釧路市阿寒町雄別
釧路市阿寒町雄別(平成28年2月13日・5月27日探訪)
阿寒町(現 釧路市)雄別は炭鉱で栄えた地域である。
大正8年 芝義太郎・宗像政蔵が「北海道炭礦鉄道株式会社」を創設したことから始まった。
大正9年 雄別-釧路間の鉄道敷設、開坑作業に着手した。
大正12年 鉄道工事が完成、本格的な採炭や営業が始まった。
大正13年 三菱鉱業株式会社に吸収され「雄別炭礦鉄道株式会社」と社名変更。
昭和13年 雄別通洞完成。
昭和19年 政府命令により従業員と設備を九州の三菱系炭砿へ転換し、採炭創業は中止。
配置転換先は鯰田・上山田・飯塚等の炭砿であった。
昭和20年 終戦とともに操業再開。
昭和21年 財閥解体により三菱鉱業株式会社から分離独立。
昭和34年 経営合理化により「雄別炭礦株式会社」に変更。
昭和44年 茂尻礦(赤平市)ガス爆発事故、再建計画により企業分離を行ったが同年7月閉山。
昭和45年 尺別・上茶路炭礦とともに企業ぐるみ閉山(2月27日)
学校の沿革は次のとおりである。
雄別小学校
大正12年3月 私立雄別尋常小学校として開校
大正13年6月 大祥内分教場を設置
昭和3年9月 高等科を設置
昭和8年3月 公立雄別尋常小学校と改称
昭和14年4月 大祥内分教場閉校
昭和16年4月 雄別国民学校と改称
昭和22年4月 雄別小学校と改称
昭和45年5月 閉校
雄別中学校
昭和22年5月 雄別中学校開校
昭和45年5月 閉校

