八雲町富咲
八雲町富咲(平成26年10月12日探訪)
八雲町富咲は、農業で栄えた集落であった。
明治30年2月 大阪出身である長谷川寅次郎・井上徳兵衛と下関出身 安井作次郎・大井重吉ら4名が共同出願して、ペンケルペシベ川以北 およそ1043町歩(約1043ヘクタール)の貸付を受け、大関農場を創設し38戸の入植者をみた。
トワルベツ(後の富咲)は大関農場の開拓を中心として、明治36年 330町歩(約330ヘクタール)の貸付を受けた萩原農場をはじめ吉植農場、さらに増田・田下・久保などの牧場が開設され、入植者や炭焼き業者を迎えた。
子供たちは大関尋常小学校まで通っていたが、トワルベツから大関まで8キロも離れていた。
住民らは協議し、明治40年1月 高橋忠蔵所有の澱粉乾燥場を改造し、私設教育所を開設した。教員として、伊能大吉を雇った。
しかし、維持するのは容易ではなく、同年5月に休校。同年11月に木戸忠之助所有の澱粉乾燥小屋を借りて再開したが、教育所を維持することは易しくなかった。
明治41年4月 増田鶴寿ら38名の連署のうえ、公設教授場の開設を陳情したところ認められた。
明治41年12月15日 大関尋常小学校付属トワルベツ特別教授場として開校した。
開校に伴い、校舎を久保市蔵所有の澱粉置場に移転し、伊能大吉が引き続き教員となった。
村として、数多くの教授場を設置することは経済的な面からも妥当ではないことからトワルベツ特別教授場とサックルペシベ特別教授場(後の大関小学校夏路分校)の統合を計画し、両地区の境界付近に新校舎を建設した。
だが、トワルベツ側は教員自体も不便であるという理由で移転せず、サックルペシベ側も従来どおりの教授場に通っていたため、統合計画は失敗に終わった。
明治44年7月 高橋勝次所有の薪小屋を仮校舎に当てた後、同年10月に増田農場事務所の傍らに校舎を新築した。
大正4年4月1日 それまでのカタカナを漢字に改め「富有別(トアルベツ)特別教授場」と改称。
改称にあたり、地域の住民らが用いつつあった「都有別」という漢字を支庁に上申した。
支庁側は「読み誤り」の恐れがあるので「トワルベツ」を意訳した「温川(ヌルカワ)」という名称を提案したが、地域の住民らは「学校ノ名称ハ概して所在地又ハ其部落ヲ代表スル特殊呼称ヲ冠セザルナク」として、「都」から「富」に改めたものの「富有別」で押し切った。
その後、教場は継続されたが山間へき地であることや、薪炭材の皆伐、地力低下、水害による橋の流出が重なり、離農者が続出し昭和15年には3名となった。
近い将来においても、戸数の増加が期待できなかったため、昭和15年3月31日付で閉校となった。
同じく、明治末期から大正初期にかけてトワルベツ川上流地帯の黒岩側稜線寄りの高台地が解放され、入植者が現れた。
ここはトワルベツ特別教授場が最寄であったが、学校まで8キロも離れていた。
住民らは協議を重ねた結果、伊藤栄記所有の建物を借受け、仮教場として大正3年 児童12名を集め、佐藤乙吉を教員として雇い授業を行った。
同年5月には地域住民の奉仕で教員住宅併設の教場を新築した。
教場建設のみならず、教員の俸給を含めたすべての経費を負担するのは容易ではなかった。
同年11月 地域住民らは村当局に公設の教授場設置を陳情したが、回答は「村経済ノ関係上当分開設シ能ハサル」であった。
そのため、私設のまま継続せざるを得なかった。
これと前後して、黒岩地区の高台奥地(黒岩原野)が解放され、入植者が現れた。
ここも、最寄りの黒岩校まで8キロも離れていた。
地域住民らは協議を重ねた結果、大正5年5月 児童8名を収容し私設教育所を開校した。
だが、諸経費は地域住民がすべて負担していたため、経営は困難であったが、翌年11月に教員が退職してしまい、廃止された。
両地区とも同じ問題を抱えていたが、村当局では特別教授場を設置する条件を満たしていないことや、財政問題から双方の折衷案を出すよう説得した。
説得の結果、大正9年3月にトワルベツ地区(8戸) 伊藤栄記 黒岩地区(22戸)岩渕音作が連署して町当局に出願した。
出願に際し、教授場の建物や一切の設備は住民負担ということを条件とした。
これにより、双方の地区名より一字ずつとって「黒岩尋常小学校付属富岩特別教授場」として、同年5月1日の開校を見た。
但し、5月1日開校にあわせて指定された場所への移動は難しかったため、応急処置としてトワルベツ地区の旧教場を当てた。
校舎を新築したのは、同年11月のことであった。
しかし学校が山間地域ということもあり、開校してから間もなく離農者が現れ始め、昭和7年には9名。
昭和13年には4名にまで減少した。
町では将来の増加も見込めないことから、児童一人に月額5円の就学奨励費を支給し、昭和14年3月末を以って廃校となった。
子供たちは、黒岩尋常小学校へ通学することとなった。
昭和14年3月6日付の函館新聞には「教授場を廃止 児童に奨学金給与」とある。
「(八雲発)黒岩所属富岩特別教授場は第一回八雲町会において三月三十一日限り廃止と決定 在学児童四名につき年額60円の奨学金を給与して黒岩校に通学せしめることになった」
昭和22年より、戦後開拓によりトワルベツに入植者が現れた。
昭和22年 7戸入植。
昭和24年 15戸入植。
昭和29年 2戸入植。
昭和30年 6戸入植。
子供たちは、最寄の大関小学校まで通っていたが遠距離で悪路であったため、通学は困難であった。
地区住民から分校設置の要望の声が高まっていった。
