よいお年をお迎えください。
いつも当ブログをご覧いただき有難うございます。
今年も残り少なくなりました。1年間、有難うございました。
今年を振り返ってみれば、卒業論文で北海道南部 渡島管内八雲町の廃村を調べるために幾度も足を運んだものでした。
調査は通算10日に及び、現地調査だけではなくゆかりある方の聞き取り調査や地図、文献を徹底的に読み漁りました。
お陰さまで、卒業論文もようやく形になりつつあります。
また、もう一つは秋田県の無人集落地の調査にも参加致しました。
本州の調査は今回が3回目ですが、土地勘や集落の沿革も殆ど分からない中、いただいた資料を基に調べ現地は「首から下」の字の如く動き回りました。
その甲斐あって、神社の跡地や学校の遊具を発見することができました。
来春、再び「社会復帰」の予定でいますが社会復帰後も、少しずつ「学校と地域(集落)の関わり」をテーマに調べていきたいと思っています。
どうぞ、よいお年をお迎えください。
来年もよろしくお願い申し上げます。
今年も残り少なくなりました。1年間、有難うございました。
今年を振り返ってみれば、卒業論文で北海道南部 渡島管内八雲町の廃村を調べるために幾度も足を運んだものでした。
調査は通算10日に及び、現地調査だけではなくゆかりある方の聞き取り調査や地図、文献を徹底的に読み漁りました。
お陰さまで、卒業論文もようやく形になりつつあります。
また、もう一つは秋田県の無人集落地の調査にも参加致しました。
本州の調査は今回が3回目ですが、土地勘や集落の沿革も殆ど分からない中、いただいた資料を基に調べ現地は「首から下」の字の如く動き回りました。
その甲斐あって、神社の跡地や学校の遊具を発見することができました。
来春、再び「社会復帰」の予定でいますが社会復帰後も、少しずつ「学校と地域(集落)の関わり」をテーマに調べていきたいと思っています。
どうぞ、よいお年をお迎えください。
来年もよろしくお願い申し上げます。
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羽幌炭砿今昔
羽幌町羽幌炭砿は、既に当ブログにも取り上げてきた。
さらに今年(平成27年)閉山45年を記念した同窓会が開催され、ゆかりある方だけではなく一般の方も多数参加した。
今回、『羽幌炭鉱閉山関係資料』(北海道立文書館蔵)の中に羽幌炭砿閉山直前(直後)の写真が綴られていたので、往時の写真と現在の様子を比較して紹介する。写真から判断して、昭和45年秋頃に撮影されたものかと思われる。
写真の説明文は、文書資料の原文のまま引用した。

築別炭礦全景

羽幌礦全景

上羽幌全景
航空写真の撮影年代は不明である。

太陽高等学校(曙)

現在の太陽高等学校(平成25年6月9日撮影)(注1)

太陽小学校(築炭)

現在の太陽小学校(平成27年3月26日撮影)

選炭工場(築炭)

現在の選炭工場(平成27年3月26日撮影)

消防施設(築炭)

現在の消防施設(平成25年6月9日撮影)

羽幌炭礦鉄道病院(築炭)

現在の羽幌炭礦鉄道病院(平成27年3月26日撮影)

築別炭礦会館(築炭)

現在の築別炭礦会館付近(映写室)(平成25年6月9日撮影)
※築別炭鉱会館の近くの高い煙突は火力発電所の煙突です。

改良住宅=4棟96戸(築炭)

現在の改良住宅4棟96戸(平成27年3月26日撮影)
※改良住宅4棟には間違いなく実際に人が入居し生活していました。

水道施設(築炭)

現在の水道施設(築別浄水場)(平成27年3月26日撮影)

立坑(羽幌礦)

現在の立坑付近(平成27年3月26日撮影)

健保会館(羽幌砿)

現在の健保会館(平成25年6月9日撮影)

北辰中学校(曙)

現在の北辰中学校(平成25年6月9日撮影)

公営住宅(上羽幌)(注4)

