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置戸町旭

置戸町旭(令和元年7月28日探訪)

置戸町旭は農林業集落であった。
大正9年に始まった官行斫伐事業により森林鉄道が敷設され、士居常呂川上流の森林開発が始まった。
大正12年野付牛営林区分署は従事者のなかから農業経験者10名を選抜して林内に入地させた。
大正15年に20戸を入地させたが戸主は営林区署の出役義務があり、主に造林事業を行なっていた。開墾は女子供の手で行われた。国有林であるため火入れは厳しく取締ったので日中積み木し、徹夜で燃やし朝までに完全消火する慎重振りであった。
昭和2年、戸数38戸を数え学齢児童14名となり、学校設置を要望した結果、1戸当たり50銭を集め、林内移民地福井清三郎宅を仮教育所と定め、旭特別教授場が開校した。学校の沿革は以下の通りである。

小学校
昭和2年  仮教育所として開校(5月)
 同年    野付牛営林区分署造林小屋新築に当たり移転(12月)
昭和3年  上置戸尋常小学校所属旭特別教授場と認可(1月)
昭和10年 士居常呂尋常小学校と改称(12月)
昭和16年 士居常呂国民学校と改称(4月)
昭和22年 士居常呂小学校と改称(4月)
 同年    常上小学校と改称(8月)
昭和38年 閉校(3月)

中学校
昭和23年 勝山中学校常上分校として開校(10月)
昭和33年 常上中学校と改称(4月)
昭和38年 閉校(3月)

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令和元年7月、A.D.1600氏と訪れた。
この日は「おけと湖水まつり」が開催されており多くの人々で賑わっていた。

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鹿ノ子ダム建設(昭和58年度完成)により集落の面影は見当たらない。

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イベントで多くの人々が賑わっている中、学校跡地を探す。

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旧道と思われる道が続いていた。

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地形も変わってしまっているので往時の痕跡は難しい。

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おけと湖の案内板。

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旭入植地水没記念碑

碑文
鹿ノ子ダムの湖底に眠る旭入植地水没記念碑

大正九年十月鬱蒼たる原始林であったこの地に官行斫伐亊業による森林鉄道が敷設されて森林の開発が進められ更に大正十二年に当時の野付牛営林区分署が労務者の中から農業経験者十名を選抜して林内に入植させ、開墾と造林亊業に從亊させたのがこの地区の開拓の始まりであった。
 当初この地区は開伐と呼ばれていたが昭和八年に地区名を旭と改稱して今日まで長く人々の心の故郷として存在した。
 いま、鹿ノ子ダムの建設により湖底に沈む故郷を眼下に眺み、過ぎし来し苦難の往時を偲んで感慨ひとしお深く、ここに苦労を共にした当時の先達の名を刻して記念碑を建立するものである

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裏面
第一次入植者(大正十二年)
穴吹大助 小形忠次 小川元吉 木村徳次郎 佐藤忠七
鈴木和吉 樽井宗七 福井清三郎 渡辺藤次郎 

第二次入植者(大正十五年以降)
上田久三 蛯名源治 大髙 寿 岡 啓太郎 金津清七
金津武蔵 川上太郎 川崎繁男 木村王吉 越野金松
佐々木新一 佐々木鐘松 佐々木八郎 佐々木万次郎 佐藤仁三郎
島口儀平 管原千治 鈴木真吉 平 源次郎 髙橋房吉
竹内三次郎 但野清治 館下栄次郎 土田倉蔵 富塚 公
中尾熊次郎 長谷川豊蔵 八巻寅蔵 広川科田 三浦徳太郎
和瀬田清治 渡辺正夫 渡辺正次

ダム建設時の地主
上野行雄 大髙正則 木村常次 木村とし子 佐々木孝次郎
佐々木憲寿 宍戸褜吉 鈴木宗二 中尾定良 中尾金治
八田俊一 渡辺照夫 渡辺 修 渡辺喜美子 渡辺 真

