三石町二川
三石町(現 新ひだか町)二川(平成23年10月22日・23日、平成29年5月28日探訪)
延出小学校の分校があった集落である。
延出小学校 二川分校は昭和13年に開校した。
二川地域は当時、開墾者や木炭業者40戸ほどの集落を形成していた。
それまでは延出小学校まで通学していたが、当地の事業家 坂東信之・中谷清光らが出資して昭和13年2月15日、字福畑280番地に 小林清二准訓導を主任として開校した。
開講当初の児童は33名(男子21名 女子12名)、単級教育で行われていた。
しかし、昭和18年の時点で児童数12名(男子4名 女子8名)に減少してしまう。
昭和22年4月1日 分校に昇格するも昭和30年代に入ると、児童数は一桁となり昭和38年、児童数2名(男子1名 女子1名)となり、同年7月31日をもって廃校となった。
二川のへき地等級は3級、現在集落の人口はゼロ。
集落付近には「二川大橋」「二川林道」の名前のみが残っている。

この先に二川集落があった。

旧版地形図には、この周辺にも人家があった。
今は植林されており痕跡は全くない。

児童はこの川を渡って、学校に通学していた。
対岸に校舎があったものと思われる。
渡る術がないので、一旦引き返す。

「二川大橋」
この傍に「二川林道」という林道もあった。

二川大橋を渡り、対岸の学校跡付近。
「付近」と書いたのは、学校跡だと断定することが出来なかった。
校門もあったようだが、自然に還っており痕跡を見つけることが出来なかった。
本校であった延出小学校も平成23年1月30日 閉校式が行われ115年の歴史に幕を下ろした。
閉校当時の児童19名、卒業生の総数は3093名である。
時は流れ平成29年5月、HEYANEKO氏らと一緒に訪ねた。
HEYANEKO氏が持ってきた「三石局郵便区全図 日高国三石郡」によれば「二川」の集落名、「文マーク」(二川分校)の名前が書かれているが、もうひとつ「三百町」という地名が書かれている。
分校跡を探すも、なかなか見つからず諦めかけたその時ラオウ氏が地元の古老に伺った。
その結果、分校の卒業生であることがわかりお願いして学校跡地を教えていただくことができた。