昭和31年3月13日付 北海道新聞(渡島・桧山版)に「雪解け待ち着工 トワルベツ部落に分教場」とある。
「ユーラップ川の支流トワルベツ川の源にのぞむトワルベツ部落は桧山との境に近い八雲で最も奥深い部落で、五、六年前からユーラップ川の流域各農家の二、三男が入植、戸数二十五を数えているが、同部落の学童は小学生二十五名、中学生十名もあり、かよわい子供たちが冬は体を没する除雪に悩み、秋は熊の襲撃に怯えながら一里半も離れた下流の大関小、中学校に通学している。(中略)このほど、大関小トワルベツ分教場として六十坪の校舎を融雪早々つくることになった。(後略)」とある。
同年11月13日の北海道新聞(渡島・桧山版)に「16年ぶりに明るい顔 富咲部落 待望の開拓分校完成」とある。
「終戦後まで開拓地を守り続けた家はわずかに二戸しかなかったが、二十三年から再び入植が始まり、南北三里の流域一帯に現在までに引揚者、八雲町の農家の二・三男などが計三十戸入り(中略)、部落では昨年から分教場の開設を町に陳情、町でもトワルベツ川流域が今後さらに開拓する発展する可能性のあることを考え合わせ、七月から工費百七十万円で六十坪の分教場新築工事に取り掛かり(中略)先生も今金町から松橋保夫先生が着任したので、大島町教育委員長北口助役らをはじめ、生徒、部落民一同で七日校舎落成と開校の式を挙げた。(後略)」
しかし、校下は入植者も現れず、むしろ転出者が現れ始めていた。
昭和42年4月 富咲小学校と改称。
昭和44年7月16日付北海道新聞(渡島・桧山版)に「単複校の友だちが交歓 楽しく合唱、演奏 ウサギのプレゼントも」とある。
これは八雲町内のすべての学校を対象にした、音楽交歓会の記事で、趣旨としては歌や器楽演奏を通し、交流の少ない他校の児童たちと交流することであった。
八雲町内の子供たちは、得意の合唱や器楽、遊戯を披露した。
そんななか、会場の話題を呼んだのは富咲小学校であった。以下、抜粋する。
「なかでも会場の話題を呼んだのは富咲小(安井貢校長、八人)のウサギ贈呈式。子供たちにやさしい心を育てよう-と安井校長の発案で一昨年から飼い始めた四匹の親ウサギがこの春子供を生んだため、以前、ダリアの球根をたくさんもらった上ノ湯小(長谷部実校長、三十人)にお礼の気持ちをこめてプレゼントしたもの。」
「富咲小五年の稲垣政広君が『まだ名前はついていませんがかわいがってください』とあいさつしたあと、ピョンピョン元気にはねまわる子ウサギを手渡すと、上ノ湯小の児童は『かわいいな』とニッコリ。〝山の学校〟」同士の暖かな友情の輪の中でしっかり握手をかわし合っていた。(後略)」
文面に登場する安井貢校長はこの後も新聞に度々掲載されている。
昭和47年1月14日付の北海道新聞 渡島桧山版には「通学少しでも楽に、八雲富咲小の先生たちが思いやり ムシロで防雪さく作る」とある。
「(前略)児童たちの登、下校が少しでも楽なように-と安井校長らが、学校近くの通学路にムシロを張った防雪さくを作った。(中略)一時は農家も二十戸ほどあったが、離農が相次ぎ、いまではたったの二戸。このため、冬は道路の除雪もできず、市街地との連絡は安井校長のと〝雪上車〟と、農家の富坂福之助さんが持っているスノーモービルによってかろうじて保たれている状態。(中略)同校では、〝吹雪から子供たちを少しでも守ってやろう〟と町から無償で七十枚のムシロをもらい、このほど安井校長、神原先生、それに富坂さんと三人で、学校近くのいつも吹きだまりが出来る個所、四十五メートルに防雪さくを作った。」
「安井校長は、『この山奥では、これだけの防雪さくは焼け石に水のようなものだが、ふぶかれる子供たちにとってこれほどありがたいものはない。三学期も元気に登校してほしい』と、元気な子供たちの姿を見るのを楽しみにしている」とある。
しかし、この年の3月末を以て閉校になった。
昭和47年3月25日付の北海道新聞 渡島桧山版(夕刊)には、こうある。
「〝さよなら!富咲小〟 在校生ついに一人 寂しく卒業、閉校式」
「(前略)戦後の開拓者入植で三十一年に大関小学校富咲分校として開校、四十三年には独立したが、離農が相次ぎ、一時は二十人を越えた児童もいまではわずか四人。さらにこの三月で六年生二人(注1)が卒業、二年生一人(注2)も転出して、残るのは五年生の富坂良春君(注3)ただ一人になるため、新学期から約八キロ離れた隣の大関小に統合することになった。」
「卒業式と閉校式には小泉町助役らや、たった二戸残った農家の人たちが出席、『離農者は歯がかけるように次々と出て行きました』『楽しかったみんなとの生活がいつまでも忘れません』-こもごも呼びかける子供たちや先生の声は寂しさを隠し切れず、こらえ切れずに目にハンカチをあてるお母さんもいた。」
(注1) 「六年生二名」は、富咲集落で残っていた富坂・松本両家の児童(女子)である。
(注2) 「二年生一人」は、富咲小学校に赴任していた神原先生の娘である。
(注3) 「五年生の…」とあるが、閉校式当時は4年生である。閉校後、富坂良春君は本校(大関小学校)ではなく、大関小学校夏路分校へ通学していた。
そのため「改訂 八雲町史 下巻」 の「大関小学校夏路分校」には「四十五年には一家族の姉弟だけ四名という特異な現象となった。こうして、姉弟だけの学校として存続し、全員が卒業してしまった五十一年三月限りをもって在籍数はゼロとなり、自然廃校になった。」というのは誤りである。

