 会社の合併により合同資源産業株式会社磯部珊瑠鉱業所と変更する。

昭和43年11月 珊瑠小中学校開校60周年記念式が挙行された。

この年の珊瑠の人口は 珊瑠第一 21世帯 107人 珊瑠第二 43世帯 165人であった。

だが、鉱山の縮小や離農による過疎化に見舞われた。

昭和47年3月末をもって下川小学校・下川中学校と統合され、閉校になった。

過疎化はその後も続き、昭和52年度の珊瑠地区の人口は 17世帯 54名にまで激減していった。

珊瑠鉱山は資源の枯渇や、金の相場が悪くなったことから昭和62年を以て休山となった。


学校も閉校となり金山も閉山となった珊瑠だが、ダム建設の話が浮上する。

元々は昭和41年に策定された「天塩川水系工事実施基本計画」に基づき、昭和43年度から予備調査がなされていたが、紆余曲折もあって予算は毎年見送られていた。

昭和62年12月 当時の原田町長・平町議会議長・政所同副議長が上京し、陳情を行なった。

その結果、年末になって「サンルダム実施計画の調査費がついた」と連絡が入った。

平成4年12月21日 新年度予算の大蔵省原案が内示され、サンルダムの建設が正式に決定した。  

翌 平成5年からサンルダム建設が始まった。

平成10年4月 損失補償基準妥結調印が行なわれる。

平成11年3月 ダム水没に伴い全戸が移転し、行政区も廃止になったと同時に無住地となった。

平成21年10月 民主党政権交代により「サンルダム」の工事凍結が発表された。

名寄新聞 平成21年10月17日付の記事に「工事凍結で大きな波紋 サンルダム建設事業・名寄の給水統合計画に暗雲」と見出しがつき、ダム建設を見越した風連地区と陸上自衛隊名寄駐屯地との給水統合を計画していたので中止となった場合の影響は大きい、と紹介されている。

工事凍結の発表から3年経った平成24年10月31日 道道下川雄武線 珊瑠の付け替え道路が全線開通した。

既存の道道は旧道になったと同時に、ダム事業用地のためダム建設事業所で管理し、立ち入り禁止となった。

同年11月12日 国土交通大臣の方針により、サンルダムの建設事業を継続を決定した。

名寄新聞 平成24年11月14日付の記事に「国が事業継続を決定 サンルダム・下川町長や住民から喜びの声」とある。

ダム建設が再開されたため、現在もダム建設は進行中である。

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ダム建設で話題になっている珊瑠。
学校はこの先に位置している。

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ダム建設に伴い、付け替えられた道道下川雄武線。
真下には旧道と化した道道と、水没する珊瑠第一の集落跡が広がっている。

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かつての畑はシラカバ林と化した珊瑠第一より、学校跡方面を望む。

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正面に見えるのがサンル牧場である。
サンル牧場は昭和53年度より草地造成が始まり、昭和56年6月より入牧が始まった。

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そのまま進むと「珊瑠十二線」というT字路の交差点が出てくる。
雄武側よりT字路方面を望む。

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反対に、雄武方面を望む。
周辺は人家マークが点在しているが、すべて無人となっている。

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珊瑠十二線付近。

探訪当初、ここが学校跡地だと思っていた。
しかし、実際はここよりもう少し【手前】に位置していた。
跡地を見誤り、学校跡地は「探訪未遂」で終わってしまった。
ここの跡地は「サンル木工場」の跡地である。

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珊瑠第一の付け替え道路より珊瑠第一の集落跡を望む。
金山と農業で栄えた集落は、ダムに水没しようとしていた。

後日、旭川開発建設部サンルダム建設事業所に電話で伺うと「ダム完成時、学校跡地(珊瑠十二線)周辺は余程の大雨が降らない限りは水に漬からないと思う」と回答を得ることが出来た。
尚、ダムは平成29年 完成予定とのことである。

美瑛町美園・五稜

美瑛町美園・五稜(平成25年5月3日・5月19日探訪)