二川大橋。
学校は、この橋を渡った先にあった。

学校跡地。
古老の話では「『三百町』は土地の広さから来ている。三百町に入植した人はみな、炭焼きで暮らしていた。」
「かつては学校前のグラウンドで、総出で運動会が行われた。分校主任の先生は子供が10人もいた…。」
ここで二川地区の集落が伺える記事を紹介する。
老教師の愛に明るく 文化に取残された二川分校 俸給割いてラジオ 勉強に不自由と学用品
「【三石】戦後民主主義が叫ばれてから早くも10年という長い年月が流れ去ろうとしており、その間小学校では地域社会と結びついた社会科、視聴覚教育、辺地校教育の推進などが中央で大きく取り上げられてきたが、文化の恩恵から取り残されている山奥の分校はこれら新しい地帯の"真空地帯″となっているのが実情だ。しかしこれら分校では一人の教師を囲んで児童たちが毎日見たこともないところの話を聞きながら学び、都会では見られぬ師弟愛に包まれた教育が行われている。美しく彩られた秋の一日、一老教師とそれをとりまく"18の瞳″のいる日高で二番目に児童数の少ない三石郡三石町延出小学校二川分校を訪れてみた。
ここは三石町から三石川に沿ってさかのぼること4里、ことに平らな一本道をすぎ山際にさしかかってからの1里半は林道と山道の中間を縫うような悪路でしかも白い大理石の露頭がいまにも落ちそうになってみえるところもあり河原におりてまた登るという交通不便なところでそれにまた三方が山、前は三石川とその支流にさえぎられているという全く孤立した電気のない16戸の二川部落である。
同部落には早い人は昭和10年ころから三石木材(社長坂東信之氏)のきこりとして入り、16戸のうちには田畑を耕作する人もあり、現在3戸で田○反(注1)、畑2町が平らな土地に耕作されそのほかの人ほとんどが炭焼きに従事している。これらの人々は造材で忙しくなると狩り出されるので田畑を耕作しているとはいえ形ばかりだ。
分校はこの三石木材と三井物産の共同経営で部落の子供たちの教育のため昭和16年に設立(注2)、その後27年延出小学校の分校となった。当時は30名前後の児童がいたが戦後三井が同地から引き上げ、さらに造材、製炭の生産が少なくなるにつれて山を出ていったので最近では10名を数えることがまれで現在6年生の池田恵子さん(11)を最上級生に3年生2名、1年生4名の9名しかいない。来年は恵子さんが卒業して1年生が3名入学するので11名になるという。主任教諭の矢部知治氏(58)は20年満州から引揚げてきた人でその後三石中学で8年間教職につき昨年4月分校に赴任したが"一時はどうなることかと思いあぐんだが、それも来てみて落着くようになってからは教えがいがあることがわかり全力をあげていますよ″と目を輝かせながら語るのだった。
分校の授業は日が昇れば仕事に出かけ、日が沈むと帰るという部落の人々の原始的生活が反映して朝7時から始まる。それから15分間ラジオ体操をやる、といってもラジオに合せてではない。それから本格的な授業に入るのだが、児童が教室に入っても20坪の教室が広く感じるほどだ。授業が早く始まるので1年生などは10時ごろで帰り、お昼にはみんないなくなってしまう。だからお弁当を持ってくる子供はいない。最も持ってくるようにいっても副食物に困る家庭ばかりなので持ってくるのは無理な話だ。部落の人が買い物をするときは三石の市街地まで出て行くのだが、帰りに積んできてもらう三石木材のトラックは毎日出ない。時には1週間も10日も通わないこともある。そのため副食物や必要品は1ヶ月くらいのものを買わなければならない。そのため学校に弁当を持たせてやるだけの余裕がないのだ。児童の学力は、算数、国語では大きな小学校に負けないが実験を伴う理科は劣るという。事実算数は1年生で2ケタの加減教えているが理科では電池の実験が精いっぱい。また電気がないためラジオ教育も幻灯による視聴覚教育もできない。しかし矢部先生はせめてラジオだけでもと10月初旬にポータブルラジオを1台自費で購入。山へ運んだがアンテナがないため昼間は聴くことができなかったが、近くこのアンテナ線が運ばれてくるのでラジオが聴けるようになると子供たちは大喜びだ。
