湧別町緑蔭
湧別町緑蔭(令和元年5月26日探訪)
湧別町緑蔭は農村集落である。
農場主 中島宇一郎が小作農家の子弟教育のため自費で18坪の教場を建てたことが始まりである。中島氏が農場を設立した経緯や年代は不明である。
大正5年10月18日 湧別尋常高等小学校緑蔭特別教授場として開校した。
開校後、緑蔭特別教授場は度々休・閉校を繰り返した。
大正7年3月の閉校後、近接校に通学する児童の負担は著しくなり過半数は欠席、木原幸太郎から寄付された48,5坪の建物を中ノ沢2131番地2に移築した。
昭和24,5年を契機に農業構造の変化が著しく進展し、立地条件の劣悪な中ノ沢、東ノ沢一帯離農者が続出、児童数も11、2名に減少し、昭和35年3月で閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
大正 5年 湧別尋常高等小学校緑蔭特別教授場として開校(10月)
大正 6年 村財政事情で休校(3月)
同年 川西尋常小学校所属特別教授場として再開設(7月)
大正 7年 村財政事情で廃校(3月)
昭和 5年 信部内尋常小学校所属として開校(10月)
昭和16年 信部内国民学校緑蔭分校と改称(4月)
同年 校舎新築(11月)
昭和17年 緑蔭国民学校と改称(4月)
昭和22年 緑蔭小学校と改称(3月)
昭和35年 閉校(3月)
閉校記事を掲載する。
「部落民も寂しそう 湧別の緑蔭小で廃校式」
【湧別】「湧別町緑蔭小学校(校長尾張吉男氏)の廃校式が22日行われた。同校は大正5年7月に特別教授場として開校してから町立小学校となり、廃校になるこの日まで44年間、170人の卒業生を送り出し、谷間の部落の唯一の教育文化センタ-として部落の人たちから親しまれてきた。
しかし生活が困難なところなので移住する人が相つぎ、ことし2人が卒業して残ったのはたった7人になり、うち5人が遠軽湧別町東地区などへ移住することになっているので、あと2人しかいなくなるため、こんど廃校することになったもの。
こんご4キロ以上ある信部内小中学校へ子供を通わすことになるので部落の人たちの表情は複雑だ。同校の通学区域にある戸数は7戸で、かつてはもっと多かったのだが交通に不便なのと土地条件がよくないためつぎつぎと離脱し、この春にも3戸が新天地を求めて移住していく。だが、部落に残る人たちは『私たちはここで立派にやって行くつもりですが、学校がなくなるのはやはりとても寂しいことです』とやがて姿を消す母校をながめ感無量の面持ちである。」(『北海道新聞北見版』昭和35年3月24日)

令和元年5月の廃校廃村探索2日目、最初に訪れた「学校跡がある廃村」である。
正面に見えるマツの木は、かつての屋敷跡か。

振り返った風景。
牧草畑が所々広がっているが、学校は先である。

植林風景が広がっている。

屋敷跡の名残も無い。

しかし、学校跡を示す記念碑、校門が在った。
緑蔭小学校の跡地である。

校舎の基礎も残っていた。

別角度より。
倒木や草で隠れてしまっているが、春先なら基礎がはっきり分る。

校門を拡大。
周りは植林されているが。記念碑があるお陰でこの地にも人々の暮らした名残を見つけることが出来た。
参考文献
北海道新聞1960「部落民も寂しそう 湧別の緑蔭小で廃校式」『北海道新聞北見版』昭和35年3月24日
湧別町史編さん委員会1982『湧別町百年史』湧別町
湧別町緑蔭は農村集落である。
農場主 中島宇一郎が小作農家の子弟教育のため自費で18坪の教場を建てたことが始まりである。中島氏が農場を設立した経緯や年代は不明である。
大正5年10月18日 湧別尋常高等小学校緑蔭特別教授場として開校した。
開校後、緑蔭特別教授場は度々休・閉校を繰り返した。
大正7年3月の閉校後、近接校に通学する児童の負担は著しくなり過半数は欠席、木原幸太郎から寄付された48,5坪の建物を中ノ沢2131番地2に移築した。
昭和24,5年を契機に農業構造の変化が著しく進展し、立地条件の劣悪な中ノ沢、東ノ沢一帯離農者が続出、児童数も11、2名に減少し、昭和35年3月で閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。
大正 5年 湧別尋常高等小学校緑蔭特別教授場として開校(10月)
大正 6年 村財政事情で休校(3月)
同年 川西尋常小学校所属特別教授場として再開設(7月)
大正 7年 村財政事情で廃校(3月)
昭和 5年 信部内尋常小学校所属として開校(10月)
昭和16年 信部内国民学校緑蔭分校と改称(4月)
同年 校舎新築(11月)
昭和17年 緑蔭国民学校と改称(4月)
昭和22年 緑蔭小学校と改称(3月)
昭和35年 閉校(3月)
閉校記事を掲載する。
「部落民も寂しそう 湧別の緑蔭小で廃校式」
【湧別】「湧別町緑蔭小学校(校長尾張吉男氏)の廃校式が22日行われた。同校は大正5年7月に特別教授場として開校してから町立小学校となり、廃校になるこの日まで44年間、170人の卒業生を送り出し、谷間の部落の唯一の教育文化センタ-として部落の人たちから親しまれてきた。
しかし生活が困難なところなので移住する人が相つぎ、ことし2人が卒業して残ったのはたった7人になり、うち5人が遠軽湧別町東地区などへ移住することになっているので、あと2人しかいなくなるため、こんど廃校することになったもの。
こんご4キロ以上ある信部内小中学校へ子供を通わすことになるので部落の人たちの表情は複雑だ。同校の通学区域にある戸数は7戸で、かつてはもっと多かったのだが交通に不便なのと土地条件がよくないためつぎつぎと離脱し、この春にも3戸が新天地を求めて移住していく。だが、部落に残る人たちは『私たちはここで立派にやって行くつもりですが、学校がなくなるのはやはりとても寂しいことです』とやがて姿を消す母校をながめ感無量の面持ちである。」(『北海道新聞北見版』昭和35年3月24日)

