千歳市藤の沢
千歳市藤の沢(平成26年8月16日探訪)
藤の沢は林業で栄えた集落であった。
元々は、牛がたくさんいたことから「ベコの沢」と呼ばれていたが、「山三ふじや」(渡部榮蔵創業)が木材部を創設(後の渡部木材)し、造林・造材を行った現場である。
「藤の沢」は「ふじや」の屋号に由来するものである。
大正3年 渡部榮蔵は関久五郎、宝賀幸吉らの協力を得て渡部木材部を設立した。
造材、造林事業を拡大し、従事する杣夫や馬車追いの人々が暮らしていた。
昭和25年12月 渡部木材部は渡部木材株式会社に変更した。
学校は昭和34年2月 千歳市立水明小学校藤の沢分校として開校した。
昭和35年の北海道新聞に、藤の沢分校校舎の建設に関する記事があるので引用する。
千歳市街と支笏湖の中間にある千歳市藤の沢の水名小、中校藤の沢分校は本校への距離が10キロもあるため、昨年2月恵庭営林署のパイプ・ハウスを利用して設置された。
同営林署では9月末から同署の予算で木造平屋90平方メートルの新校舎建築を進めていたもので、完成して小学生8人、中学生4人の同分校の生徒は新校舎に移ることになった。
藤の沢部落は17世帯、全部営林署関係の人たち。テラスもあるこのシャレた校舎はいま最後の仕上げにペンキ塗りの最中。生徒たちばかりではなく、父兄も毎日新校舎の建築が進むのを眺めて喜んでいる。
この記事を読むと、恵庭営林署の職員も藤の沢で生活していたことになる。
昭和39年4月 水明小学校(本校)の閉校により、千歳小学校藤の沢分校と変更された。
昭和41年4月 藤の沢小学校と変更し、独立校となった。
昭和42年3月 藤の沢小学校 閉校。
閉校当時の新聞記事があるので、引用する。
「わが母校もきょう限り 悲しみ胸に二人巣立つ 卒業式と同時に廃校 藤の沢小」
市街地から支笏湖方面へ12キロも山奥にある先生2人、生徒4人の小さな学校―市立藤の沢小=八十木信義校長=で22日卒業式と廃校式がいっしょに行われた。
同小は34年2月、水明中藤の沢分校として小、中学生10人で開校した。一時は17人の児童、生徒がいたこともあるが、市街地から遠く不便なためつぎつぎと部落を去る人が出、いまでは恵庭営林署造林作業場、教員住宅2戸を除くと一般住宅はたった2戸。昨年4月、藤の沢小となったが同年11月、7人の児童がいっぺんに転校して残ったのは4人。今春はこのうち2人が卒業することになってついに廃校が決定。卒業式と廃校式をいっしょにすることになった。
この日は半田市教育長、千歳中藤原、千歳小平井両校長らも出席。八十木校長の司会、石田正昭教諭のオルガン伴奏で静かに進められた。卒業して千歳中に進学する小村弘君、和泉とみ子さんが2人いっしょに答辞を読んだが、卒業と同時に長い間、学び遊んだ学校もなくなる-とあってしんみり、声もとぎれがちだった。
残る2人の児童は4月から千歳小へ転校する。
なおこの日、市教委はまだ同小の建て物がなかった33年からこの地に住み、勉強を教えていた増田実、イク夫妻、現在の校舎を建築した恵庭営林署に感謝状と記念品を贈った。
渡部木材は、昭和47年2月に閉鎖された。