主な施設
常上小学校 勝山中学校常上分校 置戸営林署旭伐木亊業所

昭和五十八年七月建立
網走開発建設部
協賛 置戸町
建立世話人会

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ダムの湖水は穏やかであった。

参考文献
置戸町史編纂委員会1957『置戸町史』置戸町
置戸町史編纂委員会1985『置戸町史上巻 戦前編』置戸町
置戸町史編纂委員会1987『置戸町史下巻 戦後編』置戸町
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興部町オタッペ

興部町オタッペ(平成31年2月11日・令和元年7月27日探訪)

興部町朝日は農村集落である。
元々は奥藻興部や於達辺と呼ばれていたが、昭和26年の字名改正で朝日と改称された。朝日は行政区が1区から3区に分かれ、このうち朝日小学校があった地域が朝日3区と呼ばれていた。

明治35年5月未墾地請願によって磯田虎造らがはじめて入植したのがはじまりである。
その後明治43年相馬農場(網走)として開拓以来、戸数も増えていったが当時の学童は藻興部小学校(後の秋里小学校)へ通学していた。しかし距離や道路の不完全な状態から渡辺牛之助、黒沢源治、堀清水彦太郎、増田与作、高館丑之助、益子寅次郎、三浦六兵衛を中心に学校設置の要望が高まり、昭和4年9月1日藻興部小学校於達辺教授場として開校した。
昭和10年頃には於達辺銅鉱床(大琉鉱山)の試掘が行われていた。他にも桑部木材の冬山造材や遠藤鍛冶屋もあり賑わいをみせていた。
戦後開拓で5戸の入植もあったが昭和28年からの冷害を機に、大型酪農へ転換する者も現れ始めた。しかし、小規模農家や後継者難による離農や造材事業の衰退で人口が減少していき、昭和60年3月に朝日小学校は閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。

昭和4年  藻興部小学校於達辺教授場として開校(9月)
昭和9年  於達辺尋常小学校と改称(4月)
昭和16年 於達辺国民学校と改称(4月)
昭和22年 於達辺小学校と改称(4月)
昭和26年 朝日小学校と改称(4月)
昭和60年 閉校(3月)

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平成31年2月、HEYANEKO氏らと訪れた。

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地神さまや馬頭観世音の碑は雪で埋もれている。

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民家にはポストがあった。

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朝日小学校跡の記念碑。

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記念碑裏面。

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同年7月、K.T氏,A.D.1600氏らと再訪する。

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夏の地神さま、馬頭観世音の碑。

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学校跡地は牧草畑となっていた。

参考文献
興部町立朝日小学校1985『五十六年史』朝日小学校PTA

遠軽町弥生

遠軽町弥生(令和元年7月28日探訪)

遠軽町弥生は戦後開拓集落である。
昭和21年樺太からの外地引揚者と戦災帰農者が入植した。
子どもたちは遠軽小学校に通学していたが、約9キロ離れており雨の日のぬかるみや冬季の吹雪となれば道も見失いがちとなった。
昭和22年大河原福美や植田栄太郎などが中心となって学校設置の運動を続けた。その結果、同年11月に遠軽小学校新遠軽分校として発足した。
当初は集落住民総出で掘立式の仮校舎を建て、校長は遠軽小学校校長が兼務し、引揚者の松村廉三が担任教師として就任した。
昭和27年12月、読売新聞社主催「第2回全国小中学校つづり方コンクール」道予選において大野和男(小5)の『開拓地の子』が第2部の2位に入賞を果たした。

学校の沿革は以下の通りである
昭和21年 遠軽小学校新遠軽分校として開校(11月)
昭和24年 新校舎落成・給水施設完成(3月)
昭和26年 オルガン購入
 同年   風車発電設備完了(11月)
昭和28年 給水施設を新たに完備
昭和31年 辺地校児童集会所建築(12月)
昭和40年 閉校(3月)

神社(新遠軽神社)については以下の通りである。
昭和21年 樺太敷香郡散江村で神官職に就いていた土門義貞が引揚時に背負い、戦後開拓者として弥生に入植し、昭和22年秋に石戸谷庄之助から土地10アール程の寄進と住民の寄付金によって祠を建てた。
神祭は稲荷大明神とし、9月10日が祭礼日であった。
昭和56年秋に集落が無住化した後も元住民らによって例大祭を続けていたが、平成5年9月に遠軽神社に合祀となった。

