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日高町三島

日高町三島(平成23年10月22日・平成29年5月29日探訪)

日高町三島は、大正7年福島団体(渡辺泰治ら15戸)が入植したのが始まりである。
しかし団体は集散を繰り返した後、戦後に解散してしまう。残留者は専業農家として留まった。

三島の本格的な集落形成は大東亜戦争時のクローム鉱山開発に伴い、三井鉱業千栄鉱業所として操業したことからであった。
従業員の子供たちのため昭和22年9月 千栄小学校三島分校として発足する。
「三島」の名前の由来は「三井鉱山」の『三』と、「福島団体」の『島』から取って名づけられた。

クロームの採掘は昭和22年11月に閉山する。
この時、校舎は集落の中央ではなかったため、村議会の議決を経て昭和23年7月 字千栄263番地に校舎を移転した。校舎は鉱山時代の社宅を改装したものであった。
昭和24年4月 三島小学校と改称。当時の児童は男15人 女12人の27名であった。
昭和29年12月 校舎を新築し、翌30年3月31日 附属集会所が完成する。
昭和34年頃の児童数 36名がピークだった。以降、過疎化により減少する。
昭和41年まで児童数二桁を保っていたが、42年から一桁となってしまう。
この頃より学校統合や、統合後の集落の要望などの問題が話し合われた。
昭和48年11月、PTAが中心となり閉校式を見越してサクラ、カエデ、ナナカマドを植樹し「三島小学校跡」を建てた。「三島小学校跡」に閉校式の録音テープ、学校の歴史などを入れたタイムカプセルが埋められた。

昭和49年3月10日、閉校式が行われ閉校となった。


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学校跡手前に残るサイロ跡。
車幅も狭くなり、この先にあるのだろうか?と心細くなる。

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学校跡が見えてきた。

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三島小学校。へき地3級の学校だった。
元々はクローム鉱山だったが、鉱山閉山後は農山村の学校であった。

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集落(学校)の歴史を紹介している。

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校舎跡はすっかり自然に還っていた。

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学校跡地より手前の風景。
山あいの平地に人家がポツンポツンと点在していた。

時は流れ、平成29年5月にHEYANEKO氏らと一緒に再訪した。

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学校跡地は変わっていない。
石碑のある辺りに、校舎があった。

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笹薮と化した校地を探すと、国旗掲揚塔の基礎が残っていた。

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折角なので、学校より奥も訪ねてみる。

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学校の先には牧場があり、のどかな風景が広がっていた。

追記

閉校時の新聞記事を掲載する。
さよなら三島小 27年の歴史閉じる 校庭に「タイムカプセル」3人の児童別れの人形劇披露
「【日高】過疎のため新年度から隣の千栄小に統合される三島小(井上文雄校長、児童3人)で10日、閉校式が行われた。長い間同校に親しんできた地元の人々や学校関係者約80人が集まり、式典で同校27年間の歴史をしのんだ後、3人の児童たちが演じる人形劇を鑑賞、全員で校庭の一角にタイムカプセルを埋めて同校に別れを惜しんだ。
 昭和22年に開校した三島小は、4月から約5キロ離れた千栄小に統合される。本年度3人になってしまった児童たちは、23日の終業式で三島小の生活にピリオドを打ち、再出発を期して10日、閉校式の運びとなったもの。
 式典の出席者は渡辺町長、谷口町教育長、阿部町教育委員長、福島日高教育局次長、それに同校の卒業生や歴代職員、地元関係者ら。井上校長は同校の沿革を説明し、同校の歴史を支えた数々の功労者を紹介した後「千栄小に行ってもしっかり勉強して下さい」と、児童たちを励ました。
 この後「小規模校でもこんなに文化活動が」-と、3人の児童たちが8体の人形を使って人形劇「金貨ざくざく物語」を見せ、出席者の拍手を浴びた。
 閉校式のハイライトは、同校の思い出を末永く地中に保存するタイムカプセルの埋設。井上校長と地元の人々が知恵を絞って昨年秋から準備を進めてきた計画で、校庭の一角に同校ゆかりの記念写真、録音テープ、文集などをいっぱい詰めたポリエチレン容器を埋め、後世に残すことにした。
 いずれ校舎は取り壊される運命の中で、カプセルを埋める一角だけは記念植樹などですでにしっかり整備済み。小高く盛り土したこの一角の周りに出席者全員が集まり、しっかり密閉したポリエチレン容器が地中に埋まるのを感慨深げに見守っていた。」(北海道新聞日高版1974年3月12日)

参考文献

北海道新聞1974「さよなら三島小 27年の歴史閉じる 校庭に「タイムカプセル」3人の児童別れの人形劇披露」『北海道新聞日高版』昭和49年3月12日
日高町史編纂委員会1977『日高町史』日高町役場
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大樹町光地園

大樹町光地園(平成28年5月30日探訪)