平成28年2月、他大学の友人と一緒に卒業旅行も兼ねて調査で訪れた。
雄別炭砿記念碑は雄別で最後まで残った実相寺(法華宗)の隣接地である。

クルマの出入りがあるが、地元の方の話によると鹿撃ちで入山しているとのことである。

雄別商事(購買)の建物が見えてきた。
往時はこの上にバーもあった。

内部。落書きが酷く、老朽化も進んでいる。

購買を後にして進むと、選炭工場付近が見えてきた。
総合煙突は健在である。

坑木運搬のトロッコの一部である。

正面には雄別炭砿病院が見えた。
雄別炭砿病院は作家 渡辺淳一氏が整形外科の出張医として3度勤務している。

この建物は昭和43年12月 雄別工作所が設計し東京年金病院を参考にして、1億1200万円で建築したものである。

病院の後ろには雄別通洞がある。
既存の坑口を集約するために掘進作業を進め、昭和13年に完成した。

雄別通洞を後にして周辺を歩く。

選炭工場上部より眺める。
ここから先は5月下旬、HEYANEKO氏らとともに訪れたときのものである。

雄別炭砿の手前にガソリンスタンドの跡がある。
この近くに雄別中学校があったが、現在は校門のみ現存している。

雪があるのと無いのとでは、印象も違って見える。
3ヶ月ぶりの再訪となった。

雄別商事も木々に覆われてしまっている。

周辺を歩くと建物の基礎や浴槽などが残っている。

足元を見ると、かつてあった商店の看板の一部が見つかった。
お茶屋さんのようである。

先へ進むと山神社の石段が残っていた。
上ってみる。

山神社が見えた。
恐らく、拝殿跡と思われる。
基礎しか残っていないが、折角なので参拝をした。
神社を降り、雄別小学校跡地へ足を運ぶ。

学校跡地付近。石垣の上が校舎跡とのことである。

学校跡地は、果てしなく広い平地と基礎が広がっていた。
参考文献
1986『阿寒町百年史』
布伏内連合町内会ウルトラウォーク実行委員会2008『雄別炭砿アーカイブ』
阿寒町(現 釧路市)雄別は炭鉱で栄えた地域である。
大正8年 芝義太郎・宗像政蔵が「北海道炭礦鉄道株式会社」を創設したことから始まった。
大正9年 雄別-釧路間の鉄道敷設、開坑作業に着手した。
大正12年 鉄道工事が完成、本格的な採炭や営業が始まった。
大正13年 三菱鉱業株式会社に吸収され「雄別炭礦鉄道株式会社」と社名変更。
昭和13年 雄別通洞完成。
昭和19年 政府命令により従業員と設備を九州の三菱系炭砿へ転換し、採炭創業は中止。
配置転換先は鯰田・上山田・飯塚等の炭砿であった。
昭和20年 終戦とともに操業再開。
昭和21年 財閥解体により三菱鉱業株式会社から分離独立。
昭和34年 経営合理化により「雄別炭礦株式会社」に変更。
昭和44年 茂尻礦(赤平市)ガス爆発事故、再建計画により企業分離を行ったが同年7月閉山。
昭和45年 尺別・上茶路炭礦とともに企業ぐるみ閉山(2月27日)
学校の沿革は次のとおりである。
雄別小学校
大正12年3月 私立雄別尋常小学校として開校
大正13年6月 大祥内分教場を設置
昭和3年9月 高等科を設置
昭和8年3月 公立雄別尋常小学校と改称
昭和14年4月 大祥内分教場閉校
昭和16年4月 雄別国民学校と改称
昭和22年4月 雄別小学校と改称
昭和45年5月 閉校
雄別中学校
昭和22年5月 雄別中学校開校
昭和45年5月 閉校

平成28年2月、他大学の友人と一緒に卒業旅行も兼ねて調査で訪れた。
雄別炭砿記念碑は雄別で最後まで残った実相寺(法華宗)の隣接地である。

クルマの出入りがあるが、地元の方の話によると鹿撃ちで入山しているとのことである。

雄別商事(購買)の建物が見えてきた。
往時はこの上にバーもあった。

内部。落書きが酷く、老朽化も進んでいる。

購買を後にして進むと、選炭工場付近が見えてきた。
総合煙突は健在である。

坑木運搬のトロッコの一部である。

正面には雄別炭砿病院が見えた。
雄別炭砿病院は作家 渡辺淳一氏が整形外科の出張医として3度勤務している。

この建物は昭和43年12月 雄別工作所が設計し東京年金病院を参考にして、1億1200万円で建築したものである。

病院の後ろには雄別通洞がある。
既存の坑口を集約するために掘進作業を進め、昭和13年に完成した。

雄別通洞を後にして周辺を歩く。

選炭工場上部より眺める。
ここから先は5月下旬、HEYANEKO氏らとともに訪れたときのものである。

雄別炭砿の手前にガソリンスタンドの跡がある。
この近くに雄別中学校があったが、現在は校門のみ現存している。

雪があるのと無いのとでは、印象も違って見える。
3ヶ月ぶりの再訪となった。

雄別商事も木々に覆われてしまっている。

周辺を歩くと建物の基礎や浴槽などが残っている。

足元を見ると、かつてあった商店の看板の一部が見つかった。
お茶屋さんのようである。

先へ進むと山神社の石段が残っていた。
上ってみる。

山神社が見えた。
恐らく、拝殿跡と思われる。
基礎しか残っていないが、折角なので参拝をした。
神社を降り、雄別小学校跡地へ足を運ぶ。

学校跡地付近。石垣の上が校舎跡とのことである。

学校跡地は、果てしなく広い平地と基礎が広がっていた。
参考文献
1986『阿寒町百年史』
布伏内連合町内会ウルトラウォーク実行委員会2008『雄別炭砿アーカイブ』
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浦河町滝の上
浦河町滝の上(平成23年10月22日・平成28年5月30日探訪)
滝の上は、戦後に開拓された集落であった。
次男・三男対策の一環として日高支庁が昭和26年12月20日上野深(カミノブカ)奥地に13戸入植させる。
しかし開拓地入口から小学校(第二野深小学校)まで8km余もあった。
児童の通学に困難があるため陳情懇願したところ、昭和30年4月1日 第二野深小学校滝の上分校として開校した。開校当時の児童数8名(男3名、女5名)。本校より5,6km奥にあった教員住宅21坪(木造平屋)のうち、10坪を教室として活用した。
分校の位置は荻伏市街の東北方20km、標高150mの河岸段丘地であった。
元浦川の渓谷があり景勝地としては素晴らしい地域であったが、丘陵地のため水の便も悪く造田ができなかった。主要作物は蔬菜やバレイショの類であったが、収入も乏しく、経営不振により昭和39年頃から集団離農者が出始め、最終的に1戸しか残らなかったため昭和40年3月31日、廃校となった。
廃校当時の児童数は5名(男4名、女1名)であった。