閉校記事を掲載する
17年の歴史に終止符 新遠軽小 閉校式かね卒業式 離農で年々生徒減る
「【遠軽】新遠軽小(石塚広志校長=児童6人)の卒業式は、閉校式をかねて25日午前10時から同校で行われ、17年余の歴史を閉じた。
 この日、国松助役(町長代理)鈴木教育長など来賓28人、父兄15人が出席、石塚校長から卒業生の植田勝美君と渡部洋子さんに卒業証書が手渡された。校長は式辞の中で『4月からは町の小学校にかようことになるが、いままでになかった苦しみもあるだろう。しかし、苦しみを乗り越え心身をきたえて個性を伸ばすように』と激励、町、町教委からも歓迎のことばが述べられた。
 続いて渡部洋子さんが『私たちは最後の卒業生になってしまいました。6年の間すごした学校が閉じられるかと思うとなんともいえない…』と答辞、出席した部落の人たちは条件の悪い土地で苦しみぬいた20年を回想、さらに閉校の寂しさに感慨無量のおももちだった。
 弥生部落は遠軽市街から北東へ6キロの山頂にあり、急傾斜の山道は4キロも続く。昭和20年、樺太、千島の引き揚げ者と戦災帰農者が入植してから戸数もふえ28年には46戸にもなった。また学校は22年12月、遠軽小新遠軽分校として発足し、24年には新遠軽小に昇格、32、33年は児童数が38人にふえた。
 しかし、28年ごろから国内の食糧事情が好転し始め、加えて土地の荒廃や冷害のため凶作が続き、開拓農家の借金がふえる一方。こうした希望のない生活に耐えかねて35年ごろから離農者が増え、いま残っているのは11戸で児童も減り、ことしも新入生は1人もいないため、閉校となった。」(『北海道新聞網走・北見版』昭和40年3月27日)

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令和元年7月、A.D.1600氏と訪れた。
ここは陸上自衛隊遠軽駐屯地の横である。

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三叉路名は「ど根性三叉路」
かなり気合の入った三叉路名である。

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ど根性三叉路周辺の風景。

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ど根性三叉路を過ぎて行くと開けた。
学校は近い。

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コンクリートの基礎がある。
学校跡地はここである。

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基礎がそのまま残っていた。

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学校跡地全景。

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校舎へと続く通学路。
この後、学校近くにあった神社へ足を運ぶ。

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神社。
灯篭と社殿の基礎が残っていた。

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社殿に積まれた木はかつての鳥居だろうか?

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神社境内は笹で覆われていた。

参考文献
遠軽町1977『遠軽町史』遠軽町
遠軽町1998『遠軽町百年史』遠軽町
北海道新聞1965「17年の歴史に終止符 新遠軽小 閉校式かね卒業式 離農で年々生徒減る」『北海道新聞網走・北見版』昭和40年3月27日

置戸町春日

置戸町春日(令和元年7月28日探訪)

置戸町春日は農村集落である。
明治45年以前、滋賀団体が10戸分の土地を払い下げたが一部のものが青木を伐って一儲けをしただけで入地する様子が見えなかったので、支庁は取り上げて青森団体に改めて払い下げを行なった。
その結果、明治45年青森団体(蛯名民次郎団体長15戸)、紀州団体(井本為一団体長5戸)が入地したが、紀州団体は大正時代に早くも転出する。

大正2年山形県から5戸、四国と石川県から各1戸、大正3年に秋田県・青森県から3戸、大正6年には富士製紙株式会社が皆伐造材を開始したことから林業・流送に従事する人々が現れ始めた。子弟も増えたことから住民の寄付や奉仕により大正6年7月23日春日特別教授場として開校した。
この頃より木材好況が訪れ仁居常呂川一帯大規模な造材が行われていた。
学校の沿革は以下の通りである。

大正6年  上置戸尋常小学校付属春日特別教授場として開校(7月)
大正9年  上置戸尋常小学校付属仁居常呂特別教授場と変更
昭和10年 仁居常呂尋常小学校と改称
昭和16年 仁居常呂国民学校と改称(4月)
昭和18年 春日国民学校と改称
昭和22年 春日小学校と改称(4月)
昭和31年 火災により全焼(2月)
 同年   校舎新築
昭和38年 閉校(3月)