令和元年5月の廃校廃村探索2日目、最初に訪れた「学校跡がある廃村」である。
正面に見えるマツの木は、かつての屋敷跡か。

振り返った風景。
牧草畑が所々広がっているが、学校は先である。

植林風景が広がっている。

屋敷跡の名残も無い。

しかし、学校跡を示す記念碑、校門が在った。
緑蔭小学校の跡地である。

校舎の基礎も残っていた。

別角度より。
倒木や草で隠れてしまっているが、春先なら基礎がはっきり分る。

校門を拡大。
周りは植林されているが。記念碑があるお陰でこの地にも人々の暮らした名残を見つけることが出来た。
参考文献
北海道新聞1960「部落民も寂しそう 湧別の緑蔭小で廃校式」『北海道新聞北見版』昭和35年3月24日
湧別町史編さん委員会1982『湧別町百年史』湧別町
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滝上町白鳥松布
滝上町白鳥松布(平成23年8月・平成30年10月・平成31年2月・令和元年7月探訪)
白鳥松布は明治43年赤松次郎外16戸の美作団体、愛媛県人岸七助が入植したのが始まりである。
同年、岐阜団体55戸が入植予定であったが実現に至らず、長屋柳右エ門、小栗兼三郎、倉田庸吉、明治45年長屋与左エ門、吉田善右エ門、高知県人平地重一らが入植した。
大正3年滝上原野6線から10線間(5,7km)の道路が出来たが難路であるため、村当局に道路の開削を陳情したが実現できず、集落総出で大正14年7月に完成した。
児童たちは白鳥尋常小学校・滝美尋常高等小学校に通学していたが、遠距離であったため昭和初期頃より集落内に学校設置の要望があがっていた。
昭和7年 集落の片山国太郎、土屋新吾、直正宗一、長屋文四郎と滝上森林保護区員駐在所 伊藤清治主事の後援、相馬宗造の一反歩の寄附で「森林事務所用建物」の名義として校舎を新築。白鳥松府7線より奥地の4年生以下の児童を入学させたのが始まりとなった。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和 8年 上白鳥特別教授場として開校(2月)
昭和15年 上白鳥尋常小学校と改称(10月)
昭和16年 上白鳥国民学校と改称(4月)
昭和22年 上白鳥小学校と改称(4月)
昭和49年 閉校(3月)
中学校
昭和31年 上白鳥中学校開校(9月)
昭和46年 滝上中学校上白鳥校と変更(4月)
昭和48年 閉校(3月)
昭和22年7月22日 村落に電灯が灯り、教室に1灯配される。昭和27年8月10日 村落内の畑地4反を購入し、運動場が設けられた。この時は校下の住民や青年団員が4日間、一日中整地作業に従事した。
昭和35年12月2日 屋内体育館が落成し、翌36年9月20日 新校舎が落成した。この年の11月30日に校歌が制定された。
校歌の歌詞を引用する。
1 山垣青く水巡る ゆたけき里に育まれ
友のむつみもうるわしく 学ぶわれらに幸多し
2 明るく高き校風を 仰ぎてこころおおらかに
人にささぐる広き愛 学ぶわれらに希望あり
3 まことの光もとめつつ はばたき強くかける鳥
上白鳥の名をここに 学ぶわれらに誇あれ
昭和31年の児童数は74名であったが、過疎化の進行に伴い昭和40年には35名、昭和45年には25名にまで減少していた。
昭和46年4月1日 上白鳥中学校は滝上中学校上白鳥校と名称を変更したが昭和48年 中学校は滝上中学校に統合された。この年の児童数は8名にまで減少していた。
この年の運動会に臨席した教育委員会教育長の手記を引用する。
「つい先頃、といっても昨年(昭和四八年)の六月一五日、私はこの学校の運動会を訪れました。(中略)この日陽光もうららかで、まだウグイスも残り囀っていはしまいかと思われた。学童八名、校下の老若集まってにぎわしく、婦人部の出店サービスもあって、昔ながらの雰囲気もあり、和やかさの中で私もいつしか競技種目の一員に加わっていたのでした。このとき四人の六年生が卒業したあとは在校生四名の極少人数とはなるが、明年もまたこの楽しい光景が続くことを、私は疑うことがなかったのであります。」
ところが翌年の1月、地域内でやむを得ない出来事が起きてしまい、昭和49年度の通学児童が3名になること、将来の新入児童が皆無状態となり昭和49年3月31日 閉校となった。
閉校に際し、最後の校長はこう述べた。
「星霜四一年、学校としての歴史は終ります。しかし、母校は心の故郷、いつまでも同窓諸氏の心の中に生きていくことでありましょう。校舎の窓から見るあの山の木々から、グラウンドの土の中から、一本一本の草の中から、同窓二六〇名の四一年間に亘った喜びの声、悲しみの声、笑った声、怒った声、励ましの声が聞こえてくることでしょう。」

