秋田県山本郡藤里町藤琴字奥小比内
秋田県山本郡藤里町藤琴字奥小比内(平成27年10月10日探訪)
秋田県の廃村レポートは、平成27年10月9日から11日にかけて『撤退の農村計画』編著者林直樹先生と、HEYANEKO様の秋田県無人集落調査に同行させていただいた時のものである。
期間中に訪れた無人集落地は15か所であるが、「学校」跡がある無人集落は4か所である。
享保15(1730)年の『六郡郡邑記』によれば「藤琴村の支郷、小比内村天和年中開く、家数15軒」と記されているが、奥小比内が含まれているかは不明である。
落ち武者であった三谷・市川の先祖が開拓したと伝えられている。学校の沿革は、以下の通りである。
明治30年 佐藤多治右エ門宅で私設教授を始めたことが奥小比内分校の始まりである。
明治37年 佐藤多治右エ門宅に特別教授場が設置される。
明治41年 藤琴尋常小学校坊中分校(後の坊中小学校)の古材を利用し、校舎を建設。
大正5年 藤琴尋常小学校坊中分校奥小比内分教室として設置。
昭和4年 坊中尋常小学校奥小比内分教場と変更。
昭和16年 坊中国民学校奥小比内分教場と変更。
昭和22年 藤琴小学校奥小比内分校と変更。
昭和37年 坊中小学校独立のため、坊中小学校奥小比内分校と改称。
昭和48年 坊中小学校奥小比内分校閉校。
集落の生業は田畑、林業であった。
集落へ通じる道は、昭和初期に敷設された森林軌道を転用したものである。(注1)
昭和21年に電気が導入され、電話は昭和30年代半ばに開通した。
昭和47年 集落再編事業の適用を受け、17戸が集団移転して無人集落となる。
学校も、集団移転により閉校した。

「奥小比内」の名前が目に留まる。
名前だけは今も残っている。

奥小比内へ続く道。
道中の写真は撮っていないが、森林鉄道の路線をそのまま道路に転用しているためスリル溢れる道路である。

奥小比内集落跡地に到着した。
造材の土場と化していた。

廃橋があるので渡ってみる。

渡った先は、自然に還っていた。
それでも周囲を見回したが、住居跡などといったものは見られなかった。

奥小比内分校を目指して歩く。
学校は、この先にあった。

作業小屋と思われる建物を横目に、学校跡地へ進む。

分岐点へ出た。
学校跡地は左の道に入って、すぐの高台に位置していた。

学校跡地は、一面笹薮で覆われていた。

他に学校跡地と思えるような場所が見当たらなかったので、位置的にも間違いない。

元来た道を戻ると、小さな三角屋根が目に付いた。
近づいてみると井戸であった。

集落を歩く。
田畑はすべて雑草で覆われている。

そんな中、石垣が残っていた。
住居跡である。

周囲を少し散策したが、建物の基礎は残っていなかった。

帰る直前の奥小比内の集落風景。
か細い森林鉄道の道路とは対照的に、立派な道路が印象に残った。
(注1)森林軌道は昭和33年に廃止された。
参考文献
佐藤晃之輔『秋田・消えた村の記録』2001年 無明舎出版
藤里町史編纂委員会『藤里町史』平成25(2013)年 藤里町
秋田県の廃村レポートは、平成27年10月9日から11日にかけて『撤退の農村計画』編著者林直樹先生と、HEYANEKO様の秋田県無人集落調査に同行させていただいた時のものである。
期間中に訪れた無人集落地は15か所であるが、「学校」跡がある無人集落は4か所である。
享保15(1730)年の『六郡郡邑記』によれば「藤琴村の支郷、小比内村天和年中開く、家数15軒」と記されているが、奥小比内が含まれているかは不明である。
落ち武者であった三谷・市川の先祖が開拓したと伝えられている。学校の沿革は、以下の通りである。
明治30年 佐藤多治右エ門宅で私設教授を始めたことが奥小比内分校の始まりである。
明治37年 佐藤多治右エ門宅に特別教授場が設置される。
明治41年 藤琴尋常小学校坊中分校(後の坊中小学校)の古材を利用し、校舎を建設。
大正5年 藤琴尋常小学校坊中分校奥小比内分教室として設置。
昭和4年 坊中尋常小学校奥小比内分教場と変更。
昭和16年 坊中国民学校奥小比内分教場と変更。
昭和22年 藤琴小学校奥小比内分校と変更。
昭和37年 坊中小学校独立のため、坊中小学校奥小比内分校と改称。
昭和48年 坊中小学校奥小比内分校閉校。
集落の生業は田畑、林業であった。
集落へ通じる道は、昭和初期に敷設された森林軌道を転用したものである。(注1)
昭和21年に電気が導入され、電話は昭和30年代半ばに開通した。
昭和47年 集落再編事業の適用を受け、17戸が集団移転して無人集落となる。
学校も、集団移転により閉校した。

