八雲町八線

八雲町八線(平成26年10月12日探訪)

八雲町八線は農業(酪農)で栄えた集落であった。

明治38年 福島県人 石川竹三郎が5戸の小作人を引き連れて入地したことに始まった。
その後も入植者が増え、子弟の教育のために石川夫妻が明治40年6月 子弟を自宅に集めて寺子屋形式の教育を始めたのが始まりであった。

しかし、このような私設教育を長く続けることも難しく、子弟らが大関本校まで通学することも困難であった。

村当局に公設特別教授場の開設を要請し続けた結果、明治43年の村会において議決がなされ、実現の見通しが立った。

住民らは石川らと協力し合い、ペンケルペシュベ406番地に校舎を建築し、「大関尋常小学校付属ペンケルペシベ特別教授場」として明治43年6月1日開校した。
校舎は、石川農場敷地内に建てられた。

しかし、翌44年5月 野火のために校舎が焼失してしまい、住民らは再び再建へ向け努力した。

同年12月 教員住宅を併設した校舎を建て直した。

この時、1年生から4年生までがここに通い、5年生以上は大関本校に通わせていた。

大正4年4月「八線特別教授場」として名称が変更された。

「八線」という名前は教授場の位置を現し、地区の「俗称」であった。
そのため、支庁側は「数詞ト誤解セラルベク」としてペンケルペシュベを意訳した「上路」(ウワジ)とするよう促したが、村は原案で押し切った。

大正期に入ると子弟の数も増大し、大正9年4月1日 八線尋常小学校と改称。
改称に併せて、大関本校に通っていた5・6年生も八線尋常小学校に収容した。

しかし、制度的には特別教育規定による小学校であって、小学校令によるものとは異なる扱いであった。

第一次世界大戦後の不況を受けて大正10年の在籍児童数 60名をピークとし、以降は減少へ転じていく。

そのため、小学校令による小学校の昇格させるべき条件が揃わず、大正15年と昭和7年、特別教育規定の適用延長について特認を受けていた。

昭和8年 ペンケルペシュベ263番地(現 上八雲769番地)に校舎を移設し、別棟の教員住宅を建てて整備した。
併せて、町内の鉛川・赤笹の各学校とともに特別教育規定の長期適用を脱し、小学校令による小学校として昇格させた。

この時の児童数は32名にまで減少し、昭和15年では25名になり減少傾向は続いた。

昭和16年4月 八線国民学校と改称。

昭和22年4月 八線小学校と改称。

児童数の減少は尚も続き、昭和18年には14名。
昭和20年には9名にまで減少した。

戦後開拓により八線も入植者が現れ始めるが「教育月報」1956年(昭和31)2月号に、当時の校長である松井理一郎が「小さい学校経営の苦心」と題し、寄稿している。
この中で八線地区のことについて触れられているが、以下、引用する。

「(前略)思い出す3年前、隣家からの火事で丸焼けの憂目から赴任、いとも軽い引越荷をトラックから馬車に積み替え一里半のぬかるみの山坂道を喘ぎながら、それこそ八重葎茂れる淋しい宿の鉛筆のカケラ、紙一枚ない学校でたまっていた事務を辿々しく片付けて、やれやれの間もあればこそ、次々と至急のハンコが来る来る一日か二日で期限切れの火のつく様な報告物、相談相手もなければ、〒局から疑問をただすには往復三里の山道。(中略)」

「(前略)目に映るものはただ起伏する山ずらと、ポツンポツンと一粁距ての谷間の家、丘の家とサイロと牛ばかり、隣家とは凡そいえない部落分布、半年は六尺の雪に鎖された人っ子一人通らない道の長い長い冬。(以下略)」

松井校長離任後、次に着任された佐伯篤光校長は前任地である野田生小学校勤務時代に辺地教育の重要性を感じ、自ら志願して八線小学校に着任した。
北海道新聞 昭和39年8月18日付(渡島・桧山版)に「長年、辺地教育に尽力 八雲の佐伯八線小校長に近く奨励賞」とある。

「(前略)ここは冬は交通途絶、ときにはクマも出るという奥地。部落個数14戸、半分は開拓農家で経営も楽でない。辺地のため教材も満足にない。」

「このため佐伯先生は学力向上には学習方法、教材、施設の改善を図らなければ-と鉄棒、平均台、花壇、川をせきとめた水泳場、ニジマスの養魚池など部落民や子供たちといっしょになって作りあげ学習環境を整備した。」