美瑛町美園・五稜は美瑛町内の戦後開拓集落である。

このうち美園は3戸の高度過疎集落として、五稜は集落として存続している。

大正14年頃 入口である「大区画」(現 中ルベシベ)に福井県人 岡田多伊助ら6戸が入植していた。

終戦直前の昭和20年8月8日 東京都南多摩郡扱いの北海道集団帰農団美瑛隊東京団体 隊長 野口美実 副隊長 半沢義吽ら26戸137人が 美瑛町内に到着。

間もなく8月20日 名古屋団体 隊長 堀場判三郎 副隊長 伊藤早稔ら26戸が到着し、美園・五稜に入植した。

このうち9戸がオマン川沿いに開拓小屋を建てて入植した。

同年12月8日 現地に入地した坂本兄弟、川崎・福井・橋本・神戸・川越と大区画に入地した野口・半沢・伊藤・庄口らが集まり、庄口の発案で美郷集落を形成する。

昭和21年1月 名古屋より10戸が入植した。

同月、名古屋部落会館建設に伴い、堀場判三郎が児童を会館に集め寺子屋形式で授業を始め、美瑛国民学校ルベシベ分教場として開校。

昭和22年 樺太引揚者の隊長 伊藤駒太郎により樺郷(豊郷)集落を形成、後の中ルベシベ集落へと繋がる。

これら美郷・名古屋・豊郷・大区画の小集落は昭和22年12月6日の美園小学校開校に伴い、岡田文太郎の発案で美園となった。 

「五稜」の名の由来は、地形が大まかな五つの稜線からなっていることや、昭和24年当時入地していた手坂慶一郎の出身地である函館の五稜郭から名づけられたといわれている。

昭和22年12月6日 美瑛町立美園小学校として開校。

美園や五稜の開拓は厳しいものがあった。

開拓が始まって間もなく、昭和21年5月より離農が始まった。

東京団体6戸帰郷、名古屋団体隊長の堀場など7戸が集団離農、また名古屋団体からも7戸が集団離農した。

昭和22年4月20日 大阪先発隊5戸が阪和へ、10戸が和郷に入植。

昭和23年5月 樺太より三輪栄正隊長ら30余戸が美園(豊郷)に入植。

昭和24年1月 老知安(オイチアン)第一~第四集落結成。
この時期中ルベシベ・美開第一・第二、水郷第一・第二集落が形成される。

昭和25年2月1日 美田小学校五稜分校設置。

五稜分校開設に伴い、児童69名が移動した。

翌 昭和26年4月 五稜小学校に昇格。

昭和29年6月 水郷第三(後の五稜第七)に開拓者入植。

昭和30年 行政区条例が出来たためそれぞれ五稜第一から第七まで区分けされる。

区分は以下の通りである。

本郷・和郷・阪和   五稜第一
豊郷      五稜第二
老知安第一・第二   五稜第三
老知安第三・第四   五稜第四
大郷・島牛      五稜第五
水郷第一・第二    五稜第六
水郷第三       五稜第七
美開・中ルベシベ・美園 美園

※この他「上豊郷」という集落もあったが、美瑛町立図書館で問い合わせた結果、「開拓 五稜開拓50年記念誌」にも記載されておらず何処に在ったかは判らない、とのことであった。
ただ、「推測だが豊郷の上手にあったので便宜上、そう呼称したかもしれない」と情報を頂いた。

美園小学校を含む美園ルベシベにも入植者が増加し、昭和30年代は在校児童数40~50名が学んでいた。

しかし、昭和40年代に入ると離農者が続出した。

離農に伴い児童数も激減し、昭和45年の児童数は4名にまでなっていた。

昭和46年3月24日 廃校式が挙行された。

卒業生総数 152名であった。

美園はその後、昭和56年 中ルベシベ、美開、美園で形成されていた美園行政区は戸数減少により、五稜第五へ統合した。

五稜の行政区もまた、統廃合していった。

現在の行政区を列挙すると、以下の通りである。

五稜第一
五稜第二
五稜第三
五稜第五 
五稜第七(昭和39~40年頃の離農対策により全戸離農)

五稜第六は昭和61年1月 戸数減少により第五に統合された。

五稜第四は第五に統合されたが、統合年月は不明である。

但し、住所については五稜第一から第六まで現在もある。

五稜小学校は昭和54年12月 新校舎が竣工され、翌55年2月に落成式が挙行された。

五稜小学校は平成17年3月 休校となっている。

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平成25年5月3日 「学舎の風景」piro氏、A.D.1600氏と共に訪れた。
「美園」は、五稜寄りの高台に数戸の人家がある高度過疎集落であるが、学校周辺は自然に帰ってしまっている。

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学校跡地を望む。
すっかり植林されている。

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校門らしき石碑が倒れていたが、銘盤どころか何もついていなかった。

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町史には木造校舎が写っているが、基礎すらも残されていなかった。

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学校手前の道路の法面の先に何かが見えた。
法面をよじ登り、先へと進む。


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廃屋と化した家があった。

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この家へ行く為の道路が見当たらない。
道路工事と共に消えてしまったのか。

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内部は床も抜け、足元も危ない。

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五右衛門風呂は原形を留めていた。

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家の玄関前より。
学校前で人々が暮らしていた、唯一の痕跡であった。