大関小学校を過ぎ「大富橋」を渡る。
この先から、富咲集落になる。

電柱を見ると「富咲」と記されている。

ピンボケとなってしまい、失礼。
道沿いを進むと、学校跡地が見えてきた。
これは、振り返っての風景。

学校跡地手前。
正面にある大きな松の木は、閉校記念に植樹されたものである。

記念碑を探すべく、薮の中に入る。以下、ラオウ氏の回想である。
「平成2年に富坂福之助さんや、伊藤千代吉さんと一緒に富咲を案内していただいたことがあった。二人とも、富咲の『生き字引』的な存在だった。」と語る。

薮を書き分けていくと、学校跡地の記念碑が姿を現した。

裏面には閉校年月日が記されている。

記念碑周辺は、人の背丈ほどのササが生い茂っており、この時期の発見は困難を極める。

記念碑周辺を歩くと、学校の便槽(トイレ)が残っていた。

トイレ前の風景。
校舎があった場所は、原生林に帰っていた。

しかし、よく見ると屋根の一部が残っていた。

富岩特別教授場の跡地を目指すべく、富咲小学校よりも奥へと進む。
離農したサイロがポツンと佇んでいる。

そのサイロより奥の風景。
進んでみる。
この後、地図と照らし合わせたりして迷いながらも、『推測』の域だがそれらしき場所に到達する。

富岩特別教授場跡地前と思われる場所である。
周囲は笹薮で覆われており、一見すると「ただの笹薮」である。

しかし左手には、明らかに周囲の植生と違う「マツ」の木が並んでいる。

富岩特別教授場跡地と思われる場所である。
雪解け直後、笹が倒れているときに再訪すれば、もしかしたら何らかの「痕跡」があるかもしれない。

帰りがけに見た風景。
ススキや笹の向こうがわに、サイロがあった。
校舎は閉校後、間もなく解体されて八雲町栄町会館の建築資材として転用された。
しかし、それも随分前に解体され、今は新しい栄町会館が建っている。
八雲町富咲は、農業で栄えた集落であった。
明治30年2月 大阪出身である長谷川寅次郎・井上徳兵衛と下関出身 安井作次郎・大井重吉ら4名が共同出願して、ペンケルペシベ川以北 およそ1043町歩(約1043ヘクタール)の貸付を受け、大関農場を創設し38戸の入植者をみた。
トワルベツ(後の富咲)は大関農場の開拓を中心として、明治36年 330町歩(約330ヘクタール)の貸付を受けた萩原農場をはじめ吉植農場、さらに増田・田下・久保などの牧場が開設され、入植者や炭焼き業者を迎えた。
子供たちは大関尋常小学校まで通っていたが、トワルベツから大関まで8キロも離れていた。
住民らは協議し、明治40年1月 高橋忠蔵所有の澱粉乾燥場を改造し、私設教育所を開設した。教員として、伊能大吉を雇った。
しかし、維持するのは容易ではなく、同年5月に休校。同年11月に木戸忠之助所有の澱粉乾燥小屋を借りて再開したが、教育所を維持することは易しくなかった。
明治41年4月 増田鶴寿ら38名の連署のうえ、公設教授場の開設を陳情したところ認められた。
明治41年12月15日 大関尋常小学校付属トワルベツ特別教授場として開校した。
開校に伴い、校舎を久保市蔵所有の澱粉置場に移転し、伊能大吉が引き続き教員となった。
村として、数多くの教授場を設置することは経済的な面からも妥当ではないことからトワルベツ特別教授場とサックルペシベ特別教授場(後の大関小学校夏路分校)の統合を計画し、両地区の境界付近に新校舎を建設した。
だが、トワルベツ側は教員自体も不便であるという理由で移転せず、サックルペシベ側も従来どおりの教授場に通っていたため、統合計画は失敗に終わった。
明治44年7月 高橋勝次所有の薪小屋を仮校舎に当てた後、同年10月に増田農場事務所の傍らに校舎を新築した。
大正4年4月1日 それまでのカタカナを漢字に改め「富有別(トアルベツ)特別教授場」と改称。
改称にあたり、地域の住民らが用いつつあった「都有別」という漢字を支庁に上申した。
支庁側は「読み誤り」の恐れがあるので「トワルベツ」を意訳した「温川(ヌルカワ)」という名称を提案したが、地域の住民らは「学校ノ名称ハ概して所在地又ハ其部落ヲ代表スル特殊呼称ヲ冠セザルナク」として、「都」から「富」に改めたものの「富有別」で押し切った。
