稚内市三井沢
稚内市三井沢(平成28年5月1日探訪)
稚内市三井沢は炭鉱集落であった。
昭和15年 三井栄一が三井砿業宗谷炭砿を設立した。
当時は主に、金山組に所属していた朝鮮人によって採炭されていた。
やがて終戦を迎え、樺太(サハリン)からの引き揚げ者が炭鉱に入っていった。
昭和21年3月 宗谷炭砿株式会社と変更。中村還一が社長に就任すると規模拡大され、三井沢一帯は炭鉱住宅、配給所、商店、学校ができた。
昭和23年 三井沢-曲淵駅を結ぶ送炭用の索道が架設された。索道は石炭を送るだけではなく、食糧、坑木、手紙等と云ったものも送られ、連絡機関の一面も持ち合せていた。
昭和38年12月 選炭工場付近からの火災が切っ掛けとなり、炭鉱は閉山。学校も閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和20年11月19日 曲淵国民学校三井沢分教場として開校。
昭和21年 7月 1日 三井沢国民学校として独立。
昭和22年 4月 1日 三井沢小学校と改称。
昭和27年 4月 1日 三井沢中学校併置。
昭和39年 6月10日 閉校。
宗谷炭砿閉山関係の記事を取り上げる。
18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式
「〝幸せは俺らのねがい……〟-会場に響く〝幸福の歌〟の合唱。だが皆んなが未来の幸福な生活を願って頑張りながら、遂に幸せは訪づれなかった。三井沢にある宗谷炭礦(田岡義彦社長)は18年の歴史をとじ事業閉鎖の止むなき状態に見舞われ、15日には悲しみの閉山式を行った。そして同時に同礦と共に歩んできた同礦労仂組合、職員組合も解散大会を開き、心尽しの料理で18年間の過去を振り返り、お互いに新しい道で幸福を掴もう-と語りかけていた。
同礦があらゆる方面からの融資によって再建に進みながら遂に再建できなかったのは昨年暮に突然襲った選炭機の焼失によるもので心臓部を失い機能は全く停止した。そしてヤマ元では遂に再建をあきらめ、今後の方策を考え出し、同礦の政府買上げに努力をはらったこの結果〝保安買上げ〟として正式に決った。
同礦は現在までに賃金未払いが約6000万円。これに対する保安買上げ価格は1500万円。苦労しながら頑張った結果の報いとしては極めて冷たいもの。だが、どうしにもならない。いまは新しい道に希望を持って静かに毎日を送っている。
閉山式にはヤマ元にいる従業員全員が出席し、田岡社長から閉山への経過、そして深く従業員に詫びる挨拶があったが、従業員は誰をもウラんではいず、予想以上に明るい表情だった。このあと職員、労仂組合の解散を決議、今後の幸福を夢見ながら〝幸福の歌〟を合唱。精神的にも一応のケリがつき、ヤマと共に夫と共にして来た奥さん達のサービスでささやかながら酒宴に入り往時を懐しみ、明日からの道について語りながら〝お互いに頑張ろう〟と約束し合っていた。なお同礦従業員の就職先はそれぞれ別だが、ヤマの男はやはりヤマを選ぶのがほとんどで、その約半数は5月から着手される猿払新坑開発に従事することになっている。」(原文ママ)(『日刊宗谷』昭和39年3月17日版)
閉山による最後の卒業式の記事は以下の通りである。
閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟
「【稚内】宗谷炭鉱は18年間の歴史を閉じ15日付で閉山したが、その閉山の炭鉱地区の市立三井沢小中学校でヤマを離れる子供たちの最後の卒業、終業式が行われ、先生も生徒もなごり惜しげだった。
三井沢小中は、国鉄天北線曲淵駅から5,6キロ奥に入った宗谷炭鉱炭住街にあり、炭鉱員の子供たちのための学校。炭鉱が開鉱した21年10月にまず小学校が三井沢国民学校として開校、中学校は28年に三井沢中学校として設けられた。小、中学生が同じ校舎で学ぶちっちゃな学校だが、炭鉱の18年間の歴史とともに歩み、炭住街の〝文化センター〟でもあった。
しかし、炭鉱が閉山となり、ほとんどの鉱員が5月頃までにヤマを去ると、学校はもはや閉校するほかなさそう。市教委ではまだ態度をはっきりしていないが『閉校するか、それとも規模を縮小して曲淵校の分校にするかどちらか』といっており、いずれにしても子供たちにとっては、これまでのかたちの三井沢校はなくなるわけ。
紅白の幕を張りめぐらした講堂に集まった小学生65人、中学生31人。それに父兄たちはみな『これが最後の卒業、終業式だね』とさびしそう。しかもこの1年間すでにヤマを去った子供たちは51人にものぼり『いっしょにこの式を終えたかったなあ』と生徒たちは先に去った友だちのことをなつかしげ。
大谷幸一校長が『別の学校に行っても、みなくじけずにしっかり勉強してください』と励ましのことばとともに小学校を卒業する久保節子さんら11人、中学校卒業の川村努君ら14人に卒業証書を手渡し式場は水を打ったような静けさ。おさない子供たちも楽しかった毎日に思いをはせ、その悲しみをジッと小さな胸に折りたたんでいるようだ。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』
また、同日のコラム「拡大鏡」にも取り上げられているので転載する。
ヤマとお別れに雪像群
「〇…校舎前の広場に雪像群が並んだ。『軍艦』『考える人』『クマ』などいずれも3メートルから4メートルはあろうという大きなものばかり。閉山した宗谷炭鉱のマチの三井沢小中学の全生徒96人が、おとうさん、おかあさんといっしょにヤマをおりることになり、これで学校ともお別れ、と体育館の時間たん精込めて作ったのが、この雪像群。
〇…3月はじめからとりかかってさきごろようやく完成、15日の卒業式に間に合わせることができた。式に出席した浜森市長、赤川教育長はじめ、来賓、父兄たちは『りっぱなものですね、子供たちもこの雪像のように大きく、たうましく成長してほしいもの』とちょっとシュンとした表情だった。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』