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美園の探訪から間もない5月19日「道北の釣りと旅」管理人 HIROAKI氏とともに美瑛町内を訪れた。
隣接の五稜地区を訪ねたときのものである。
これは開拓記念公園内に建立された開拓記念碑である。

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五稜第一地区の沿革が刻まれている。

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五稜第一地区の周辺の風景。
山と山との僅かな平地を開拓していった。

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五稜第五にある五稜小学校。
休校扱いとなっているが、個人的には再開されてほしいものである。

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学校前の風景。
学校周辺は農家が点在している。

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五稜小学校の近くにある五稜神社。
そこには「拓魂」と刻まれた大きな石碑がある。

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五稜の沿革が刻まれていた。

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記念碑の背後には、五稜神社の拝殿が見えた。

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神社周辺の風景。
五稜は、集落としての機能を維持している。

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美園の高台に登り、五稜小学校周辺を眺める。
山と山との間にある、僅かな平地に家がひしめき合っている。

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美園の高台の風景。
戦後開拓で拓けていった五稜と対照的に、美園は過疎の波により高度過疎集落となってしまった。

沼田町幌新

沼田町幌新(平成26年3月19日探訪)

沼田町幌新は、沼田町浅野炭鉱・昭和炭鉱へ行く途中にある高度過疎集落である。

明治37年 幌新入口に10余家族が入地したのが始まりであった。

当時、幌新より奥は御料地であったが明治39~40年にかけて、帝室林野局の解放貸付が始まり入植者が急速に増加した。

明治39年 幌新一部への入地が始まった。

明治40年 幌新二部(支線の沢・袋地)への入地が始まった。

集落のピークは明治44年頃である。

その頃、幌新の入口から支線の沢及び、袋地にかけて70戸の農家が居住していた。

本通りには13戸、ホロニタチベツ川の対岸である西通りには15戸、支線大橋手前に特別教授所(学校)のほか3戸、支線の沢に28戸、袋地に8戸が入地していた。

明治42年10月 斎藤由太郎・金子利作・前田又三郎らの有志が計らい、本通四十五号に十二坪の掘立小屋を建て、今井計春を中心に児童が持ち寄った空き箱を机の代用として授業を始めた。

明治44年1月 竜北教育所幌新太刀別特別教授所として認可され、同年6月、竜北尋常小学校幌新太刀別特別教授所と変更になった。

大正3年3月 沼田尋常高等小学校幌新太刀別教授所と改称。

また、通学区域の一部変更により伊藤松次郎・島崎五六松・金平勇吉らが中心となり本通二十八号(廃校時の場所)に新築移転する。

大正4年4月 新校舎落成式を挙行、校名も沼田尋常高等小学校幌新教育所と改称。

大正6年5月 沼田村立幌新尋常小学校と独立。

昭和16年4月1日 沼田村立幌新国民学校と改称。

昭和22年4月1日 沼田町立幌新小学校と改称。

昭和33年 開校50周年記念式 挙行。

昭和41年 開校60周年記念式が挙行された。

ピークを過ぎた明治44年以降、漸次転出者が相次いでいった。

それは耕地が少なかったことと、肥沃な土地と痩せた土地の差がありすぎたため、離農に拍車をかけていた。
だが、それでも戦時中は全校生50名前後で推移していた。

閉校までの児童数を以下に記す。
      
昭和20年  41名

昭和25年  51名

昭和30年  47名

昭和35年  46名

昭和40年  24名

昭和41年  22名

昭和42年   8名

特に、昭和41年 幌新ダムの本格的着工により支線の沢の農家11戸が離農した。

これにより22名の在校児童中、14名が転出し僅か8名となってしまった。

昭和42年3月20日 第50回卒業式に引き続き、廃校式が挙行された。

卒業生総数 386名であった。

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この時期は雪に埋もれており、探索も容易ではない。

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集落の跡地は平地が広がっている。

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そのまま進むと、幌新温泉まで1キロ地点まで来た。
表示板のあるところが、幌新小学校があった辺りである。

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2メートル以上の雪山をよじ登る。
閉校後、石炭の露天掘りを行っていた企業が貯炭場として近年まで使われていた。

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どうにか登り、学校跡地周辺を望む。
雪が積もっていることや、貯炭場として使われていたので何も無い風景が広がっている。

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道沿いに、一本のマツの木が植わっていた。
かつて、ここで暮らしていた方の庭木だろうか。

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ダムに沈んだ支線の沢は、積雪により探訪不可能であった。

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幌新橋より学校方面を望む。

「ほろしん開校60年」記念誌(1966,9,16)に紹介されていた開拓当時の座談会より。
ある古老が当時、お世話になった先生のエピソードとして、自作の校歌を教えていた。歌詞を以下に紹介する。