その後、教場は継続されたが山間へき地であることや、薪炭材の皆伐、地力低下、水害による橋の流出が重なり、離農者が続出し昭和15年には3名となった。
近い将来においても、戸数の増加が期待できなかったため、昭和15年3月31日付で閉校となった。
同じく、明治末期から大正初期にかけてトワルベツ川上流地帯の黒岩側稜線寄りの高台地が解放され、入植者が現れた。
ここはトワルベツ特別教授場が最寄であったが、学校まで8キロも離れていた。
住民らは協議を重ねた結果、伊藤栄記所有の建物を借受け、仮教場として大正3年 児童12名を集め、佐藤乙吉を教員として雇い授業を行った。
同年5月には地域住民の奉仕で教員住宅併設の教場を新築した。
教場建設のみならず、教員の俸給を含めたすべての経費を負担するのは容易ではなかった。
同年11月 地域住民らは村当局に公設の教授場設置を陳情したが、回答は「村経済ノ関係上当分開設シ能ハサル」であった。
そのため、私設のまま継続せざるを得なかった。
これと前後して、黒岩地区の高台奥地(黒岩原野)が解放され、入植者が現れた。
ここも、最寄りの黒岩校まで8キロも離れていた。
地域住民らは協議を重ねた結果、大正5年5月 児童8名を収容し私設教育所を開校した。
だが、諸経費は地域住民がすべて負担していたため、経営は困難であったが、翌年11月に教員が退職してしまい、廃止された。
両地区とも同じ問題を抱えていたが、村当局では特別教授場を設置する条件を満たしていないことや、財政問題から双方の折衷案を出すよう説得した。
説得の結果、大正9年3月にトワルベツ地区(8戸) 伊藤栄記 黒岩地区(22戸)岩渕音作が連署して町当局に出願した。
出願に際し、教授場の建物や一切の設備は住民負担ということを条件とした。
これにより、双方の地区名より一字ずつとって「黒岩尋常小学校付属富岩特別教授場」として、同年5月1日の開校を見た。
但し、5月1日開校にあわせて指定された場所への移動は難しかったため、応急処置としてトワルベツ地区の旧教場を当てた。
校舎を新築したのは、同年11月のことであった。
しかし学校が山間地域ということもあり、開校してから間もなく離農者が現れ始め、昭和7年には9名。
昭和13年には4名にまで減少した。
町では将来の増加も見込めないことから、児童一人に月額5円の就学奨励費を支給し、昭和14年3月末を以って廃校となった。
子供たちは、黒岩尋常小学校へ通学することとなった。
昭和14年3月6日付の函館新聞には「教授場を廃止 児童に奨学金給与」とある。
「(八雲発)黒岩所属富岩特別教授場は第一回八雲町会において三月三十一日限り廃止と決定 在学児童四名につき年額60円の奨学金を給与して黒岩校に通学せしめることになった」
昭和22年より、戦後開拓によりトワルベツに入植者が現れた。
昭和22年 7戸入植。
昭和24年 15戸入植。
昭和29年 2戸入植。
昭和30年 6戸入植。
子供たちは、最寄の大関小学校まで通っていたが遠距離で悪路であったため、通学は困難であった。
地区住民から分校設置の要望の声が高まっていった。
昭和31年3月13日付 北海道新聞(渡島・桧山版)に「雪解け待ち着工 トワルベツ部落に分教場」とある。
「ユーラップ川の支流トワルベツ川の源にのぞむトワルベツ部落は桧山との境に近い八雲で最も奥深い部落で、五、六年前からユーラップ川の流域各農家の二、三男が入植、戸数二十五を数えているが、同部落の学童は小学生二十五名、中学生十名もあり、かよわい子供たちが冬は体を没する除雪に悩み、秋は熊の襲撃に怯えながら一里半も離れた下流の大関小、中学校に通学している。(中略)このほど、大関小トワルベツ分教場として六十坪の校舎を融雪早々つくることになった。(後略)」とある。
同年11月13日の北海道新聞(渡島・桧山版)に「16年ぶりに明るい顔 富咲部落 待望の開拓分校完成」とある。
「終戦後まで開拓地を守り続けた家はわずかに二戸しかなかったが、二十三年から再び入植が始まり、南北三里の流域一帯に現在までに引揚者、八雲町の農家の二・三男などが計三十戸入り(中略)、部落では昨年から分教場の開設を町に陳情、町でもトワルベツ川流域が今後さらに開拓する発展する可能性のあることを考え合わせ、七月から工費百七十万円で六十坪の分教場新築工事に取り掛かり(中略)先生も今金町から松橋保夫先生が着任したので、大島町教育委員長北口助役らをはじめ、生徒、部落民一同で七日校舎落成と開校の式を挙げた。(後略)」