現在の公営住宅
この中で、築別炭鉱の鉄筋炭鉱アパート(改良住宅)は閉山直前に建てられたため、実際に使われていたのか永らく不明であった。
ある方は「あの建物は所謂『モデルルーム』のようなものであったので使われていなかった」と云う。
しかし、写真を見ると実際に使われている様子がわかる。その根拠として
① 煙突から煙が出ている
② ベランダに洗濯物らしき物体がある、2点である。
さらに築別炭砿ジャンプ台でスキーの練習をした事のある知人に伺うと、次の証言を得ることができた。
「築別の鉄筋アパートは1年間だけ使われた。(注2)朝日寮が火事で焼けた時(注3)、朝日寮の住人の多くがここに移り住んだ。また、スキージャンプの合宿場所としても使われた。」
使用期間が短かったとはいえ、実際に使われていたのは事実である。
(注1)元々は北海道立太陽高等学校の校舎として使われていたが、昭和46年3月に太陽高等学校は閉校。北辰中学校(羽幌砿)が炭鉱閉山による生徒数激減のため、閉校した太陽高等学校校舎に移転した。昭和50年3月に北辰中学校が閉校してからは、曙小学校校舎として平成2年3月まで使われていた。
(注2) 現存する鉄筋炭鉱住宅は昭和43年秋に建築が始まり、昭和44年10月に完成した。
(注3) 朝日寮の火災は昭和45年1月12日に発生し、全焼した。
(注4) 建物は建物の素材(ブロック造)や住宅の構造から、緑町上炭鉱住宅の可能性がある。
これ以外にも様々な建物が紹介されているが、次に挙げる建物で場所をご存知の方がいましたらご連絡ください。
築別炭砿
築別炭礦駅

羽幌礦業所事務所

末広浴場(末広町)

※築別炭鉱の末広町にあった公衆浴場ですね、利用したことがあります 。公衆浴場は築別炭鉱内では上古賀町と岡町、金子町にもありました。 無料で入れました。
スポーツハウス(末広町)

※多分末広町のプールのあった場所ですね。
幼稚園(なかよし幼稚園・末広町)

※幼稚園は末広町です。
宿泊施設(旭台)

※旭台にあった迎賓館で、来賓客を接待する施設でした。建物の裏側に小さな池がもうけられ鯉が放されていました。
公民館分館(谷町)

※公民館分館は谷町で裏手に川が流れており写真の右手には太陽小学校に至る道路がありました。
築別炭山郵便局(谷町)

※郵便局は移転後の新しいもので小さな商店街の一角で谷町にありました。
公営住宅(下古賀町)

※築別炭鉱の下古賀町にあったもので主に教員住宅として使われていました。写真の山の中腹に小さく写っているのは鶏舎です。
羽幌礦
診療所

栄山寮=独身寮

住宅施設(撮影場所不明)

参考文献
『羽幌炭鉱閉山関係資料』(北海道立文書館蔵)
『鉄筋アパート完成 明るいムードそえる』北海道新聞留萌・宗谷版昭和44年10月4日号
※hitosiさまの証言を織り交ぜました。有難うございました。(12月21日)
さらに今年(平成27年)閉山45年を記念した同窓会が開催され、ゆかりある方だけではなく一般の方も多数参加した。
今回、『羽幌炭鉱閉山関係資料』(北海道立文書館蔵)の中に羽幌炭砿閉山直前(直後)の写真が綴られていたので、往時の写真と現在の様子を比較して紹介する。写真から判断して、昭和45年秋頃に撮影されたものかと思われる。
写真の説明文は、文書資料の原文のまま引用した。

築別炭礦全景

羽幌礦全景

上羽幌全景
航空写真の撮影年代は不明である。

太陽高等学校(曙)

現在の太陽高等学校(平成25年6月9日撮影)(注1)

太陽小学校(築炭)

現在の太陽小学校(平成27年3月26日撮影)

選炭工場(築炭)

現在の選炭工場(平成27年3月26日撮影)

消防施設(築炭)

現在の消防施設(平成25年6月9日撮影)

羽幌炭礦鉄道病院(築炭)

現在の羽幌炭礦鉄道病院(平成27年3月26日撮影)

築別炭礦会館(築炭)