藤の沢林道前にあるバス停留所。
本数は少ないが、バスで訪れることも可能である。

林道の入口。
学校跡地を知る知人の話では「20分くらいで着きますよ」と言う。

歩くこと、およそ20分。学校跡地に到着した。

校舎の基礎が残されている。

校舎跡地全景。
跡地が地形図で分かっていたので、容易に見つけることができた。

学校跡地を望む。
学校や集落を知らなければ、ただの林道のT字路にしか過ぎない。

学校跡地のそばに、プレハブの倉庫があった。
「安全第一」の看板が掲げられているが、営林署関係の建物かは不明である。

少し進むと、この地に入植した農家の倉庫跡が見えた。

航空写真を見ると倉庫の前には家が建っているが、既にイタドリで覆われていた。

倉庫跡より学校跡地方面を望む。

学校跡へ戻る道中、水源地を見つけた。
急斜面をよじ登る。

水源地の傍に倉庫が残っていたが、水源地との関係はわからなかった。

集落跡地の風景。
植林されており、住宅の基礎は見られなかった。

だが、川底を見ると瀬戸物の欠片が沈んでいた。
手に取って暫し眺めて、また元の川底に戻した。
余談
この探訪後、クマが出没して北海道内のニュースに取り上げられた。
あちこちの集落跡地を訪ねているが、クマには気を付けたいものである。
参考文献
『角川日本地名大辞典1北海道上巻』 昭和62年10月8日初版/平成5年4月30日再販
『北海道新聞札幌近郊版』「ペンキ塗り急ぐ 藤の沢水明小、中校 完成間ぢか」 昭和35年11月17日付
『北海道新聞札幌近郊版』「わが母校もきょう限り 悲しみ胸に二人巣立つ 卒業式と同時に廃校 藤の沢小」昭和42年3月21日付
『株式会社山三ふじや創業100年記念社史』 株式会社山三ふじや創業100年記念社史編集委員会 2005年11月
藤の沢は林業で栄えた集落であった。
元々は、牛がたくさんいたことから「ベコの沢」と呼ばれていたが、「山三ふじや」(渡部榮蔵創業)が木材部を創設(後の渡部木材)し、造林・造材を行った現場である。
「藤の沢」は「ふじや」の屋号に由来するものである。
大正3年 渡部榮蔵は関久五郎、宝賀幸吉らの協力を得て渡部木材部を設立した。
造材、造林事業を拡大し、従事する杣夫や馬車追いの人々が暮らしていた。
昭和25年12月 渡部木材部は渡部木材株式会社に変更した。
学校は昭和34年2月 千歳市立水明小学校藤の沢分校として開校した。
昭和35年の北海道新聞に、藤の沢分校校舎の建設に関する記事があるので引用する。
千歳市街と支笏湖の中間にある千歳市藤の沢の水名小、中校藤の沢分校は本校への距離が10キロもあるため、昨年2月恵庭営林署のパイプ・ハウスを利用して設置された。
同営林署では9月末から同署の予算で木造平屋90平方メートルの新校舎建築を進めていたもので、完成して小学生8人、中学生4人の同分校の生徒は新校舎に移ることになった。
藤の沢部落は17世帯、全部営林署関係の人たち。テラスもあるこのシャレた校舎はいま最後の仕上げにペンキ塗りの最中。生徒たちばかりではなく、父兄も毎日新校舎の建築が進むのを眺めて喜んでいる。
この記事を読むと、恵庭営林署の職員も藤の沢で生活していたことになる。
昭和39年4月 水明小学校(本校)の閉校により、千歳小学校藤の沢分校と変更された。
昭和41年4月 藤の沢小学校と変更し、独立校となった。
昭和42年3月 藤の沢小学校 閉校。
閉校当時の新聞記事があるので、引用する。
「わが母校もきょう限り 悲しみ胸に二人巣立つ 卒業式と同時に廃校 藤の沢小」
市街地から支笏湖方面へ12キロも山奥にある先生2人、生徒4人の小さな学校―市立藤の沢小=八十木信義校長=で22日卒業式と廃校式がいっしょに行われた。
同小は34年2月、水明中藤の沢分校として小、中学生10人で開校した。一時は17人の児童、生徒がいたこともあるが、市街地から遠く不便なためつぎつぎと部落を去る人が出、いまでは恵庭営林署造林作業場、教員住宅2戸を除くと一般住宅はたった2戸。昨年4月、藤の沢小となったが同年11月、7人の児童がいっぺんに転校して残ったのは4人。今春はこのうち2人が卒業することになってついに廃校が決定。卒業式と廃校式をいっしょにすることになった。
この日は半田市教育長、千歳中藤原、千歳小平井両校長らも出席。八十木校長の司会、石田正昭教諭のオルガン伴奏で静かに進められた。卒業して千歳中に進学する小村弘君、和泉とみ子さんが2人いっしょに答辞を読んだが、卒業と同時に長い間、学び遊んだ学校もなくなる-とあってしんみり、声もとぎれがちだった。
残る2人の児童は4月から千歳小へ転校する。
なおこの日、市教委はまだ同小の建て物がなかった33年からこの地に住み、勉強を教えていた増田実、イク夫妻、現在の校舎を建築した恵庭営林署に感謝状と記念品を贈った。
渡部木材は、昭和47年2月に閉鎖された。