「奥小比内」の名前が目に留まる。
名前だけは今も残っている。

奥小比内へ続く道。
道中の写真は撮っていないが、森林鉄道の路線をそのまま道路に転用しているためスリル溢れる道路である。

奥小比内集落跡地に到着した。
造材の土場と化していた。

廃橋があるので渡ってみる。

渡った先は、自然に還っていた。
それでも周囲を見回したが、住居跡などといったものは見られなかった。

奥小比内分校を目指して歩く。
学校は、この先にあった。

作業小屋と思われる建物を横目に、学校跡地へ進む。

分岐点へ出た。
学校跡地は左の道に入って、すぐの高台に位置していた。

学校跡地は、一面笹薮で覆われていた。

他に学校跡地と思えるような場所が見当たらなかったので、位置的にも間違いない。

元来た道を戻ると、小さな三角屋根が目に付いた。
近づいてみると井戸であった。

集落を歩く。
田畑はすべて雑草で覆われている。

そんな中、石垣が残っていた。
住居跡である。

周囲を少し散策したが、建物の基礎は残っていなかった。

帰る直前の奥小比内の集落風景。
か細い森林鉄道の道路とは対照的に、立派な道路が印象に残った。
(注1)森林軌道は昭和33年に廃止された。
参考文献
佐藤晃之輔『秋田・消えた村の記録』2001年 無明舎出版
藤里町史編纂委員会『藤里町史』平成25(2013)年 藤里町
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秋田県山本郡藤里町大沢字名不知
秋田県山本郡藤里町大沢字名不知(なしらず)(平成27年10月10日探訪)
集落の開村年は不明であるが、集落の旧家は淡路金十郎家と言われており過去帳に貞享元年(1684)の戒名が残されている。
集落の沿革についての詳細な記録は調べることができなかった。
昭和27年 大沢小学校の古材を活用して藤琴小学校名不知分校として開校。
昭和37年 大沢小学校の独立に伴い、大沢小学校名不知分校と変更。
同年9月 開校10周年記念式典挙行。
昭和47年 大沢小学校名不知分校閉校。
名不知分校は昭和43年 ABS(秋田放送)より全国放映、翌昭和44年 NHKより全国放映された。
テレビに取り上げられた学校でもあった。
電気は昭和22年頃、電話は昭和30年代半ば頃に開通した。
昭和40年代に入ると転出者が現れ、昭和55年を以て全戸移転により、無人集落となった。

