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八雲町夏路

八雲町夏路(平成26年10月12日・13日/平成27年5月3日探訪)

八雲町夏路は農業・林業(炭焼・杣夫)で栄えた。

明治33年 利別-八雲間の仮定県道が開通し、翌 34年11月 夏路駅逓所が設けられ、管理を任された岩間儀八の努力により、明治35年 官林開放による入植者が現れた。

岩間は、入植者子弟の教育問題に腐心していたが、サックルペシベ(略称 サックル)から大関本校までの通学は極めて困難であった。

当時、大関本校まで片道6キロ(往復12キロ)かかり、さらに交通機関は夏路駅逓所しかなく、冬期間については雪で交通が杜絶するような状況であった。

「夏路」の名の由来は、道(路)は「夏」しかない(冬は雪で道が無い)ことから「夏路」と名づけられた。

岩間は、駅逓所の物置9坪を教室や所要施設として改造し、美唄より大岡兎喜男を迎え、明治37年6月 私設教育所として開校した。

開校当時、教科書はもとより、教具らしいものもなく、各自持ち寄った机や腰掛けのほか生徒一人当たり50銭を集めて教員の給料とし、教員の食糧も住民負担という状態であった。

明治38年3月 村の住民らは連署を携えて公設にするよう村に願い出たが、村の財政事情も厳しく、すぐに公設にできなかった。

公設の認可が下りたのは9月に入ってからで、大関尋常小学校付属サックルペシベ特別教授場として創設された。
このとき建てられた12坪の校舎は、住民の寄付によるものであった。

校舎が建てられ、公設の学校が認可されたが児童数が伸び悩み、また、トワルベツ(後の富咲集落)の開拓が進んでいた。

トワルベツも明治41年12月15日 大関尋常小学校付属トワルベツ特別教授場として開校しているので、トワルベツの校舎も建てなければいけない状況下であった。
 
こうしたことから、村当局は財政事情によりサックルとトワルベツの両教授場を統合する目的で、明治42年8月 サックルとトワルベツの境界付近に統合校舎を建てた。

だが、トワルベツは教員が不便であるという理由で移転せず、サックル側も通学が困難であることを理由に応じず、従来通りの教授場で続けていた。

村の目論見は失敗に終わり、再興を願う運動が実を結び、明治43年5月1日 再び「サックルペシベ特別教授場」として公設されることとなった。

大正4年4月 カタカナ書きの校名より「夏路特別教授場」と改めた。
この頃より通称 越後団体へ入植する人が多くなり当然、学童も増加していった。

大正6年 校舎が新築された。建築総工費 277円46銭であるが内訳は村からの補助金として50円、残り227円46銭はすべて夏路の人々(35戸)や、篤志家からの寄付によるものであった。
 
大正13年には児童数38名を数えていた。

大正中期から昭和初期にかけ、トワルベツ(富咲)にも相当数の入植者がいたことから、両地区の祭典の余興の盛大さは大関地区よりもはるかに凌ぐ人々で殷賑を極めていた。

昭和14年4月 大関尋常高等小学校夏路分教場と改称。

昭和16年4月 大関国民学校夏路分校と改称。

※越後山方面へ入植していった越後団体は、土地条件の悪さや家族の病気等により、次々と転出していった。
特に、戦時中には一気に10戸が転出していった。
転出先の多くは、駒ケ岳方面であった。

昭和22年4月 大関小学校夏路分校と改称。

夏路のピークは大正13年の34戸であった。

大正期の夏路のエピソードとして、「分校通信 夏路」(第19号)には、佐藤浪四郎が澱粉工場にまつわる思い出を寄せている。

「澱粉製造の盛んだった時代は、大正3年から7年にかけた時代でした。」
「この時は、5円のものが10円位までに価格があがりました。」
「(中略)サックルには、澱粉工場が4箇処ありました。」
「藤田さん、山田さん、大口さん、それに私たちのところです。」(後略)(注1)

(注1)「夏路分校閉校記念誌」によると、大正6年校舎新築時の居住者で澱粉工場があった世帯主の名前は藤田辰之助・山田木平・佐藤浪四郎である。「大口」の名前は見当たらなかった。

昭和20年頃より離村者が相次いだ。
それまで在籍児童数は二桁台で推移していたが、離村のために在籍児童数は二名にまで急減してしまった。(注2)