ここの子供たちは文明の産物をほとんど知らない。最近水揚げポンプが先生の住宅に取り付けられたが、これを見た子供は9人のうち5人、ラジオを聴いたことのないのが5人、電灯を見たのが3人と全く文化からとり残された環境の中にいる。またバナナを食べたことのある子供は1人もいなかったが、これは矢部先生が札幌から取り寄せ食べさせてやり、さらに教科書に出ている蓮華の花を知らないというので昨年これを植え、今年になって花が3つ咲いたのでようやく知ることができたというエピソードもある。ヘリコプターは去る7月の水害のとき水死者を発見したさい河原に降りたので見ることができた。
こうして分校で毎日先生がいろいろ新しい知識を身につけた児童も卒業すると山道を2里下って延出中学へ通わねばならない。ところが分校の前の川には危ない丸木橋が1本あるだけである。少しの雨でも降り増水が激しくなると途中川原にある道はすぐ水の下になってしまう。本年卒業した2人のうち1人は今のところ自転車で通っているが、もう1人は通称三百町の沢という分校からさらに1キロおくもあってしかも自転車がないので自転車の借りれる時しか通学できず1月に2、3日の出席率だという。
分校に通学してきている児童の家庭のほとんどが炭焼きで生計を立てているため貧しく児童たちはお菓子もろくに食べられず、ノートなども満足に持っていない。こうした児童のため矢部先生は山を下りるたびに自費でキャラメル、チョコレートなどのお菓子からノート類まで買ってきて与えている。児童たちにとって先生が山から帰ってくるのが大きな楽しみとなっている。貧しいとはいえ児童の中でカサを持っているのが1軒、あとの児童は近いところはぬれて通学、遠くの沢になると子供は休んでしまうという状態だ。
訪れた日の午後から折り悪く雨が降ってきた。これが山あければ楽しい学校の1本のカサでどれだけの子供たちがぬれないでしかも休まないで学校へくることだろうか、このようなところはまだまだ北海道のいたるところにある。決して日高の1分校の話ではない。」(北海道新聞胆振日高版昭和30年10月27日)
次に、閉校時の記事を掲載する。
近く売払い処分に 二川分校25年の歴史閉ず
「【三石】去る7月31日付で廃校となった三石町立延出小学校二川分校の校舎が来月3日に売払い処分されることになった。同分校は三石市街から13.5キロの山奥にある。13年に延出小学校の分校として開校、多い時には20人前後の児童が在席していた。
しかし二川部落は開拓地だけに貧困世帯が多く、年々同地を去るものが多くなり昨年は矢部知治教諭のほか6年の1年の児童たった2人となってしまった。町としてもわずか2人の児童だけで年間多額の経費を要することや、子供の将来のためにと、7月31日をもって廃校とした。
このため2人の児童は部落から4キロ離れた延出本校に通学している。
校舎の売払い入札は、12月3日午前10時から町役場会議室で行われるが、約25年間の長い年月に亘ってへき地学校として親しみのあった校舎が、二川部落から姿を消すことになったもの。」(日高報知新聞昭和38年11月27日)
注1 ○は印刷不鮮明のため不明である。
注2 『三石町史』によれば昭和13年開校である。
参考文献
郵政省1952「三石局郵便区全図 日高国三石郡」郵政省
北海道新聞1955「老教師の愛に明るく 文化に取残された二川分校 俸給割いてラジオ 勉強に不自由と学用品」北海道新聞胆振日高版昭和30年10月27日
日高報知新聞1963「近く売払い処分に 二川分校25年の歴史閉ず」日高報知新聞昭和38年11月27日
三石町史編纂委員会1971『三石町史』三石町
延出小学校の分校があった集落である。
延出小学校 二川分校は昭和13年に開校した。
二川地域は当時、開墾者や木炭業者40戸ほどの集落を形成していた。
それまでは延出小学校まで通学していたが、当地の事業家 坂東信之・中谷清光らが出資して昭和13年2月15日、字福畑280番地に 小林清二准訓導を主任として開校した。
開講当初の児童は33名(男子21名 女子12名)、単級教育で行われていた。
しかし、昭和18年の時点で児童数12名(男子4名 女子8名)に減少してしまう。
昭和22年4月1日 分校に昇格するも昭和30年代に入ると、児童数は一桁となり昭和38年、児童数2名(男子1名 女子1名)となり、同年7月31日をもって廃校となった。
二川のへき地等級は3級、現在集落の人口はゼロ。
集落付近には「二川大橋」「二川林道」の名前のみが残っている。

