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滝上町中雄柏

滝上町中雄柏(平成30年10月・平成31年2月・令和元年5月探訪)

滝上町中雄柏は農村集落である。

明治42年高知県人片岡音松、鳥取県人坂東卯平が入地した。他に、下雄柏から2、3の通い作をする者がいた。翌43年石川県人万年幸次郎、益倉虎松、須藤亀十郎、山岸菊太郎らが入地した。
明治44年に小学校が設置されたことや道路ができた(大正4年完成)ことから入地者が多くなり、大正13年下雄柏から分離して中雄柏と独立した。
ハッカ栽培が盛んで濁川駅設置後(大正13年10月)、町内有数のハッカ栽培地帯として発展を遂げた。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校
明治44年 渚滑第二教育所所属オシラネップ特別教授場として開校(6月)
その後、休校
大正3年 授業再開(1月)
大正5年 滝美尋常小学校所属オシラネップ特別教授場と改称(10月)
大正9年 校舎移転、雄柏尋常小学校と改称(4月)
昭和10年 校舎移転(4月)
昭和15年 校舎改築(9月)
昭和16年 雄柏国民学校と改称(4月)
昭和19年 高等科併置(4月)
        旧校舎を移転・新校舎に接続(5月)
昭和22年 雄柏小学校と改称(4月)
昭和30年 校舎・体育館新築落成(12月)
昭和46年 開校60周年記念(7月)
昭和48年 閉校(3月)

中学校
昭和22年 濁川中学校雄柏分校として開校(9月)
昭和23年 雄柏中学校と改称(4月)
昭和48年 閉校(3月)

閉校時の記事を掲載する。

雄柏の名…胸の中に
雄柏小中学校61年の校史閉じる
「61年の歴史よサヨウナラ-。11日、過疎化に追われるように、滝上町雄柏小、中学校(牧野定雄校長)の廃校式が行われた。
濁川から約5キロ、山間にポツンと建つ小さな複式学校。これが雄柏小だ。明治44年に建てられ、昭和4年には在校生150人を数えた。それが昭和40年ころから急激に現れはじめた過疎化現象で50人に減り30人に減り、そしてことしは小学生2人、中学生7人の9人になってしまった。校下の農家戸数も今では19戸。若い後継ぎがなく、したがって子供も少ない。ここ2、3年は赤ちゃんが生まれたことがないくらいだ。
廃校式には卒業生、来ひんなど合わせて200人が出席した。札幌、東京方面で仕事をしている若い人も〝母校の最後だけは〟とみんな集ってきた。狭い学校がこの日ばかりはハチ切れそう。「廃校式が一番賑やかになろうとは、何とも複雑な気持ち」と土地の人は言う。
来ひんあいさつのあと、5年生の藤田輝美、花美ちゃんがお別れの言葉を述べた。この二子の生徒がこの校史にピリオドを打ったわけだ。「かつて、150人もいたなんて信じられません。離農したり、市街地へ転居したりで私たちの学校も淋しくなりました。ソフトボールが盛んでしたが、昨年は中学生だけでチームが作れず私たち小学生も入ってようやく9人になりました。でも滝上地区で準優勝。この感激は忘れることはないでしょう。学校の名は消えても胸の中には雄柏小中学校の名をいつまでも止めておきます」と読み上げた。スポーツの盛んな山あいの学校。いま、ひっそりと教育の灯が消えた。」

統合中学と濁川小へ
「廃校後、7人の中学生は滝上町にことしからオープンする統合中学へ、2人の小学生は濁川小学校へ通う。いずれもマイクロバスで送り迎えする。」

校長住宅は資料館に
「雄柏小、中学校の廃校で校長住宅は学校の各種物品を納める資料館になる。同小、中はスポーツが盛んでソフトボール、卓球などに輝かしい成績を残している。この優勝旗、カップ、さらに学校の歴史を物語る各種教材などを永く保存しようというもの。なお校舎については農業機械の車庫、牛舎などPTAなどで利用方法を考えているが結論は出ていない。」
上記3記事 北海民友新聞昭和48年3月13日