現在の築別炭礦会館付近(映写室)(平成25年6月9日撮影)
※築別炭鉱会館の近くの高い煙突は火力発電所の煙突です。

改良住宅=4棟96戸(築炭)

現在の改良住宅4棟96戸(平成27年3月26日撮影)
※改良住宅4棟には間違いなく実際に人が入居し生活していました。

水道施設(築炭)

現在の水道施設(築別浄水場)(平成27年3月26日撮影)

立坑(羽幌礦)

現在の立坑付近(平成27年3月26日撮影)

健保会館(羽幌砿)

現在の健保会館(平成25年6月9日撮影)

北辰中学校(曙)

現在の北辰中学校(平成25年6月9日撮影)

公営住宅(上羽幌)(注4)

現在の公営住宅
この中で、築別炭鉱の鉄筋炭鉱アパート(改良住宅)は閉山直前に建てられたため、実際に使われていたのか永らく不明であった。
ある方は「あの建物は所謂『モデルルーム』のようなものであったので使われていなかった」と云う。
しかし、写真を見ると実際に使われている様子がわかる。その根拠として
① 煙突から煙が出ている
② ベランダに洗濯物らしき物体がある、2点である。
さらに築別炭砿ジャンプ台でスキーの練習をした事のある知人に伺うと、次の証言を得ることができた。
「築別の鉄筋アパートは1年間だけ使われた。(注2)朝日寮が火事で焼けた時(注3)、朝日寮の住人の多くがここに移り住んだ。また、スキージャンプの合宿場所としても使われた。」
使用期間が短かったとはいえ、実際に使われていたのは事実である。
(注1)元々は北海道立太陽高等学校の校舎として使われていたが、昭和46年3月に太陽高等学校は閉校。北辰中学校(羽幌砿)が炭鉱閉山による生徒数激減のため、閉校した太陽高等学校校舎に移転した。昭和50年3月に北辰中学校が閉校してからは、曙小学校校舎として平成2年3月まで使われていた。
(注2) 現存する鉄筋炭鉱住宅は昭和43年秋に建築が始まり、昭和44年10月に完成した。
(注3) 朝日寮の火災は昭和45年1月12日に発生し、全焼した。
(注4) 建物は建物の素材(ブロック造)や住宅の構造から、緑町上炭鉱住宅の可能性がある。
これ以外にも様々な建物が紹介されているが、次に挙げる建物で場所をご存知の方がいましたらご連絡ください。
築別炭砿
築別炭礦駅

羽幌礦業所事務所

末広浴場(末広町)

※築別炭鉱の末広町にあった公衆浴場ですね、利用したことがあります 。公衆浴場は築別炭鉱内では上古賀町と岡町、金子町にもありました。 無料で入れました。
スポーツハウス(末広町)

※多分末広町のプールのあった場所ですね。
幼稚園(なかよし幼稚園・末広町)

※幼稚園は末広町です。
宿泊施設(旭台)

※旭台にあった迎賓館で、来賓客を接待する施設でした。建物の裏側に小さな池がもうけられ鯉が放されていました。
公民館分館(谷町)

※公民館分館は谷町で裏手に川が流れており写真の右手には太陽小学校に至る道路がありました。
築別炭山郵便局(谷町)

※郵便局は移転後の新しいもので小さな商店街の一角で谷町にありました。
公営住宅(下古賀町)

※築別炭鉱の下古賀町にあったもので主に教員住宅として使われていました。写真の山の中腹に小さく写っているのは鶏舎です。
羽幌礦
診療所

栄山寮=独身寮

住宅施設(撮影場所不明)