一 熊住む里と 恐れにし 北海の果に 霊地あり
  山は秀でて 水清く  百花乱れて 風薫る

二 西に聳ゆる 円山や  静かに流るる 幌新川
  朝な夕なに 眺めつゝ 建てる幌新の 学び舎に

三 睦み集いし 我が友の とり行く道は ただ一つ
  君に忠にと 親に孝  恩師の教えを 忘るなぞ

四 世を吹く風は 強くとも 寄せ来る波は 荒くとも
  石に立つ矢の ためしあり たゆまず進め その道を

沼田町真布

沼田町真布(平成24年4月25日探訪)

沼田町真布は「白採真布」と呼ばれ、真布川沿いに拓けた集落である。

真布の山林は元々、園田北海道庁長官の所有地であった。

明治33年 真布の山林を北海道炭礦汽船(北炭)が買収したといわれているが「北炭山林史」によれば明治33、4年にシルトルマップ(真布)所在山林の貸付権譲受許可された記録がある。

このことから、北炭が買収したというのではなく、貸付権を譲り受けたものと思われる。

同年 石黒甚次郎が苗圃管理人として真布に入地する。

当時、山側には既に北炭の社宅や住宅が建っていた。

石黒は北炭雇員となり、苗圃管理をはじめ造材・造林の監督も行なっていた。

北炭の苗圃が広くなり、石黒甚次郎は家族を呼び住まわせたが、あくまで北炭の「山林経営」で入地したに過ぎなかった。

一方、北炭も林内農耕地の選定を行い「半農半林」の形態で入植させる方針を採っていた。

明治39年 沢田常次郎が最初に入地すると翌 明治40年以降に藤沢(現 沼田第5)集落からの転入をはじめ、続々と入地する者が現れ始めた。

藤沢集落は明治29年 開墾会社から藤沢栄次郎が120町歩の土地を譲り受けたことに因む。

しかし、藤沢は泥炭地で作物は思うようにとれず、開墾も進捗していなかったこともあり、真布へ移住した人も相当数いた。

明治42年10月1日 入植者である岩隈利平の尽力により、寺子屋式の私立教育所が始まった。

明治43年4月4日 公立沼田尋常小学校附設白採真布特別教授所となった。

大正3年10月15日 北炭社宅の分譲を受け、改造して現在置に移転した。

大正9年7月24日 真布尋常小学校として独立。

昭和16年4月1日 真布国民学校と改称。

昭和22年4月1日 真布小学校と改称。

真布は戸数が少ない集落であるが、沼田町内でもめざましい活躍を見せていた。

婦人会を主体とした実践運動はもとよりだが、昭和37年頃より集落全員が編纂委員となり、集まった資料や談話は当時の真布小学校校長 伊藤慶二によって分類整理され「真布部落史」を昭和41年 出版した。

そんな真布も、昭和42年頃より学校の統廃合の話が浮上した。

これは真布小学校のみならず、沼田町内の各学校が統合されるというものであった。

昭和43年11月20日 浅野炭鉱の閉山。
翌 昭和44年4月30日 昭和炭鉱の閉山に伴い、人口が著しく町外に流出した。

これが決定打となり、沼田町内での学校統廃合が進んだ。

昭和47年3月31日 閉校。
沼田町立奔竜小学校・開成小学校も同日付で閉校となった。

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「秘境駅」で有名な真布駅。
昭和31年7月1日 真布仮乗降場として開設された。
近くを流れる真布川沿いから、真布集落へ行くことが出来る。

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川沿いを進むと、高台に建物が見えた。
これが真布小学校の体育館である。
体育館は昭和27年11月に新築落成された。

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隙間から覗くと農機具倉庫として転用されているが、奥には学校当時の装飾が残されている。

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探訪当時は残雪がかなり積もっていたが、閉校記念碑の類は建立されていない。

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学校校庭より真布集落を望む。
過疎化と、炭鉱閉山による人口流出で廃校となってしまった。

占冠村湯の沢

占冠村湯の沢(平成23年10月22日探訪)