しかし、校下は入植者も現れず、むしろ転出者が現れ始めていた。
昭和42年4月 富咲小学校と改称。
昭和44年7月16日付北海道新聞(渡島・桧山版)に「単複校の友だちが交歓 楽しく合唱、演奏 ウサギのプレゼントも」とある。
これは八雲町内のすべての学校を対象にした、音楽交歓会の記事で、趣旨としては歌や器楽演奏を通し、交流の少ない他校の児童たちと交流することであった。
八雲町内の子供たちは、得意の合唱や器楽、遊戯を披露した。
そんななか、会場の話題を呼んだのは富咲小学校であった。以下、抜粋する。
「なかでも会場の話題を呼んだのは富咲小(安井貢校長、八人)のウサギ贈呈式。子供たちにやさしい心を育てよう-と安井校長の発案で一昨年から飼い始めた四匹の親ウサギがこの春子供を生んだため、以前、ダリアの球根をたくさんもらった上ノ湯小(長谷部実校長、三十人)にお礼の気持ちをこめてプレゼントしたもの。」
「富咲小五年の稲垣政広君が『まだ名前はついていませんがかわいがってください』とあいさつしたあと、ピョンピョン元気にはねまわる子ウサギを手渡すと、上ノ湯小の児童は『かわいいな』とニッコリ。〝山の学校〟」同士の暖かな友情の輪の中でしっかり握手をかわし合っていた。(後略)」
文面に登場する安井貢校長はこの後も新聞に度々掲載されている。
昭和47年1月14日付の北海道新聞 渡島桧山版には「通学少しでも楽に、八雲富咲小の先生たちが思いやり ムシロで防雪さく作る」とある。
「(前略)児童たちの登、下校が少しでも楽なように-と安井校長らが、学校近くの通学路にムシロを張った防雪さくを作った。(中略)一時は農家も二十戸ほどあったが、離農が相次ぎ、いまではたったの二戸。このため、冬は道路の除雪もできず、市街地との連絡は安井校長のと〝雪上車〟と、農家の富坂福之助さんが持っているスノーモービルによってかろうじて保たれている状態。(中略)同校では、〝吹雪から子供たちを少しでも守ってやろう〟と町から無償で七十枚のムシロをもらい、このほど安井校長、神原先生、それに富坂さんと三人で、学校近くのいつも吹きだまりが出来る個所、四十五メートルに防雪さくを作った。」
「安井校長は、『この山奥では、これだけの防雪さくは焼け石に水のようなものだが、ふぶかれる子供たちにとってこれほどありがたいものはない。三学期も元気に登校してほしい』と、元気な子供たちの姿を見るのを楽しみにしている」とある。
しかし、この年の3月末を以て閉校になった。
昭和47年3月25日付の北海道新聞 渡島桧山版(夕刊)には、こうある。
「〝さよなら!富咲小〟 在校生ついに一人 寂しく卒業、閉校式」
「(前略)戦後の開拓者入植で三十一年に大関小学校富咲分校として開校、四十三年には独立したが、離農が相次ぎ、一時は二十人を越えた児童もいまではわずか四人。さらにこの三月で六年生二人(注1)が卒業、二年生一人(注2)も転出して、残るのは五年生の富坂良春君(注3)ただ一人になるため、新学期から約八キロ離れた隣の大関小に統合することになった。」
「卒業式と閉校式には小泉町助役らや、たった二戸残った農家の人たちが出席、『離農者は歯がかけるように次々と出て行きました』『楽しかったみんなとの生活がいつまでも忘れません』-こもごも呼びかける子供たちや先生の声は寂しさを隠し切れず、こらえ切れずに目にハンカチをあてるお母さんもいた。」
(注1) 「六年生二名」は、富咲集落で残っていた富坂・松本両家の児童(女子)である。
(注2) 「二年生一人」は、富咲小学校に赴任していた神原先生の娘である。
(注3) 「五年生の…」とあるが、閉校式当時は4年生である。閉校後、富坂良春君は本校(大関小学校)ではなく、大関小学校夏路分校へ通学していた。
そのため「改訂 八雲町史 下巻」 の「大関小学校夏路分校」には「四十五年には一家族の姉弟だけ四名という特異な現象となった。こうして、姉弟だけの学校として存続し、全員が卒業してしまった五十一年三月限りをもって在籍数はゼロとなり、自然廃校になった。」というのは誤りである。