大樹町光地園は戦後開拓集落である。

戦前から戦中にかけては短角牛の放牧や馬の自由放牧地として利用されていただけであった。
 昭和22年8月に14名が大樹村を訪れ、開拓地に登る麓のヌビナイ川支流のほとりに合掌小屋を建て、開拓の準備に着手した。
 昭和23年ブルドーザー、トラクターを駆使して開拓が始まった。
 昭和24年には12戸72名に加え、5名が入植した。同年、集落名が「光地園」と命名された。由来は樺太抑留時代、同志によって考えられていたもので『光が地に一面に輝く園という楽園を建設する希望』であった。
 昭和25年光地園小学校が開校(4月1日)、中学校は小田の分校として開校した。
 昭和27年に中学校も独立。この年から翌年にかけて電灯施設の整備、昭和34年には開拓診療所、会館も建設された。また、和牛の導入も行われ既存の集落に勝るとも劣らないまでに整備されていった。
 ところが、昭和39年に大冷害が北海道を襲い、光地園も大打撃を受けた。農産物の収入は上がらず物価の上昇で生活費は嵩み、負債の累積も重なった上の冷害である。
 この時、金沢大学の学生によって光地園小中学生15名を冬季間、集団里子に預かることになった。
 昭和40年の営農計画は2~3戸に過ぎず、大半は出稼ぎと和牛の飼育という不安定な生活であった。住民は集団里子の関係で金沢市や出稼ぎ先等に転出していった。
昭和43年3月、光地園小中学校は閉校した。閉校時の報道記事を転載する。

18年間、開拓地に文化の灯 光地園小中で廃校式
「【大樹】開拓地に文化の灯をともし続けて18年―光地園小中学校が26日、静かにその歴史を閉じた。重なる冷害、凶作と離農者の続出で、児童、生徒わずか8人。〝光りはこの大地から〟―その開拓の夢は音もなくくずれて廃校となった。汗と涙のにじんだこの大地は、やがて国営の大規模草地改良事業から始まり、町の酪農振興の基地としてよみがえる日も遠くはない。光地園の春はおそく、大樹町市街地の西方21キロ、まだ雪深く、樹氷咲く山奥に、開拓の受難の歴史を刻むように建つ、古ぼけた小さな校舎で、この日、最後の卒業式と廃校式が行われた。
 山口校長以下教員4人。小学生3人、中学生5人。『日高の山の輝きに、われらの力はずませて…』―そろって校歌を歌った後、小林昇と上野則子さんの2人に、山口校長か中学校卒業証書を授与、『社会の役に立つ人間になってください』とあいさつ。9年間の義務教育を終えて同校を巣立った生徒の数はこれで62人。この2人が最後となった。
 『わたしたちのために尽くしてくださった、おにいさん、おねえさん』『わいてくる思い出の泉。運動会、修学旅行…』『元気にがんばってください』『きっとがんばります』―在校生と卒業生の〝呼びかけ〟の声は感動に震え、ささやかながら厳粛な式を閉じた。
 引き続き廃校式に移ったが、かつての教員や同窓生も駆けつけて出席者30数人。沢崎教育長、高橋町長、高島町議会議長らが『離れ離れになっても、開拓魂でがんばってください。先生たちも十勝の子供たちのために活躍してください』とあいさつ。吉田PTA会長が、慣れぬ手にクワを持って不毛の大地にいどんだ思い出を語ると、会場のあちこちからすすり泣き。
 樺太からの引き揚げ者14戸が初めてクワをおろし、『光地園』と名づけて理想郷建設を目ざしたのは昭和22年春。その子供たちの教育の場として25年、光地園小学校が誕生、27年9月に中学校が併設された。開拓者もふえ、33年には52戸、児童生徒も60人余りを数えたが、その後相次ぐ冷害凶作に耐えかねて離農者が続出。いまではわずか3戸を残すだけという寂しさ。
 しかし、この3戸は光地園に根強い愛着を持ち、これからも歯を食いしばって、この地で生活を続ける決意が固い。このため中学2年の小林洋子さんと吉田美穂子さんの2人は4月から大樹の市街に下宿して通い、あとの4人の小、中生は教員の子供で転校となる。小林さんはみんなの前で『この校舎が風雨にさらされて消えてゆくことを考えると寂しい。しかし学んだことは消えません。新しい学校へ行ったら、一生懸命努力します』と、別れの言葉を述べた。教室のすみずみまでしみ込んだ思い出をかみしめるように―。
 43年度からこの光地園の離農跡地600ヘクタールを利用して、国営の大規模草地改良事業が実施され、51年度に完成の予定だが、町では乳牛1万頭飼育の基地とする計画であり、開拓の夢破れたこの土地もやがて新しい大地として、たくましく生まれ変わることになる。」(北海道新聞十勝版1968年3月28日)


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大樹町尾田からつづら折のカーブを登っていくと光地園集落に入る。
道中、古い家屋が目に入る。

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家屋の先の風景。ひたすらまっすぐ進む。

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学校手前に建立されているのは『家畜感謝之碑』。

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その横には祠がある。
『大樹町史』には昭和34年に馬頭観世音碑が建てられ、と記されているが馬頭観世音かは分からなかった。

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光地園小中学校はこの先にあった。現在は町営光地園牧場(昭和49年度完成)の敷地内になるので立ち入りせず、遠望にとどめた。

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学校手前の風景。学校は閉校になったが現在も町営牧場として利用されいる。

参考文献

北海道新聞1968「18年間、開拓地に文化の灯 光地園小中で廃校式」『北海道新聞十勝版』昭和43年3月28日
大樹町1969『大樹町史』大樹町
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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