「三井沢」の地名が残る林道の表示板。
電柱の標識にも「三井沢」とあるので、名前は今も残っている。

林道風景。
しかし、集落や学校はこの先には無いので、引き返す。

林道より先の風景。
この先に集落があった。

先へ進むと、道路左手が湿地帯と化している場所を見つけた。

宗谷炭砿の遺構が残っている。
夏になれば、草木に覆われて発見は難しい。

同じく、炭鉱の遺構。
残されている遺構は、索道ではないかと思われる。

折角なので、宗谷炭砿のズリ山を登ってみる。

ズリ山頂上。
遺構関係は見当たらなかった。

ズリ山より周囲を俯瞰する。

先に進むと、道路右手にコンクリートの遺構を見つけた。

位置的に考えると、学校跡地と思われる。
その根拠として
①宗谷炭砿が稼動していた時代を考えると、コンクリートが使われていた建物は炭鉱施設を除くと公的な建物に限られる。
②地形図と照合すると、文マークの位置が合致する。 ことである。

記念碑も建立されていないのにもかかわらず、学校の基礎が残っている。
真夏なら、発見は困難である。

反対側より。
植樹されたと思われるマツの木も、数本残っている。

学校より奥の風景。
学校より奥は、道路左手に墓地があった。
炭鉱や集落の存在を知らなければ、ただの道路である。
しかし昭和30年代後半までは、学校も置かれていた集落が存在した。
引用・参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市編さん委員会1999『稚内市史第2巻』 稚内市
北海道新聞1964「閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟」『北海道新聞留萌・宗谷版』3月18日
日刊宗谷1964「18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式」『日刊宗谷』3月17日
稚内市三井沢は炭鉱集落であった。
昭和15年 三井栄一が三井砿業宗谷炭砿を設立した。
当時は主に、金山組に所属していた朝鮮人によって採炭されていた。
やがて終戦を迎え、樺太(サハリン)からの引き揚げ者が炭鉱に入っていった。
昭和21年3月 宗谷炭砿株式会社と変更。中村還一が社長に就任すると規模拡大され、三井沢一帯は炭鉱住宅、配給所、商店、学校ができた。
昭和23年 三井沢-曲淵駅を結ぶ送炭用の索道が架設された。索道は石炭を送るだけではなく、食糧、坑木、手紙等と云ったものも送られ、連絡機関の一面も持ち合せていた。
昭和38年12月 選炭工場付近からの火災が切っ掛けとなり、炭鉱は閉山。学校も閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
昭和20年11月19日 曲淵国民学校三井沢分教場として開校。
昭和21年 7月 1日 三井沢国民学校として独立。
昭和22年 4月 1日 三井沢小学校と改称。
昭和27年 4月 1日 三井沢中学校併置。
昭和39年 6月10日 閉校。
宗谷炭砿閉山関係の記事を取り上げる。
18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式
「〝幸せは俺らのねがい……〟-会場に響く〝幸福の歌〟の合唱。だが皆んなが未来の幸福な生活を願って頑張りながら、遂に幸せは訪づれなかった。三井沢にある宗谷炭礦(田岡義彦社長)は18年の歴史をとじ事業閉鎖の止むなき状態に見舞われ、15日には悲しみの閉山式を行った。そして同時に同礦と共に歩んできた同礦労仂組合、職員組合も解散大会を開き、心尽しの料理で18年間の過去を振り返り、お互いに新しい道で幸福を掴もう-と語りかけていた。
同礦があらゆる方面からの融資によって再建に進みながら遂に再建できなかったのは昨年暮に突然襲った選炭機の焼失によるもので心臓部を失い機能は全く停止した。そしてヤマ元では遂に再建をあきらめ、今後の方策を考え出し、同礦の政府買上げに努力をはらったこの結果〝保安買上げ〟として正式に決った。