大関小学校を過ぎ「大富橋」を渡る。
この先から、富咲集落になる。

電柱を見ると「富咲」と記されている。

ピンボケとなってしまい、失礼。
道沿いを進むと、学校跡地が見えてきた。
これは、振り返っての風景。

学校跡地手前。
正面にある大きな松の木は、閉校記念に植樹されたものである。

記念碑を探すべく、薮の中に入る。以下、ラオウ氏の回想である。
「平成2年に富坂福之助さんや、伊藤千代吉さんと一緒に富咲を案内していただいたことがあった。二人とも、富咲の『生き字引』的な存在だった。」と語る。

薮を書き分けていくと、学校跡地の記念碑が姿を現した。

裏面には閉校年月日が記されている。

記念碑周辺は、人の背丈ほどのササが生い茂っており、この時期の発見は困難を極める。

記念碑周辺を歩くと、学校の便槽(トイレ)が残っていた。

トイレ前の風景。
校舎があった場所は、原生林に帰っていた。

しかし、よく見ると屋根の一部が残っていた。

富岩特別教授場の跡地を目指すべく、富咲小学校よりも奥へと進む。
離農したサイロがポツンと佇んでいる。

そのサイロより奥の風景。
進んでみる。
この後、地図と照らし合わせたりして迷いながらも、『推測』の域だがそれらしき場所に到達する。

富岩特別教授場跡地前と思われる場所である。
周囲は笹薮で覆われており、一見すると「ただの笹薮」である。

しかし左手には、明らかに周囲の植生と違う「マツ」の木が並んでいる。

富岩特別教授場跡地と思われる場所である。
雪解け直後、笹が倒れているときに再訪すれば、もしかしたら何らかの「痕跡」があるかもしれない。

帰りがけに見た風景。
ススキや笹の向こうがわに、サイロがあった。
校舎は閉校後、間もなく解体されて八雲町栄町会館の建築資材として転用された。
しかし、それも随分前に解体され、今は新しい栄町会館が建っている。
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八雲町八雲鉱山
八雲町八雲鉱山(平成26年10月12日探訪)
八雲町八雲鉱山は、鉱業で栄えた集落である。
鉱山の生い立ちは古く、延宝2年(1674)に金・銀・鉛などを採掘し、当時は「遊楽部鉱山」と呼ばれていた。
ただし八雲市街地からも離れていたため、生産高に限界が生じ経営者も何回か代わっていった。
昭和6年 八雲鉱業株式会社が経営するようになり、当時産出していたマンガン鉱が脚光を浴びると、経営規模も次第に拡張していった。
経営規模の拡張に伴い、戸数も増加するとともに子弟も増えていった。
会社側は、子弟の教育のために町と折衝した。
将来的に、校舎や設備関係は会社が負担するが、取りあえず鉱夫長屋を仮校舎として、机・腰掛け等の設備の全部を負担すること、教員の俸給・消耗品といった経費関係の半額を会社に寄付することを条件とした。
昭和9年5月20日 八雲尋常高等小学校付属八雲鉱山特別教授場として開校した。
開校当時の教員として、斉藤左一郎が任命された。
昭和11年 八雲鉱山の経営母体が中外鉱業株式会社に移行した。
支那事変により、マンガンの増産が要請され事業を拡張していった。
当然、児童も急激に増加し、尋常科を卒業した者の教育も配慮しなくてはいけなくなった。
昭和15年 会社としては新校舎を建築し、会社が経営している間は無償で町に貸与すること、経費一切を寄付することを条件として提示した上で高等科を併設するよう請願した。
これについて、昭和15年3月27日付の函館新聞に、こう記されている。
「独立を要望 二小学校昇格申請」
「(前略)又八雲鉱山特別教授場は入山者の増加に伴う二学級編成と共に八雲鉱山尋常小学校として独立の希望あり。この申請も渡島支庁に提出されたがいづれも附日認可をみる模様であると」とある。
町はこれを認め、同年3月26日 八雲鉱山尋常高等小学校として認可。
新校舎は同年9月に完成。2学級編成(60名)となった。
これを裏付けるものとして、昭和15年3月31日付の函館新聞に「八雲鉱山尋常校申請認可さる」とある。
「予ねて申請中の八雲鉱山教授所は二学級に増級。四月一日より尋常小学校に昇格指令され八雲鉱山尋常小学校と改称されて始業することになった」とある。
昭和16年4月1日 八雲鉱山国民学校と改称。
昭和22年4月 八雲鉱山小学校と改称。
併せて、八雲中学校八雲鉱山分校が併設されたが、昭和23年4月 中学校は独立。
昭和25年 中学校校舎を増築。
昭和31年6月 へき地集会室の増設。
学校の経費に対する会社側の寄付もその後廃止され、校舎も町に寄付された。
昭和30年 小学校児童数129名(3学級) 中学校生徒62名(2学級)を数え、さらに増加していった。
特に、小学校児童数は昭和34年から36年にかけて、150名(4学級)を超えていた。
町では昭和35年に中学校校舎に2教室を増築した。
併せて、小学校校舎も一部増築や修繕を行った。
この時がピークだった。
昭和37年 マンガン埋蔵量に限界が見えてきたことから大幅な縮小転換が行われた。
昭和38年の在籍数 小学校90名 中学生37名に激減した。
町は理科実験室(昭和39年)、へき地集会室(昭和40年)の新築を行い、整備に努めた。
会社の経営母体は、昭和40年に八雲鉱業株式会社に移行した。
だが、生産額の減少や悪条件が重なった。
昭和44年4月末をもって閉山となった。
昭和44年当初は小学校39名 中学校14名が在籍していたが、閉山に伴い転出者が続出した。
北海道新聞(渡島・桧山) 夕刊 昭和44年5月23日付の記事に「残り少ない〝ヤマの灯〟 閉山の八雲鉱業所の表情」として取り上げられている。
記事が掲載された時点で、鉱山勤務者は事務職員・選鉱員・退職者ら30名ほどが最後の仕事に従事していた。
一方、学校のほうは15名の子供たちが、運動会の練習に余念がない様子を取り上げていた。
この記事から間もなく、昭和44年5月27日付の渡島・桧山版に「閉山、廃校を前に最後の運動会 まちぐるみ楽しく」とある。
5月25日、鉱山最後の運動会ということもあり、八雲鉱業・八雲鉱山小中連合の大運動大会が行われた。函館や町内各地より先輩や先生らが詰め掛けた。
紅白玉入れのほか、リレー、ビールやジュースを早飲みする「ちょっと一杯」などのゲームが行われた。
ソーラン節や盆踊りを踊って終了した時、香田校長(注)は「もうこの体育館を使って運動会を開くこともないでしょう。みなさん、きょうの思い出を忘れないで…」と言葉を詰まらせながら挨拶すると、父母の中には目にハンカチをあてる姿も見られた。
(注)北海道新聞記事では香田校長とあるが、道南の廃校に詳しいラオウ氏の話によると、実際は教頭職で、当時は大橋校長が赴任していた。
運動会の後、町長、教育委員長も出席して「お別れパーティー」が行われ、昔のヤマの話やこれからの生活の話で盛り上がった。
学舎は、昭和44年7月31日付で閉校となった。
最後まで残っていたのは、校長先生の娘だけであった。
その後、昭和44年8月22日付の夕刊(道南版)に「小中校の統廃合必至」という記事が掲載されたが、写真は八雲鉱山小中学校であった。

