滝川市旭沢
滝川市旭沢(平成24年10月28日・平成26年6月8日探訪)
滝川市旭沢は、種洋場の開設によって開拓された集落である。
明治19年 現 国道12号線の9丁目道路工事(現 道道564号線)の際、「洞穴」が見つかった。
驚いた人々はアイヌ人に訊くと「クマの冬眠していた穴である」と知ったことや、傍を流れる沢から「熊穴川」と呼ばれるようになった。
そのため、かつては「熊之沢」と呼ばれていた。
明治35年頃 農商務省は北海道の畜産振興を奨励し、オーストラリアより種緬羊を輸入し、種洋場を開設したところから始まった。
種洋場は滝川東北部より江部乙・赤平に跨る計画であったが、実際は薪炭用地や貸付小作地が殆どで、種洋場としての活用は1~2割程度であった。
「江部乙町史」(昭和33年発行)には「大正4年及び5年」とあるが、滝川市郷土研究会誌「そうらっぷち」第22号(昭和51年発行)及び第26号(昭和55年発行)には「大正4年より入植を始めたが大部分の人は大正6年から7,8,9年に入植し定住したものである」とある。
丸加山の開拓は丸加農場を筆頭に、周辺に谷口農場、角八農場、今井農場、小関農場、下農場、田中農場、堀農場があった。
中心的な丸加農場は、丸カ 石丸呉服店(石丸由五郎)が滝川・江部乙・赤平にわたる山一帯を所有していたことから名付けられ、約20戸が入地していた。
小作民の子弟を教育するため寄附金を出し合い、さらに石丸氏により「私立石丸教育所」が大正6年に開校した。熊之沢の児童らもここで学んでいたが、第一次世界大戦後の不景気により離農する人が増え、大正9年春を以て廃校となった。
熊之沢の児童は当時、北辰尋常小学校へ通学していたが、道は曲がりくねっていて見通しが利かない上、原始林や湿地帯の中を通る以外に無く、両親らは心配する有様であった。
このような経過を経て、大正9年6月10日 北辰尋常高等小学校熊之沢分教場として開校した。
昭和16年4月1日 地名変更に伴い、江部乙北辰国民学校旭沢分教場と改称。
地名変更になった理由については分からなかったが、次の理由が可能性として挙げられる。
「[熊之沢]のままだと、人が住んでいるところと思えない」という理由である。
また、卜部信臣氏は「太陽が東から登ってくることから『旭沢』と名付けたのではないか」と推測する。
ただ、共通して言えることは「熊之沢のままだと、人が住んでいる集落と思えない」ということである。
昭和22年 江部乙村立北辰小学校旭沢分教場と改称。
昭和24年11月1日 江部乙村立旭沢小学校と独立。
昭和46年 滝川市立旭沢小学校と改称。
旭沢小学校のエピソードとして、「クリ」の木の植樹がある。
昭和36年、中村一馬と中村の知人は美唄の林木育種場(現 独立行政法人 北海道立総合研究機構林業試験場)を訪れ、勤務していた中内武五郎に「山の分教場にクリを植え、既に収穫も相当できるので収入も得られそうだ」と話したところ、中内は共鳴し、クリの木の栽培方法やポイントを二人に話した。
その後、中内は旭沢小学校に来校しクリの木を植樹した。
クリの話には続きがあり、中村一馬らが既に植樹したクリはたくさんの実をつけ、クリを売って得たお金は修学旅行の旅費や、子供たちの学習用に気象観測機器の購入に使われた。
子供たちは気象観測を続け、街より平均気温が1,5度低いことが立証された。
これは新聞やNHKでも取り上げられ、表彰を受けた。
後年、旭沢の人々は感謝の念を込め、中内を旭沢小学校に来賓として招き入れて学芸会を鑑賞した。
一方、赴任した教員でも面白いエピソードがある。
赴任した先生の中に「今日はパチンコ屋へ行って勝つぞ」と、江部乙のパチンコ屋へ士気高く、下り坂を行ったはいいが負けてしまい、帰り道の上り坂4キロをトボトボと歩いて帰った…。
旭沢小学校も過疎化の進行により、昭和47年3月31日付で廃校となった。
閉校後、校舎は「滝川市自然の家」として活用された。
北海道新聞 空知版 昭和48年3月13日付の記事に「旧旭沢小、市青年の家に“変身”宿泊用に内部改装 部落ぐるみの訴え実る」とある。
青少年活動施設として活用されていたが平成10年に閉館。
現在は、一般の方に売却され個人所有となっている。