名不知地区手前に残る案内板。
探訪当時はイネの穂が黄金色に輝き、収穫シーズンまっただ中である。

通い作が行われており、明るい集落の印象を持った。

集落の風景。
田は黄金色に輝いているが、人家が見当たらない。

石碑を見つけたが、何も彫られておらず分からなかった。

学校跡地を探す。
HEYANEKO氏に訊くと、ちょうど真横の山にあったそうである。

学校へ続く道路は笹薮と化し、辛うじて「道路だったもの」と判別できる。

意を決し、笹薮へ飛び込んだ。
学校へ続く道路の風景である。

どうにか学校跡地付近まで来た。
植林されてしまっている。
学校敷地内に基礎が残っていないか探す。

ふと見ると、遊具の回旋搭が残っていた。
HEYANEKO氏も初めての発見で「すごい発見だ!」と驚いていた。

回旋搭の下にはうんていが倒れていた。

周囲を見ると、校舎の一部と思われるコンクリート片も残っている。

学校跡地の風景。
住民は転出しても通い作でのどかな風景が広がっているが、学校跡地は笹藪と化していた。
それでも、遊具が残っていたのは学校であることを示す唯一の名残であった。
集落の開村年は不明であるが、集落の旧家は淡路金十郎家と言われており過去帳に貞享元年(1684)の戒名が残されている。
集落の沿革についての詳細な記録は調べることができなかった。
昭和27年 大沢小学校の古材を活用して藤琴小学校名不知分校として開校。
昭和37年 大沢小学校の独立に伴い、大沢小学校名不知分校と変更。
同年9月 開校10周年記念式典挙行。
昭和47年 大沢小学校名不知分校閉校。
名不知分校は昭和43年 ABS(秋田放送)より全国放映、翌昭和44年 NHKより全国放映された。
テレビに取り上げられた学校でもあった。
電気は昭和22年頃、電話は昭和30年代半ば頃に開通した。
昭和40年代に入ると転出者が現れ、昭和55年を以て全戸移転により、無人集落となった。