占冠村湯の沢は、製炭業で栄えた集落であった。

明治43年 上富良野の丸一木工場造材部の飯場であった某が、初めて茶屋を開いた。
ただ、名前が判らなかったことから「ぢいさんばあさん茶屋」と言われていた。

茶屋はもう1軒 岩崎某が始めたものであったが、ここの茶屋のおばあさんは「峠の茶屋のおにばば」で有名であった。

大正初期 9戸の農家によって開拓されていった。

当時は第一次世界大戦後の「豆景気」により、順調に進んでいたかのように見えたが、景気が後退して残ったのは青木元一だけであった。

昭和17年 上川管内木炭業組合 組合長であった森田金太郎が大東亜戦争開戦に伴い、ガス用木炭の生産のため、湯の沢に注目した。

昭和19年 森田は湯の沢三里標に仮事務所を設置。

昭和20年 製炭事業の発展と共に、炭焼子が移住してきた。

焼子の子弟は当時、占冠国民学校に通学していたが間もなく、事務所や倉庫の一部を改築し、仮教室として占冠国民学校・中央国民学校の教職員の出張授業を受けることとなった。

昭和21年 焼子一同の要望により森田も小学校建設を考え、村と協議した結果5月1日 新入浅野国民学校 植山国雄校長の来校となった。

植山校長が在職していた新入浅野国民学校は石綿鉱業で栄えていたが、石綿鉱山の閉鎖により廃校となった。

学校備品は新入浅野国民学校のものを引き継いだが、経費関係の一切は森田が負担した。

同年12月1日 占冠村立湯之沢国民学校として開校。

昭和22年 占冠村立湯の沢小学校と改称。

だが、昭和26年 森田事業所の経営が困難となったため、事業所を打ち切った。

旭川に引き上げて以降、学校維持の経費は村が支出することとなった。

併せて、事業所を打ち切ったことにより転出者が現れ始めた。

昭和38年3月22日 最後の卒業生 5名を送り出し、廃校となった。

北海道新聞 上川中部版 昭和38年3月27日付で「時々遊びにこよう 一人一人、思い出述べる」という見出しで、湯の沢小学校の廃校を報道している。

報道によれば「昭和38年4月には20人に減少、これでは児童の学力低下をもたらすばかりである、と占冠小学校の統合に踏み切った」旨書かれている。

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湯の沢にある、峠下茶屋跡の記念碑と説明。

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説明文の拡大。

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茶屋跡記念碑より金山(南富良野町)方面を望む。

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反対の、湯の沢小学校跡方面を望む。

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学校跡地付近には、旧道が残されていた。

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リゾート的な観光開発の一環で、農林省関係補助事業として「占冠村農業者センター(湯の沢温泉)」の建設を計画。
昭和53年竣工し、開業した。

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バス停がある。
地名は残されているが、定住者はいない。

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この探訪当時、入浴しなかったが機会があれば入ってみたいものである。

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温泉の近くに、建物が見えた。

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酪農施設の建物である。
この建物は筆者が取材を行った後、解体されてしまった。

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酪農施設の前より学校跡地の風景。

昭和38年3月22日 廃校式で児童がつづった作文集より。

「この学校と別れるのはとてもさびしい。これからも時々、運動場に来て遊ぼう」

「この学校はおとうさんたちが一生懸命になって建てた学校です。ボロでもどの学校よりいい」

「みんなでおカネを出しあって買った野球道具だけでも思い出になるように置いてもらいたい。校舎はそのまま残るので、冬には屋根に積もった雪を落として大切にいたわりたい」

今は温泉宿となってしまったが、かつては製炭で栄え、学校があったことを知る観光客はどれくらいいるのだろうか。

朝日町似峡

朝日町似峡(平成23年8月13日探訪)

朝日町似峡(現 士別市朝日町)はダムで水没した集落であった。

明治43年 御料地第2期区画設定により御料小作地の指定を受け、大正2年 道内各地をはじめ宮城県団体をはじめ福島県、奈良県などの出身者が入地して開拓が始まった。

戸数の増加に従い、教育機関設立の必要性を感じ荒見權太郎、伊藤啓四郎の両名を始め有志らが尽力した結果、材料を含めて集落総出で仮校舎を新築した。

大正4年5月15日 糸魚尋常小学校付属似峡簡易教育所として開校。

大正6年4月1日 似峡尋常小学校と改称。

昭和14年3月29日 高等科を設置し、似峡尋常高等小学校と改称。

昭和16年4月1日 似峡国民学校と改称。

昭和22年4月1日 似峡小学校と改称、同年6月1日 糸魚中学校似峡分校を併置する。

昭和25年11月1日 糸魚中学校似峡分校 校舎が落成し、分離する。 

主要な作物は水稲、バレイショ、ビート、アスパラガス等が栽培され、木材産業の基地として似峡市街地が形成された。

朝日営林署の事務所をはじめ似峡小学校および中学校、郵便局、駐在所、消防団詰所、診療所、農協支所、鉄工所、木工所、映画館、旅館、食堂、理容院、雑貨店、食料品店が軒を連ね、最盛期には戸数170戸余で人口 800人余(年代不明)として朝日町内の市街地の一つとして繁栄していた。