集落入口にある集会所と神社。

周辺には離農した農家の廃屋が朽ちつつも残されていた。

白鳥松布集落の奥にあった上白鳥小学校。
この時は夏の探訪だった。

「上白鳥小・中学校跡」という立派な石碑が建立されている。
それにしても、自然の石を利用した校門は興味深いものがある。

小学校の表札も、そのまま残されていた。

早速、校舎内を探訪する。

画像がぶれてしまい、申し訳ない。
閉校から30年以上経ち、校舎の傷みもひどい。

いつまでこの姿を保てるのだろうか。

便所。
小便器の数が多い。大便器も同じ数だった。

続いて、体育館に行ってみる。

体育館は既に半分が倒壊していた。
しかし奥に、卒業生が製作した作品がそのまま飾られていた。

昭和47年度 修了生製作。

こちらは昭和47年度卒業生製作。
酪農作業を表している。


上記2点は製作年度が分からなかった。
そして、何を表しているのか分からなかった。
ただ、下の絵は鳥と畑?、山が描かれているので、秋の収穫後の畑の風景を表しているのかもしれない。

学校を後にし、さらにダートとなった道を進むと年季の入った廃屋があった。

ダートの道より学校方面を眺める。
月日が流れ、平成30年10月にK.T氏と再訪した。

7年の歳月は校舎の劣化を進行させていた。

直感で「もう、永く持たないかもしれない」と思った。

教室棟はまだ、辛うじて残っていた。

平成31年2月、HEYANEKO氏らと訪れたときは既に解体されていた。
平成30年10月の探訪が、最後だった可能性が高い。
この探訪後、上白鳥小・中学校の卒業生より情報をいただき、令和元年7月A.D.1600氏、K.T氏と再び訪れた。

