奈井江町東奈井江
奈井江町東奈井江(平成26年6月7日探訪)
奈井江町東奈井江は炭鉱開発で出来た集落であった。
大正時代、道有林や市有林の造材や、木炭焼きに従事する人々(杣夫数戸居住)が暮らしていた。
昭和8年 中村初一 藤本定の経営により東美唄炭鉱(藤木炭鉱)として開発が始まった。
炭鉱開発に伴い住民も増えていった。
昭和14年3月1日 奈井江尋常高等小学校東分教場として開校した。
開校当時の児童数は37名であった。
昭和16年4月1日 奈井江国民学校東分教場と改称。
昭和17年7月1日 東奈井江国民学校として独立。
昭和22年4月1日 東奈井江小学校と改称。
昭和23年4月1日 東奈井江中学校を併置。
昭和31年頃より、東美唄炭鉱より織田炭鉱と変更になった。
この間、従業員も増え昭和37年には120名もの児童・生徒が通っていた。
しかし、昭和41年3月31日付で東奈井江中学校は奈井江中学校に統合され、廃校になった。
さらに、炭鉱の合理化により生徒数は減少、昭和46年度当初の東奈井江小学校児童10名も、この年の8月に従業員社宅の市街地移転により皆無となり、学校職員の子弟1人となってしまった。
昭和46年10月1日 児童数皆無により休校。
同年12月3日 廃校となった。

砂利道を延々と走り、学校跡地より振り返った風景。
道路の両脇には平坦地が広がり、建物が建っていたと思われるが自然に帰っている。

学校の跡地に記念碑が建立されていた。
「ここに学校があったのだろうか?」と思うほど、草木が生えていた。

記念碑右手の笹薮を見ると、基礎が残されている。
「奈井江町百年史」に掲載されている写真から見て、体育館と思われる。

体育館の基礎に煙突が倒れていた。

鉄鋼の残骸もある。

尾籠な話で恐縮だが、便槽?と思われる。

同じく、便槽?と思われる。

校舎の背後には川が流れている。

学校より奥を眺める。
この先には神社もあったが、自然に帰っていた。
奈井江町東奈井江は炭鉱開発で出来た集落であった。
大正時代、道有林や市有林の造材や、木炭焼きに従事する人々(杣夫数戸居住)が暮らしていた。
昭和8年 中村初一 藤本定の経営により東美唄炭鉱(藤木炭鉱)として開発が始まった。
炭鉱開発に伴い住民も増えていった。
昭和14年3月1日 奈井江尋常高等小学校東分教場として開校した。
開校当時の児童数は37名であった。
昭和16年4月1日 奈井江国民学校東分教場と改称。
昭和17年7月1日 東奈井江国民学校として独立。
昭和22年4月1日 東奈井江小学校と改称。
昭和23年4月1日 東奈井江中学校を併置。
昭和31年頃より、東美唄炭鉱より織田炭鉱と変更になった。
この間、従業員も増え昭和37年には120名もの児童・生徒が通っていた。
しかし、昭和41年3月31日付で東奈井江中学校は奈井江中学校に統合され、廃校になった。
さらに、炭鉱の合理化により生徒数は減少、昭和46年度当初の東奈井江小学校児童10名も、この年の8月に従業員社宅の市街地移転により皆無となり、学校職員の子弟1人となってしまった。
昭和46年10月1日 児童数皆無により休校。
同年12月3日 廃校となった。

砂利道を延々と走り、学校跡地より振り返った風景。
道路の両脇には平坦地が広がり、建物が建っていたと思われるが自然に帰っている。

学校の跡地に記念碑が建立されていた。
「ここに学校があったのだろうか?」と思うほど、草木が生えていた。

記念碑右手の笹薮を見ると、基礎が残されている。
「奈井江町百年史」に掲載されている写真から見て、体育館と思われる。

体育館の基礎に煙突が倒れていた。

鉄鋼の残骸もある。

尾籠な話で恐縮だが、便槽?と思われる。

同じく、便槽?と思われる。

校舎の背後には川が流れている。

学校より奥を眺める。
この先には神社もあったが、自然に帰っていた。
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