同礦は現在までに賃金未払いが約6000万円。これに対する保安買上げ価格は1500万円。苦労しながら頑張った結果の報いとしては極めて冷たいもの。だが、どうしにもならない。いまは新しい道に希望を持って静かに毎日を送っている。
閉山式にはヤマ元にいる従業員全員が出席し、田岡社長から閉山への経過、そして深く従業員に詫びる挨拶があったが、従業員は誰をもウラんではいず、予想以上に明るい表情だった。このあと職員、労仂組合の解散を決議、今後の幸福を夢見ながら〝幸福の歌〟を合唱。精神的にも一応のケリがつき、ヤマと共に夫と共にして来た奥さん達のサービスでささやかながら酒宴に入り往時を懐しみ、明日からの道について語りながら〝お互いに頑張ろう〟と約束し合っていた。なお同礦従業員の就職先はそれぞれ別だが、ヤマの男はやはりヤマを選ぶのがほとんどで、その約半数は5月から着手される猿払新坑開発に従事することになっている。」(原文ママ)(『日刊宗谷』昭和39年3月17日版)
閉山による最後の卒業式の記事は以下の通りである。
閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟
「【稚内】宗谷炭鉱は18年間の歴史を閉じ15日付で閉山したが、その閉山の炭鉱地区の市立三井沢小中学校でヤマを離れる子供たちの最後の卒業、終業式が行われ、先生も生徒もなごり惜しげだった。
三井沢小中は、国鉄天北線曲淵駅から5,6キロ奥に入った宗谷炭鉱炭住街にあり、炭鉱員の子供たちのための学校。炭鉱が開鉱した21年10月にまず小学校が三井沢国民学校として開校、中学校は28年に三井沢中学校として設けられた。小、中学生が同じ校舎で学ぶちっちゃな学校だが、炭鉱の18年間の歴史とともに歩み、炭住街の〝文化センター〟でもあった。
しかし、炭鉱が閉山となり、ほとんどの鉱員が5月頃までにヤマを去ると、学校はもはや閉校するほかなさそう。市教委ではまだ態度をはっきりしていないが『閉校するか、それとも規模を縮小して曲淵校の分校にするかどちらか』といっており、いずれにしても子供たちにとっては、これまでのかたちの三井沢校はなくなるわけ。
紅白の幕を張りめぐらした講堂に集まった小学生65人、中学生31人。それに父兄たちはみな『これが最後の卒業、終業式だね』とさびしそう。しかもこの1年間すでにヤマを去った子供たちは51人にものぼり『いっしょにこの式を終えたかったなあ』と生徒たちは先に去った友だちのことをなつかしげ。
大谷幸一校長が『別の学校に行っても、みなくじけずにしっかり勉強してください』と励ましのことばとともに小学校を卒業する久保節子さんら11人、中学校卒業の川村努君ら14人に卒業証書を手渡し式場は水を打ったような静けさ。おさない子供たちも楽しかった毎日に思いをはせ、その悲しみをジッと小さな胸に折りたたんでいるようだ。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』
また、同日のコラム「拡大鏡」にも取り上げられているので転載する。
ヤマとお別れに雪像群
「〇…校舎前の広場に雪像群が並んだ。『軍艦』『考える人』『クマ』などいずれも3メートルから4メートルはあろうという大きなものばかり。閉山した宗谷炭鉱のマチの三井沢小中学の全生徒96人が、おとうさん、おかあさんといっしょにヤマをおりることになり、これで学校ともお別れ、と体育館の時間たん精込めて作ったのが、この雪像群。
〇…3月はじめからとりかかってさきごろようやく完成、15日の卒業式に間に合わせることができた。式に出席した浜森市長、赤川教育長はじめ、来賓、父兄たちは『りっぱなものですね、子供たちもこの雪像のように大きく、たうましく成長してほしいもの』とちょっとシュンとした表情だった。」(原文ママ)『北海道新聞 留萌・宗谷版 昭和39年3月18日版』