藤の沢林道前にあるバス停留所。
本数は少ないが、バスで訪れることも可能である。

林道の入口。
学校跡地を知る知人の話では「20分くらいで着きますよ」と言う。

歩くこと、およそ20分。学校跡地に到着した。

校舎の基礎が残されている。

校舎跡地全景。
跡地が地形図で分かっていたので、容易に見つけることができた。

学校跡地を望む。
学校や集落を知らなければ、ただの林道のT字路にしか過ぎない。

学校跡地のそばに、プレハブの倉庫があった。
「安全第一」の看板が掲げられているが、営林署関係の建物かは不明である。

少し進むと、この地に入植した農家の倉庫跡が見えた。

航空写真を見ると倉庫の前には家が建っているが、既にイタドリで覆われていた。

倉庫跡より学校跡地方面を望む。

学校跡へ戻る道中、水源地を見つけた。
急斜面をよじ登る。

水源地の傍に倉庫が残っていたが、水源地との関係はわからなかった。

集落跡地の風景。
植林されており、住宅の基礎は見られなかった。

だが、川底を見ると瀬戸物の欠片が沈んでいた。
手に取って暫し眺めて、また元の川底に戻した。
余談
この探訪後、クマが出没して北海道内のニュースに取り上げられた。
あちこちの集落跡地を訪ねているが、クマには気を付けたいものである。
参考文献
『角川日本地名大辞典1北海道上巻』 昭和62年10月8日初版/平成5年4月30日再販
『北海道新聞札幌近郊版』「ペンキ塗り急ぐ 藤の沢水明小、中校 完成間ぢか」 昭和35年11月17日付
『北海道新聞札幌近郊版』「わが母校もきょう限り 悲しみ胸に二人巣立つ 卒業式と同時に廃校 藤の沢小」昭和42年3月21日付
『株式会社山三ふじや創業100年記念社史』 株式会社山三ふじや創業100年記念社史編集委員会 2005年11月
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No title
今年も宜しくお願いします。
藤の沢・・・ 忘れられた集落ですね。
毎年JAL国際マラソンがこのあたりの林道で開催されているのですが
賑わうのはその時位でしょうか。
熊は困りますが、熊のテリトリーに我々がお邪魔をしているので仕方がない事ですね
出会わぬことを祈っております。 再訪したいものです。
藤の沢・・・ 忘れられた集落ですね。
毎年JAL国際マラソンがこのあたりの林道で開催されているのですが
賑わうのはその時位でしょうか。
熊は困りますが、熊のテリトリーに我々がお邪魔をしているので仕方がない事ですね
出会わぬことを祈っております。 再訪したいものです。
Re: No title
ブーさま
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
藤の沢はマラソンで使用される林道とあってか、歩きやすかったのを覚えています。
過去に2回、別な場所でクマと遭遇しているのでクマに遭わないように訪れたいものです。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
藤の沢はマラソンで使用される林道とあってか、歩きやすかったのを覚えています。
過去に2回、別な場所でクマと遭遇しているのでクマに遭わないように訪れたいものです。
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
最後の卒業生名
藤の沢小学校の最後の卒業生と紹介されている小林弘、和泉とみ子。
小林弘ではなく、正確には小村弘〔こむら ひろし〕です。
また、藤の沢小学校は、校舎と教員住宅が同一建物内に設置され、別棟の教員住宅はありませんでした。
さらに学校に体育館はなく、冬は、父兄が裏山の斜面を伐採してスキー授業でした。
小林弘ではなく、正確には小村弘〔こむら ひろし〕です。
また、藤の沢小学校は、校舎と教員住宅が同一建物内に設置され、別棟の教員住宅はありませんでした。
さらに学校に体育館はなく、冬は、父兄が裏山の斜面を伐採してスキー授業でした。
Re: 最後の卒業生名
藤の沢小学校OBさま
コメント有難うございました。校舎の情報、卒業生の氏名は直ぐに直します。
藤の沢集落のエピソードは記述が少なかったので貴重です。再訪した際は、改めて校舎の基礎やスキー場跡を確認したいと思います。
コメント有難うございました。校舎の情報、卒業生の氏名は直ぐに直します。
藤の沢集落のエピソードは記述が少なかったので貴重です。再訪した際は、改めて校舎の基礎やスキー場跡を確認したいと思います。