この先に二川集落があった。

旧版地形図には、この周辺にも人家があった。
今は植林されており痕跡は全くない。

児童はこの川を渡って、学校に通学していた。
対岸に校舎があったものと思われる。
渡る術がないので、一旦引き返す。

「二川大橋」
この傍に「二川林道」という林道もあった。

二川大橋を渡り、対岸の学校跡付近。
「付近」と書いたのは、学校跡だと断定することが出来なかった。
校門もあったようだが、自然に還っており痕跡を見つけることが出来なかった。
本校であった延出小学校も平成23年1月30日 閉校式が行われ115年の歴史に幕を下ろした。
閉校当時の児童19名、卒業生の総数は3093名である。
時は流れ平成29年5月、HEYANEKO氏らと一緒に訪ねた。
HEYANEKO氏が持ってきた「三石局郵便区全図 日高国三石郡」によれば「二川」の集落名、「文マーク」(二川分校)の名前が書かれているが、もうひとつ「三百町」という地名が書かれている。
分校跡を探すも、なかなか見つからず諦めかけたその時ラオウ氏が地元の古老に伺った。
その結果、分校の卒業生であることがわかりお願いして学校跡地を教えていただくことができた。

二川大橋。
学校は、この橋を渡った先にあった。

学校跡地。
古老の話では「『三百町』は土地の広さから来ている。三百町に入植した人はみな、炭焼きで暮らしていた。」
「かつては学校前のグラウンドで、総出で運動会が行われた。分校主任の先生は子供が10人もいた…。」
ここで二川地区の集落が伺える記事を紹介する。
老教師の愛に明るく 文化に取残された二川分校 俸給割いてラジオ 勉強に不自由と学用品
「【三石】戦後民主主義が叫ばれてから早くも10年という長い年月が流れ去ろうとしており、その間小学校では地域社会と結びついた社会科、視聴覚教育、辺地校教育の推進などが中央で大きく取り上げられてきたが、文化の恩恵から取り残されている山奥の分校はこれら新しい地帯の"真空地帯″となっているのが実情だ。しかしこれら分校では一人の教師を囲んで児童たちが毎日見たこともないところの話を聞きながら学び、都会では見られぬ師弟愛に包まれた教育が行われている。美しく彩られた秋の一日、一老教師とそれをとりまく"18の瞳″のいる日高で二番目に児童数の少ない三石郡三石町延出小学校二川分校を訪れてみた。
ここは三石町から三石川に沿ってさかのぼること4里、ことに平らな一本道をすぎ山際にさしかかってからの1里半は林道と山道の中間を縫うような悪路でしかも白い大理石の露頭がいまにも落ちそうになってみえるところもあり河原におりてまた登るという交通不便なところでそれにまた三方が山、前は三石川とその支流にさえぎられているという全く孤立した電気のない16戸の二川部落である。
同部落には早い人は昭和10年ころから三石木材(社長坂東信之氏)のきこりとして入り、16戸のうちには田畑を耕作する人もあり、現在3戸で田○反(注1)、畑2町が平らな土地に耕作されそのほかの人ほとんどが炭焼きに従事している。これらの人々は造材で忙しくなると狩り出されるので田畑を耕作しているとはいえ形ばかりだ。
分校はこの三石木材と三井物産の共同経営で部落の子供たちの教育のため昭和16年に設立(注2)、その後27年延出小学校の分校となった。当時は30名前後の児童がいたが戦後三井が同地から引き上げ、さらに造材、製炭の生産が少なくなるにつれて山を出ていったので最近では10名を数えることがまれで現在6年生の池田恵子さん(11)を最上級生に3年生2名、1年生4名の9名しかいない。来年は恵子さんが卒業して1年生が3名入学するので11名になるという。主任教諭の矢部知治氏(58)は20年満州から引揚げてきた人でその後三石中学で8年間教職につき昨年4月分校に赴任したが"一時はどうなることかと思いあぐんだが、それも来てみて落着くようになってからは教えがいがあることがわかり全力をあげていますよ″と目を輝かせながら語るのだった。
分校の授業は日が昇れば仕事に出かけ、日が沈むと帰るという部落の人々の原始的生活が反映して朝7時から始まる。それから15分間ラジオ体操をやる、といってもラジオに合せてではない。それから本格的な授業に入るのだが、児童が教室に入っても20坪の教室が広く感じるほどだ。授業が早く始まるので1年生などは10時ごろで帰り、お昼にはみんないなくなってしまう。だからお弁当を持ってくる子供はいない。最も持ってくるようにいっても副食物に困る家庭ばかりなので持ってくるのは無理な話だ。部落の人が買い物をするときは三石の市街地まで出て行くのだが、帰りに積んできてもらう三石木材のトラックは毎日出ない。時には1週間も10日も通わないこともある。そのため副食物や必要品は1ヶ月くらいのものを買わなければならない。そのため学校に弁当を持たせてやるだけの余裕がないのだ。児童の学力は、算数、国語では大きな小学校に負けないが実験を伴う理科は劣るという。事実算数は1年生で2ケタの加減教えているが理科では電池の実験が精いっぱい。また電気がないためラジオ教育も幻灯による視聴覚教育もできない。しかし矢部先生はせめてラジオだけでもと10月初旬にポータブルラジオを1台自費で購入。山へ運んだがアンテナがないため昼間は聴くことができなかったが、近くこのアンテナ線が運ばれてくるのでラジオが聴けるようになると子供たちは大喜びだ。