名不知地区手前に残る案内板。
探訪当時はイネの穂が黄金色に輝き、収穫シーズンまっただ中である。

通い作が行われており、明るい集落の印象を持った。

集落の風景。
田は黄金色に輝いているが、人家が見当たらない。

石碑を見つけたが、何も彫られておらず分からなかった。

学校跡地を探す。
HEYANEKO氏に訊くと、ちょうど真横の山にあったそうである。

学校へ続く道路は笹薮と化し、辛うじて「道路だったもの」と判別できる。

意を決し、笹薮へ飛び込んだ。
学校へ続く道路の風景である。

どうにか学校跡地付近まで来た。
植林されてしまっている。
学校敷地内に基礎が残っていないか探す。

ふと見ると、遊具の回旋搭が残っていた。
HEYANEKO氏も初めての発見で「すごい発見だ!」と驚いていた。

回旋搭の下にはうんていが倒れていた。

周囲を見ると、校舎の一部と思われるコンクリート片も残っている。

学校跡地の風景。
住民は転出しても通い作でのどかな風景が広がっているが、学校跡地は笹藪と化していた。
それでも、遊具が残っていたのは学校であることを示す唯一の名残であった。
千歳市水明郷
千歳市水明郷(平成26年8月18日探訪)
千歳市水明郷は発電所で栄えた地域である。
ここでは「学校跡を有する廃村」として紹介しているが、現役の水力発電所であり同時に「産業遺産」でもある。
明治37年9月 鈴木梅四郎が小田良治、田代兵八、吉川三次郎、小林某(小林秀清?)らと騎馬で札幌を出発し、製紙工場に適した土地を探すべく道内を調査した。
一番最後に辿り着いた支笏湖やナッソウの滝を発見し、支笏湖地域一切の水利権を道庁に出願した。
明治40年 千歳川第一水力発電所資材運搬のための専用軌道が着工し、翌41年 千歳川第一水力発電所が完成して運転が開始された。発電所は第一から第五までの計5ヶ所である。(注1)
大正元年 千歳川第一水力発電所で働く従業員の子弟のため、千歳村立烏柵舞(ウサクマイ)特別教授場が開校した。
しかし、大正6年 王子製紙は第一発電所の傍に私立王子尋常小学校を開校し、千歳村立烏柵舞特別教授場を廃止させた。
大正期より、王子病院千歳診療所の開設(大正8年)をはじめ商店(鎌田豆腐店(大正9年頃)、及川商店・谷本商店(大正10年頃))や説教所(後の満願寺、大正14年頃)が設立された。
昭和6年 再び公立へ移管し、千歳村立烏柵舞尋常高等小学校になった。
昭和12年 千歳鉱山の開発により、千歳鉱山特別教授場(後の千歳鉱山小学校)が開校した。
昭和16年4月 千歳村立烏柵舞国民学校へと校名が変更された。
昭和22年 千歳町立烏柵舞小学校と校名が変更された。
昭和23年 千歳町立千歳中学校烏柵舞分校が設置された。
昭和26年 字名改正により烏柵舞から水明郷と変更になった。
学校名も、千歳町立水明小学校となった。
昭和27年 水明小学校開校40周年記念式典が行われた。
昭和29年9月 水明小中学校校舎が新築落成した。
昭和32年 近郊の藤の沢地区に分校(後の千歳市立藤の沢小学校)が開校した。
昭和34年9月~11月にかけ、発電所の自動化により社宅は水明に集中し、勤務員は車輌通勤となる。
昭和38年 満願寺・診療所が閉鎖。
昭和39年3月4日付の北海道新聞に水明小学校を廃校にする方針が打ち出された記事があるので引用する。
「水明小を廃校 市教委の方針 児童は支笏湖小 併置の中学校舎に転用」
学級定数の改正で市内各小学校とも教室難にあえぎ、間仕切りの必要なところも出てきたが、市教委はこの機会に学校の整理統合も必要として水明、支笏湖小の統合を考え、3日、半日市教育長が現地に赴き、学校、PTA幹部に市教委の方針を説明した。地区住民の協力が得られれば、今月中に手続きを済ませ、新学期早々から水明小を廃校して全児童を支笏湖小に移し、校舎はそのまま併置されている中学校舎に転用したい方針だ。
学級定数の改正で千歳の場合は小学校が148学級から165学級、中学校は105学級から107学級に増えるが、市の新年度予算はこれまでの定数を基準に作成したため末広、長都小など4学級の増築しか見込んでいない実情。このため市教委は特別教室を持つ小、中学校についてはこれを普通教室に転用。学級増に備えることにしているが北栄、駒の里、問幌、共和、蘭越については特別教室の転用だけでは間に合わずベニヤ板で間仕切りして使用しなければ改正定数に沿った学級編成はできないとしている。
特に市教委が頭を痛めているのは辺地の複々式、複式学級の処理で、支笏湖周辺の水明、支笏湖小の場合は児童のほとんどが王子発電所従業員の子弟で占められている関係から、企業合理化とともに児童は減る一方なのに学級を縮小するわけにはいかず、合理的な学校運営もむずかしくなるほどだった。
そこで市教委はこんどの定数改正を機会に両校の統合に乗り出すことにしたもので、計画によるとこれまで複々式で2学級ずつだったものを統合によって複式の3学級に改善することができ、また水明地区の児童も王子側が会社のバスを運行してくれれば通学の悩みもなくなるといっている。
地区住民の協力が得られれば新学期からスタートさせるが、『このままの状態が続けば水明小は2,3年のうちに単級編成になる。それでは児童も教師もあまりにかわいそうだ』と住民も統合に協力してくれるよう望んでいる。
昭和39年3月 水明小学校閉校。統合先は支笏湖小学校である。
児童たちは、バスで支笏湖小学校へ通学することとなる。
昭和41年3月 併置されていた水明中学校も閉校した。
昭和49年6月 組織改訂により勤務員は苫小牧より通勤することが決まった。
同年 9月 発電所従業員・家族のお別れ会が開催され、翌10月に発電所解散会が行われた。
(注1)それぞれの発電所完成時期であるが第一発電所(明治41年)、第二発電所(大正5年)、第三発電所(大正7年)、第四発電所(大正8年)、第五発電所(大正16年)である。但し、「大正16年」という年号は存在しないので、昭和16年の誤植の可能性がある。