学校手前にある神社。石段が残っている。

「熊野神社跡地」の木碑が建立されていた。

平成30年10月まで神社が在ったことが分った。

熊野神社前の屋敷跡。

学校跡(体育館)。
校舎は閉校後、一度も活用されないままであった。
学校前までが舗装道路で、学校より奥はダートとなる。

やり取りを交わした方の屋敷跡へ行ってみる。

橋の先には屋敷の基礎、野生化したマツの木が聳えていた。
追記
令和元年8月、レポートの大幅改訂
参考文献
滝上町史編さん委員会1976『新撰滝上町史』滝上町
滝上町史編集委員会2001『滝上町史続』滝上町
白鳥松布は明治43年赤松次郎外16戸の美作団体、愛媛県人岸七助が入植したのが始まりである。
同年、岐阜団体55戸が入植予定であったが実現に至らず、長屋柳右エ門、小栗兼三郎、倉田庸吉、明治45年長屋与左エ門、吉田善右エ門、高知県人平地重一らが入植した。
大正3年滝上原野6線から10線間(5,7km)の道路が出来たが難路であるため、村当局に道路の開削を陳情したが実現できず、集落総出で大正14年7月に完成した。
児童たちは白鳥尋常小学校・滝美尋常高等小学校に通学していたが、遠距離であったため昭和初期頃より集落内に学校設置の要望があがっていた。
昭和7年 集落の片山国太郎、土屋新吾、直正宗一、長屋文四郎と滝上森林保護区員駐在所 伊藤清治主事の後援、相馬宗造の一反歩の寄附で「森林事務所用建物」の名義として校舎を新築。白鳥松府7線より奥地の4年生以下の児童を入学させたのが始まりとなった。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和 8年 上白鳥特別教授場として開校(2月)
昭和15年 上白鳥尋常小学校と改称(10月)
昭和16年 上白鳥国民学校と改称(4月)
昭和22年 上白鳥小学校と改称(4月)
昭和49年 閉校(3月)
中学校
昭和31年 上白鳥中学校開校(9月)
昭和46年 滝上中学校上白鳥校と変更(4月)
昭和48年 閉校(3月)
昭和22年7月22日 村落に電灯が灯り、教室に1灯配される。昭和27年8月10日 村落内の畑地4反を購入し、運動場が設けられた。この時は校下の住民や青年団員が4日間、一日中整地作業に従事した。
昭和35年12月2日 屋内体育館が落成し、翌36年9月20日 新校舎が落成した。この年の11月30日に校歌が制定された。
校歌の歌詞を引用する。
1 山垣青く水巡る ゆたけき里に育まれ
友のむつみもうるわしく 学ぶわれらに幸多し
2 明るく高き校風を 仰ぎてこころおおらかに
人にささぐる広き愛 学ぶわれらに希望あり
3 まことの光もとめつつ はばたき強くかける鳥
上白鳥の名をここに 学ぶわれらに誇あれ
昭和31年の児童数は74名であったが、過疎化の進行に伴い昭和40年には35名、昭和45年には25名にまで減少していた。
昭和46年4月1日 上白鳥中学校は滝上中学校上白鳥校と名称を変更したが昭和48年 中学校は滝上中学校に統合された。この年の児童数は8名にまで減少していた。
この年の運動会に臨席した教育委員会教育長の手記を引用する。
「つい先頃、といっても昨年(昭和四八年)の六月一五日、私はこの学校の運動会を訪れました。(中略)この日陽光もうららかで、まだウグイスも残り囀っていはしまいかと思われた。学童八名、校下の老若集まってにぎわしく、婦人部の出店サービスもあって、昔ながらの雰囲気もあり、和やかさの中で私もいつしか競技種目の一員に加わっていたのでした。このとき四人の六年生が卒業したあとは在校生四名の極少人数とはなるが、明年もまたこの楽しい光景が続くことを、私は疑うことがなかったのであります。」
ところが翌年の1月、地域内でやむを得ない出来事が起きてしまい、昭和49年度の通学児童が3名になること、将来の新入児童が皆無状態となり昭和49年3月31日 閉校となった。
閉校に際し、最後の校長はこう述べた。
「星霜四一年、学校としての歴史は終ります。しかし、母校は心の故郷、いつまでも同窓諸氏の心の中に生きていくことでありましょう。校舎の窓から見るあの山の木々から、グラウンドの土の中から、一本一本の草の中から、同窓二六〇名の四一年間に亘った喜びの声、悲しみの声、笑った声、怒った声、励ましの声が聞こえてくることでしょう。」

集落入口にある集会所と神社。

周辺には離農した農家の廃屋が朽ちつつも残されていた。

白鳥松布集落の奥にあった上白鳥小学校。
この時は夏の探訪だった。

「上白鳥小・中学校跡」という立派な石碑が建立されている。
それにしても、自然の石を利用した校門は興味深いものがある。

小学校の表札も、そのまま残されていた。

早速、校舎内を探訪する。

画像がぶれてしまい、申し訳ない。
閉校から30年以上経ち、校舎の傷みもひどい。

いつまでこの姿を保てるのだろうか。

便所。
小便器の数が多い。大便器も同じ数だった。

続いて、体育館に行ってみる。

体育館は既に半分が倒壊していた。
しかし奥に、卒業生が製作した作品がそのまま飾られていた。

昭和47年度 修了生製作。

こちらは昭和47年度卒業生製作。
酪農作業を表している。


上記2点は製作年度が分からなかった。
そして、何を表しているのか分からなかった。
ただ、下の絵は鳥と畑?、山が描かれているので、秋の収穫後の畑の風景を表しているのかもしれない。

学校を後にし、さらにダートとなった道を進むと年季の入った廃屋があった。

ダートの道より学校方面を眺める。
月日が流れ、平成30年10月にK.T氏と再訪した。

7年の歳月は校舎の劣化を進行させていた。

直感で「もう、永く持たないかもしれない」と思った。

教室棟はまだ、辛うじて残っていた。

平成31年2月、HEYANEKO氏らと訪れたときは既に解体されていた。
平成30年10月の探訪が、最後だった可能性が高い。
この探訪後、上白鳥小・中学校の卒業生より情報をいただき、令和元年7月A.D.1600氏、K.T氏と再び訪れた。