「また健康管理や社会科の勉強のために毎年夏休みになるとまちや海をみせるため奥さんを助手に子供たちを連れてまちへ出るのが学校の重要な行事となった。(後略)」

「(中略)二十日、奥さんとともに札幌で表彰を受けるが『これからも辺地教育にいっそう努力したい』と控えめに喜びを語っていた。」
この年の9月、教員配置基準の改正により初めて2教員制となった。

しかし、昭和40年代に入ると離農による転出が始まった。

八雲教育 第26号に「特集 山の便りをもとめて 町内へき地学校リレー訪問記」があるが、そのなかで八線小学校は、こう取り上げられている。

「二人の学校 へき地三級 八線小学校」

「朝公民館を出発するとき心配された天候も昼頃にはあがり、花の夏路をあとに八線小学校に向かって出発した。」

「雑草のおおいかぶさった山道も想像以上に整備され、大関から六粁ダラダラ斜面を上りつめたところ目の前が急に開け八線盆地がある。その行く手坂下に樹々に囲まれ六十年の歴史をもつ八線小学校の校舎がみえる。」

「(中略)八線部落は明治三十八年の開拓で、学校の歴史も古く大正13年頃はもっとも入殖者の多かった年で七十戸と記録され、生徒の数も六十六名にも及び八線地域農業の全盛期でもありました。」

「しかしここ八線にも過その波がおしよせ広々とした耕地に酪農を経営する者六戸、先生二戸、計八戸、生徒数も二名という八雲町内でも一番小さな学校です(後略)。」

一方で、八線の冬の気候について、八雲教育第22号に「やまの便り-昭和45年1月31日からの吹雪-」と題し、八線地区の雪害について記されている。

「前略 今日も吹雪、あれて四日目になり、全くあきれてしまいました。」

「三十一日のあらしで配電線と電話線がズタズタ、折れた電柱二本腕木の破損数知れず、回復までに一週間はかかるという。郵便屋さんも訪れず明りもなく、音も声も聞こえない暗黒生活を送って四日目になります。」

「ただきこえるのは無常な風の音と、深い溜息ばかりです。」

「二日の朝、学校と住宅は吹きだまりの中に入り、雪にスッポリ埋り、屋根が僅かにつき出、どうにか給食室の窓から校内に入ったが、映画館なみの暗やみ。電灯を片手に校内を巡視し、異常のなかったことに安心しました。」

「部落の方々は電気の復旧工事にかりだされ、除雪を依頼していたが思うようにならず、私どもだけで教室の窓あけをしています。」

「道路はドカ雪と吹きだまりのため馬も歩けず、雪のおちつくのをまって道路つけをするとのこと。大関まででれるようになるのはいつのことやら…。」

「『この分では牛乳もなげなければ』と、部落の方々はあきらめ顔です。まことに気の毒なことで胸がつまる思いがします。」

「古老の話しでは、『子供の頃こんなあらしがあった』とのこと自然の恐ろしさをまざまざと見せつけられ、全くおどろいてしまいました。」

「何はともあれ、急病人や事故がなかったことを、せめてもの幸いと思い、今後とも、復旧まで健康と無事故を願い続けています。まずは現況報告まで。さようなら」

発信者は八線小学校校長 千葉貫一で、あて先は当時の八雲教育委員会 石垣教育長である。

昭和47年3月に在校児童4名のうち、2名が卒業した。

在校児童数は2名になった。

八線の集落について、ラオウ氏はこう話す。

「石川農場設立後も、八線の開拓に入植した人々は所謂「刑務所出所」者が多かった…。戦後開拓入植者も、外地からの引揚者もいたが刑務所服役を経て出所した人が多かった。」

「農業の経験もないまま、農業をやっても当然うまくいかず、転出していった…。転出先は、すぐに稼ぐことができる八雲鉱山が多かった。また、火災で家が焼けてしまったために離農していった人もなかにはいた…。」

