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遠別町大成(エピローグ)

遠別町大成(エピローグ)

平成26年9月14日 遠別町正修聞き取りの帰路のことである。
高橋健治氏の計らいにより、正修手前の大成も少し立ち寄った。

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大成小中学校校舎。
この時期は木々に隠れてしまっている。

CIMG3912
高橋氏は校舎傍の太い老木を指さして、こう言った。

「正面に老木(回線塔の奥)がみえるが、あの木の枝に、昔ブランコが吊り下げられていた。」(注)
「ブランコは勢いづくと、なかなか止まらなかった…。」

(注) 証言は昭和20年代後半から30年代前半と思われる。

帰りの車中、高橋氏はこう言った

「正修もそうだが、東野、大成も今は木々が生い茂っているが、昔は全部田んぼだった。」

道中、指をさしながら「そこに1軒、川向こう(遠別川)に1軒あった。」

「正修が解散してから、大成も急に過疎化が進んだ…。」

「私も最近知ったが、東野小学校は元々、川向こう(遠別川)に校舎があった。ただ、詳しい場所はわからない…。」
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遠別町正修 高橋健治氏の証言及び住居分布図

遠別町正修 高橋健治氏の証言及び正修の住宅地図(平成26年9月14日探訪)

 遠別町正修は平成25年6月8日「学舎の風景」、及び遠別町教育委員会との合同調査で探訪した。
 これから紹介することは、遠別町正修出身の高橋健治氏の聞き取りで得た情報をまとめたものである。

 私は昭和15年に生まれ、昭和21年 正修国民学校に入学した。
 授業は先生が教えていたが、複々式のため先生が教えている児童以外の子供たちはみな、自習だった。
 分からないところは上級生か先生に訊いていた。

 昭和27年に正修小学校を卒業した。中学校は大成だったが、式典(入学式や卒業式等)以外は正修の校舎(注1)で勉強した。
 中学を卒業後、夏は農業に従事して冬は造材で稼ぎに出ていた。

(注1) 大成中学校の分教場扱いである。

 これとは前後して昭和30年頃の話だが、行商の人たちがクルマやバイクで来て魚を売っていた。
 しかし、今のように冷蔵施設なんてないから正修に来たときは、商品は既に腐りかかった状態であったので、タダ同然の値で売られていた。
 行商の人が「これも持って行って」と言って、必要のないものまでも買わされたがそれでもタダ同然であった。
 お金のない人たちは自分たちが栽培した大豆や小豆と物々交換して手に入れていた。

 昭和33年、正修までの道路が整備され、初めてトラックによる作物が出荷できるようになった。
 それ以前は駄馬に小豆や大豆を積んで、市街地まで運んでいた。

 当時の道路は1車線(約3メーター)くらいしかなく、遠別川が氾濫すれば道路も冠水し、集落総出で復旧作業を行った。
 道中にある「念仏峠」も、元々は急カーブの連続であったので馬橇で走るとスピードが付いてしまい、カーブを曲がりきれず転落する危険があった。皆、転落しないように「念仏」を唱えていたところから「念仏峠」と名づけられた。(注2)

(注2) 「遠別町史第二巻」には「2km余の鬱蒼と生い茂る樹林の山道は昼なお薄暗く通行する人たちは念仏を唱えると無事にこの峠越えができると言い伝えがあった。(中略)そして市街地から奥地に向かう入口附近に「峠の願かけ棆」があった。幹は大人4・5人で抱えきれない大樹で、根元の空洞は神様か佛様が安置している幻覚が沸く樹であったが新道建造のため材倒された(略)」とある。
 このことから、町史と高橋氏の証言とは「念仏峠」の意味合いが違う。

 冬になれば雪で山を下りることができなかったので、秋にソーセージや油、醤油といった腐らないものを一斗缶や樽で買って冬に備えた。もし、病気になれば病院へ行くことができないので生きるか死ぬか、ただじっと臥せているしかなかった。

 若い男連中は造材に出稼ぎに行くので、残っているのは女と子供しかいない。
 女と子供で自宅の屋根や付随する小屋(馬小屋など)の雪下ろしだけでなく、学校に積もった雪を下していた。
 学校は屋根に4メートルも雪が積もり、下のほうは既に固くなっており剣先スコップでも刺さらず、作業は一日だけで終わらなかった。

 春先の、先生の人事異動も大変であった。
 特にこれから赴任する先生は、造材である程度道はついていたが、大成最後の民家(大垣さん)までであった。
 問題は家財道具だ。集落総出で先生方の家財道具を運搬した。
 
 学校は「又木ノ沢」の坂道の先にあった。この坂道も長く3~4回曲がった先に学校があった。
 学校は、集落の高台部に位置していた。

 また、春先の学校用の薪割作業も集落総出の奉仕作業であった。薪割作業が一番大変であった。(注3)