参考文献
『羽幌炭鉱閉山関係資料』(北海道立文書館蔵)
『鉄筋アパート完成 明るいムードそえる』北海道新聞留萌・宗谷版昭和44年10月4日号
※hitosiさまの証言を織り交ぜました。有難うございました。(12月21日)
北斗市上磯町 湯の沢(盤の沢)
北斗市上磯町 湯の沢(盤の沢)(平成27年5月31日・同年8月29日探訪)
北斗市上磯町湯の沢は、農業を中心に栄えた集落であった。
5万分の1地形図を見ると、湯の沢地区には「戸田」「湯ノ沢」「マナゴ」「二股」と小字が幾つもあるが学校は戸田(戸田の沢)
(注1)にあった。学校の通学区域は戸田を含め、湯ノ沢、マナゴ、二股地区である。
一帯は通称「盤の沢」と呼ばれており、学校名も盤の沢であるがここでは「湯の沢」に統一する。
「茂辺地小学校開校130周年記念誌」によると「1906年(明治39年)茂別村大字茂辺地村戸田・滝ノ沢・馬路地区に対し教育義務を免除」と書かれていたので、明治後期に入植したと考えられる。
しかし、入植時期がいつなのかは「上磯町史」や「茂辺地小学校開校130周年記念誌」に書かれておらず「滝ノ沢」「馬路」も現在の地名でどこに該当するか書かれていなかった。
学校は昭和28年1月 茂辺地小学校市ノ渡分校として開校した。
この頃の集落は11世帯あり、学校の傍にドロマイト(石灰)を採掘する鉱山(平和工業)もあった。
採掘したドロマイトは、町内の峩朗鉱山へ運ばれていった。
昭和29年4月 分校から独立し、市ノ渡小学校と校名変更した。
昭和32年7月 市ノ渡小学校から盤の沢小学校と校名変更した。
昭和34年 ドロマイトの採掘が閉鎖され、戸田の沢で暮らしていた従業員は転出した。
昭和37年頃より、入学する児童がいなくなり、茂辺地へ転出していく家が現れはじめた。
昭和38年の北海道新聞に、盤の沢地区に中学校を設置してほしいという内容の記事があるので引用する。
「中学校が遠く冬季は下宿住まいを余儀なくされる地区が上磯町にあり、同地区では『どんな建て物でもいいから中学校をつくって…』と訴えている。」
「盤の沢小学校通学区域の同町字湯の沢。開拓部落とあって住民の数も少なく、9戸約60人。開拓地といっても純農は2戸だけで他は農業のほか営林署の作業員を兼ねており生活の程度は中クラス、したがって子弟の教育に対する関心は非常に高い。」
「ところが辺地共通の悩みとしてまだ伝統に恵まれず、子供たちは夜間不自由なランプの光をたよりに勉学に励んでいるが、もう一つの悩みの種は中学校が遠いこと。小学校を卒業すると茂辺地中学に通わねばならないが、同中学校に同地区からもっとも近い人で6キロ、ほとんどが10キロ以上歩かなければならない。夏の間はこの“長距離”は克服できるが、秋口にはクマが出たり、冬は雪で通学困難の状況に陥るという。」
「このため冬季には同地区からの通学者は茂辺地市街地の知り合い宅などに下宿せざるを得ず、親元を離れた子供たちの学力は低下しがち-と部落民は訴えている。こうした事情から先月末には『子供の教育のために-』と自分の土地、家を離れて一家族6人が茂辺地に移住、ほかにも移住に傾いている家族が続出しそうな気配。“移住”という現実に突きあたった同小の水沢純二校長や同小PTA会長、鵜飼貞雄さんら部落民は、児童、生徒も一体となって『併設でもよいから中学校を設けて…』とさきごろ町に陳情し、善処を要望したが、具体的な解決策は示されないままに終わっている。冬を迎えて『住みなれた部落は離れたくない。電気はまだがまんできるが学校だけは早くなんとかして』と部落民は悲嘆にくれている。」
湯の沢地区の住民は中学校設置の要望を町に陳情したが、中学校は設置されなかった。
昭和40年3月 盤の沢小学校 閉校。
最後の卒業生は3名であった。