似峡はダム建設により水没した集落であったが、ダム建設が計画された要因として「天塩川の治水」「大東亜(太平洋)戦争末期より、戦後にかけての食糧危機による天塩川上流地区の農業開発」「ダム建設の旗印とされた電源開発」である。

特に、天塩川上流地域の農業用水不足問題は永らく市町村の課題であったとともに、発電設備は戦時中の酷使により稼働率が低下し、住民生活にも大きく影響を及ぼしていた。

昭和25年3月 当時の士別町長 中屋金次郎が北海道知事 田中敏文にダム建設の必要性を陳情した。

昭和26年11月 改めて書面上で陳情書を提出した。

昭和27年 電源開発本部による現地調査が行なわれていたが、その時は似峡までバスで移動し、現地への移動手段は森林鉄道を利用して調査が行なわれた。

昭和28年と30年に天塩川の洪水災害が発生する。

特に昭和28年7月31日 集中豪雨により上士別村にあった士別土地改良区の貯水池が決壊し、住民3名が濁流に飲まれ1名亡くなった。

これが契機となり、電源開発に重点をおいていた計画が洪水調節、さらに士別市の上水道、工業用水確保を併せた多目的ダムの構想が具体化して行った。

昭和32年に「天塩川上流総合開発概要」により岩尾内に決定する。

天塩川水系総合開発期成会の運動が実り、昭和38年度建設省予算に岩尾内ダム実施設計費が計上され、岩尾内ダム建設が決定した。

水没関係者は「岩尾内ダム対策委員会」を結成し、用地買収補償等の交渉が進められていった。

昭和40年12月 「岩尾内ダムの建設に伴う用地買収及び損失補償に関する協定書」の調印を終えた。

昭和40年12月7日付の北海道新聞 上川北部版に「さびしく最後の越冬へ 水没する似峡部落の近況」という記事がある。
越冬する約150世帯の日常生活を取り上げているが、食料品は農協支所が取り扱うだけで、まとまった買物や散髪は20キロ離れた朝日市街まで出なくてはいけないことが記されている。

昭和42年3月31日 似峡小中学校 閉校。

閉校後、昭和42年7月30日にダム建設起工式、8月25日に定礎式が行なわれた。

昭和45年11月2日14時 放水路のゲートが下り、湛水が開始されて似峡は水没した。

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似峡跡地への入口。
この看板の先に、水没した似峡集落がある。

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探訪した時は水位が低下していたので、集落跡地へ行く事ができた。
学校跡地は、このT字路付近にあったららしい、とのことである。

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この道を進むと、かつては茂志利地区へ続いていたが水没している。

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T字路周辺を見るが、学校の基礎らしきものは見つけることが出来なかった。

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周辺には、玉石や側溝の跡も残っている。

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もう少し進むと、建物やと桝と思われる基礎があった。

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傍にある建物の基礎を見ると、キャンプをした痕跡があった。

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遠くを見ると、あちこち建物の基礎を確認することが出来る。

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普段は湖底に沈んでいるので、なかなか見る機会もない。
次に見られるのはいつになるだろうか。

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学校跡地周辺の風景。
人々が去り、ダムの底に沈んでも集落の面影は辛うじて残っていた。

石狩市八の沢

石狩市八の沢(平成25年10月20日探訪)