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平成30年10月、K.T氏と訪れた。

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すっかり崩れてしまったが、僅かに校舎の一部が残っている。

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校舎の屋根はこのまま自然に還ろうとしている。

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煙突の上に煙突が倒れている。

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別角度から見るが、芸術的な?倒れ方だ。

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校長住宅は今も残る。

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体育館に掲げられていた校歌が残っていた。

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平成31年2月、HEYANEKO氏らと再訪する。
画像は、学校前の旧商店である。

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学校跡地は「雄柏地区構造改善センター」という建物がある。
この日は、校長住宅までHEYANEKO氏を案内した。

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そして5月に再再訪を果たした。
雄柏小中学校の校門である。

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教員住宅の水道管が残っていた。

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学校より先に神社があったので行ってみる。

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正面からは行く道がないので迂回する。

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神社の境内に石が多数残っていた。
地神さまの名残だろうか?

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中雄柏の神社社殿である。

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建物はしっかりと残っている。

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中を見ると太鼓が残っていた。

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神社の近くにある矢印で示した場所は、かつてのスキー場である。

参考文献

滝上町史編さん委員会1976『新撰滝上町史』滝上町
北海民友新聞1973「雄柏小中学校61年の校史閉じる」「統合中学と濁川小へ」「校長住宅は資料館に」『北海民友新聞』昭和48年3月13日
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西興部村忍路子開拓

興部村忍路子開拓(平成31年2月11日探訪)

西興部村忍路子開拓は、戦後開拓集落である。
元々忍路子は左沢(本流)、右沢(山形団体)に分かれ、左沢には明治43年から、右沢は大正2年からそれぞれ移住者が現れ集落を形成していった。
終戦後、道有林沿いの未開地に戦後開拓者の大半が入植した。
既存農家よりもさらに奥地であるため小学生の中には8キロメートルの距離を往復することは至難である。
このため、分校設置を村に要請、昭和26年2月村議会で議決された。その後、鷲野辰次郎所有地3反歩の寄贈を受け、同年11月1日村立西興部第1分校の認可を受け、同月20日開校した。
当初は冬季間のみの分校としての計画であったが、通年教育を同校で行うよう小学校として独立することに村議会で決定した。
昭和30年代後半より入植者は殆ど離農し、また既存農家も離農が相次ぎ昭和46年3月、最後の卒業生2名を送り出し閉校した。

学校の沿革は以下の通りである。

昭和26年 西興部小学校第1分校として開校(11月)
昭和27年 忍路子小学校と改称(4月)
昭和46年 閉校(3月)

集落の出来事は以下の通りである。

昭和32年 へき地集会所落成(12月)
昭和34年 風力発電設備設置
昭和37年 公衆電話設置
昭和44年 NHKテレビ番組「北海道の窓」で「2人と2人」(先生2人と児童2人)放送

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平成31年2月、HEYANEKO氏らと訪れた。
学校跡地には記念碑(木碑)が建立されていた。

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学校より先に1軒のお宅がある。

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道路標識を見ると「牛横断注意」とあった。

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学校の手前には半壊した屋敷が残っていた。

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半壊した屋敷から学校跡を望む。


参考文献
西興部村史編纂委員会1977『西興部村史』西興部村役場

滝上町滝奥

滝上町滝奥(平成31年2月11日・令和元年5月25日探訪)