平成24年10月28日 「学舎の風景」piro氏とともに訪れた。

記念碑は個人所有の敷地内にあるため、遠望に留めておいた。

平成26年6月8日 「学舎の風景」合同調査で訪れた。
この時、記念碑は草木で隠れており、写真に撮ることができなかった。

学校前に残る旧道。
この道の先は、現 丸加高原カントリークラブとなっている。
かつては田畑が奥まで続いていた。

学校前の道路を渡った先の風景。
ここも世帯数が少なく「高度過疎集落」の一つである。

ふと見ると、離農した家の跡があった。
種羊場の開設に伴って開拓された熊之沢(旭沢)は、離農や丸加高原の開発で大きく変貌した。
今回のレポート作成に当たり、滝川市美術自然史館 永井芳仁様 卜部信臣様に感謝申し上げます。
滝川市旭沢は、種洋場の開設によって開拓された集落である。
明治19年 現 国道12号線の9丁目道路工事(現 道道564号線)の際、「洞穴」が見つかった。
驚いた人々はアイヌ人に訊くと「クマの冬眠していた穴である」と知ったことや、傍を流れる沢から「熊穴川」と呼ばれるようになった。
そのため、かつては「熊之沢」と呼ばれていた。
明治35年頃 農商務省は北海道の畜産振興を奨励し、オーストラリアより種緬羊を輸入し、種洋場を開設したところから始まった。
種洋場は滝川東北部より江部乙・赤平に跨る計画であったが、実際は薪炭用地や貸付小作地が殆どで、種洋場としての活用は1~2割程度であった。
「江部乙町史」(昭和33年発行)には「大正4年及び5年」とあるが、滝川市郷土研究会誌「そうらっぷち」第22号(昭和51年発行)及び第26号(昭和55年発行)には「大正4年より入植を始めたが大部分の人は大正6年から7,8,9年に入植し定住したものである」とある。
丸加山の開拓は丸加農場を筆頭に、周辺に谷口農場、角八農場、今井農場、小関農場、下農場、田中農場、堀農場があった。
中心的な丸加農場は、丸カ 石丸呉服店(石丸由五郎)が滝川・江部乙・赤平にわたる山一帯を所有していたことから名付けられ、約20戸が入地していた。
小作民の子弟を教育するため寄附金を出し合い、さらに石丸氏により「私立石丸教育所」が大正6年に開校した。熊之沢の児童らもここで学んでいたが、第一次世界大戦後の不景気により離農する人が増え、大正9年春を以て廃校となった。
熊之沢の児童は当時、北辰尋常小学校へ通学していたが、道は曲がりくねっていて見通しが利かない上、原始林や湿地帯の中を通る以外に無く、両親らは心配する有様であった。
このような経過を経て、大正9年6月10日 北辰尋常高等小学校熊之沢分教場として開校した。
昭和16年4月1日 地名変更に伴い、江部乙北辰国民学校旭沢分教場と改称。
地名変更になった理由については分からなかったが、次の理由が可能性として挙げられる。
「[熊之沢]のままだと、人が住んでいるところと思えない」という理由である。
また、卜部信臣氏は「太陽が東から登ってくることから『旭沢』と名付けたのではないか」と推測する。
ただ、共通して言えることは「熊之沢のままだと、人が住んでいる集落と思えない」ということである。
昭和22年 江部乙村立北辰小学校旭沢分教場と改称。
昭和24年11月1日 江部乙村立旭沢小学校と独立。
昭和46年 滝川市立旭沢小学校と改称。
旭沢小学校のエピソードとして、「クリ」の木の植樹がある。
昭和36年、中村一馬と中村の知人は美唄の林木育種場(現 独立行政法人 北海道立総合研究機構林業試験場)を訪れ、勤務していた中内武五郎に「山の分教場にクリを植え、既に収穫も相当できるので収入も得られそうだ」と話したところ、中内は共鳴し、クリの木の栽培方法やポイントを二人に話した。
その後、中内は旭沢小学校に来校しクリの木を植樹した。
クリの話には続きがあり、中村一馬らが既に植樹したクリはたくさんの実をつけ、クリを売って得たお金は修学旅行の旅費や、子供たちの学習用に気象観測機器の購入に使われた。
子供たちは気象観測を続け、街より平均気温が1,5度低いことが立証された。
これは新聞やNHKでも取り上げられ、表彰を受けた。
後年、旭沢の人々は感謝の念を込め、中内を旭沢小学校に来賓として招き入れて学芸会を鑑賞した。
一方、赴任した教員でも面白いエピソードがある。
赴任した先生の中に「今日はパチンコ屋へ行って勝つぞ」と、江部乙のパチンコ屋へ士気高く、下り坂を行ったはいいが負けてしまい、帰り道の上り坂4キロをトボトボと歩いて帰った…。
旭沢小学校も過疎化の進行により、昭和47年3月31日付で廃校となった。
閉校後、校舎は「滝川市自然の家」として活用された。
北海道新聞 空知版 昭和48年3月13日付の記事に「旧旭沢小、市青年の家に“変身”宿泊用に内部改装 部落ぐるみの訴え実る」とある。
青少年活動施設として活用されていたが平成10年に閉館。
現在は、一般の方に売却され個人所有となっている。

平成24年10月28日 「学舎の風景」piro氏とともに訪れた。

記念碑は個人所有の敷地内にあるため、遠望に留めておいた。

平成26年6月8日 「学舎の風景」合同調査で訪れた。
この時、記念碑は草木で隠れており、写真に撮ることができなかった。

学校前に残る旧道。
この道の先は、現 丸加高原カントリークラブとなっている。
かつては田畑が奥まで続いていた。

学校前の道路を渡った先の風景。
ここも世帯数が少なく「高度過疎集落」の一つである。

ふと見ると、離農した家の跡があった。
種羊場の開設に伴って開拓された熊之沢(旭沢)は、離農や丸加高原の開発で大きく変貌した。
今回のレポート作成に当たり、滝川市美術自然史館 永井芳仁様 卜部信臣様に感謝申し上げます。
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