(注2)「八雲町史」によると「昭和22年ではわずかに5戸となり、23年には在籍児童数が2名となって、日本一小さい学校ということでニュース映画によって全国的に紹介されたほか、テレビでもしばしば紹介された。」とある。
しかし「夏路分校閉校記念誌-七一年の歴史を讃えて-」の「サックルベツ地区に居住した住民分布図」(昭和25年頃より35年頃まで)を見ると、12戸の氏名がある。

名前を列挙すると「藤原半七 藤田武次郎 佐藤寅蔵 吉田兼治 佐藤仁太郎 佐藤浪四郎 田原静 栗原清春 遠藤健一 阿部健 藤田宇三郎 阿部重男」の名前があるが、これらの人々は昭和15年頃の住民分布図にも名前が記載されているが、校区については何処が境界か分からなかった。

昭和36年 豚の飼育(5頭)が始まる。「文集 夏路」第11号には、こう記されている。

豚一号 PTA副会長 佐藤 忠助

「最初、豚の子5頭の飼育から始めました。最高飼育数は20頭でした。」

「その後、部落に電気が敷設されました時に、内線工事の資金を作るために全戸で豚の飼育を始めたわけです。」

「電気の敷設については、計画的に実現されたわけではなく、突発的に実現化されたものでしたから資金(現金による)のやりくりが実にめんどうでしたから豚の飼育による収入をそれに当てることにしたわけです。」

「(中略)それから後、各戸が計画的に豚の飼育を継続して、現在に至っております。(後略)」

また同年、藤原半七は田を造っているが、その時の話を「文集 夏路」(第9号)に寄せている。

「夏路で初めて田を造ったのは、私でした。」

「(中略)土地の条件、気候の条件に恵まれませんので予想以上の苦労がありました。」

「春が遅いため、自分で苗を作ることがめんどうですので、ほかの土地から苗を分けてもらってそれを植えなければなりません。」

「(中略)それでも自分の住む土地ではじめて米をとりいれ 自分の作った米を食べたときの嬉しさは今でも忘れることができません。(後略)」

夏路は人との繋がりもあるとともに、「花と小鳥と文集の学校」として有名な学校であった。

北海道新聞 渡島・檜山版 昭和32年8月1日付で「辺地校(夏路分校)を慰め八年間 その主、はるばる稚内から…喜びの対面へ」とある。

「(前略)二十九日の夕方山峡の石だらけの路をスーツケースを下げた色白のお下げの少女を先頭に日焼けしたこどもたちの一団が分校へ向かって急いでいた。(中略)この電気もない辺地の小さな学校の生徒たちを慰め続けてくれた少女がはるばる稚内からはじめて訪れて来てくれたのだ。」

「それは忘れもしない昭和二十五年二月のことだった。(中略)漁業、長尾啓太郎さんの三女久子さん(当時十一歳=稚内市北小学校六年生)は少年雑誌に生徒わずか三人という日本一小さい学校が遠い八雲町の奥にあることを知った。」

「学校からは折返し礼状がとどきそれから八年間夏路分校と北の海辺の少女との文通だけの交際が始まった。久子さんは月に一回は必ず北の海の模様を伝えた春ニシンの話、夏のコンブとり、冬はすさまじい海峡の吹雪のこと…夏路からは子牛の生まれたこと、夏のどじょうとり、秋のキノコ狩りの便りが伝えられ、やがてお互の写真までが交換されるようになった。(中略)」

「札幌の高校の通信教育を受けていた久子さんは七月の末、講習のため札幌に出ることに決り、そのついでに夏路を訪れるという手紙を六月の末学校に書き送った。夏路の部落は大騒ぎだった。開拓者のPT会長さんと昨年春拓大を卒業して辺地校を志願した二十五歳の先生(注3)との間で歓迎の準備が進められた。(中略)」

(注3)「二十五歳の先生」とは堀内利勝先生のことである。堀内先生は森高校・拓殖大学を経て昭和31年卒業、同年7月に夏路分校に赴任した。

「久子さんが到着した二十九日八雲駅には先生と、最初に文通した三人のかつての生徒が迎えに出た。(中略)学校では生徒はむろん、赤ん坊からおじさんまで部落中の人々が集まり焼ちゅうとお汁粉の表彰式が開かれた。孫やこどもたちがこの上なく慕っていた久子さんを目のあたりにしてPT会の年寄りたちは「世の中がみんなあんたさんみたいなやさしい心の人ばかりだったら、なんぼよいことだろう。なあ長尾さん、ダンナさんでもらっても来てくれろ」としみじみお礼をいった。冷害でアンコのうすいお汁粉をすする小さな生徒たちに囲まれて恥ずかしげにうつむく久子さんのほおにはあふれ出る涙の筋が光っていた。」

