鶴居村暁峰

鶴居村暁峰(平成28年5月28日探訪)

鶴居村暁峰は農村集落であった。

『暁峰』の由来は「中雪裡より見て太陽の昇ってくる山」という意味である。

暁峰は大正末期に8戸が集団で入植した。
当初の生業は炭焼であった。やがて3戸が農業へ転じたが、5戸は引続き炭焼を生業とし、農業を兼業して冬は造材に従事していた。
昭和22年 5戸の家族の次男・三男が分家して12戸が開拓入植し、戸数17戸となった。

学校が開校される前までの暁峰集落の実情は『鶴居村 地域社会の研究』に詳しく取り上げられている。
内容を簡潔に申し上げると

① 集落の総面積は232町歩、このうち耕地が198町歩、民有山林34町歩あるが、傾斜地の割合が多く耕地の合理的な配分や使用も不可能であり、地味も良好とはいえない。
② 主要作物は稲きび、そば、馬鈴薯、大豆、飼料作物等で自給生活には程遠く、乳牛を飼育して有畜農業を行うまでに至っていない。
③ ツルハシナイ川を境にして集落が二分されており、炭焼農家が分散している。川の東に炭焼、川の西に農家がそれぞれ居住している ことである。

この間、子供たちは下久著呂の学校へ通学していたが遠方に位置しており、特に冬季の通学は困難を極めた。
そこで住民らは学校設置の要望を関係機関へ陳情し、昭和35年2月に開拓地学校開設の認可が下りた。

学校の沿革は以下の通りである。

鶴居村立暁峰小学校 

昭和35年2月8日~3月12日 鶴居小学校冬季分教場として開設
昭和35年4月1日         開校
昭和44年3月22日  閉校

この間に起きた学校関係の出来事は以下の通りである。

①ブランコ、遊動木、回旋塔、低鉄棒等の遊具や体育設備の設置(昭和37年)
②暁峰小学校送電開始(昭和37年12月)
③テレビ設置(昭和38年5月)
④簡易水道工事完了(昭和38年5月)

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阿寒町(釧路市)雄別炭砿の調査後、暁峰へ足を運んだ。
何かの工場?の建物があるほか、民家は無い。
天気にも恵まれたので、周囲を散策する。

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学校跡地。周囲を歩くが、校舎の基礎も無かった。

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林道を遠望する。その先は何も無く、草木が生い茂っている。

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しかし、林道入口の脇にサイロが残っていた。
昭和48年11月を最後に集落の住民全員が離農し、廃村になった。

このサイロは、ここに集落があり、人々が暮らしていたことを伝える唯一の証かもしれない。


参考文献

斉藤 兵市1952『鶴居村 地域社会の研究』北海道地域社会研究会
鶴居村史編さん委員会1987『鶴居村史』鶴居村
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小平町下記念別

小平町下記念別(平成28年7月16日・平成29年2月21日探訪)

小平町下記念別は戦後開拓と炭鉱で栄えた集落である。

『小平町史』によると、昭和22年樺太や満洲からの引揚者13戸が入植した。
入植した農家は3~4年で開畑に成功したが、子供らは達布小学校へ通学した。
しかしこの頃の道路状況は悪く、陳情を重ねた結果、昭和27年に達布小学校教諭 楠田登の出張授業が行われた。
また、昭和32年12月より東達布炭鉱㈱が採炭し始めたことから児童数も増加したが、昭和36年度の途中で閉山した。

学校の沿革は次の通りである。

昭和27年11月    達布小学校瑞穂分校 開校
昭和40年3月31日  閉校(注1)

閉校当時や閉校直前の報道記事を紹介する。

慰問袋500点以上 冷害地に隊員の善意
「留萌駐とん部隊の隊員が持ち寄った冷害地の児童に贈る〝慰問袋〟は500点以上を数えた。同隊では11日太野垣司令はじめ谷村広報幹部らがジープで辺地に向い直接手渡すことになった。
 なおこの温い贈りものを受けるのはことし3月で廃校になる小平村達布瑞穂小学校(原文ママ)など管内5校に配分される。慰問品は衣類200点をはじめ学用品、かんづめ、菓子、石けんなど」(留萌タイムス 昭和40(1965)年2月10日)

隊長夫人も拠出 自衛隊冷害地に贈物
「自衛隊の隊員と家族が集めた冷害地のこどもたちに贈る救援物資は、14日の増毛町の信砂御料についで16日は小平村川上小、瑞穂分校に、18日遠別町東生(注3)正修、大成小に贈られる。
 同贈物は趣旨に感動した連隊長夫人太野垣幸代さんが、とくにキャラメルや菓子を「気の毒なこどもたちにあげてください」と買って現地に向かう谷1尉に託した。
 今回は隊員の善意が結集して学用品、菓子など500点が集まった。」(留萌タイムス 昭和40(1965)年2月16日)