最初に訪れた「みんなの森」。
この時は誰しもがここが「学校跡地」だと思っていた。

公園の一角には「ヒグマ目撃」の看板が立てられている。

「みんなの公園」前より茂辺地方面を望む。

橋の名前は「盤の沢橋」。
何か痕跡がないか、周囲を見渡す。

旧道の橋脚らしき遺構が残されていた。
この写真を撮影直後、パトカーが来て「数日前にクマが出たから、クルマから降りないでほしい」と言われてしまった。

クルマに再び乗り、奥へ行く。
地図上では「二股」付近で、架けられている橋は「東股橋」である。

牧草地が広がっていた。元々は畑だったのかもしれない。

何となく通い作をしているような気配はあるものの、人気はなかった。
後日、私たちが調査した学校跡地は間違いで「みんなの森」よりも手前にあったことが判明した。
学校跡地の情報は、HEYANEKO氏が地形図を見て判断した。
数カ月後の8月29日、卒業論文の資料収集で道南方面へ行った際ラオウ氏とお会いし、再び一緒に学校跡地を訪れた。

盤の沢小学校跡地手前の風景。
学校跡地と知らなければ、分からずに通過してしまう。

学校の防風林も確認できた。

通い作で使用している小屋であるが、背後の松は防風林である。

盤の沢小学校跡地は、水田と化していた。
ラオウ氏の話によると、教育委員会も現地で学校跡地と特定したが記念碑の建立は今のところないそうである。
学校が建てられていた場所は水田と化し、学校の記念碑や学校の基礎も一切見つけられなかった。
「茂辺地歴史散歩」に掲載されていた、盤の沢小学校のエピソードより。
「今は立派なお父さん、お母さんですがいたずらして「この手が悪いんだ」とT先生に手の甲にお灸をすえられたこと、雨の日は廊下でわいわい騒ぎ回って遊んだこと、教室の後ろに置かれていた卓球台(この卓球台は寄贈されたものだそうです)で卓球をしたことなどなつかしく、今でもはっきりと思い出せますと話しています。」
(注1)
地元の人々は「トッタの沢」と呼称していたそうである。
参考文献
「茂辺地歴史散歩」 上磯町立茂辺地小学校 平成9年9月発行
「茂辺地 茂辺地小学校開校130周年記念誌」 茂辺地小学校 2007年7月発行
「僕らの中学校がほしい 上磯町湯の沢地区 秋、冬には通学困難/悩みのクマや雪 家族で転出する人も」
夕刊北海道新聞 昭和38年11月25日
北斗市上磯町湯の沢は、農業を中心に栄えた集落であった。
5万分の1地形図を見ると、湯の沢地区には「戸田」「湯ノ沢」「マナゴ」「二股」と小字が幾つもあるが学校は戸田(戸田の沢)
(注1)にあった。学校の通学区域は戸田を含め、湯ノ沢、マナゴ、二股地区である。
一帯は通称「盤の沢」と呼ばれており、学校名も盤の沢であるがここでは「湯の沢」に統一する。
「茂辺地小学校開校130周年記念誌」によると「1906年(明治39年)茂別村大字茂辺地村戸田・滝ノ沢・馬路地区に対し教育義務を免除」と書かれていたので、明治後期に入植したと考えられる。
しかし、入植時期がいつなのかは「上磯町史」や「茂辺地小学校開校130周年記念誌」に書かれておらず「滝ノ沢」「馬路」も現在の地名でどこに該当するか書かれていなかった。
学校は昭和28年1月 茂辺地小学校市ノ渡分校として開校した。
この頃の集落は11世帯あり、学校の傍にドロマイト(石灰)を採掘する鉱山(平和工業)もあった。
採掘したドロマイトは、町内の峩朗鉱山へ運ばれていった。
昭和29年4月 分校から独立し、市ノ渡小学校と校名変更した。
昭和32年7月 市ノ渡小学校から盤の沢小学校と校名変更した。
昭和34年 ドロマイトの採掘が閉鎖され、戸田の沢で暮らしていた従業員は転出した。
昭和37年頃より、入学する児童がいなくなり、茂辺地へ転出していく家が現れはじめた。
昭和38年の北海道新聞に、盤の沢地区に中学校を設置してほしいという内容の記事があるので引用する。
「中学校が遠く冬季は下宿住まいを余儀なくされる地区が上磯町にあり、同地区では『どんな建て物でもいいから中学校をつくって…』と訴えている。」
「盤の沢小学校通学区域の同町字湯の沢。開拓部落とあって住民の数も少なく、9戸約60人。開拓地といっても純農は2戸だけで他は農業のほか営林署の作業員を兼ねており生活の程度は中クラス、したがって子弟の教育に対する関心は非常に高い。」
「ところが辺地共通の悩みとしてまだ伝統に恵まれず、子供たちは夜間不自由なランプの光をたよりに勉学に励んでいるが、もう一つの悩みの種は中学校が遠いこと。小学校を卒業すると茂辺地中学に通わねばならないが、同中学校に同地区からもっとも近い人で6キロ、ほとんどが10キロ以上歩かなければならない。夏の間はこの“長距離”は克服できるが、秋口にはクマが出たり、冬は雪で通学困難の状況に陥るという。」
「このため冬季には同地区からの通学者は茂辺地市街地の知り合い宅などに下宿せざるを得ず、親元を離れた子供たちの学力は低下しがち-と部落民は訴えている。こうした事情から先月末には『子供の教育のために-』と自分の土地、家を離れて一家族6人が茂辺地に移住、ほかにも移住に傾いている家族が続出しそうな気配。“移住”という現実に突きあたった同小の水沢純二校長や同小PTA会長、鵜飼貞雄さんら部落民は、児童、生徒も一体となって『併設でもよいから中学校を設けて…』とさきごろ町に陳情し、善処を要望したが、具体的な解決策は示されないままに終わっている。冬を迎えて『住みなれた部落は離れたくない。電気はまだがまんできるが学校だけは早くなんとかして』と部落民は悲嘆にくれている。」
湯の沢地区の住民は中学校設置の要望を町に陳情したが、中学校は設置されなかった。
昭和40年3月 盤の沢小学校 閉校。
最後の卒業生は3名であった。