また、夏路は分校主任 渡辺富太郎が集落の人たちに、自分の教育に対する考え方や学校の様子を知らせようと「文集 夏路」を創刊した。
当初は教育の考え方や、学校内外で起きた出来事を紹介していたが、次第に子供たちの作文や詩、植物の観察日記を掲載していった。
子供たちが書いた作文の中には、北海道新聞に掲載されたものもあった。
 
一方で、夏路の気象は厳しいものがあった。

昭和46年1月31日付(市内版)
「過疎を見つめる」シリーズ3回目 医者のいない不安 30箇所余りが孤立 保健婦にも見放される

「ついこの間、吹雪の朝-。熱の下がらない幼い子をドラムかんを改造した牛乳運搬のそりに乗せて二十㌔も医者を求めて走った日のこと-。そのことが八雲町上八雲夏路部落の佐藤幸男さん(28)夫婦の頭に強く焼きついて離れない。いや昨年も同じようなことがあった。その時は、馬そりを引っぱってくれたあの馬が、深い雪に足をとられてまるで身代わりのように死んでいった。身近にお医者さんがいない不安、それが吹雪の夜にはいっそう切実なものとなって、この夫婦の頭をしめつけてくるかのようだった。」

「 それは一月六日のことである。生後九ヵ月の末娘の香代子ちゃんは三日間あまりも三十八度を超える熱が続いた。荒れ狂う吹雪は電話を途絶えさせ、電灯さえも奪った。戸数わずか五戸、そうでなくても寂しい部落の夜は何か無気味な感じさえする。お医者さんは二十㌔先の八雲までいない。この道も昨年までは七㌔が除雪されていなかった。ことしは冬山造材で林道が除雪され、雪深い道は二㌔に縮まった。」

「佐藤さんは決心した。とにかく医者に連れて行こう。夜が明けると唯一の隣組、大関小夏路分校主任の渡辺富太郎先生(45)水根和雄先生(27)が応援にかけつけてくれた。ドラムかんを改造して作った牛乳かん運搬用のそりに、香代子ちゃんを毛布にくるんだ妻の理津子さん(24)がうずくまる。そりを引っぱるスノーモービルのドライバーは水根先生だ。(中略)」

「吹きだまりでさえぎられそうな雪原を二十分ばかり走ってやっと除雪道路にたどりついた。林道わきの農家に預けてあった車に乗り換えたとき、佐藤さんは『これであと一時間』-熱でぐったりしている香代子ちゃんを抱きしめたものだ。」

「ところが、吹雪あとの道路はブルの跡はなく、乗用車はすぐに立ち往生。水根先生が数㌔離れた営林署の造材現場に駆けつけ、頼んでやっとブルを出してもらった。八雲の病院にころがり込んだ時は昼。香代子ちゃんの病名は〝急性肺炎〟だった。(中略)」

「この部落も十数年前までは戸数三十戸を数えた。それがクシの歯が抜けるように一戸減り、二戸減りして今は分校の教宅二戸を入れてわずか五戸になってしまった。(以下略)」

昭和46年春 佐藤家が転出したため、藤原家のみ居住する集落となった。

「八雲町富咲」でも触れたように「大関小学校夏路分校」には「四十五年には一家族の姉弟だけ四名という特異な現象となった。こうして、姉弟だけの学校として存続し、全員が卒業してしまった五十一年三月限りをもって在籍数はゼロとなり、自然廃校になった。」とあるが、実際は富咲小学校閉校後、富咲地区に居住していた富坂良春君が夏路分校に通学していた。
「卒業生名簿」には第43回卒業生(昭和49年度)の欄に富坂君の名前が記されている。

最後まで居住していた藤原家 最後の卒業生である藤原 強君が卒業して昭和51年3月末に閉校となった。

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学校手前の藤原家敷地跡。
家の跡を示すのは、大きなマツの木だけであった。

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藤原家跡地より学校方面を望む。
学校は、この道の先にある。

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夏路の学校跡地にある記念碑。
草木に隠れてしまっている。

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その傍に、夏路集落を開拓した岩間儀八を讃える顕彰碑が建立されている。

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顕彰碑の背後には、倒壊した教員宿舎の屋根が残っていた。

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教員宿舎は、校舎と棟続きであった。

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校舎の屋根より教員宿舎跡地を見る。

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学校跡地より周辺の風景。
すっかり自然に帰ってしまっている。

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学校に隣接していた夏路神社の鳥居も、ササに飲み込まれていた。