滝上町滝奥は農村集落である。
滝奥は滝上原野の最奥地に位置するため開拓は最も遅かった。

大正2年 福島県人先崎善蔵、草野伝吉の入植後、大正3年宮城県人斉藤善五郎、松崎新五郎、福島県人宗像亀蔵、翌4年福島県人宗像広吉、花沢政吉、戸田一馬、奈良県人和泉徳松等の入地があり、大正7年には戸数45戸であった。
開拓当初は道や橋もなく交通は極端に不便であったが、大正7年28線起工の滝上殖民道路は翌8年に45線まで完成し、交通の便が漸く良くなり各地からの移住者が増えた。
移住者が増えるにともない、学齢児童も増加して和泉徳松、先崎善蔵、草野伝吉、斉藤善五郎らが集って村当局に学校開設を陳情した。
その結果、大正7年白鳥尋常小学校所属滝奥特別教授場として開校した。
学校開校後は奥地の開拓が進み、山下庄八、片岡音五郎、山下司郎、小田市松、和田藤市、大山銀次郎、立石守一、宮地渉、飯島緑次郎、森谷照男、松本良太、永井米五郎、小笠原源太郎、西出与三松、神成仁吉、熊谷彦治、戸沢藤蔵、長沢春吉(以上55線付近入地者)らが移住し、大正9年滝南特別教授場が開校した。昭和17年、55線地域の離農とともに滝南特別教授場も自然閉校となった。
大正7年拓殖医診療所の設置、大正12年奥滝上官設駅逓所の開設、大正13年45線から59線間、昭和7年59線から上川町に至る道路が完成し、交通の要衝として栄えた。また、昭和8年頃からバレイショを栽培し、澱粉工場が9ヶ所操業していた。
昭和29年の15号台風により滝奥周辺の山林整理処分、伐採、造林が進められ住民らは農業から転向し、製材所も建ち戸数80戸を数えたが風倒木処理事業の進行につれた地域の転出や工場の閉鎖で過疎化が進んだ。
学校の沿革は以下の通りである。

小学校
大正 7年 白鳥尋常小学校所属滝奥特別教授場として開校(5月)
大正 9年 校舎類焼。花沢政太郎の小屋を借りて授業再開(11月)
大正10年 滝西尋常小学校所属滝奥特別教授場と改称(4月)
大正11年 校舎・職員住宅新築落成(11月)
昭和 2年 滝奥尋常小学校と改称(5月)
昭和16年 滝奥国民学校と改称(4月)
昭和22年 滝奥小学校と改称(4月)
昭和29年 新校舎・体育館落成(12月)
昭和48年 滝西小学校滝奥分校と改称(4月)
昭和49年 閉校(2月)

中学校
昭和23年 滝奥中学校開校(4月)
昭和47年 滝上中学校滝奥分校と改称(4月)
昭和48年 閉校(3月)

滝南特別教授場
大正 9年  開校(8月)
昭和17年 閉校(自然閉校)

集落の出来事は以下の通りである。

大正 7年 拓殖医診療所の設置
大正12年 奥滝上官設駅逓所の開設
昭和22年 農村電化事業により電灯灯火
昭和25年 滝奥39線までバス3往復運行
昭和43年 テレビ共同視聴施設
昭和45年 農事有線電話の開通

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平成31年2月、HEYANEKO氏らと立ち寄った。
営業を終えてから久しい商店が残る。

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半壊した駅逓所。後に診療所や教員住宅に転用された。

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校門は滝南特別教授場にあったのを移設させた。

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校長住宅はしっかりと残っている。

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学校跡地には記念碑が建立されている。

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学校の近くには馬頭観世音がある。

同年5月に再訪した。
探訪時、ここの卒業生(2名・50代)と偶然お会いした。

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卒業生は同窓会があるので母校に立ち寄ってみた、と仰っていた。
偶然の出会いに私たちも驚いた。

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学校の思い出として「遠足で拓雄小学校へ行ったことがある」とのことである。

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ほか「神社には土俵があって相撲をとったことがある」と仰っていた。
この階段は神社へ続く。

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笹薮に埋もれつつも、馬頭観世音は存在感が大きい。
馬頭観世音は昭和3年に建立された。

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神社の風景。
今は笹薮に覆われているが、かつてはここに土俵があった。

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校庭も笹で覆われていた。


参考文献
滝上町史編さん委員会1976『新撰滝上町史』滝上町
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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