ここの子供たちは文明の産物をほとんど知らない。最近水揚げポンプが先生の住宅に取り付けられたが、これを見た子供は9人のうち5人、ラジオを聴いたことのないのが5人、電灯を見たのが3人と全く文化からとり残された環境の中にいる。またバナナを食べたことのある子供は1人もいなかったが、これは矢部先生が札幌から取り寄せ食べさせてやり、さらに教科書に出ている蓮華の花を知らないというので昨年これを植え、今年になって花が3つ咲いたのでようやく知ることができたというエピソードもある。ヘリコプターは去る7月の水害のとき水死者を発見したさい河原に降りたので見ることができた。
こうして分校で毎日先生がいろいろ新しい知識を身につけた児童も卒業すると山道を2里下って延出中学へ通わねばならない。ところが分校の前の川には危ない丸木橋が1本あるだけである。少しの雨でも降り増水が激しくなると途中川原にある道はすぐ水の下になってしまう。本年卒業した2人のうち1人は今のところ自転車で通っているが、もう1人は通称三百町の沢という分校からさらに1キロおくもあってしかも自転車がないので自転車の借りれる時しか通学できず1月に2、3日の出席率だという。
分校に通学してきている児童の家庭のほとんどが炭焼きで生計を立てているため貧しく児童たちはお菓子もろくに食べられず、ノートなども満足に持っていない。こうした児童のため矢部先生は山を下りるたびに自費でキャラメル、チョコレートなどのお菓子からノート類まで買ってきて与えている。児童たちにとって先生が山から帰ってくるのが大きな楽しみとなっている。貧しいとはいえ児童の中でカサを持っているのが1軒、あとの児童は近いところはぬれて通学、遠くの沢になると子供は休んでしまうという状態だ。
訪れた日の午後から折り悪く雨が降ってきた。これが山あければ楽しい学校の1本のカサでどれだけの子供たちがぬれないでしかも休まないで学校へくることだろうか、このようなところはまだまだ北海道のいたるところにある。決して日高の1分校の話ではない。」(北海道新聞胆振日高版昭和30年10月27日)
次に、閉校時の記事を掲載する。
近く売払い処分に 二川分校25年の歴史閉ず
「【三石】去る7月31日付で廃校となった三石町立延出小学校二川分校の校舎が来月3日に売払い処分されることになった。同分校は三石市街から13.5キロの山奥にある。13年に延出小学校の分校として開校、多い時には20人前後の児童が在席していた。
しかし二川部落は開拓地だけに貧困世帯が多く、年々同地を去るものが多くなり昨年は矢部知治教諭のほか6年の1年の児童たった2人となってしまった。町としてもわずか2人の児童だけで年間多額の経費を要することや、子供の将来のためにと、7月31日をもって廃校とした。
このため2人の児童は部落から4キロ離れた延出本校に通学している。
校舎の売払い入札は、12月3日午前10時から町役場会議室で行われるが、約25年間の長い年月に亘ってへき地学校として親しみのあった校舎が、二川部落から姿を消すことになったもの。」(日高報知新聞昭和38年11月27日)
注1 ○は印刷不鮮明のため不明である。
注2 『三石町史』によれば昭和13年開校である。
参考文献
郵政省1952「三石局郵便区全図 日高国三石郡」郵政省
北海道新聞1955「老教師の愛に明るく 文化に取残された二川分校 俸給割いてラジオ 勉強に不自由と学用品」北海道新聞胆振日高版昭和30年10月27日
日高報知新聞1963「近く売払い処分に 二川分校25年の歴史閉ず」日高報知新聞昭和38年11月27日
三石町史編纂委員会1971『三石町史』三石町
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平取町仁世宇
平取町仁世宇(平成23年10月22日・平成29年5月29日探訪)
平取町仁世宇は鉱山で栄えた集落であった。
大正初期 後藤彦三郎の手によって日本製錬株式会社 日東鉱山(クロームの採掘)が開坑した。
大正6年に試掘が始まり、大正8年に大鉱脈が発見され飛躍的に事業が拡大していった。
学校はその前年度である大正5年5月18日 池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開校した。「池売尋常小学校」は元々「振内小学校」の前身であった。
昭和4年8月12日 池売尋常小学校の付属から、岩知志尋常小学校付属に変更になる。
大東亜戦争開戦前後(昭和16年)になると、軍需品として脚光を浴びてきたことから仁世宇地区もたくさんの人が暮らしていた。
「語りつぐ平取」(2002年3月31日刊)によると1棟4戸の長屋が120戸くらいあり、鉱山関係の建物のほかに木工場や映画館も建てられ、電灯がいち早く普及していた。
当時、平取村はまだ3分の1くらいしか電灯が普及していなかった頃であるので、それだけの人びとが暮らしていたことが伺える。
昭和18年 岩知志国民学校の付属から独立し、昭和22年 仁世鵜小学校になった。
クローム鉱石生産量のピークは昭和26年度の3,464トンであった。この年以降、朝鮮戦争の終結や輸入鉱石の増加もあって生産量は半減していった。
昭和30年代に入ると鉱床が貧床のため、一層生産量は減少し昭和34年2月14日 鉱員53名の人員整理を行なったが経営状態は芳しくなく、昭和35年に閉山した。
学校も例外なく、生徒数の減少により鉱山の閉山前年度(昭和34年)時点で小学校2学級23名 中学校1学級8名となり、町内で一番小さい小中併置校であった。
鉱山が閉山になると既存の農家しかなく、農家の離農による過疎化により昭和47年3月 振内小学校に統合され廃校になった。
仁世宇は現在、数世帯が暮らす過疎集落地域である。