最初に訪れた「みんなの森」。
この時は誰しもがここが「学校跡地」だと思っていた。

公園の一角には「ヒグマ目撃」の看板が立てられている。

「みんなの公園」前より茂辺地方面を望む。

橋の名前は「盤の沢橋」。
何か痕跡がないか、周囲を見渡す。

旧道の橋脚らしき遺構が残されていた。
この写真を撮影直後、パトカーが来て「数日前にクマが出たから、クルマから降りないでほしい」と言われてしまった。

クルマに再び乗り、奥へ行く。
地図上では「二股」付近で、架けられている橋は「東股橋」である。

牧草地が広がっていた。元々は畑だったのかもしれない。

何となく通い作をしているような気配はあるものの、人気はなかった。
後日、私たちが調査した学校跡地は間違いで「みんなの森」よりも手前にあったことが判明した。
学校跡地の情報は、HEYANEKO氏が地形図を見て判断した。
数カ月後の8月29日、卒業論文の資料収集で道南方面へ行った際ラオウ氏とお会いし、再び一緒に学校跡地を訪れた。

盤の沢小学校跡地手前の風景。
学校跡地と知らなければ、分からずに通過してしまう。

学校の防風林も確認できた。

通い作で使用している小屋であるが、背後の松は防風林である。

盤の沢小学校跡地は、水田と化していた。
ラオウ氏の話によると、教育委員会も現地で学校跡地と特定したが記念碑の建立は今のところないそうである。
学校が建てられていた場所は水田と化し、学校の記念碑や学校の基礎も一切見つけられなかった。
「茂辺地歴史散歩」に掲載されていた、盤の沢小学校のエピソードより。
「今は立派なお父さん、お母さんですがいたずらして「この手が悪いんだ」とT先生に手の甲にお灸をすえられたこと、雨の日は廊下でわいわい騒ぎ回って遊んだこと、教室の後ろに置かれていた卓球台(この卓球台は寄贈されたものだそうです)で卓球をしたことなどなつかしく、今でもはっきりと思い出せますと話しています。」
(注1)
地元の人々は「トッタの沢」と呼称していたそうである。
参考文献
「茂辺地歴史散歩」 上磯町立茂辺地小学校 平成9年9月発行
「茂辺地 茂辺地小学校開校130周年記念誌」 茂辺地小学校 2007年7月発行
「僕らの中学校がほしい 上磯町湯の沢地区 秋、冬には通学困難/悩みのクマや雪 家族で転出する人も」
夕刊北海道新聞 昭和38年11月25日