千歳市水明郷は現 千歳第一発電所の公園内である。
今も発電所が稼働している。

公園内を入ると、すぐに木製の鳥居が目に留まる。

鳥居の先には山神さまが祀られている。

隣には水神さまも祀られている。

会社の職員住宅。

職員住宅があった場所は植樹されている。

隅を見ると、遊具が残されていた。
子供たちが暮らしていた名残である。

水明小学校の体育館。
校舎は既に無いが、体育館が今も管理されている。

体育館の近くには厚生会館が残されている。

鈴木梅四郎の顕彰碑。
碑文の横に文面を記したパネルが設置されていた。

第一発電所を見下ろす。
発電所の横に、私設教授場が存在していたが1世紀前の話である。
参考文献
北海道新聞札幌近郊版 「水明小を廃校 市教委の方針 児童は支笏湖小 併置の中学校舎に転用」昭和39年3月4日付
千歳市史編さん委員会『増補千歳市史』昭和58年3月発行
林嘉男「千歳第四発電所での暮らし」『志古津』第9号 平成21年3月発行
千歳市水明郷は発電所で栄えた地域である。
ここでは「学校跡を有する廃村」として紹介しているが、現役の水力発電所であり同時に「産業遺産」でもある。
明治37年9月 鈴木梅四郎が小田良治、田代兵八、吉川三次郎、小林某(小林秀清?)らと騎馬で札幌を出発し、製紙工場に適した土地を探すべく道内を調査した。
一番最後に辿り着いた支笏湖やナッソウの滝を発見し、支笏湖地域一切の水利権を道庁に出願した。
明治40年 千歳川第一水力発電所資材運搬のための専用軌道が着工し、翌41年 千歳川第一水力発電所が完成して運転が開始された。発電所は第一から第五までの計5ヶ所である。(注1)
大正元年 千歳川第一水力発電所で働く従業員の子弟のため、千歳村立烏柵舞(ウサクマイ)特別教授場が開校した。
しかし、大正6年 王子製紙は第一発電所の傍に私立王子尋常小学校を開校し、千歳村立烏柵舞特別教授場を廃止させた。
大正期より、王子病院千歳診療所の開設(大正8年)をはじめ商店(鎌田豆腐店(大正9年頃)、及川商店・谷本商店(大正10年頃))や説教所(後の満願寺、大正14年頃)が設立された。
昭和6年 再び公立へ移管し、千歳村立烏柵舞尋常高等小学校になった。
昭和12年 千歳鉱山の開発により、千歳鉱山特別教授場(後の千歳鉱山小学校)が開校した。
昭和16年4月 千歳村立烏柵舞国民学校へと校名が変更された。
昭和22年 千歳町立烏柵舞小学校と校名が変更された。
昭和23年 千歳町立千歳中学校烏柵舞分校が設置された。
昭和26年 字名改正により烏柵舞から水明郷と変更になった。
学校名も、千歳町立水明小学校となった。
昭和27年 水明小学校開校40周年記念式典が行われた。
昭和29年9月 水明小中学校校舎が新築落成した。
昭和32年 近郊の藤の沢地区に分校(後の千歳市立藤の沢小学校)が開校した。
昭和34年9月~11月にかけ、発電所の自動化により社宅は水明に集中し、勤務員は車輌通勤となる。
昭和38年 満願寺・診療所が閉鎖。
昭和39年3月4日付の北海道新聞に水明小学校を廃校にする方針が打ち出された記事があるので引用する。
「水明小を廃校 市教委の方針 児童は支笏湖小 併置の中学校舎に転用」
学級定数の改正で市内各小学校とも教室難にあえぎ、間仕切りの必要なところも出てきたが、市教委はこの機会に学校の整理統合も必要として水明、支笏湖小の統合を考え、3日、半日市教育長が現地に赴き、学校、PTA幹部に市教委の方針を説明した。地区住民の協力が得られれば、今月中に手続きを済ませ、新学期早々から水明小を廃校して全児童を支笏湖小に移し、校舎はそのまま併置されている中学校舎に転用したい方針だ。
学級定数の改正で千歳の場合は小学校が148学級から165学級、中学校は105学級から107学級に増えるが、市の新年度予算はこれまでの定数を基準に作成したため末広、長都小など4学級の増築しか見込んでいない実情。このため市教委は特別教室を持つ小、中学校についてはこれを普通教室に転用。学級増に備えることにしているが北栄、駒の里、問幌、共和、蘭越については特別教室の転用だけでは間に合わずベニヤ板で間仕切りして使用しなければ改正定数に沿った学級編成はできないとしている。
特に市教委が頭を痛めているのは辺地の複々式、複式学級の処理で、支笏湖周辺の水明、支笏湖小の場合は児童のほとんどが王子発電所従業員の子弟で占められている関係から、企業合理化とともに児童は減る一方なのに学級を縮小するわけにはいかず、合理的な学校運営もむずかしくなるほどだった。
そこで市教委はこんどの定数改正を機会に両校の統合に乗り出すことにしたもので、計画によるとこれまで複々式で2学級ずつだったものを統合によって複式の3学級に改善することができ、また水明地区の児童も王子側が会社のバスを運行してくれれば通学の悩みもなくなるといっている。
地区住民の協力が得られれば新学期からスタートさせるが、『このままの状態が続けば水明小は2,3年のうちに単級編成になる。それでは児童も教師もあまりにかわいそうだ』と住民も統合に協力してくれるよう望んでいる。
昭和39年3月 水明小学校閉校。統合先は支笏湖小学校である。
児童たちは、バスで支笏湖小学校へ通学することとなる。
昭和41年3月 併置されていた水明中学校も閉校した。
昭和49年6月 組織改訂により勤務員は苫小牧より通勤することが決まった。
同年 9月 発電所従業員・家族のお別れ会が開催され、翌10月に発電所解散会が行われた。
(注1)それぞれの発電所完成時期であるが第一発電所(明治41年)、第二発電所(大正5年)、第三発電所(大正7年)、第四発電所(大正8年)、第五発電所(大正16年)である。但し、「大正16年」という年号は存在しないので、昭和16年の誤植の可能性がある。