「三井沢」の地名が残る林道の表示板。
電柱の標識にも「三井沢」とあるので、名前は今も残っている。

林道風景。
しかし、集落や学校はこの先には無いので、引き返す。

林道より先の風景。
この先に集落があった。

先へ進むと、道路左手が湿地帯と化している場所を見つけた。

宗谷炭砿の遺構が残っている。
夏になれば、草木に覆われて発見は難しい。

同じく、炭鉱の遺構。
残されている遺構は、索道ではないかと思われる。

折角なので、宗谷炭砿のズリ山を登ってみる。

ズリ山頂上。
遺構関係は見当たらなかった。

ズリ山より周囲を俯瞰する。

先に進むと、道路右手にコンクリートの遺構を見つけた。

位置的に考えると、学校跡地と思われる。
その根拠として
①宗谷炭砿が稼動していた時代を考えると、コンクリートが使われていた建物は炭鉱施設を除くと公的な建物に限られる。
②地形図と照合すると、文マークの位置が合致する。 ことである。

記念碑も建立されていないのにもかかわらず、学校の基礎が残っている。
真夏なら、発見は困難である。

反対側より。
植樹されたと思われるマツの木も、数本残っている。

学校より奥の風景。
学校より奥は、道路左手に墓地があった。
炭鉱や集落の存在を知らなければ、ただの道路である。
しかし昭和30年代後半までは、学校も置かれていた集落が存在した。
引用・参考文献
稚内市史編纂室1968『稚内市史』稚内市
稚内市編さん委員会1999『稚内市史第2巻』 稚内市
北海道新聞1964「閉山で最後の卒業式 三井沢小中校 みんなさびしそう 校長先生が励ます〝転校後もシッカリ〟」『北海道新聞留萌・宗谷版』3月18日
日刊宗谷1964「18年のヤマに別れを告げ 宗谷炭砿閉山 明日への幸せを願い全従業員が出席して解散式」『日刊宗谷』3月17日
スポンサーサイト