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遠別町正修 高橋健治氏の証言及び住居分布図

遠別町正修 高橋健治氏の証言及び正修の住宅地図(平成26年9月14日探訪)

 遠別町正修は平成25年6月8日「学舎の風景」、及び遠別町教育委員会との合同調査で探訪した。
 これから紹介することは、遠別町正修出身の高橋健治氏の聞き取りで得た情報をまとめたものである。

 私は昭和15年に生まれ、昭和21年 正修国民学校に入学した。
 授業は先生が教えていたが、複々式のため先生が教えている児童以外の子供たちはみな、自習だった。
 分からないところは上級生か先生に訊いていた。

 昭和27年に正修小学校を卒業した。中学校は大成だったが、式典(入学式や卒業式等)以外は正修の校舎(注1)で勉強した。
 中学を卒業後、夏は農業に従事して冬は造材で稼ぎに出ていた。

(注1) 大成中学校の分教場扱いである。

 これとは前後して昭和30年頃の話だが、行商の人たちがクルマやバイクで来て魚を売っていた。
 しかし、今のように冷蔵施設なんてないから正修に来たときは、商品は既に腐りかかった状態であったので、タダ同然の値で売られていた。
 行商の人が「これも持って行って」と言って、必要のないものまでも買わされたがそれでもタダ同然であった。
 お金のない人たちは自分たちが栽培した大豆や小豆と物々交換して手に入れていた。

 昭和33年、正修までの道路が整備され、初めてトラックによる作物が出荷できるようになった。
 それ以前は駄馬に小豆や大豆を積んで、市街地まで運んでいた。

 当時の道路は1車線(約3メーター)くらいしかなく、遠別川が氾濫すれば道路も冠水し、集落総出で復旧作業を行った。
 道中にある「念仏峠」も、元々は急カーブの連続であったので馬橇で走るとスピードが付いてしまい、カーブを曲がりきれず転落する危険があった。皆、転落しないように「念仏」を唱えていたところから「念仏峠」と名づけられた。(注2)

(注2) 「遠別町史第二巻」には「2km余の鬱蒼と生い茂る樹林の山道は昼なお薄暗く通行する人たちは念仏を唱えると無事にこの峠越えができると言い伝えがあった。(中略)そして市街地から奥地に向かう入口附近に「峠の願かけ棆」があった。幹は大人4・5人で抱えきれない大樹で、根元の空洞は神様か佛様が安置している幻覚が沸く樹であったが新道建造のため材倒された(略)」とある。
 このことから、町史と高橋氏の証言とは「念仏峠」の意味合いが違う。

 冬になれば雪で山を下りることができなかったので、秋にソーセージや油、醤油といった腐らないものを一斗缶や樽で買って冬に備えた。もし、病気になれば病院へ行くことができないので生きるか死ぬか、ただじっと臥せているしかなかった。

 若い男連中は造材に出稼ぎに行くので、残っているのは女と子供しかいない。
 女と子供で自宅の屋根や付随する小屋(馬小屋など)の雪下ろしだけでなく、学校に積もった雪を下していた。
 学校は屋根に4メートルも雪が積もり、下のほうは既に固くなっており剣先スコップでも刺さらず、作業は一日だけで終わらなかった。

 春先の、先生の人事異動も大変であった。
 特にこれから赴任する先生は、造材である程度道はついていたが、大成最後の民家(大垣さん)までであった。
 問題は家財道具だ。集落総出で先生方の家財道具を運搬した。
 
 学校は「又木ノ沢」の坂道の先にあった。この坂道も長く3~4回曲がった先に学校があった。
 学校は、集落の高台部に位置していた。

 また、春先の学校用の薪割作業も集落総出の奉仕作業であった。薪割作業が一番大変であった。(注3)

(注3) 正修に電気が導入されるのは昭和40年11月20日である

 昭和36年、それまでの薪から石炭に変わったので薪割作業はやらなくなった。

 正修の雪解けは遅く、秋霜が早かった。コメの収穫も少なく5俵獲れれば良いほうであった。
その他、多少アズキやダイズも栽培していた。

 自然環境が厳しい場所であるため、条件の悪いところに入植したところは山を下りて行った。手前の久光や中央地区や歌内方面、さらに炭鉱夫として夕張や築別炭鉱へ転出していった人もいる。ただ、私を含め4戸(高橋・大隅・石川本家及び分家)は比較的、土地に恵まれていたので、出て行かなかった。(注4)

(注4) 「遠別町史第二巻」によれば「昭和40年当初、国の食糧余りから、生産調整に入り、まず主食の米作りに規制措置が布かれ、多くの住民はこの地から去った。」とあるが、実際は上記の理由である。

 昭和38年 中学校が併置された。
 当時、中学の入学者は女子が多く、6キロ離れた大成中学校まで通わすのが大変だったから、設置された。

 昭和43年5月 私の家族は下山した。
 もし、下山しなければ正修の集落解散はもう少し先になっていたかもしれない(注5)。
 
(注5) 集落解散まで残っていたところは、教職員(武藤校長・今野教諭夫妻)を除くと大隅家・石川本家及び分家のみであった。

CIMG4463.jpg
CIMG4452 - コピー
CIMG4453 - コピー
上記3点の地図は、2万5千分の1地形図 上遠別(昭和34年1月30日発行)・正修(昭和35年1月30日発行)を組み合わせ、加工したものである。
数字の地点は建物の名称や世帯主が判明した部分である。
赤文字のアルファベッドは、推測の域だが家があった跡と思われる部分である。