石狩市八の沢は、油田で栄えた集落であった。

幕末の安政5年 幕府箱館奉行所石狩詰役所の荒井金助が、厚田望来の海辺に石油が浸透しているのを見て調査した結果、油田の存在を確認したのが始まりとされている。

明治12年 俊別(現 春別)で島倉仁之助が試掘りを行なったが成果はなかった。

この為、島倉は明治22年に北海道鉱山会社に鉱区を譲った。

明治36年 インターナショナル・オイル・コンパニーが開発に着手し、俊別や五の沢で鉱脈を発見、本格的な掘削が始まった。

明治44年 インタ-ナショナル・オイル・カンパニーは日本石油株式会社に譲渡した。

これにより、日本石油は石狩に鉱場を設け、事業を引き継いでいく。

大正10年 厚田村で石油試掘を行なっていた宝田石油会社と合併し、事業の拡大をはかる。

当時、子供たちは五の沢尋常小学校に通学していた。

昭和2年1月17日 五の沢尋常小学校八の沢特別教授場として開校した。

昭和4年 石油の採掘は年産1万271キロリットルに達し、ピークを迎える。

昭和5年の従業員数は187名となり、翌 昭和6年は五の沢からも就労者が加わり、約250名に達する。
社宅50戸、独身寮3棟が建っていた。

昭和8年 新規油井の掘削を中止したため激減する。

昭和10年にはおよそ半分の量しか産油されず、従業員も60名に減った。

昭和16年 政府出資の国策会社である帝国石油株式会社が設立され、日本石油の施設はそのまま引き継がれた。
学校は五の沢国民学校八の沢教授場と改称した。

昭和23年9月1日 八の沢小学校として独立した。

しかし、産出量は年産 1800キロリットルにまで減少し、最盛期の5分の1程度にまでなっていた。

昭和25年の就業者数は76名となり、翌 昭和26年10月時点で59世帯 就業人口は74名であった。

昭和30年になると従業員数もいよいよ少なくなり、41世帯55名であった。

昭和34年 石狩鉱は帝国石油から北宝石油鉱業株式会社へ移行した。

だが、昭和35年8月 採掘を廃止し石狩油田の歴史は終わった。

学校も、子供の減少から昭和37年3月31日付で閉校となった。

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普通林道 五の沢線に八の沢集落があった。
現在は石狩市が管理している。

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林道はすべて舗装道路となっている。

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林道を進んでいくと、記念碑が見えた。

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その隣に、校門が見えた。
ここが八の沢小学校の跡地である。

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階段跡と思われる斜面より、接近する。

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学校跡地は、笹藪に覆われていた。

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校門の隣接地にある八の沢鉱業所跡の記念碑。

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記念碑下部に記載された概要。

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八の沢集落の見取り図。
神社跡は今もある。

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学校前は植林されていた。

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学校跡地より少し先に進んだところにある、神社跡。

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拝殿跡は、笹藪で探訪不能であった。

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神社前からの風景。
日本国内でも数少ない、油田で栄えた集落は自然に帰ろうとしていた。

幌加内町母子里

幌加内町母子里(平成26年1月25日・2月26日探訪)

幌加内町母子里は、平成26年1月現在 35名が暮らす過疎の集落である。

明治34年 北海道大学演習林に第一基本林として大学運営資金の財源調達のため、国から割譲されたのが始まりであるが、母子里の開拓は昭和に入ってからである。

昭和4年 大学演習林の林内植民者として入植者を募り、昭和4年から昭和8年にかけて24戸が入植した。
主として美深村(現 美深町)出身者が多かった。

ついで中頓別村のピンネシリ(敏音知)・マツネシリ(松音知)より13戸、常盤村(現 音威子府村)より5戸が入植した。

「モシリ」は「茂尻」(赤平市茂尻炭鉱)や「茂尻」(江差町)、茂志利(士別市朝日町)、茂尻駅(根室本線)とあるので、当初は「茂知」と表記していた。

昭和5年8月5日 茂知に入植していた菅原貞助 チヤ夫婦に子供が授かった。
これを記念して現在の「母子里」になった。
ただ、雨龍演習林は林班界の名を茂知事業区として昭和45年頃まで「茂知」を使用していた。

母子里をはじめ、幌加内町を通過していた深名線は明治44年7月16日 吉利智宏が単独で「深川を基点とし三股(現 朱鞠内)経由で音威子府に至る鉄道」を鉄道院に出願したのが最初であった。

大正7年 第41回帝国議会において軽便鉄道としての協賛を得ることが出来、大正11年12月16日 第1工区 深川-鶴岡間16.936kmが着工された。

順次、鶴岡-鷹泊間、鷹泊-幌加内間が着工されていく。

昭和3年2月26日より幌加内-政和間、同年11月6日 政和-添牛内間が起工される。

昭和6年9月15日 幌加内-政和間が開業し、同年10月10日 線名である雨龍線を幌加内線と改称した。

昭和6年7月13日起工の添牛内-朱鞠内間は昭和7年10月25日開業。

残る朱鞠内-名寄間は昭和11年名羽線として名寄側より起工する。
昭和12年11月10日 名寄-初茶志内(後の天塩弥生)が開業。

昭和16年10月10日 名雨線初茶志内-幌加内線朱鞠内間が開業、これにより深川-名寄間が結ばれ「深名線」(総延長121.8km)となった。

母子里も勿論、開通したので駅名は「北」をつけて「北母子里駅」とした。

深名線鉄道工事に携わった松本輝子はこう話す。

「…母子里は当時、男手は兵隊に取られ、女、子供、老人しかいなかった。私は深名線の工事で、主にスコップを用いて砂利を敷く仕事をしていた。親方に「やり方が悪い」と怒られ「こうやるものだ」と手本を見せてくれた。その手本どおりにやると効率が上がった。今もやり方は覚えているが、年なので力が入らない…。」