辺地校、音楽の〝名門〟 瑞穂分校なくなる 全国入賞も思い出 これからは本校で勉強
「【小平】この4月で廃校になる留萌管内小平村達布小瑞穂分校の廃校式が3月31日に雪に埋もれた分校舎で行われた。戦後入植した開拓農家のこどもたちを育てて12年7か月、勇退する福田由雄分校主任(61)のオルガンで力いっぱい〝ホタルの光〟を歌って別れを惜しんだ。
 瑞穂部落字下記念別は達布市街から(小平市街から約28キロ)から沢づたいに5キロはいったところ。昭和24年入植者を中心に13戸の農家が入った。
 入植当時、橋がなくて川をわたったり、ガケっぷちを通って通学しなければならないためこどもたちが、あまりにもかわいそう―と地区住民が運動、27年に創設されたのが分校だった。主任は櫛田みのる先生(原文ママ・注2)で児童は7人、炭鉱が盛りの33年には45人にふくれあがった。その炭鉱も閉山したいま11戸の開拓農家が残り、児童数も開校時と同じ7人になった。
 数多い思い出を残した2代目主任の福田先生が着任したのは30年4月。学力にも、情操にも恵まれない分校生に福田先生は『開拓地にはいった以上、私も開拓者だ』と、まず音楽に力を注いだ。あきビン、石油カン、フライパン、サラ、茶わんなどを楽器に利用した演奏を31年に苫前町で研究発表。留萌自衛隊との友情が芽ばえたのもこのころ。演習休みに立ち寄った分校でこの変わった演奏を聞いた隊員たちは大ダイコ、縦笛を贈った。ほかにPTA、北海道新聞社からも楽器が贈られ、さっそく第1回辺地音楽のつどい(34年)に参加、全国放送され、みごとNHK奨励賞を受けた。これも今は楽しい思い出、福田先生は増毛町に移り、専門の陶芸で余生をおくる。
 式は午前11時から開かれ、五十嵐村長、阿部教育長、佐藤達布営林署長、部落の人など約25人が出席、雪に埋もれた小さな教室はいっぱい。五十嵐村長が『もっと大きく成長するために分校を閉じることになりました』とあいさつ、村から福田先生に感謝状が贈られた。達布小本校の寺沢邦雄校長が『きょうはみなさんを迎えにきました。これからはちゃんと野球もドッジボールもできます』と話しかけると、こどもたちは目を輝かせ、部落の人たちは喜びと寂しさの入りまじった表情でこどもたちを見つめていた。分校はこのあと部落会館に変わる。」(北海道新聞留萌版(夕刊) 昭和40(1965)年4月2日)


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平成28年7月16日、小平町達布、滝下、川上の集落調査の帰りに下記念別へ立ち寄った。

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下記念別にある唯一の畑。
この当時「学校跡地はこの辺りだろうか」と首を傾げながらの調査であった。

後日、A.D.1600氏と相談して「航空写真から察するに、あの畑のところだと思います。」と回答をいただき、再訪を決意する。

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平成29年2月21日、再び達布へ足を運んだ。
スノーシューとストックを携行して、この道を4~5キロ進む。

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学校手前の「数寄屋橋」。
地形図を見ると、この周辺にも家屋があったがすべて自然に帰ってしまっている。

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家屋マークのある辺りに、野生化した松の木が1本あった。

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橋を過ぎ、達布小学校瑞穂分校跡地へ到着した。
現在は個人所有の畑となっているので、畑の敷地に踏み込まないよう敷地外から撮影する。

スノーシューを装着し、学校裏周辺を散策する。

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地形図や航空写真では、学校裏に対岸へ通じる橋が書かれているが、橋は無くなっていた。
対岸には、住居跡を示す松の木が野生化して残っていた。

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達布市街へ戻る道中の栄光橋。正面の山は下記念山。
橋の名の如く、『音楽の名門』で名を馳せた瑞穂分校は、過去の栄光となってしまった。


(注1)『小平町史』では「同39年度半ばに至って閉校している。」とあるが、『北海道新聞』や『留萌タイムス』の記事の閉校年月日が正しい。
(注2)「櫛田みのる」は「楠田登」の誤植と思われる。
(注3)「東生」は「東野」の誤植と思われる。

参考文献

小平町史編集室1976『小平町史』小平町役場
留萌タイムス1965「慰問袋500点以上 冷害地に隊員の善意」『留萌タイムス』2月10日
留萌タイムス1965「隊長夫人も拠出 自衛隊冷害地に贈物」『留萌タイムス』2月16日
北海道新聞1965「辺地校、音楽の〝名門〟 瑞穂分校なくなる 全国入賞も思い出 これからは本校で勉強」『北海道新聞留萌版夕刊』4月2日
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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