学校手前にある神社。石段が残っている。

「熊野神社跡地」の木碑が建立されていた。

平成30年10月まで神社が在ったことが分った。

熊野神社前の屋敷跡。

学校跡(体育館)。
校舎は閉校後、一度も活用されないままであった。
学校前までが舗装道路で、学校より奥はダートとなる。

やり取りを交わした方の屋敷跡へ行ってみる。

橋の先には屋敷の基礎、野生化したマツの木が聳えていた。
追記
令和元年8月、レポートの大幅改訂
参考文献
滝上町史編さん委員会1976『新撰滝上町史』滝上町
滝上町史編集委員会2001『滝上町史続』滝上町
滝上町拓雄
滝上町拓雄(令和元年5月25日探訪)
滝上町拓雄は戦後開拓集落である。
昭和20年8月、疎開者5名(神奈川県・大阪府・横浜市)が入植したのを契機に昭和21年5戸(室蘭・上雄柏)、昭和22年8戸(上雄柏・高知県・樺太・満洲)、昭和23年3戸(上雄柏、満洲)がそれぞれ入植して集落が形成された。
入植当時、上雄柏出身者は家から通っていたが引揚者や疎開者は丸太で家の骨組みをつくり、屋根と壁はタモやガンビの皮、ササなどでつくり入居しながら開拓した。
昭和25年、町で区制を施行したとき、開拓の「拓」と雄柏の「雄」の文字をとって「拓雄」(タクユウ)と改称した。
子ども達は当初、上雄柏小学校へ通学していたが冬季の吹雪やクマ出没の危険もあり、住民らは拓殖学校の設置を懇願した。
その結果認められ、昭和25年6月設置認可、昭和26年1月上雄柏小学校拓雄分校として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和26年 上雄柏小学校拓雄分校として開校(1月)
昭和29年 台風15号により校舎倒壊(9月)
同年 校舎復旧(12月)
昭和31年 拓雄小学校と改称(4月)
昭和43年 閉校(3月)
中学校
昭和33年 拓雄中学校開校(4月)
昭和43年 閉校(3月)
昭和30年には学校前に営林署小屋、木材業者の事業飯場、秋保商店、営林署物資部が出来て風倒木ブームの活気に満ちていた。連続の凶作にあえぐ住民らは挙って林業に従事した。
昭和36年4月、農村電化通電式が行われたが同時に離農も少しずつ現れ始めた。離農者の戸数は以下の通りである。
昭和34年 2戸
昭和38年11戸
昭和41年 3戸
昭和42年 6戸(全戸離農)
『教育月報』1957年1月号に掲載された拓雄小学校の記事を掲載する。
4 滝ノ上町拓雄小学校(9月8日)
早朝、朝日を出発した車は、西興部村の中藻、上藻をまわって滝ノ上町に入る。拓雄は濁川から22粁の奥で全くの山峡、車はエンジンの音高くカーブに気をつけながら前進、深山は初秋の香りををただよわせながらも、3年前の15号台風による風倒木は今なお見るも無残な姿を見せ、当時のものすごさを物語っている。
予定時間を過ぎてやっと拓雄着、無電燈地帯とあってテープーコーダー、オートスライド、人形劇等子供も大人も喜びにわく、夜は7時から校庭で野外映画200余名の観衆だがどこにこんなに住んで居るのかと不思議なくらい。
午後10時半映画終了、再来を期し一路滝ノ上の宿舎に向う。一同疲れ果てる。今日の走行路距離121粁。」(原文ママ) 浅利清一「へき地を行くあばしりの開拓部落訪問」『教育月報1957』