第二野深小学校 校舎。大正9年3月18日開校 昭和63年3月閉校。
併置されていた中学校は昭和24年4月1日開校、昭和59年3月閉校。

閉校後、校舎は浦河町の研修施設「柏陽館」として、平成元年再出発した。
柏陽館は宿泊も可能である。また、食堂も併設されている。

校舎は昭和9年に建築された。増築されているとはいえ、戦前期の建物が活用されているのは個人的に嬉しい。

滝の上分校は、元浦川林道の先にある。

滝の上へ行く途中の風景。
この時は小雨が降っていた。

途中、開けている場所があるが家屋が見当たらない。
分校跡周辺が見えてきた。

滝の上分校跡地。
校門だけが分校跡であることを偲ばせてくれた。

片方の校門は笹藪に伏していた。

分校跡地より来た道を振り返る。
本当に集落があったのだろうか?と疑うほど何もなく、牧草風景が広がっていた。
平成28年5月、5年ぶりに再訪した。

滝の上分校跡地を示す石碑が建立されていた。

学校までの道のりは、5年前と変わらない風景だった。
追記(平成29年2月14日)
『北海道新聞』「日高版」(夕刊)に掲載されていた滝の上分校閉校当時の新聞記事を紹介する。
十年の歴史むなしく開拓地の学校消える あす最後の卒業生送り
「【浦河】日高管内の開拓地からまた一つ学校が消える。入殖当初、部落民たちの前途への期待と喜びのうちに開校しながらも、営農不振からついに集団で開拓地を見捨てねばならなかった悲劇が生んだものだ。
浦河市街地から約30キロ、まだ雪深い元浦川上流の山間部に建てられた浦河町立野深第二小、滝の上分校がそれ。18日最後の卒業生1人を送り出したあと、1年生から6年生まで5人を本校に吸収し、24日ささやかな廃校式をあげる。昭和30年5月に同校が誕生してからちょうど10年目に当たる。
上野深市街地の本校から8キロの山奥の不便な土地にある同校は、昭和27,8年ごろ野深滝の上地区に入殖した11戸の開拓民の子弟のために建てられた。いまはトラックが通う林道がつけられたが、当時は人一人がやっと通れる道だけ。冬は通行が途絶し、上野深の学校まで通学できないので、休学する子供たちも多かった。
このため部落民の熱心な陳情、さらに労力奉仕もあって、喜びのうちに約70平方メートルりっぱな校舎が完成、オルガンなど教具もしだいに整えられてきた。しかし同地は傾斜地の多い火山灰地。地味はやせ常食のイモ、ヒエのほかトウキビ、大豆、小豆など一家が食べるだけの収穫がやっと。赤字がどんどん増え11戸のうち2戸がその後離農し、2、3年前から集団離農の話が出ていたが、ことし離農資金が出るのをきっかけに9戸のうち8戸が集団で山を降りることに踏み切った。
8戸のうち離農資金をもとに3戸が町外に転出、5戸が山を降り上野深市街地付近に家を建てて、造材人夫などに転職、子供5人を本校に通学させるが、10余年の開拓生活に疲れ切ったからだにムチ打ち、離農者たちはいま家財の整理に取りかかっている。また分校最後の先生で、これを機会に退職、函館に引き揚げる浦本米吉先生(63)は教材整理に追われながら『やはりこの土地では生きるのは無理』とさびしげに語っていた。」(北海道新聞日高版(夕刊) 昭和40(1965)年3月17日)
参考文献
北海道新聞1965「十年の歴史むなしく開拓地の学校消える あす最後の卒業生送り」『北海道新聞日高版夕刊』3月17日
滝の上は、戦後に開拓された集落であった。
次男・三男対策の一環として日高支庁が昭和26年12月20日上野深(カミノブカ)奥地に13戸入植させる。
しかし開拓地入口から小学校(第二野深小学校)まで8km余もあった。
児童の通学に困難があるため陳情懇願したところ、昭和30年4月1日 第二野深小学校滝の上分校として開校した。開校当時の児童数8名(男3名、女5名)。本校より5,6km奥にあった教員住宅21坪(木造平屋)のうち、10坪を教室として活用した。
分校の位置は荻伏市街の東北方20km、標高150mの河岸段丘地であった。
元浦川の渓谷があり景勝地としては素晴らしい地域であったが、丘陵地のため水の便も悪く造田ができなかった。主要作物は蔬菜やバレイショの類であったが、収入も乏しく、経営不振により昭和39年頃から集団離農者が出始め、最終的に1戸しか残らなかったため昭和40年3月31日、廃校となった。
廃校当時の児童数は5名(男4名、女1名)であった。