仁世宇地区に今も残る建物。右側は集会所であるが、左の建物は個人商店と思われる。

仁世宇川を渡り、いよいよ学校跡地へ行く。

仁世宇林道。
この林道を約8キロ進むと、仁世鵜小中学校跡地がある。

仁世宇林道起点の標識。

仁世宇林道を進みはじめて6キロほど進むと、右手の小高いところに廃屋があった。
ここで暮らしていた人の家だろう。
旧版地形図を見ると川沿いに所々人家があったが、その痕跡も殆ど見受けられなかった。
ただ、この廃屋から手前2キロ地点には今も酪農家の家がある。ここに開拓に入った方の子孫が暮らしているだろうと推察される。

廃屋より奥の風景。
探訪当時「学舎の風景」 piro氏と訪れたが残り1キロ地点で、ある出来事があった。
piro氏「あと1キロ進むと、学校跡地です」
ナルセ「もうすぐですね。楽しみですね」
こんな話しを交わし、右カーブを曲がった瞬間…。
piro氏「ナルセさん、道路に黒い物体が…」
ナルセ「あれ、子グマではないですか?」
すると林の中から親グマがのそのそっと現れた。
咄嗟にバックでターンし、その場は離れた。
この探訪直前、道内ではクマによる被害報道が相次ぎ、なかにはクルマにも襲い掛かったクマもいたくらいである。
一気に戻り、比較的大きな振内集落に出たときは安堵した。
探索をはじめて10年、自衛隊での演習を何度も経験しているとはいえ、クマとの遭遇は今回が初めてであった。
仁世鵜小中学校跡地、リベンジはいつになるだろうか。
尚、行ってきた方の話しによると、コンクリートの外壁が残されているとのことである。
時は流れ、平成29年5月 HEYANEKO氏らの合同調査で再訪した。