令和元年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
上雄柏方面を望む。

この先に学校がある。

校門が見えた。

拓雄中学校。
学校跡へ到達した。

学校跡は整地されている。

校舎の基礎が残っていた。

校舎の煙突。

記念碑が見える。

記念碑を拡大。
拓雄 開拓地 小中学校 跡

学校隣接地の平地。
建物があってもおかしくない広さなので商店や営林署物資部の建物が在ったのだろうか。

学校より奥にも屋敷はあったが、行く術が無いのでここで引き返すことにした。

旧道を歩いて帰る。
拓雄の学校前まで北紋バスが1日2回運行(昭和32年~36年)していた。

帰りがけ、屋敷跡を見つけた。
屋根しか残っておらず、屋敷か倉庫かは判別できなかったが、この地にも人々が暮らしていた。
参考文献
浅利清一「へき地を行くあばしりの開拓部落訪問」『教育月報1957』北海道教育委員会
引地正志1968『拓雄のあゆみ』滝上町教育委員会
滝上町拓雄は戦後開拓集落である。
昭和20年8月、疎開者5名(神奈川県・大阪府・横浜市)が入植したのを契機に昭和21年5戸(室蘭・上雄柏)、昭和22年8戸(上雄柏・高知県・樺太・満洲)、昭和23年3戸(上雄柏、満洲)がそれぞれ入植して集落が形成された。
入植当時、上雄柏出身者は家から通っていたが引揚者や疎開者は丸太で家の骨組みをつくり、屋根と壁はタモやガンビの皮、ササなどでつくり入居しながら開拓した。
昭和25年、町で区制を施行したとき、開拓の「拓」と雄柏の「雄」の文字をとって「拓雄」(タクユウ)と改称した。
子ども達は当初、上雄柏小学校へ通学していたが冬季の吹雪やクマ出没の危険もあり、住民らは拓殖学校の設置を懇願した。
その結果認められ、昭和25年6月設置認可、昭和26年1月上雄柏小学校拓雄分校として開校した。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和26年 上雄柏小学校拓雄分校として開校(1月)
昭和29年 台風15号により校舎倒壊(9月)
同年 校舎復旧(12月)
昭和31年 拓雄小学校と改称(4月)
昭和43年 閉校(3月)
中学校
昭和33年 拓雄中学校開校(4月)
昭和43年 閉校(3月)
昭和30年には学校前に営林署小屋、木材業者の事業飯場、秋保商店、営林署物資部が出来て風倒木ブームの活気に満ちていた。連続の凶作にあえぐ住民らは挙って林業に従事した。
昭和36年4月、農村電化通電式が行われたが同時に離農も少しずつ現れ始めた。離農者の戸数は以下の通りである。
昭和34年 2戸
昭和38年11戸
昭和41年 3戸
昭和42年 6戸(全戸離農)
『教育月報』1957年1月号に掲載された拓雄小学校の記事を掲載する。
4 滝ノ上町拓雄小学校(9月8日)
早朝、朝日を出発した車は、西興部村の中藻、上藻をまわって滝ノ上町に入る。拓雄は濁川から22粁の奥で全くの山峡、車はエンジンの音高くカーブに気をつけながら前進、深山は初秋の香りををただよわせながらも、3年前の15号台風による風倒木は今なお見るも無残な姿を見せ、当時のものすごさを物語っている。
予定時間を過ぎてやっと拓雄着、無電燈地帯とあってテープーコーダー、オートスライド、人形劇等子供も大人も喜びにわく、夜は7時から校庭で野外映画200余名の観衆だがどこにこんなに住んで居るのかと不思議なくらい。
午後10時半映画終了、再来を期し一路滝ノ上の宿舎に向う。一同疲れ果てる。今日の走行路距離121粁。」(原文ママ) 浅利清一「へき地を行くあばしりの開拓部落訪問」『教育月報1957』