八雲町上鉛川小学校跡地を過ぎ、どんどん進む。

この橋(道)の先に坑口があるが、木々が生い茂っており見出すことはできない。
また、かつて橋を渡って左手に、ズリ山があった。
今回は橋を渡らず、先へ進む。

走っていくと、右手に学校跡の記念碑が見えた。
記念碑建立が話に出たとき、八雲鉱山出身者で結成しているOB会が「学校の記念碑を建てるなら、一番立派なものを建ててくれ」と町に頼んだ経緯がある。

学校跡地は草木で覆われていた。

しかし、よく見ると体育館の基礎が残っている。

こちらは体育館の基礎ではなく、職員玄関の基礎である。

鉱山事務所の手前の道路わきに「お墓」があった。
手を合わせていたワンダーフォーゲルの方に伺うと、かつての八雲鉱山の墓地はこの真上にある、とのことであった。
参拝者が少なくなったため、集約したとのことである。

八雲鉱山墓地はこの上にある。
手を合わせた後、ササにしがみつきながら上へ目指す。

上りきった先には、墓石が転がっていた。

あちこちに転がっている。
草木も生えているので、うっかりすると踏みそうになってしまう。

刻まれた文字を読み取ろうとするも、風化が著しく困難であった。
ただ、読み取れたものは「江戸末期~明治初期」の墓石であった。

目印にイチイ(オンコ)の木があるが、これではわかり辛い。
再び、斜面を下る。

墓地の向かいには、橋が架かっている。
ワンダーフォーゲルの話によれば、この橋の先にはかつて、診療所や迎賓館があった。
橋を渡らず、先へと進む。

少し先へと進むと、イチイの木が一本見えた。
何かがあると思い、ササを掻き分けて上る。

上った先には「殉職産業人之碑」が建立されていた。
八雲鉱山部落会が昭和18年7月に建立した。

その隣には潰れた屋根があった。
後でワンダーフォーゲルの人に訊くと「薬師如来像」が祀られていたとのことである。

さらに進み、八雲鉱山事務所跡へと着いた。
現在は、雄鉾岳登山の入口になっている。

傍には山神社が祀られている。

橋が崩れてしまっていたが、小川を越えて参拝した。

最奥に、郵便局(鉛川郵便局)の局舎があった。
局は学校と同じ、昭和44年7月31日付で閉局となった。
現在は、山小屋として八雲ワンダーフォーゲルが管理している。

帰り道、ふと見ると木製電柱が残されていた。
登山ブームで賑わいを見せているが、鉱山で賑わいを見せていた人々の声は、もう聞こえない。
八雲町八雲鉱山は、鉱業で栄えた集落である。
鉱山の生い立ちは古く、延宝2年(1674)に金・銀・鉛などを採掘し、当時は「遊楽部鉱山」と呼ばれていた。
ただし八雲市街地からも離れていたため、生産高に限界が生じ経営者も何回か代わっていった。
昭和6年 八雲鉱業株式会社が経営するようになり、当時産出していたマンガン鉱が脚光を浴びると、経営規模も次第に拡張していった。
経営規模の拡張に伴い、戸数も増加するとともに子弟も増えていった。
会社側は、子弟の教育のために町と折衝した。
将来的に、校舎や設備関係は会社が負担するが、取りあえず鉱夫長屋を仮校舎として、机・腰掛け等の設備の全部を負担すること、教員の俸給・消耗品といった経費関係の半額を会社に寄付することを条件とした。
昭和9年5月20日 八雲尋常高等小学校付属八雲鉱山特別教授場として開校した。
開校当時の教員として、斉藤左一郎が任命された。
昭和11年 八雲鉱山の経営母体が中外鉱業株式会社に移行した。
支那事変により、マンガンの増産が要請され事業を拡張していった。
当然、児童も急激に増加し、尋常科を卒業した者の教育も配慮しなくてはいけなくなった。
昭和15年 会社としては新校舎を建築し、会社が経営している間は無償で町に貸与すること、経費一切を寄付することを条件として提示した上で高等科を併設するよう請願した。
これについて、昭和15年3月27日付の函館新聞に、こう記されている。
「独立を要望 二小学校昇格申請」
「(前略)又八雲鉱山特別教授場は入山者の増加に伴う二学級編成と共に八雲鉱山尋常小学校として独立の希望あり。この申請も渡島支庁に提出されたがいづれも附日認可をみる模様であると」とある。
町はこれを認め、同年3月26日 八雲鉱山尋常高等小学校として認可。
新校舎は同年9月に完成。2学級編成(60名)となった。
これを裏付けるものとして、昭和15年3月31日付の函館新聞に「八雲鉱山尋常校申請認可さる」とある。
「予ねて申請中の八雲鉱山教授所は二学級に増級。四月一日より尋常小学校に昇格指令され八雲鉱山尋常小学校と改称されて始業することになった」とある。
昭和16年4月1日 八雲鉱山国民学校と改称。
昭和22年4月 八雲鉱山小学校と改称。
併せて、八雲中学校八雲鉱山分校が併設されたが、昭和23年4月 中学校は独立。
昭和25年 中学校校舎を増築。
昭和31年6月 へき地集会室の増設。
学校の経費に対する会社側の寄付もその後廃止され、校舎も町に寄付された。