右手の小高いところにあった家屋(廃屋)は倒壊していた。
この先で母子熊に遭遇したが、今回はいなかったので安心して進む。

A.D氏の「ありましたよ」という声を聞き、足を運ぶと校舎が姿を見せた。

コンクリートの外壁や煙突が残り、往時を偲ばせてくれる。

傍には教員住宅もある。

便槽。
ここまで完璧な姿で残っている便槽は初めて見る。

近くには浴槽も残っていた。

持ってきた手鎌で笹を刈り、正面玄関から校舎を写す。

学校手前の耕作放棄地(田圃跡)を望む。
過疎化が進み校舎は閉校したが、外壁が残り往時を偲ぶことができた。
閉校当時の新聞記事を転載する。
姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕
「【平取】仁世鵜小中学校(吉田達男校長)は、過疎化の波に勝てず本年度限りで廃校、22日には卒業式と閉校式を同時に行ない、55年間の歴史を閉じる。
同校は大正6年5月15日、池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開設、昭和17年2月、仁世鵜国民学校として独立、24年6月、振内中仁世鵜分校が併設され、29年11月、仁世鵜小中学校となった。山のなかのへき地3級校で現在児童数11人、生徒数3人の小、中とも単級複式校。教職員は校長以下4人で、児童、生徒3・5人に先生1人というぜいたくな学校。小学校は154人、中学校は64人の卒業生を送り出している。
農村地帯で、戦時中から戦後にかけ一時は20数戸あったが、30年頃から離農が相次ぎ、今はわずか4戸、うち3戸が松沢姓の兄弟で、児童、生徒のうち10人が松沢姓のいとこ同士という。
同校廃止の計画は、町内の中学校を平取、振内、貫気別の3校に集約するということで、まず44年に中学校を振内へ統合する話が出た。ところが中学生を振内へ行かせるのであれば、小学校も振内小へ統合して児童、生徒を一緒に輸送してはどうかという意見が教育委員会から持ち上がった。
その後、同教委と父母との会合を重ねてやっとことし1月下旬の教育委員会で廃校を決め、10日から開かれている定例町議会に同校廃校のための学校設置条例の改正が提案されている。
新学期の同地域の小、中学生は、先生の子供を除くと児童9人、生徒4人の13人。大規模校への吸収による廃校は時代の流れとはいうものの、心のよりどころだった学校を失う地域の人たちの心は複雑。それでも子供たちは『仁世鵜の学校がなくなるのは寂しい』と述べながらも『振内小へ行ったら、新しい友だちをつくって、一生懸命勉強しよう』とひそやかに期待感を抱いている。
振内への通学は、町がハイヤー会社と年間契約して自動車輸送するが、具体的方法は町議会が終わってから話し合って決められる。」(北海道新聞日高版 昭和47年3月12日)
参考文献
北海道新聞1972「姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕」北海道新聞日高版 昭和47年3月12日
平取町2002『語りつぐ平取』平取町
平取町仁世宇は鉱山で栄えた集落であった。
大正初期 後藤彦三郎の手によって日本製錬株式会社 日東鉱山(クロームの採掘)が開坑した。
大正6年に試掘が始まり、大正8年に大鉱脈が発見され飛躍的に事業が拡大していった。
学校はその前年度である大正5年5月18日 池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開校した。「池売尋常小学校」は元々「振内小学校」の前身であった。
昭和4年8月12日 池売尋常小学校の付属から、岩知志尋常小学校付属に変更になる。
大東亜戦争開戦前後(昭和16年)になると、軍需品として脚光を浴びてきたことから仁世宇地区もたくさんの人が暮らしていた。
「語りつぐ平取」(2002年3月31日刊)によると1棟4戸の長屋が120戸くらいあり、鉱山関係の建物のほかに木工場や映画館も建てられ、電灯がいち早く普及していた。
当時、平取村はまだ3分の1くらいしか電灯が普及していなかった頃であるので、それだけの人びとが暮らしていたことが伺える。
昭和18年 岩知志国民学校の付属から独立し、昭和22年 仁世鵜小学校になった。
クローム鉱石生産量のピークは昭和26年度の3,464トンであった。この年以降、朝鮮戦争の終結や輸入鉱石の増加もあって生産量は半減していった。
昭和30年代に入ると鉱床が貧床のため、一層生産量は減少し昭和34年2月14日 鉱員53名の人員整理を行なったが経営状態は芳しくなく、昭和35年に閉山した。
学校も例外なく、生徒数の減少により鉱山の閉山前年度(昭和34年)時点で小学校2学級23名 中学校1学級8名となり、町内で一番小さい小中併置校であった。
鉱山が閉山になると既存の農家しかなく、農家の離農による過疎化により昭和47年3月 振内小学校に統合され廃校になった。
仁世宇は現在、数世帯が暮らす過疎集落地域である。

仁世宇地区に今も残る建物。右側は集会所であるが、左の建物は個人商店と思われる。

仁世宇川を渡り、いよいよ学校跡地へ行く。

仁世宇林道。
この林道を約8キロ進むと、仁世鵜小中学校跡地がある。

仁世宇林道起点の標識。

仁世宇林道を進みはじめて6キロほど進むと、右手の小高いところに廃屋があった。
ここで暮らしていた人の家だろう。
旧版地形図を見ると川沿いに所々人家があったが、その痕跡も殆ど見受けられなかった。
ただ、この廃屋から手前2キロ地点には今も酪農家の家がある。ここに開拓に入った方の子孫が暮らしているだろうと推察される。