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学校前の佐藤家敷地跡。
佐藤家は本家・分家関係と思われるが、どちらが本家かはわからなかった。

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学校横の「夏路林道」案内板。
ササに埋もれている。

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夏路分校より奥の風景。
この奥にも人家や、移転前の神社が建立され、人々が暮らしていた。

これから紹介する記事は、夏路分校の運動会が取り上げられた記事の写真から抜粋したものである。
「教育月報」 No205号に「小さな学校のうんどう会 八雲町立大関小学校夏路分校の〝たのしみ会〟」として取り上げられている。
写真から推測するに、昭和43年頃に撮影されたものと思われる。

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運動会(徒競争)の一コマ。
記事では「デコボコ道だがコースはいくらでも長くとれるよ!」とある。

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校舎内にあったバスケットボールのゴールネット。
同じく、記事では「先生たちのつくってくれたバスケット・ゴールも利用して障害物競走。」

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往時の夏路分校校舎。
記事では「お花にとりかこまれ、給食をとりながら〝たのしみ会〟の反省。」
手前に写っているのは百葉箱である。

昭和45年6月19日 NHKラジオ第二放送「昼休みのおくりもの」(12時45分~13時)で放送された内容より。
この内容は「文集と通信 夏路 第41集」(昭和45年7月30日発行)に集録されている。

分校主任の渡辺富太郎先生の話より

『過疎化の極限に立たされている村ではあるが、八雲で最も小さく 美しい学校、八雲で一番恵まれている』


昭和63年頃に同校を訪れたラオウ氏は、こう回想する。

「…昭和63年頃に夏路分校へ行った。校舎の中へ入ると、右手に「視聴室」、左手に「職員室」があり、教室はその奥にあった。向かいに洗面所とトイレがあった。」

「教室の黒板には『私はここの卒業生 学校を壊したら半殺し』と書かれていたが、誰が書いたかは分からない…。」


八雲町内で最も小さく、美しい「花と小鳥と文集の学校」は自然に帰っていた。



少し月日が流れた平成27年5月 再訪した。

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夏路集落へ通じる通称「十三曲り峠」の道中。

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こちらは下り(大関方面)。

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学校前の、佐藤宅跡地。

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浴槽?跡が残されていた。

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校舎跡地。

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学校隣接地の神社。
拝殿はこの先の、山の上にある。

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ササにしがみつきながら進み、神社の境内に出た。
夏路神社の拝殿である。

※「土地台帳」によれば、夏路神社拝殿周辺はもと『咲来農事組合』が所有する敷地の一部である。

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神社境内の風景。
拝殿の屋根はあったが、周囲は笹薮であった。

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神社道中の風景。
かつては誰もが行き来することができたが、今は自然に帰っている。

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学校よりもさらに奥へと進んでみる。
ここも家のマークがある。

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家の跡と思われる場所より、学校方面を望む。
周辺は牧草畑となっていた。

参考・引用文献

八雲町史 昭和59年6月発行
夏路分校閉校記念誌-七一年の歴史を讃えて- 八雲町立大関小中学校 昭和51年2月発行
分校通信 夏路 第9号  昭和41年10月17日発行
           第11号 昭和41年10月22日発行
           第41集 昭和45年7月30日発行
「教育月報」 No205号 北海道教育委員会 昭和44年1月15日発行
北海道新聞 渡島・檜山版 昭和32年8月1日付「辺地校(夏路分校)を慰め八年間 その主、はるばる稚内から…喜びの対面へ」
北海道新聞 市内版(函館) 昭和46年1月31日付「過疎を見つめる」シリーズ3回目
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暑中お見舞い申し上げます。

暑中お見舞い申し上げます。

いつも当ブログをご覧いただき有難うございます。

北海道も、今年は蒸し暑い日が続いています。

管理人の近況として、現在は大学4年生となり就職活動の最中にいます。

卒業論文の作成やアルバイトで忙しい毎日ですが、お陰さまで事故もなく、病気もせず元気に過ごしています。
皆さまからお寄せいただきましたコメントは、すべて拝読しています。

今年の調査は北海道南部 とりわけ、八雲町上八雲地区・富咲地区にスポットをあてて調べています。

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八雲町夏路(サックルペシペ) 学校前の民家跡(S氏宅跡)。

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夏路神社 拝殿の道中、神社前を俯瞰。

(画像は平成27年5月3日撮影)

あと半年後に卒業できるのか、気になりますがまずは健康に気をつけつつ、過ごしたいと思う次第です。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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