令和元年5月、HEYANEKO氏らと訪れた。
上雄柏方面を望む。

この先に学校がある。

校門が見えた。

拓雄中学校。
学校跡へ到達した。

学校跡は整地されている。

校舎の基礎が残っていた。

校舎の煙突。

記念碑が見える。

記念碑を拡大。
拓雄 開拓地 小中学校 跡

学校隣接地の平地。
建物があってもおかしくない広さなので商店や営林署物資部の建物が在ったのだろうか。

学校より奥にも屋敷はあったが、行く術が無いのでここで引き返すことにした。

旧道を歩いて帰る。
拓雄の学校前まで北紋バスが1日2回運行(昭和32年~36年)していた。

帰りがけ、屋敷跡を見つけた。
屋根しか残っておらず、屋敷か倉庫かは判別できなかったが、この地にも人々が暮らしていた。
参考文献
浅利清一「へき地を行くあばしりの開拓部落訪問」『教育月報1957』北海道教育委員会
引地正志1968『拓雄のあゆみ』滝上町教育委員会
滝上町上雄柏
滝上町上雄柏(平成30年10月・令和元年5月・7月探訪)
滝上町上雄柏は農村集落である。
上雄柏はオシラネップ原野最奥地であり、明治末期までは金鉱探査や砂金採取者が姿を見せるだけであった。
大正5年に高知県人掛橋亀千代、山本亀寿等が入植したのが始まりである。翌6年岡林杢弥、山崎文治、保科末太郎、井口和三郎、米山喜之助、中川吾平、山本七蔵、池亀吉、片岡鶴吉、諸橋喜之助らが移住した。大正13年3月の字名改正で上雄柏と改称した。
大正13年9月に19号以奥29号間、6,1キロの道路工事が完了してからは岩田宗晴他1名の未開地を開放、改めて14戸が入植した。戸数の増加とともに学齢児童も増加し、昭和7年に上雄柏特別教授場が完成した。
その後、昭和9年4月29線以奥の国有未開地の解除とともに7戸の入植者や濁川を起点とした森林鉄道の完成(17,7キロメートル)、上雄白熱布官設駅逓所の設置など、地域の開発は進展した。
戦後、この地区を流れるオシラネップ川上流のベベロナイ川との合流点付近に開拓者20数名が入植し、昭和23年5月に上雄柏から分離して拓雄集落が誕生したが昭和43年3月、拓雄集落の全戸離農により再び上雄柏に合併し、拓雄は無住化集落となった。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和7 年 雄柏尋常小学校特別教授場として開校(2月)
昭和15年 上雄柏尋常小学校と改称(10月)
昭和16年 上雄柏国民学校と改称(4月)
昭和19年 高等科併置(4月)
昭和22年 上雄柏小学校と改称(4月)
昭和25年 上雄柏小学校拓雄分校開校(6月)
昭和31年 拓雄分校独立(4月)
昭和50年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 上雄柏中学校開校(6月)
昭和47年 名目統合により滝上中学校上雄柏校と変更(4月)
昭和48年 閉校(3月)
閉校記事を掲載する。
地域と共に半世紀 きょう2校で廃校式 別れの校歌響かせて 滝上上雄柏小 興部豊畑小 寂しさ隠せぬ住民
「【滝上、興部】3月限りで廃校になる滝上町上雄柏、上雄柏小(橋本平吉校長、児童4人)と興部町豊畑、豊畑小学校(斎藤満校長、児童2人)で16日、それぞれ廃校式が行われる。両校とも山間の辺地校で、離農により住民が激減、ここ当分の間児童は減っても増えることがないため閉校が決まったもので、永年、地域の中心になっていた学校がなくなることに、住民らは感慨深そう。
上雄柏小は昭和7年2月、児童20数人を集めて雄柏小所属上雄柏特別教授場としてスタート、22年中学校を併置して児童、生徒120人になったが、その後は減る一方、48年には中学校が滝上中に統合、現在は2,4,5,6年に各1人の児童がいるだけで、上雄柏地区の13戸には就学前の幼児は1人もいない。これまでに同校から卒業した児童は341人を数える。
同地区のオシラネップ沢はかつて上雄柏、拓雄、雄柏小の3校があったが、次々と廃校、最後の上雄柏小も住民らに惜しまれながらついに校史にピリオドを打つことになったもの。「あと10年もたてば、この沢にはほとんど人もいなくなるのではないか」-とある住民。16日午前11時から卒業生など250人が集まり、廃校式を行い、4月から卒業生と児童3人は滝上中と濁川小へ、約15キロの道のりをバスで通うことになる、同小では14日廃校式に備え、先生も児童も力いっぱい校歌の合唱練習が続いた。先生の弾くオルガンもここの学びやではもう聞かれなくなるのだ…」(北海道新聞網走・北見版 昭和50年3月16日)

平成30年10月、K.T氏と訪れた。
記念碑背後の花壇や校舎の瓦礫は、上雄柏出身の方が整備したものである。

令和元年5月、HEYANEKO氏らと再訪した。

花壇はブルーシートで覆われている。

教員住宅は朽ちつつも残っている。

学校前の建物。
公的な建物のような印象を受けたが分らなかった。

校舎跡地。
撮影場所は教室と炊事室の境目辺りである。

水飲場も残っていた。

トイレ跡。
便槽の数の多さに驚く。
それだけ人々が暮らし、子どもたちが通っていた。

さらに7月、A.D.1600氏、K.T氏らと3度目の訪問をする。
今回は学校手前にあった神社を訪ねた。

側面。傷みも殆ど無い。

ピンボケとなってしまったが、神社手前の空き地。
『わが母校43年史』によると戦後の一時、児童の増加により神社横にあった会館(青年会館)を使っての授業が行われたとあるので、青年会館跡地と思われる。