(注3) 正修に電気が導入されるのは昭和40年11月20日である

 昭和36年、それまでの薪から石炭に変わったので薪割作業はやらなくなった。

 正修の雪解けは遅く、秋霜が早かった。コメの収穫も少なく5俵獲れれば良いほうであった。
その他、多少アズキやダイズも栽培していた。

 自然環境が厳しい場所であるため、条件の悪いところに入植したところは山を下りて行った。手前の久光や中央地区や歌内方面、さらに炭鉱夫として夕張や築別炭鉱へ転出していった人もいる。ただ、私を含め4戸(高橋・大隅・石川本家及び分家)は比較的、土地に恵まれていたので、出て行かなかった。(注4)

(注4) 「遠別町史第二巻」によれば「昭和40年当初、国の食糧余りから、生産調整に入り、まず主食の米作りに規制措置が布かれ、多くの住民はこの地から去った。」とあるが、実際は上記の理由である。

 昭和38年 中学校が併置された。
 当時、中学の入学者は女子が多く、6キロ離れた大成中学校まで通わすのが大変だったから、設置された。

 昭和43年5月 私の家族は下山した。
 もし、下山しなければ正修の集落解散はもう少し先になっていたかもしれない(注5)。
 
(注5) 集落解散まで残っていたところは、教職員(武藤校長・今野教諭夫妻)を除くと大隅家・石川本家及び分家のみであった。

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CIMG4452 - コピー
CIMG4453 - コピー
上記3点の地図は、2万5千分の1地形図 上遠別(昭和34年1月30日発行)・正修(昭和35年1月30日発行)を組み合わせ、加工したものである。
数字の地点は建物の名称や世帯主が判明した部分である。
赤文字のアルファベッドは、推測の域だが家があった跡と思われる部分である。

① 大成・正修の境界地点 大垣宅。

② 菱田幸一宅 大正末期~昭和初期入植 昭和35年転出

③ 橋本 秀之進宅 昭和10年入植 昭和22年転出

菱田・橋本宅(川の対岸)
対岸より、菱田・橋本宅跡を望む。

A地点 菅野 与助宅? 昭和12年入植 昭和18年転出

B地点 牧野 粂太郎宅? 大正7年入植 昭和19年転出

菅野・牧野宅跡地方面
菅野・牧野宅跡方向を望む。

④ 浦 留蔵宅→高橋 寅之助宅→大隅貞次郎宅
浦 留蔵 大正10年入植 昭和17年転出(逝去)
高橋 寅之助 入植年不明 昭和23年転出(逝去)
大隅 貞之助 昭和11年入植 昭和42年転出

浦→高橋→大隅宅跡(対岸)
対岸の浦→高橋→大隅宅跡を望む。
潅木が生い茂り、全容を知ることはできない。

浦→高橋→大隅宅写真撮影場所
浦→高橋→大隅宅撮影場所。学校はこの先にある。

C地点 佐古 藤吉宅? 大正7年入植 昭和2年?転出(逝去)

⑤ 遠別町立正修小中学校
学校跡
学校のグランド跡が、現 道道688号となっている。

その、法面をよじ登り、笹薮をこぐと古い記念碑が姿を現した。

顕徳碑

正修小学校は開校当時、私立教育所として開校した。
開校当時、渡部与平・柳井作松・石川徳実が教師として子弟の教育に尽力した。
昭和10年 尽力された3先生方を顕彰する目的で、青年学校実習も兼ね、顕徳碑として建立された。
延 109名の労力奉仕で、経費 59円かかっている。

⑥ 高橋 卯右エ門宅 大正7年入植 昭和43年5月転出
転出当時の世帯は高橋正衛

高橋宅跡
高橋宅前にて。

高橋宅前より奥
高橋宅前より奥を望む。

⑦ 石川長三郎・徳実宅 大正7年入植 昭和43年10月転出
転出当時の世帯主は石川俊寿 石川昭夫 本家・分家は不明

学校手前より石川宅(川の対岸)を望む。手前は高橋家農地
学校前の道路より石川宅(川の対岸)を望む。手前は高橋家所有の農地跡。

⑧ 浦 宅→広沢 金三郎宅→大隅千代治宅 
 浦 宅(昭和17年頃まで?)→広沢 金三郎
 広沢 金三郎 昭和10年入植 昭和18年転出
 大隅 千代治 昭和11年入植 昭和43年転出
 転出当時の世帯主は大隅 栄太郎。
大隅宅跡
大隅宅跡にて。


⑨ 後藤 嘉六宅 昭和13年入植 昭和35年転出
   転出当時の世帯主は後藤平喜。

⑩ 柳井 作松宅  大正6年入植 昭和9年転出

柳井宅跡
柳井宅跡を望む。

柳井宅より奥
柳井宅より奥を望む。

⑪ 久米 松治郎宅 大正11年入植 昭和20年転出

久米宅跡
久米宅跡を望む。

久米宅前より奥
久米宅より奥を望む。

昭和43年10月に残り3戸が正修を離れ、集落が解散した。
解散から40年以上の月日が流れ、集落の痕跡は「正修」の地名、平地、そして今回発見した「顕徳碑」であった。