第二野深小学校 校舎。大正9年3月18日開校 昭和63年3月閉校。
併置されていた中学校は昭和24年4月1日開校、昭和59年3月閉校。

閉校後、校舎は浦河町の研修施設「柏陽館」として、平成元年再出発した。
柏陽館は宿泊も可能である。また、食堂も併設されている。

校舎は昭和9年に建築された。増築されているとはいえ、戦前期の建物が活用されているのは個人的に嬉しい。

滝の上分校は、元浦川林道の先にある。

滝の上へ行く途中の風景。
この時は小雨が降っていた。

途中、開けている場所があるが家屋が見当たらない。
分校跡周辺が見えてきた。

滝の上分校跡地。
校門だけが分校跡であることを偲ばせてくれた。

片方の校門は笹藪に伏していた。

分校跡地より来た道を振り返る。
本当に集落があったのだろうか?と疑うほど何もなく、牧草風景が広がっていた。
平成28年5月、5年ぶりに再訪した。

滝の上分校跡地を示す石碑が建立されていた。

学校までの道のりは、5年前と変わらない風景だった。
追記(平成29年2月14日)
『北海道新聞』「日高版」(夕刊)に掲載されていた滝の上分校閉校当時の新聞記事を紹介する。
十年の歴史むなしく開拓地の学校消える あす最後の卒業生送り
「【浦河】日高管内の開拓地からまた一つ学校が消える。入殖当初、部落民たちの前途への期待と喜びのうちに開校しながらも、営農不振からついに集団で開拓地を見捨てねばならなかった悲劇が生んだものだ。
浦河市街地から約30キロ、まだ雪深い元浦川上流の山間部に建てられた浦河町立野深第二小、滝の上分校がそれ。18日最後の卒業生1人を送り出したあと、1年生から6年生まで5人を本校に吸収し、24日ささやかな廃校式をあげる。昭和30年5月に同校が誕生してからちょうど10年目に当たる。
上野深市街地の本校から8キロの山奥の不便な土地にある同校は、昭和27,8年ごろ野深滝の上地区に入殖した11戸の開拓民の子弟のために建てられた。いまはトラックが通う林道がつけられたが、当時は人一人がやっと通れる道だけ。冬は通行が途絶し、上野深の学校まで通学できないので、休学する子供たちも多かった。
このため部落民の熱心な陳情、さらに労力奉仕もあって、喜びのうちに約70平方メートルりっぱな校舎が完成、オルガンなど教具もしだいに整えられてきた。しかし同地は傾斜地の多い火山灰地。地味はやせ常食のイモ、ヒエのほかトウキビ、大豆、小豆など一家が食べるだけの収穫がやっと。赤字がどんどん増え11戸のうち2戸がその後離農し、2、3年前から集団離農の話が出ていたが、ことし離農資金が出るのをきっかけに9戸のうち8戸が集団で山を降りることに踏み切った。
8戸のうち離農資金をもとに3戸が町外に転出、5戸が山を降り上野深市街地付近に家を建てて、造材人夫などに転職、子供5人を本校に通学させるが、10余年の開拓生活に疲れ切ったからだにムチ打ち、離農者たちはいま家財の整理に取りかかっている。また分校最後の先生で、これを機会に退職、函館に引き揚げる浦本米吉先生(63)は教材整理に追われながら『やはりこの土地では生きるのは無理』とさびしげに語っていた。」(北海道新聞日高版(夕刊) 昭和40(1965)年3月17日)
参考文献
北海道新聞1965「十年の歴史むなしく開拓地の学校消える あす最後の卒業生送り」『北海道新聞日高版夕刊』3月17日