学校隣接地のオシラネップ官設駅逓所の建物。
建物をよく見れば、アリの巣と化していた。
参考文献
滝上町上雄柏小学校1975『わが母校43年史-上雄柏小学校閉校記念誌』上雄柏小学校閉校記念事業協議会
北海道新聞1975「地域と共に半世紀 きょう2校で廃校式 別れの校歌響かせて 滝上上雄柏小 興部豊畑小 寂しさ隠せぬ住民 」『北海道新聞網走北見版』昭和50年3月16日
滝上町上雄柏は農村集落である。
上雄柏はオシラネップ原野最奥地であり、明治末期までは金鉱探査や砂金採取者が姿を見せるだけであった。
大正5年に高知県人掛橋亀千代、山本亀寿等が入植したのが始まりである。翌6年岡林杢弥、山崎文治、保科末太郎、井口和三郎、米山喜之助、中川吾平、山本七蔵、池亀吉、片岡鶴吉、諸橋喜之助らが移住した。大正13年3月の字名改正で上雄柏と改称した。
大正13年9月に19号以奥29号間、6,1キロの道路工事が完了してからは岩田宗晴他1名の未開地を開放、改めて14戸が入植した。戸数の増加とともに学齢児童も増加し、昭和7年に上雄柏特別教授場が完成した。
その後、昭和9年4月29線以奥の国有未開地の解除とともに7戸の入植者や濁川を起点とした森林鉄道の完成(17,7キロメートル)、上雄白熱布官設駅逓所の設置など、地域の開発は進展した。
戦後、この地区を流れるオシラネップ川上流のベベロナイ川との合流点付近に開拓者20数名が入植し、昭和23年5月に上雄柏から分離して拓雄集落が誕生したが昭和43年3月、拓雄集落の全戸離農により再び上雄柏に合併し、拓雄は無住化集落となった。
学校の沿革は以下の通りである。
小学校
昭和7 年 雄柏尋常小学校特別教授場として開校(2月)
昭和15年 上雄柏尋常小学校と改称(10月)
昭和16年 上雄柏国民学校と改称(4月)
昭和19年 高等科併置(4月)
昭和22年 上雄柏小学校と改称(4月)
昭和25年 上雄柏小学校拓雄分校開校(6月)
昭和31年 拓雄分校独立(4月)
昭和50年 閉校(3月)
中学校
昭和22年 上雄柏中学校開校(6月)
昭和47年 名目統合により滝上中学校上雄柏校と変更(4月)
昭和48年 閉校(3月)
閉校記事を掲載する。
地域と共に半世紀 きょう2校で廃校式 別れの校歌響かせて 滝上上雄柏小 興部豊畑小 寂しさ隠せぬ住民
「【滝上、興部】3月限りで廃校になる滝上町上雄柏、上雄柏小(橋本平吉校長、児童4人)と興部町豊畑、豊畑小学校(斎藤満校長、児童2人)で16日、それぞれ廃校式が行われる。両校とも山間の辺地校で、離農により住民が激減、ここ当分の間児童は減っても増えることがないため閉校が決まったもので、永年、地域の中心になっていた学校がなくなることに、住民らは感慨深そう。
上雄柏小は昭和7年2月、児童20数人を集めて雄柏小所属上雄柏特別教授場としてスタート、22年中学校を併置して児童、生徒120人になったが、その後は減る一方、48年には中学校が滝上中に統合、現在は2,4,5,6年に各1人の児童がいるだけで、上雄柏地区の13戸には就学前の幼児は1人もいない。これまでに同校から卒業した児童は341人を数える。
同地区のオシラネップ沢はかつて上雄柏、拓雄、雄柏小の3校があったが、次々と廃校、最後の上雄柏小も住民らに惜しまれながらついに校史にピリオドを打つことになったもの。「あと10年もたてば、この沢にはほとんど人もいなくなるのではないか」-とある住民。16日午前11時から卒業生など250人が集まり、廃校式を行い、4月から卒業生と児童3人は滝上中と濁川小へ、約15キロの道のりをバスで通うことになる、同小では14日廃校式に備え、先生も児童も力いっぱい校歌の合唱練習が続いた。先生の弾くオルガンもここの学びやではもう聞かれなくなるのだ…」(北海道新聞網走・北見版 昭和50年3月16日)

平成30年10月、K.T氏と訪れた。
記念碑背後の花壇や校舎の瓦礫は、上雄柏出身の方が整備したものである。

令和元年5月、HEYANEKO氏らと再訪した。

花壇はブルーシートで覆われている。

教員住宅は朽ちつつも残っている。

学校前の建物。
公的な建物のような印象を受けたが分らなかった。

校舎跡地。
撮影場所は教室と炊事室の境目辺りである。

水飲場も残っていた。

トイレ跡。
便槽の数の多さに驚く。
それだけ人々が暮らし、子どもたちが通っていた。

さらに7月、A.D.1600氏、K.T氏らと3度目の訪問をする。
今回は学校手前にあった神社を訪ねた。

側面。傷みも殆ど無い。

ピンボケとなってしまったが、神社手前の空き地。
『わが母校43年史』によると戦後の一時、児童の増加により神社横にあった会館(青年会館)を使っての授業が行われたとあるので、青年会館跡地と思われる。

学校隣接地のオシラネップ官設駅逓所の建物。
建物をよく見れば、アリの巣と化していた。
参考文献
滝上町上雄柏小学校1975『わが母校43年史-上雄柏小学校閉校記念誌』上雄柏小学校閉校記念事業協議会
北海道新聞1975「地域と共に半世紀 きょう2校で廃校式 別れの校歌響かせて 滝上上雄柏小 興部豊畑小 寂しさ隠せぬ住民 」『北海道新聞網走北見版』昭和50年3月16日