廃屋より奥の風景。
探訪当時「学舎の風景」 piro氏と訪れたが残り1キロ地点で、ある出来事があった。
piro氏「あと1キロ進むと、学校跡地です」
ナルセ「もうすぐですね。楽しみですね」
こんな話しを交わし、右カーブを曲がった瞬間…。
piro氏「ナルセさん、道路に黒い物体が…」
ナルセ「あれ、子グマではないですか?」
すると林の中から親グマがのそのそっと現れた。
咄嗟にバックでターンし、その場は離れた。
この探訪直前、道内ではクマによる被害報道が相次ぎ、なかにはクルマにも襲い掛かったクマもいたくらいである。
一気に戻り、比較的大きな振内集落に出たときは安堵した。
探索をはじめて10年、自衛隊での演習を何度も経験しているとはいえ、クマとの遭遇は今回が初めてであった。
仁世鵜小中学校跡地、リベンジはいつになるだろうか。
尚、行ってきた方の話しによると、コンクリートの外壁が残されているとのことである。
時は流れ、平成29年5月 HEYANEKO氏らの合同調査で再訪した。

右手の小高いところにあった家屋(廃屋)は倒壊していた。
この先で母子熊に遭遇したが、今回はいなかったので安心して進む。

A.D氏の「ありましたよ」という声を聞き、足を運ぶと校舎が姿を見せた。

コンクリートの外壁や煙突が残り、往時を偲ばせてくれる。

傍には教員住宅もある。

便槽。
ここまで完璧な姿で残っている便槽は初めて見る。

近くには浴槽も残っていた。

持ってきた手鎌で笹を刈り、正面玄関から校舎を写す。

学校手前の耕作放棄地(田圃跡)を望む。
過疎化が進み校舎は閉校したが、外壁が残り往時を偲ぶことができた。
閉校当時の新聞記事を転載する。
姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕
「【平取】仁世鵜小中学校(吉田達男校長)は、過疎化の波に勝てず本年度限りで廃校、22日には卒業式と閉校式を同時に行ない、55年間の歴史を閉じる。
同校は大正6年5月15日、池売尋常小学校付属仁世鵜特別教授場として開設、昭和17年2月、仁世鵜国民学校として独立、24年6月、振内中仁世鵜分校が併設され、29年11月、仁世鵜小中学校となった。山のなかのへき地3級校で現在児童数11人、生徒数3人の小、中とも単級複式校。教職員は校長以下4人で、児童、生徒3・5人に先生1人というぜいたくな学校。小学校は154人、中学校は64人の卒業生を送り出している。
農村地帯で、戦時中から戦後にかけ一時は20数戸あったが、30年頃から離農が相次ぎ、今はわずか4戸、うち3戸が松沢姓の兄弟で、児童、生徒のうち10人が松沢姓のいとこ同士という。
同校廃止の計画は、町内の中学校を平取、振内、貫気別の3校に集約するということで、まず44年に中学校を振内へ統合する話が出た。ところが中学生を振内へ行かせるのであれば、小学校も振内小へ統合して児童、生徒を一緒に輸送してはどうかという意見が教育委員会から持ち上がった。
その後、同教委と父母との会合を重ねてやっとことし1月下旬の教育委員会で廃校を決め、10日から開かれている定例町議会に同校廃校のための学校設置条例の改正が提案されている。
新学期の同地域の小、中学生は、先生の子供を除くと児童9人、生徒4人の13人。大規模校への吸収による廃校は時代の流れとはいうものの、心のよりどころだった学校を失う地域の人たちの心は複雑。それでも子供たちは『仁世鵜の学校がなくなるのは寂しい』と述べながらも『振内小へ行ったら、新しい友だちをつくって、一生懸命勉強しよう』とひそやかに期待感を抱いている。
振内への通学は、町がハイヤー会社と年間契約して自動車輸送するが、具体的方法は町議会が終わってから話し合って決められる。」(北海道新聞日高版 昭和47年3月12日)
参考文献
北海道新聞1972「姿消す仁世鵜小中学校 本年度限りで廃校 過疎に勝てず55年間の歴史に幕」北海道新聞日高版 昭和47年3月12日
平取町2002『語りつぐ平取』平取町