千歳市水明郷は現 千歳第一発電所の公園内である。
今も発電所が稼働している。

公園内を入ると、すぐに木製の鳥居が目に留まる。

鳥居の先には山神さまが祀られている。

隣には水神さまも祀られている。

会社の職員住宅。

職員住宅があった場所は植樹されている。

隅を見ると、遊具が残されていた。
子供たちが暮らしていた名残である。

水明小学校の体育館。
校舎は既に無いが、体育館が今も管理されている。

体育館の近くには厚生会館が残されている。

鈴木梅四郎の顕彰碑。
碑文の横に文面を記したパネルが設置されていた。

第一発電所を見下ろす。
発電所の横に、私設教授場が存在していたが1世紀前の話である。
参考文献
北海道新聞札幌近郊版 「水明小を廃校 市教委の方針 児童は支笏湖小 併置の中学校舎に転用」昭和39年3月4日付
千歳市史編さん委員会『増補千歳市史』昭和58年3月発行
林嘉男「千歳第四発電所での暮らし」『志古津』第9号 平成21年3月発行
千歳市藤の沢
千歳市藤の沢(平成26年8月16日探訪)
藤の沢は林業で栄えた集落であった。
元々は、牛がたくさんいたことから「ベコの沢」と呼ばれていたが、「山三ふじや」(渡部榮蔵創業)が木材部を創設(後の渡部木材)し、造林・造材を行った現場である。
「藤の沢」は「ふじや」の屋号に由来するものである。
大正3年 渡部榮蔵は関久五郎、宝賀幸吉らの協力を得て渡部木材部を設立した。
造材、造林事業を拡大し、従事する杣夫や馬車追いの人々が暮らしていた。
昭和25年12月 渡部木材部は渡部木材株式会社に変更した。
学校は昭和34年2月 千歳市立水明小学校藤の沢分校として開校した。
昭和35年の北海道新聞に、藤の沢分校校舎の建設に関する記事があるので引用する。
千歳市街と支笏湖の中間にある千歳市藤の沢の水名小、中校藤の沢分校は本校への距離が10キロもあるため、昨年2月恵庭営林署のパイプ・ハウスを利用して設置された。
同営林署では9月末から同署の予算で木造平屋90平方メートルの新校舎建築を進めていたもので、完成して小学生8人、中学生4人の同分校の生徒は新校舎に移ることになった。
藤の沢部落は17世帯、全部営林署関係の人たち。テラスもあるこのシャレた校舎はいま最後の仕上げにペンキ塗りの最中。生徒たちばかりではなく、父兄も毎日新校舎の建築が進むのを眺めて喜んでいる。
この記事を読むと、恵庭営林署の職員も藤の沢で生活していたことになる。
昭和39年4月 水明小学校(本校)の閉校により、千歳小学校藤の沢分校と変更された。
昭和41年4月 藤の沢小学校と変更し、独立校となった。
昭和42年3月 藤の沢小学校 閉校。
閉校当時の新聞記事があるので、引用する。
「わが母校もきょう限り 悲しみ胸に二人巣立つ 卒業式と同時に廃校 藤の沢小」
市街地から支笏湖方面へ12キロも山奥にある先生2人、生徒4人の小さな学校―市立藤の沢小=八十木信義校長=で22日卒業式と廃校式がいっしょに行われた。
同小は34年2月、水明中藤の沢分校として小、中学生10人で開校した。一時は17人の児童、生徒がいたこともあるが、市街地から遠く不便なためつぎつぎと部落を去る人が出、いまでは恵庭営林署造林作業場、教員住宅2戸を除くと一般住宅はたった2戸。昨年4月、藤の沢小となったが同年11月、7人の児童がいっぺんに転校して残ったのは4人。今春はこのうち2人が卒業することになってついに廃校が決定。卒業式と廃校式をいっしょにすることになった。
この日は半田市教育長、千歳中藤原、千歳小平井両校長らも出席。八十木校長の司会、石田正昭教諭のオルガン伴奏で静かに進められた。卒業して千歳中に進学する小村弘君、和泉とみ子さんが2人いっしょに答辞を読んだが、卒業と同時に長い間、学び遊んだ学校もなくなる-とあってしんみり、声もとぎれがちだった。
残る2人の児童は4月から千歳小へ転校する。
なおこの日、市教委はまだ同小の建て物がなかった33年からこの地に住み、勉強を教えていた増田実、イク夫妻、現在の校舎を建築した恵庭営林署に感謝状と記念品を贈った。
渡部木材は、昭和47年2月に閉鎖された。