「力仕事だったから腹が空き、昼の弁当では足りなかった。母に「もっと入れてくれ」と頼むと、母は「それは「仕事」が奪っていったものよ」と云った…。」

「当時『イナキビ』が腹持ちがよく、ほかにカボチャなんかを食べていた。米は配給制であまり食べられなかった…。」

学校は昭和6年6月20日 演習林の造材事務所を仮校舎とし、母子里尋常小学校として開校した。

昭和16年4月1日 母子里国民学校と改称。

昭和22年4月1日 母子里小学校と改称。

同年5月1日 母子里中学校を併置。

昭和34年 町制施行に伴い幌加内町立母子里小中学校と改称。

母子里は昭和25年の87戸 618名をピークに減少していく。

母子里に暮らす、ある方はこう話す。

「母子里はかつて、駅周辺を『市街班』と呼び、それ以外は『1組』から『5組』まで分かれていた。昭和20年代頃、各組15~6軒の家があり、それぞれ1軒ずつ澱粉工場があった。」

また、かつて母子里小中学校で教鞭を執っていた卜部信臣はこう話す。

「1組から5組まであったが、特に5組は『本流』と呼ばれていた。『本流』の由来は、雨竜川より枝分かれしたウトカマベツ川の、さらに枝分かれしたモシリウンナイ川のことを指している…。」

「私が赴任した昭和37年当時、小・中学校併せて120名くらいの児童や生徒がいた。教員は校長と力を合わせて、母子里集落を引っ張っていった。赴任した当時、澱粉工場は3軒あった…。」

しかし、昭和30年代末より過疎化が進み始める。

松本輝子は「いつの間にか、櫛の歯が抜けたように人がいなくなっていった」と云う。

転出者が増え始め、母子里小中学校は平成5年3月末で閉校となった。

ある方は「幌加内町自体が、南北に細長い町なので平成の初めまで学校が存続していた。もし、町自体が小さければもっと早くに廃校となっていた」と云う。

その2年後、平成7年9月4日をもって深名線は廃線となった。

過疎集落となった母子里だが、平成25年9月 北海道の過疎集落対策モデル事業のひとつとして選ばれた。

対象地区は幌加内町母子里のほか、占冠村占冠・中央・双珠別、深川市納内である。
モデル事業となった母子里地区は、北海道新聞紙上で「36人の集落 母子里の挑戦」として取り上げられている。

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名寄よりJR北海道バスで母子里を訪ねた。

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集落で唯一の商店(ガソリンスタンド併設)も平成24年の秋に閉店した。
あるのは自動販売機だけである。

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北海道大学雨龍研究林の事務所。
隣接地には名古屋大学の観測所がある。

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集落唯一の交差点より。
この先が「2組」で、左手にある母子里簡易郵便局の辺りが「市街班」である。

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「市街班」にある母子里簡易郵便局。
昭和43年度の地図では、10世帯の名前が記されている。
この先に、北母子里駅があった。

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そして、母子里小中学校跡地。
校舎は既に解体され、体育館のみが現存している。
話を聞くと「校舎や体育館は閉校後、一度も使われていない」とのことであった。

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雨竜研究林事務所前より蕗の台方面を望む。
蕗の台は日鋼開拓団 千葉茂雄が中心となって昭和22年6月より開拓が始まった。
しかし、寒冷地であることと酸性土壌による農作物の不作や個人負債が重なり、昭和37年7月 蕗の台集落は解散となった。
卜部信臣曰く「蕗の台は空知管内で一番早く、集団離農した集落」とのことである。
ここも「学校跡がある廃村」のひとつである。

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「2組」にある「母子里クリスタルパーク」
春になればエゾエンゴサクやカタクリ、ミズバショウの群生があり見ごたえがある、とのこと。

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クリスタルパーク前の中垣橋より学校方面を望む。
昭和50年度の航空写真を見ると、2軒の農家があったが現在は無い。

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「3組」と「4組」の境目に位置する母子里神社。
積雪により探訪することが出来なかった。

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「4組」にある牧場。
母子里で唯一の基幹産業であった牧場も、平成23年6月に廃業した。

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母子里集落の高台に位置する「5組(本流)」の家屋跡。
野生化したマツが育っていた。

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5組(本流)の家屋跡。

ある人は「…5組の人たちは優秀な若い人が多かったが、転出も早かった…。」と云う。

そして、こう付け加えた。
「…ここまで人がいなくなるとは、予想もしていなかった…。」

過疎の波を受け、人口も少なくなってしまったが過疎集落対策のモデルとして選ばれた。
今後も、動向を注目したい過疎集落である。
プロフィール

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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