これらの情報は昭和63年頃、ラオウ氏が八線小学校卒業生に訊いたことをまとめたものである。

昭和47年度は新規入学者もいないまま2名のまま継続したが、うち1名は年度の途中で転出した。
そのため、12月には最小限の一人となってしまった。

将来においても入学する児童が皆無で、教育効果が期待できない状況と判断され、年度の途中である昭和48年1月末を以って閉校となった。

閉校後、八線地区は大きく変貌を遂げた。

昭和48年 既に過疎化が進んでいた八線地区の土地の有効活用を図るべく東京の香川治義が、土地の所有者らと協議を進めて約260ヘクタールの確保に成功した。

香川は、肉牛の育成牧場経営を計画し「有限会社八雲牧場」を設立したが、間もなく経営不振に陥ってしまう。

その頃、北里大学獣医畜産学部が既存の牧場や施設が手狭になり、より充実した学生の研修牧場を造成する適地を探していた。
昭和50年春 北里大学は八雲牧場を買収して活用したい旨、町に伝えた。
町も当時、大学の誘致に熱意を示していたとともに、土地の有効活用にかなうものとして歓迎された。

これにより、町を仲介役として協議が進められ、有限会社八雲牧場の土地や施設すべて買収し、昭和51年早々に「北里大学獣医畜産学部付属八雲牧場」となり、使用が開始された。

また、同年7月より本格的な施設建設工事が着手され、円形牛舎三棟をはじめ、関連施設の建物の整備が進められたと同時に、北里大学PPAの寄贈により「八雲綜合実習所」の建設も行われた。
八雲綜合実習所は昭和53年7月に完成し、使用され始めた。

校舎はその後、北里大学の休憩所として転用されたが、老朽化のために解体された。

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北里大学 八雲総合実習所棟。
学校跡地は、この奥にある。

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電柱には「八線」の名前が今も残っている。

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学校へ行く途中の風景。
八線の集落を残す痕跡は少ない。

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正面のマツの木は、かつて家があったことを示すものか。

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やがて、学校跡地へ到着した。
奥に見えるのが、学校跡地を示す記念碑である。

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学校跡地へ近づく。
跡地にある木々は、開校当時に植樹されたものである。

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ウシが放牧されているため、記念碑に有刺鉄線が巻かれていたがそれも果たしていなかった。

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周囲を見渡すと、遊具のタイヤが残されている。

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こちらは学校池である。
池にはかつて、ニジマスやヤマベが泳いでいた。

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これは教員住宅と校舎の基礎である。

ラオウ氏は「校舎は、入って左側が職員室兼応接室で、右側が教室だった。教室は13畳くらいはあったと思う。その奥にトイレと洗面所があった」と話す。


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これも基礎と思われるが、この当時は分からなかった。

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学校より石川農場の防風林を望む。
樹木が一列に並んでいるので分かり易い。

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石川農場の風景。

八雲教育 第20号「学校紹介 南から⑳ 八線小学校の巻」より

「(前略)春ともなれば巣箱を塒(ねぐら)に飛び交う小鳥の数も多く、囀ずる声を梢ごしにきかれたり、七十匹の虹鱒やヤマベが元気に泳ぐ百五十平方米の池の回りや、緑の校庭のそこそこに色とりどりの花が咲き乱れ、学校の景観をいやが上にももりあげ、牛追いや野良帰りの人達が池に佇み、一日の疲れを癒す等学校を憩の場所として親しんでいる。」

「辺地の弊害打破の一策として読書教育ととりくんでき、その一端としての文集発行も子供の手により三十一号を数えるに至り、部落の大きな楽しみへと発展した。」

「又勤労と貯蓄奨励にも意をむけ昨年全道表彰を受けて部落をあげて喜びあったことも、子ども達の大きな自信となったことと思う。」


参考・引用文献

八雲町史 昭和59年6月発行
北海道新聞 渡島・桧山版 昭和39年8月18日「長年、辺地教育に尽力 八雲の佐伯八線小校長に近く奨励賞」
「教育月報」 1956年(昭和31)2月号
八雲教育 第20号 「学校紹介 南から⑳ 八線小学校の巻」 昭和44年10月25日発行
八雲教育 第22号 「やまの便り-昭和45年1月31日からの吹雪-」 昭和45年3月10日発行
八雲教育 第26号 山の便りをもとめて 町内へき地学校リレー訪問記」 昭和45年9月25日発行
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プロフィール

成瀬健太

Author:成瀬健太
北海道旭川市出身。
名寄市、札幌市、東京都、旭川市を経て現在、札幌に居住。
廃墟・炭鉱や鉱山跡、廃村や限界集落を訪ね歩くのが趣味です。

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