最後に、ご協力いただいた高橋健治氏に深く感謝申し上げます。

(参考・引用文献)
遠別町史第2巻 第6編 地域編 6 大成 p954 18-24、7 正修 p955 26-27 平成15年2月20日発行
正修校と部落の歩み 武藤正彦編 昭和43年10月23日発行(遠別町立郷土資料館収蔵)
2万5千分の1地形図 上遠別(昭和34年1月30日発行)・正修(昭和35年1月30日発行) 

八雲町上鉛川

八雲町上鉛川(平成26年10月12日探訪)

八雲町上鉛川は、明治40年遊楽部川と鉛川の合流点より遡ることおよそ10キロから22キロに渡るペンケルペシュペ殖民地内の基線地帯が区画開放された。

※「遊楽部川と鉛川の合流点より遡ることおよそ10キロから22キロ」であるが、これだと八雲鉱山まで該当してしまうので「八雲町史」の文面は間違いである。
遊楽部川と鉛川の「合流点」から起算すれば、大体6キロである。

※「10キロから22キロ」は八雲駅から起算しての数字である。

当時の人々は「奥鉛川」と呼んでいた。

明治41年 渡辺久三郎ら5戸が入植し、明治44年には戸数40戸を超えていたが、当時は道路そのものが無かった。
そのため、開拓と同時並行して雲石街道の開削が進められていた。

鉛川下流区域の子供たちは、鉛川特別教授場(後の鉛川小学校)に通学することができたが、上流部の子供たちは通学の距離の関係で出来なかった。

住民らは総力を結集し、教育所の創設を陳情した。
その結果、大正2年1月 特別教授場の新設について議決を得ることができたが住民らは先駆けて私設教育所を開設し、末松謙を教員として雇った。

だが、公設が容易に実現しなかったため、私設のまま維持できる資金もなく翌3月限りで廃止となってしまった。

しかし村もこのままにするわけにはいかず、これを仮校舎に当てて大正3年4月10日 八雲尋常高等小学校付属上鉛川特別教授場として開校した。
開校当時の戸数は42戸で、児童数は24名。教員として大江安蔵が任命された。

翌大正4年 児童が32名に増えたことや仮校舎が粗末であったこと、建築場所自体が低湿地であったため、早急な改築が迫られた。

住民らは協議を重ね、ペンケルペシュペ基線10号58番地(当時 田中今吉所有)の土地を借り受け、村からの補助金100円と寄付金160円を集め、出役奉仕で同年9月に新校舎が落成した。

大正5年 児童数が36名を数えたが、この時が頂点であった。

大正12年度までは30名台を維持してきたが、大正13年度に20名以下に落ち込んだ。

昭和3年に再び20名台を維持し、昭和13年頃まで続いた。

昭和16年4月1日 八雲国民学校上鉛川分教場と改称。

昭和22年4月1日 八雲小学校上鉛川分教場と改称。

昭和25年10月1日 上鉛川小学校と独立。

昭和26年1月より中学生3名を、小学校で委託を受けて教授する方式が取り入れられていたが、昭和27年9月 上鉛川中学校が設立された。

また、老朽化した校舎の改築が急がれていたことから昭和29年10月 49坪の校舎を新築した。

小学生20名 中学生8名で新体制を整えたが、間もなく過疎化の影響を受け始めていった。

昭和34年 小学生10名 中学生6名。

昭和39年 小学生3名 中学生4名にまで減少し、残された住民と話し合いをした結果、児童生徒の通学輸送を要件として話がまとまった。

昭和40年3月31日 閉校となった。

閉校後、長らく校舎の一部や教員住宅が残されていた。

時が経ち、平成20年度・21年度に八雲町地域バイオマス利活用施設の建設工事が行われた。

工事は平成22年3月25日に完了し、稼働が始まった。

工事に伴い、辛うじて残っていた校舎の一部や教員住宅は解体された。

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学校前の風景。
真新しい工場が稼働しているが、工場以外の建物は見当たらない。

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工場の片隅に、学校跡地を示す記念碑はあった。

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紛れもない、上鉛川小中学校跡地である。

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学校跡地より奥の風景。
サイロも残されていたらしいが、道南の廃校に詳しいラオウ氏の話では「道路工事の際に撤去されてしまった」とのことである。

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学校手前にあった上鉛川神社跡地へ行ってみる。

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背後には、ご神木と思われる樹木が聳えている。
笹薮をかき分けて進む。

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拝殿の屋根があった。

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別な角度より。
上鉛川の痕跡は、学校跡地の記念碑と拝殿の屋根しか残されていなかった。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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