昭和30年 小学校児童数129名(3学級) 中学校生徒62名(2学級)を数え、さらに増加していった。
特に、小学校児童数は昭和34年から36年にかけて、150名(4学級)を超えていた。
町では昭和35年に中学校校舎に2教室を増築した。
併せて、小学校校舎も一部増築や修繕を行った。
この時がピークだった。
昭和37年 マンガン埋蔵量に限界が見えてきたことから大幅な縮小転換が行われた。
昭和38年の在籍数 小学校90名 中学生37名に激減した。
町は理科実験室(昭和39年)、へき地集会室(昭和40年)の新築を行い、整備に努めた。
会社の経営母体は、昭和40年に八雲鉱業株式会社に移行した。
だが、生産額の減少や悪条件が重なった。
昭和44年4月末をもって閉山となった。
昭和44年当初は小学校39名 中学校14名が在籍していたが、閉山に伴い転出者が続出した。
北海道新聞(渡島・桧山) 夕刊 昭和44年5月23日付の記事に「残り少ない〝ヤマの灯〟 閉山の八雲鉱業所の表情」として取り上げられている。
記事が掲載された時点で、鉱山勤務者は事務職員・選鉱員・退職者ら30名ほどが最後の仕事に従事していた。
一方、学校のほうは15名の子供たちが、運動会の練習に余念がない様子を取り上げていた。
この記事から間もなく、昭和44年5月27日付の渡島・桧山版に「閉山、廃校を前に最後の運動会 まちぐるみ楽しく」とある。
5月25日、鉱山最後の運動会ということもあり、八雲鉱業・八雲鉱山小中連合の大運動大会が行われた。函館や町内各地より先輩や先生らが詰め掛けた。
紅白玉入れのほか、リレー、ビールやジュースを早飲みする「ちょっと一杯」などのゲームが行われた。
ソーラン節や盆踊りを踊って終了した時、香田校長(注)は「もうこの体育館を使って運動会を開くこともないでしょう。みなさん、きょうの思い出を忘れないで…」と言葉を詰まらせながら挨拶すると、父母の中には目にハンカチをあてる姿も見られた。
(注)北海道新聞記事では香田校長とあるが、道南の廃校に詳しいラオウ氏の話によると、実際は教頭職で、当時は大橋校長が赴任していた。
運動会の後、町長、教育委員長も出席して「お別れパーティー」が行われ、昔のヤマの話やこれからの生活の話で盛り上がった。
学舎は、昭和44年7月31日付で閉校となった。
最後まで残っていたのは、校長先生の娘だけであった。
その後、昭和44年8月22日付の夕刊(道南版)に「小中校の統廃合必至」という記事が掲載されたが、写真は八雲鉱山小中学校であった。

八雲町上鉛川小学校跡地を過ぎ、どんどん進む。

この橋(道)の先に坑口があるが、木々が生い茂っており見出すことはできない。
また、かつて橋を渡って左手に、ズリ山があった。
今回は橋を渡らず、先へ進む。

走っていくと、右手に学校跡の記念碑が見えた。
記念碑建立が話に出たとき、八雲鉱山出身者で結成しているOB会が「学校の記念碑を建てるなら、一番立派なものを建ててくれ」と町に頼んだ経緯がある。

学校跡地は草木で覆われていた。

しかし、よく見ると体育館の基礎が残っている。

こちらは体育館の基礎ではなく、職員玄関の基礎である。

鉱山事務所の手前の道路わきに「お墓」があった。
手を合わせていたワンダーフォーゲルの方に伺うと、かつての八雲鉱山の墓地はこの真上にある、とのことであった。
参拝者が少なくなったため、集約したとのことである。

八雲鉱山墓地はこの上にある。
手を合わせた後、ササにしがみつきながら上へ目指す。

上りきった先には、墓石が転がっていた。

あちこちに転がっている。
草木も生えているので、うっかりすると踏みそうになってしまう。

刻まれた文字を読み取ろうとするも、風化が著しく困難であった。
ただ、読み取れたものは「江戸末期~明治初期」の墓石であった。

目印にイチイ(オンコ)の木があるが、これではわかり辛い。
再び、斜面を下る。

墓地の向かいには、橋が架かっている。
ワンダーフォーゲルの話によれば、この橋の先にはかつて、診療所や迎賓館があった。
橋を渡らず、先へと進む。

少し先へと進むと、イチイの木が一本見えた。
何かがあると思い、ササを掻き分けて上る。

上った先には「殉職産業人之碑」が建立されていた。
八雲鉱山部落会が昭和18年7月に建立した。

その隣には潰れた屋根があった。
後でワンダーフォーゲルの人に訊くと「薬師如来像」が祀られていたとのことである。

さらに進み、八雲鉱山事務所跡へと着いた。
現在は、雄鉾岳登山の入口になっている。

傍には山神社が祀られている。

橋が崩れてしまっていたが、小川を越えて参拝した。

最奥に、郵便局(鉛川郵便局)の局舎があった。
局は学校と同じ、昭和44年7月31日付で閉局となった。
現在は、山小屋として八雲ワンダーフォーゲルが管理している。

帰り道、ふと見ると木製電柱が残されていた。
登山ブームで賑わいを見せているが、鉱山で賑わいを見せていた人々の声は、もう聞こえない。