藤の沢林道前にあるバス停留所。
本数は少ないが、バスで訪れることも可能である。

林道の入口。
学校跡地を知る知人の話では「20分くらいで着きますよ」と言う。

歩くこと、およそ20分。学校跡地に到着した。

校舎の基礎が残されている。

校舎跡地全景。
跡地が地形図で分かっていたので、容易に見つけることができた。

学校跡地を望む。
学校や集落を知らなければ、ただの林道のT字路にしか過ぎない。

学校跡地のそばに、プレハブの倉庫があった。
「安全第一」の看板が掲げられているが、営林署関係の建物かは不明である。

少し進むと、この地に入植した農家の倉庫跡が見えた。

航空写真を見ると倉庫の前には家が建っているが、既にイタドリで覆われていた。

倉庫跡より学校跡地方面を望む。

学校跡へ戻る道中、水源地を見つけた。
急斜面をよじ登る。

水源地の傍に倉庫が残っていたが、水源地との関係はわからなかった。

集落跡地の風景。
植林されており、住宅の基礎は見られなかった。

だが、川底を見ると瀬戸物の欠片が沈んでいた。
手に取って暫し眺めて、また元の川底に戻した。
余談
この探訪後、クマが出没して北海道内のニュースに取り上げられた。
あちこちの集落跡地を訪ねているが、クマには気を付けたいものである。
参考文献
『角川日本地名大辞典1北海道上巻』 昭和62年10月8日初版/平成5年4月30日再販
『北海道新聞札幌近郊版』「ペンキ塗り急ぐ 藤の沢水明小、中校 完成間ぢか」 昭和35年11月17日付
『北海道新聞札幌近郊版』「わが母校もきょう限り 悲しみ胸に二人巣立つ 卒業式と同時に廃校 藤の沢小」昭和42年3月21日付
『株式会社山三ふじや創業100年記念社史』 株式会社山三ふじや創業100年記念社史編集委員会 2005年11月
藤の沢は林業で栄えた集落であった。
元々は、牛がたくさんいたことから「ベコの沢」と呼ばれていたが、「山三ふじや」(渡部榮蔵創業)が木材部を創設(後の渡部木材)し、造林・造材を行った現場である。
「藤の沢」は「ふじや」の屋号に由来するものである。
大正3年 渡部榮蔵は関久五郎、宝賀幸吉らの協力を得て渡部木材部を設立した。
造材、造林事業を拡大し、従事する杣夫や馬車追いの人々が暮らしていた。
昭和25年12月 渡部木材部は渡部木材株式会社に変更した。
学校は昭和34年2月 千歳市立水明小学校藤の沢分校として開校した。
昭和35年の北海道新聞に、藤の沢分校校舎の建設に関する記事があるので引用する。
千歳市街と支笏湖の中間にある千歳市藤の沢の水名小、中校藤の沢分校は本校への距離が10キロもあるため、昨年2月恵庭営林署のパイプ・ハウスを利用して設置された。
同営林署では9月末から同署の予算で木造平屋90平方メートルの新校舎建築を進めていたもので、完成して小学生8人、中学生4人の同分校の生徒は新校舎に移ることになった。
藤の沢部落は17世帯、全部営林署関係の人たち。テラスもあるこのシャレた校舎はいま最後の仕上げにペンキ塗りの最中。生徒たちばかりではなく、父兄も毎日新校舎の建築が進むのを眺めて喜んでいる。
この記事を読むと、恵庭営林署の職員も藤の沢で生活していたことになる。
昭和39年4月 水明小学校(本校)の閉校により、千歳小学校藤の沢分校と変更された。
昭和41年4月 藤の沢小学校と変更し、独立校となった。
昭和42年3月 藤の沢小学校 閉校。
閉校当時の新聞記事があるので、引用する。
「わが母校もきょう限り 悲しみ胸に二人巣立つ 卒業式と同時に廃校 藤の沢小」
市街地から支笏湖方面へ12キロも山奥にある先生2人、生徒4人の小さな学校―市立藤の沢小=八十木信義校長=で22日卒業式と廃校式がいっしょに行われた。
同小は34年2月、水明中藤の沢分校として小、中学生10人で開校した。一時は17人の児童、生徒がいたこともあるが、市街地から遠く不便なためつぎつぎと部落を去る人が出、いまでは恵庭営林署造林作業場、教員住宅2戸を除くと一般住宅はたった2戸。昨年4月、藤の沢小となったが同年11月、7人の児童がいっぺんに転校して残ったのは4人。今春はこのうち2人が卒業することになってついに廃校が決定。卒業式と廃校式をいっしょにすることになった。
この日は半田市教育長、千歳中藤原、千歳小平井両校長らも出席。八十木校長の司会、石田正昭教諭のオルガン伴奏で静かに進められた。卒業して千歳中に進学する小村弘君、和泉とみ子さんが2人いっしょに答辞を読んだが、卒業と同時に長い間、学び遊んだ学校もなくなる-とあってしんみり、声もとぎれがちだった。
残る2人の児童は4月から千歳小へ転校する。
なおこの日、市教委はまだ同小の建て物がなかった33年からこの地に住み、勉強を教えていた増田実、イク夫妻、現在の校舎を建築した恵庭営林署に感謝状と記念品を贈った。
渡部木材は、昭和47年2月に閉鎖された。