① 大成・正修の境界地点 大垣宅。

② 菱田幸一宅 大正末期~昭和初期入植 昭和35年転出

③ 橋本 秀之進宅 昭和10年入植 昭和22年転出

菱田・橋本宅(川の対岸)
対岸より、菱田・橋本宅跡を望む。

A地点 菅野 与助宅? 昭和12年入植 昭和18年転出

B地点 牧野 粂太郎宅? 大正7年入植 昭和19年転出

菅野・牧野宅跡地方面
菅野・牧野宅跡方向を望む。

④ 浦 留蔵宅→高橋 寅之助宅→大隅貞次郎宅
浦 留蔵 大正10年入植 昭和17年転出(逝去)
高橋 寅之助 入植年不明 昭和23年転出(逝去)
大隅 貞之助 昭和11年入植 昭和42年転出

浦→高橋→大隅宅跡(対岸)
対岸の浦→高橋→大隅宅跡を望む。
潅木が生い茂り、全容を知ることはできない。

浦→高橋→大隅宅写真撮影場所
浦→高橋→大隅宅撮影場所。学校はこの先にある。

C地点 佐古 藤吉宅? 大正7年入植 昭和2年?転出(逝去)

⑤ 遠別町立正修小中学校
学校跡
学校のグランド跡が、現 道道688号となっている。

その、法面をよじ登り、笹薮をこぐと古い記念碑が姿を現した。

顕徳碑

正修小学校は開校当時、私立教育所として開校した。
開校当時、渡部与平・柳井作松・石川徳実が教師として子弟の教育に尽力した。
昭和10年 尽力された3先生方を顕彰する目的で、青年学校実習も兼ね、顕徳碑として建立された。
延 109名の労力奉仕で、経費 59円かかっている。

⑥ 高橋 卯右エ門宅 大正7年入植 昭和43年5月転出
転出当時の世帯は高橋正衛

高橋宅跡
高橋宅前にて。

高橋宅前より奥
高橋宅前より奥を望む。

⑦ 石川長三郎・徳実宅 大正7年入植 昭和43年10月転出
転出当時の世帯主は石川俊寿 石川昭夫 本家・分家は不明

学校手前より石川宅(川の対岸)を望む。手前は高橋家農地
学校前の道路より石川宅(川の対岸)を望む。手前は高橋家所有の農地跡。

⑧ 浦 宅→広沢 金三郎宅→大隅千代治宅 
 浦 宅(昭和17年頃まで?)→広沢 金三郎
 広沢 金三郎 昭和10年入植 昭和18年転出
 大隅 千代治 昭和11年入植 昭和43年転出
 転出当時の世帯主は大隅 栄太郎。
大隅宅跡
大隅宅跡にて。


⑨ 後藤 嘉六宅 昭和13年入植 昭和35年転出
   転出当時の世帯主は後藤平喜。

⑩ 柳井 作松宅  大正6年入植 昭和9年転出

柳井宅跡
柳井宅跡を望む。

柳井宅より奥
柳井宅より奥を望む。

⑪ 久米 松治郎宅 大正11年入植 昭和20年転出

久米宅跡
久米宅跡を望む。

久米宅前より奥
久米宅より奥を望む。

昭和43年10月に残り3戸が正修を離れ、集落が解散した。
解散から40年以上の月日が流れ、集落の痕跡は「正修」の地名、平地、そして今回発見した「顕徳碑」であった。

最後に、ご協力いただいた高橋健治氏に深く感謝申し上げます。

(参考・引用文献)
遠別町史第2巻 第6編 地域編 6 大成 p954 18-24、7 正修 p955 26-27 平成15年2月20日発行
正修校と部落の歩み 武藤正彦編 昭和43年10月23日発行(遠別町立郷土資料館収蔵)
2万5千分の1地形図 上遠別(昭和34年1月30日発行)・正修(昭和35年1月30日発行) 
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No title

これも面白かったです
昨年遠別郷土資料館を見学したときに
正修小の郷土史見当たらなかったのですが
聞かなければ出してくれなかったのかな?



正修小中学校の記念誌

自然と共にさま

お返事ありがとうございます。
お訊ねの記念誌ですが、郷土資料館にございます。
具体的には学校関係の資料が展示されていますガラスケースのなかにございます。
教育委員会に話せば、見せていただけるかと思います。

No title

あと10年以内に遠別線が開通すると思いますので、その時はぜひ母子里側から遠別に走りたいと考えています。

名寄遠別線

ロデムさま

お返事有難う御座いました。
道道688号名寄遠別線、私もその後は気にかけておりました。もう、あと少しです。
開通した時は私も走りたいと思っております。
プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。札幌市在住。
元陸上自衛官。
北海道の地方史や文芸を中心としたサークル『北海道郷土史研究会』主宰。

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