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令和頑年7月、A.D.1600氏と訪れた。
学校より手前の風景。

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学校より奥の風景。

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学校より先には神社がある。

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神社社殿。

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馬頭観世音菩薩とある。

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そして、春日小学校跡地。
校門が特徴的で趣がある。

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校舎。
校舎以外は牧草畑となっていた。

参考文献
置戸町史編纂委員会1957『置戸町史』置戸町
置戸町史編纂委員会1985『置戸町史上巻 戦前編』置戸町
置戸町史編纂委員会1987『置戸町史下巻 戦後編』置戸町

紋別市上立牛

紋別市上立牛(平成30年10月・令和元年5月探訪)

紋別市上立牛は農村集落である。
『北海道地名誌』によれば大正2年頃より開拓が始まり、イモ、マメ、ムギ、ハッカを栽培していた。終戦前後には「ハッカ成金」も生まれたほどである。また造材が盛んで「冬山夏農」と言われていた。学校は大正6年7月5日、立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場として開校した。
しかし、山奥という地理的な条件や農業だけで生活していくことができないことから昭和37年頃より離農が進み、昭和39年3月に閉校した。
学校の沿革は以下の通りである。

大正6年  立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場として開校(7月)
昭和4年  中立牛尋常小学校所属上立牛特別教授場と改称(9月)
昭和6年  新校舎落成(9月)
昭和9年  上立牛尋常小学校と改称(3月)
昭和16年 上立牛国民学校と改称(4月)
昭和22年 上立牛小学校と改称(4月)
昭和28年 校舎増改築
昭和39年 閉校(3月)

『網走教育第91号』(昭和31年)に上立牛の集落や学校の様子が掲載されていたので紹介する。
走る公民館
5 紋別市立上立牛小学校(9月9日)
「今日の会場はお祭りをくり上げての歓迎ぶり、熱心な青年団員は早々手伝いに来て準備その他色々と協力して呉れる。青年の中にはいつかのい地区幹部講習会に顔を見せ熱心に研究していたその顔もみえ懐かしく思う。午後1時半予定のプロに入る。歌の指導からはじまってオートスライド、人形劇、テープコーダー、いずれも予想以上に喜ばれ、観衆の老人の中には〝今日まで長生きしたかいがありました。〟などと云われる方もあり、我々も来たかいがあったと元気づく。そのあと小野教育長さんの時事解説、舘員の部落作りと団体活動の講和、そして座談会、わずかな時間ではあったが〝冷害にたえ得る農業経営〟〝電気をつけること〟〝道路の整備〟等切実な課題をとらえての話し合いがなされ、又明日に迫る演芸会に間に合わせようとお母さん方が涙ぐましい努力の中に作り上げた幕一式の披露など、さすがのお父さん方もほろりとしてうなる一場面。その後全員で〝開拓音頭〟〝燃えよかがり火〟を歌って踊って楽しいひとときをおくり、映画のあとは熊が出るというのでまとまって、小雨の降る中を名残りおしみつつ散会していった。併し青年達は明日に迫る演芸会の準備のため、かぼそいランプの下で練習をはじめる。この他に開設される青年学級もともしびに集まって実施して居るそうだが、なかなか大変であることが松岡校長先生からも聞かされ、御苦労なさって居られることが身にしみるようであった。」

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平成30年10月、K.T氏と訪れた。
上古潭と同型の古い記念碑である。

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学校より手前の風景。
学校より手前には17軒の建物があった。

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学校より奥は14軒、駅逓跡があった。
駅逓の跡地は未訪である。

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学校前の神社跡。

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令和元年5月、HEYANEKO氏と再訪した。

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別角度からみた神社跡地。
立ち枯れた木はご神木である。

参考文献
北海道教育委員会網走事務局1956『網走教育第91号』北海道教育委員会網走事務局
NHK北海道本部1975『北海道地名誌』北海教育評論社
『文芸オホーツク第21号(2012年)』紋別市文化連盟
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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