藤の沢林道前にあるバス停留所。
本数は少ないが、バスで訪れることも可能である。

林道の入口。
学校跡地を知る知人の話では「20分くらいで着きますよ」と言う。

歩くこと、およそ20分。学校跡地に到着した。

校舎の基礎が残されている。

校舎跡地全景。
跡地が地形図で分かっていたので、容易に見つけることができた。

学校跡地を望む。
学校や集落を知らなければ、ただの林道のT字路にしか過ぎない。

学校跡地のそばに、プレハブの倉庫があった。
「安全第一」の看板が掲げられているが、営林署関係の建物かは不明である。

少し進むと、この地に入植した農家の倉庫跡が見えた。

航空写真を見ると倉庫の前には家が建っているが、既にイタドリで覆われていた。

倉庫跡より学校跡地方面を望む。

学校跡へ戻る道中、水源地を見つけた。
急斜面をよじ登る。

水源地の傍に倉庫が残っていたが、水源地との関係はわからなかった。

集落跡地の風景。
植林されており、住宅の基礎は見られなかった。

だが、川底を見ると瀬戸物の欠片が沈んでいた。
手に取って暫し眺めて、また元の川底に戻した。
余談
この探訪後、クマが出没して北海道内のニュースに取り上げられた。
あちこちの集落跡地を訪ねているが、クマには気を付けたいものである。
参考文献
『角川日本地名大辞典1北海道上巻』 昭和62年10月8日初版/平成5年4月30日再販
『北海道新聞札幌近郊版』「ペンキ塗り急ぐ 藤の沢水明小、中校 完成間ぢか」 昭和35年11月17日付
『北海道新聞札幌近郊版』「わが母校もきょう限り 悲しみ胸に二人巣立つ 卒業式と同時に廃校 藤の沢小」昭和42年3月21日付
『株式会社山三ふじや創業100年記念社史』 株式会社山三ふじや創業100年記念社史編集委員会 2005年11月
平成28年、今年も宜しくお願いいたします。
新しい一年が始まりました。
昨年は何かとお世話になり、有難うございました。
今年の大きな目標は大学の卒業、就職の内定が一番です。
しかし暇を見て北海道内の無人集落(廃村)を中心に調べつつ、縁ある方の聞き取り記録を続けたいと思っています。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
平成28(2016)年 元旦 成瀬 健太
昨年は何かとお世話になり、有難うございました。
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平成28(2016)年 元旦 成瀬 健太